「Nothing」と一致するもの

Flying Lotus - ele-king

 フライング・ロータス自身が「神秘的事象、夢、眠り、子守唄のコラージュ」と呼ぶ新作の詳細があきらかになった。
 2008年のセカンド・アルバム『ロサンジェルス』によってビート・シーンに新風を吹きこみ、UKのベース・ミュージックとも交流を深めながら、豪快なコズミック・ジャズへとアプローチして、より多くの耳を惹きつけた2010年の『コズモグランマ』から2年。マシューデイヴィッドやマーティン、ライアット、ジェレマイア・ジェイなど、〈ブレインフィーダー〉レーベルにおける活動もますます興味深いものとなっているなかでのリリースとなる。
 参加アーティストも、前作に続いてトム・ヨーク、そしてソウルの女王、エリカ・バドゥと豪華。おなじみのサンダーキャット、ニキ・ランダやローラ・ダーリントン、そしてツイッターでしか確認できないが、ジョニー・グリーンウッドやドリアン・コンセプト、サムアイアムも加わっているのではないかと思われる。
 ジャズ/ヒップホップ/エレクトロニック・ミュージックの最新の成果として、いや、今年の音楽シーンのひとつのクライマックスとして、より広く注目されるであろう、夜の彼方の世界を回遊するための18曲(日本盤にはボーナス・トラックが1曲収録される)。

 映像は今年おこなわれたコーチェラ・フェスティヴァルの模様だ。本作収録曲もお目見えしている。飛び入りしているのはオッド・フューチャーのアール・スウェットシャツ。

FLYING LOTUS LIVE @ COACHELLA 2012 from Theo Jemison on Vimeo.

フライング・ロータス
『アンティル・ザ・クワイエット・カムズ』

(Warp/ビート) 
9月26日国内先行発売 (輸入盤9月29日)

収録曲
1. All In
2. Getting There feat. Niki Randa
3. Until the Colours Come
4. Heave(n)
5. Tiny Tortures
6. All the Secrets
7. Sultan's Request
8. Putty Boy Strut
9. See Thru to U feat. Erykah Badu
10. Until the Quiet Comes
11. DMT Song feat. Thundercat
12. The Nightcaller
13. Only if You Wanna
14. Electric Candyman feat. Thom Yorke
15. Hunger feat. Niki Randa
16. Phantasm feat. Laura Darlington
17. me Yesterday//Corded
18. Dream to Me

Dilla Dog - ele-king

 好むと好まざるとに関わらず新自由主義の社会で暮らしていると、自分のなけなしの金をどこに落とすのか、それ自体が政治的な一票となる......ということに自覚的だったのは、デトロイト・テクノだった。1998年、初めてデトロイトを訪れたとき、マイク・バンクスは僕に「デトロイトの人間は日本車が好きなんだよ」と言った。クリトン政権下で日本車の輸入が規制されている時代の話。ずいぶんと大人な社交辞令である。
 ケニー・ディクソン・ジュニアは音楽がデジタルとして消費されることに批判的な立場を貫いていることでも知られる。2007年のシングル「Technologystolemyvinyle(テクノロジーが俺のヴァイナルを盗んだ)」が有名だが、それ以降も彼はこの手の主張を自分の作品に記している。彼がヴァイナルにこだわるのは、音質ないしは手触りなどのフェティシズムの問題ではない。デジタルはヴァイナルという個人商店を駆逐するという政治的な理由からだ。
 そういうケニー・ディクソン・ジュニアのレーベル〈マホガニー・ミュージック〉から、すでに伝説化されているデトロイト出身のヒップホップ・プロデューサー、ジェイ・ディラの未発表音源がヴァイナルのみで発表されるということは、現代の音楽シーンにおけるある種のデモストレーションと言える。実際この作品は、リリース情報が出た時点の予約の段階でショートした。レディオヘッドは自分たちの音楽の値段をファンに決めさせたが、ムーディーマンは自分たちの音楽が誰にも公平に買えるわけではないということを強調する。

 ことの発端はジェームズ・ヤンシーすなわちジェイ・ディラの母(マー・デューク)が中心になって立ち上げたレーベル〈ラフ・ドラフト〉。2006年2月、32回目の誕生日に『ドーナッツ』をリリースすると、その3日後、200万人にひとりの確率で存在する難病を抱えたジェイ・ディラは他界したが、翌2007年には彼の母親を立ててピート・ロックがサポートした『Jay Stay Paid』が、そして未発表曲を大量に加えた『Ruff Draft』が〈ストーンズ・スロー〉からリリースされている。今回の「デラトロイト」は〈ラフ・ドラフト〉から発表された『リバース・オブ・デトロイト』(未発表トラックにラップや歌などを乗せて作ったアルバム)とは曲名は同じだが内容は異なっている。『リバース・オブ・デトロイト』に収録された曲の、いわばダブ・ミキシングとも呼べるような、MCや装飾性を剥いだ、インスト部分を強調したヴァージョンとなっている。

 スラム・ヴィレッジのDJだったアンドレスは〈マホガニー・ミュージック〉から2枚のアルバム(ともに名作)を出しているので、実はサプライズとしてそんなに大きなことではないのだけれど、興味深いのはムーディーマン色がどのように反映されているのかという点にある。『リバース・オブ・デトロイト』では、音楽の町モーターシティ再生のトーテムと化しているジェイ・ディラだが、彼の作風の特徴にひとつは、MPCでチョップしたときのサクッサクッとしたビート感覚にある。『ドーナッツ』に31曲も収録されているのは、彼が長ったらしいトラックを作っていないからだ。そして、ブラック・ソウル・ミュージックのサンプル・マニアも大好きなソースありきの音楽が、デトロイトのブラック・カルチャーを誇りとするムーディーマンのダイレクションによってリリースされるということは、良くも悪くも、あらかじめ品質が保証がされているようなものだ。アートワークを見ればわかるように、音楽的に言えば「デラトロイト」はブラック・ミュージックの逆襲だ。

 12曲が収録されたこの「EP」は、笑い声からはじまる。ファンクのブラス・セクションのループとなかば強引で、やかましい電子音の挿入......チョップされ、エフェクトがかけられらファンクのガラクタ......さりげなく注がれる黒人訛り......渋い、というよりも、モノの見事に〈マホガニー・ミュージック〉らしい質感となっている。
 アンプ・フィドラーが歌う"Lets Pray Together "は、歌を活かしたヴァージョンとなっているが、歌のパートはEQで絞られ、粘っこいディラのビートが際立ち、よりアンダーグラウンドな質感となっている。" Dillatroit"でもラップのパートをほとんどそぎ落とし、ピアノのループを強調しながら、『リバース・オブ・デトロイト』のヴァージョンにはない美しさを打ち出している。
 逆に"Detroit Madness"ではラップを活かし、路上のファンク、デトロイト・ヒップホップの活力を聴かせる。メロウなソウル・ヴォーカルが印象的な"Possible"では、曲の後半ねっとりとしたベースラインを絡みつかせ、セクシャルなグルーヴを打ち出し、フルートの甘美なメロディを最大に活かした"Mind Yo Business"へとつながる。続く"Rebirth Is Necessary(再生は必然)"は、DJミックスで言えばクライマックスである。その曲はぶった切られるように終わり、クローザーの"Pitfalls"が待っている。それも最後の曲ではあるが、曲時間はひどく短く、アンチ・ドラマ的に、感情移入を拒むように、素っ気なく、ばっさりと終わる。

 あらかじめ品質が保証がされていたとはいえ、やはり良いものである。ヒップホップのトラックにさり気なくハウス・ミュージックのセンスが注がれている。『リバース・オブ・デトロイト』の賑やかさが好きなリスナーには地味に思えるだろうが、地味であることの良さをムーディーマンは意識している。このレコードが買えて本当に良かった。デトロイトの人たちは口癖のように言う。音楽は食物と同じだ。なければ困る。この作品の売り上げはジェイ・ディラの遺族、そして地元に還元されることになっている。

interview with NaBaBa - ele-king

 村上隆氏によって設立され、日本の若手アーティストを育成・支援してきたカイカイキキが、先月その本丸ともいえるカイカイキキ・ギャラリーにて公開した「A Nightmare Is A Dream Come True: Anime Expressionist Painting AKA:悪夢のドリカム」展。ここに出展していた6人のアーティストのうちのひとりがNaBaBa氏である。美大出身で高い油彩の技術を持つが、これまでにメインで作品を発表してきた媒体はご存知400万の会員数を誇るイラスト投稿型SNSピクシブであり、まさにこの展覧会が謳う「日本にオタクと現代美術のフュージョンのジャンルを創造するプロジェクト」を担う才能として、デジタルとアナログを往復する活動を行ってきた。
クール・ジャパンが終わろうが終わるまいが、この「○○とオタク」問題はいぜんとして日本がまじめに考えるべきリアルをふくんでいる。自身がコアなゲーム・ファンであり熱心に「洋ゲー」批評を展開しているうえ、有名ゲーム企業に就職まできめてしまってもいる氏は、アートとゲームとオタク・カルチャーのはざまで、若き画家として、技術者として、ファンとして、思考と実践を重ねるめずらしい存在だ。筆者自身は門外であるものの、今回さいわいなことに取材の機をえた。無知をいいことに、かなり大胆な質問もぶつけさせてもらっている。ぜひ後半の、ゲームや女性の表象をめぐるトピックまでじっくり読んでいただければと思う。
 ちなみに筆者が氏のことを知ったのは、「悪夢のどりかむ」会期終了を目前にストリーミング配信された、出展者らのトークショーにおいてである。NaBaBa氏は真ん中で座を仕切り、巧みに話題を振り、最後はなぜか会場を巻き込んで踊っていた。同日深夜には、こんどは「村上隆のエフエム芸術道場」にてパーソナリティを務め、アートとは関係なく1時間をまるまる「洋ゲー」紹介に費やしてしゃべりたおした。その一連を、筆者は不思議な思いで眺めていた。インタビュー本文でもふれられるとおり、持てる能力を駆使して生き残っていかなければならないというような奇妙に現実主義的なオブセッションは、この作家の個性であるとともに世代的な特徴を暗示するようにも思われ、興味深い。

※「悪夢のどりかむ」出展作品は画像掲載の許可がいただけませんでした。ご了承ください。

絵との出会い、ゲームとの出会い

僕はあえて油絵科へ進むという迂回路をとることで、いろいろなものを吸収しつつ、ゴールへ向かおうと思いました。

絵を描きはじめることになったのはいつごろです?

NaBaBa:幼少のころから絵を描くのは好きだったんですが、将来も見すえて意識的に取り組みはじめたのは、中学1年くらいのときですね。ちょうど中学入った段階で、同じ志を持つ仲間がクラスにいまして。僕はゲームのクリエイターになりたかったんですよ。その開発のなかでも、絵を描くポジションにつきたいというのが目標としてありました。となると、だいたいの人はデザイン科へ進む。けれどそういう王道ルートをたどると、他の人と差がつかなくてキャラが立たないなと。僕はあえて油絵科へ進むという迂回路をとることで、いろいろなものを吸収しつつ、ゴールへ向かおうと思いました。

中学でですか? ずいぶんと戦略的ですね(笑)。

NaBaBa:はい(笑)。で、予備校、多摩美術大学と経て、なんとかゲーム会社に就職できたので、当初の目標は達成することができました。

すごいですよねー。14歳からのハローワークを地で行ったと。美術部とかではなかったんですか?

NaBaBa:そうですね。はじめは独学で、高校あたりから予備校に通って。そのへんは他の美大生とあまりかわらないコースですね。ただ、近くにライバルがいたっていうのが大きいです。いろんな部分で、彼より上を行こう、彼とはちがうやり方をみつけようっていうふうな力が働きました。たとえば当時は「RPGツクール」だとか家庭向けの簡単なゲームを作るソフトなんかが出てまして、お互いゲームを作って見せ合いっこしたりもしていましたし、いま自分にあるいろいろなものの起点になっていたなと思いますね。

いわゆる「洋ゲー(輸入もののゲーム)」にディープにはまっていくことになるのも同じころなんでしょうか?

NaBaBa:両親がおそらくゲームが好きで、もともと家にゲーム機があったくらいなんで、小さいころからゲーム自体に親しんではいました。でも洋ゲーにはまっていくのはやっぱりそのライバルの影響で、中学からですね。そいつには大学生くらいのすごいサブカル通のアニキがいて、そのお下がりでいろいろなものを知ってるんですよ。僕にはそういう後ろ盾がないのに、あいつはどんどん新しいものを持ってきやがって(笑)。それで海外のゲームなんかをやってみると、ぜんぜん日本のヤツと違うではないかと! 完成度もずっと高いし、どんどんそっちに傾倒していくようになりました。

なるほど。クラスで1~2名、洋楽とか聴いちゃうぜみたいな......

NaBaBa:そう!

一種、「中二」的なメンタリティでもって洋ゲーに向かっていったという部分もあるんでしょうか(笑)。

NaBaBa:完全にそれですね(笑)。当時海外のゲームといったらパソコンがメインだったので、当然、パソコンの性能が要求されたわけなんです。ゲームを動かすための。まだ2000年そこそこで、どこの家庭にもパソコンがあるという環境ではなかった。だからまわりに布教しようにも難しかったですね。おそらく日本全体でみても洋ゲーっていうのはまだまだ部分的で、ネットを調べても、ブログだとかレビューや感想を扱っているサイトなんかは多くなかった。情報源は限られていましたが、逆に自分自身でレビューを書こうという動機づけにはなりましたね。いまはソーシャル・メディアも発達しましたし、PlayStation3とかXbox360とか、家庭用ハードで海外のゲームもたくさん来るようになって環境は変わってます。けど、いまだに「洋ゲーは洋ゲー」といった感じで、日本のゲームとは楽しまれ方や認知のされかたに隔たりがありますね。

そのあたり「洋楽」「邦楽」が抱える奇妙な断絶に通じるものがありそうですね。また後ほど詳しくうかがっていきたいと思います。

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NaBaBaの絵とは(1)――ネット絵と西洋絵画

まず社会に訴えたいテーマがあって、それをこの絵画という四角いスペースで観客に伝えるために、導線として絵解きを利用します。ロジックは用いますけど、それは情動に訴えるためですね。

さて、ではこちらのお話からうかがっていきましょう、「A Nightmare Is A Dream Come True: Anime Expressionist Painting AKA:悪夢のどりかむ」展。その謳うところは「日本にオタクと現代美術のフュージョンのジャンルを創造するプロジェクト」、NaBaBaさんの作品もここで注目を集めました。そもそもカイカイキキの門をたたくことになったいきさつ、この展覧会に出展することになった経緯をおしえてください。

NaBaBa:けっこう紆余曲折があるんですよ。僕はここにいっしょに出展されているJNTHED(ジェイエヌティヘッド)さんという方とは前からの知り合いだったんです。で、僕が出している電子書籍(『Look Back in Anger』)の宣伝をストリーム配信で行ったときに、JNTさんにも出てもらったりしてたんですね。僕はそのお礼として、なにかあれば手伝いますよということをお伝えしてたんです。ちょうど会社に入る前で余裕のあった時期だったので。そしたら急に、どこそこに来てほしいっていう連絡が入って。自分は当然CGの仕事を手伝うもんだと思って向かったんですけども、いざ行ってみたらカイカイキキの三芳の工場だったんです。もう、縦2~3メートル、横7メートルくらいの巨大なキャンバスがあって、「これ手伝ってほしい」って言われて、「ええー!?」ってなりましたね(笑)。しかも制作期間はあと4日しかない、みたいな。まだ真っ白で。ほぼ泊まり込みの徹夜でその背景を描きました。ほら、あの初音ミクのやつですよ(同展出展作品)。その場にMr.さん(カイカイキキのベテラン・アーティスト。同作の共作者)がいて、僕がやってるのをおもしろいって言ってくれて、それが村上さんに伝わって、「じゃあ、数日後に札幌でこの展示やるからすぐ来て」って。いまからだとその日に着くのにあと1、2便だけしか残ってないって状況で、なんとか駆けつけたら「トーク・ショー出て」ってなって、さらには「踊って」ってなって。ええ、ミクの衣装で踊りましたよ。そのへんが今回の展示の伏線になってましたね。そのあと小規模な展示にも数回参加しました。

ルックバックインアンガー

ははは! 座談会とかのあとに「じゃ、踊りますか」ってなるのはそこが発祥なんですね。ええと、わたしは美術にはくらいので恐縮ですが、NaBaBaさんの絵っていうのは、ある面ではふつうに西洋の近代絵画みたいにもみえるというか、それらと同質な充実感が錯覚できると思うんです。それはただ油彩だから、写実的な表現だから、というだけのことかもしれません。が、他のアーティストの出展作品が、アニメ的なイラストをキャンバスに移すという行為や発想自体のなかに緊張や批評を生み出しているのとは、すこし違う原理で描かれているようにもみえます。どうでしょう?

NaBaBa:僕はもともと油絵科出身でありますので、たしかに日本のサブカル的・オタク的な絵っていうのも同時並行で描いてはいましたが、そのふたつの融合をはかっていきたいということをいち作家の命題としても持っていたんです。それは今回の展覧会のメイン・テーマにも重なるわけですけどね。ですから西洋絵画のいろいろな要素も自分なりに読み解いたうえで、いるものといらないものを選択しています。いわゆる厚塗りと呼ばれるヴォリューム感でありますとか、遠近法の使い方、モチーフの配し方。日本の絵画の要素を踏まえつつも、西洋絵画的な要素も盛り込んでいく。とくに西洋の絵画の古典は宗教的な性格も強かったわけなので、作品のなかにもはっきりとした物語があったりするんです。大きな美術展なんかに行けば、図録などでそれらの物語をながめることもできる。そういうところを僕は興味深く思っています。日本のイラストにもイラストなりの物語の伝え方っていうのがあると思うんですが、それらのあいだに接点を見つけて、なんとか自分のなかで物語を表現していきたい、自分の絵の魅力を作っていきたい。っていうことですね。

たとえばファンタジーなんかで用いられているイラストは、そういう宗教画の持つ時間性とか物語性を引いていたりしないんですか?

NaBaBa:ファンタジーというのは日本の......?

すみません(笑)、あいまいにしか理解してなくて。世界標準なのかどうかわからないんですが、ゲームとか映画とかでよく見かける......

NaBaBa:はいはい。それはですね、ちょっと話がそれてしまうかもしれないんですが、日本のいまのアニメやゲームで見られるファンタジーはそれこそガラパゴスって言ってもいいようなもので、西洋のファンタジーやその起点となるような神話や民話みたいなものを下敷きにしつつも、日本の中で独自に培養されてよくわかんない方向に走っちゃったものなんですよ。西洋のファンタジーというのは、ギリシャ神話や北欧神話、旧約聖書、だとか歴史上にある原典を強く引き継いだ上で成り立ってる。一方、日本は表面的には西洋のファンタジーを見習ってたんだろうけど、そこにあるコンテクストまでは採り入れず、何でもかんでもごちゃまぜになって、今日の無国籍的な感じに発展してきた。日本のイラストに描かれるファンタジーもそういうものですね。で、宗教画ということにかんして言うと、僕は作品に対してはすごく意味をこめてるんです。すごく伝えたいことがあって、そこからはじまっている。宗教画は、たとえば神への信仰をより高めようとか、目的やメッセージを持ったものなわけで、それを伝えるために絵解きを用いたりするんですが、それと似ているかなと思います。わかりやすい例だと、これなんかは秋葉原の通り魔事件を扱っています(「失楽園2」)。まず社会に訴えたいテーマがあって、それをこの絵画という四角いスペースで観客に伝えるために、導線として絵解きを利用します。

失楽園2
失楽園2

なるほど、NaBaBaさんの絵には絵解きのロジックが組み込まれているわけですね。それはよくわかります。

NaBaBa:はい。ロジックは用いますけど、それは情動に訴えるためなんです。

そうした方法においても「悪夢のどりかむ」展のなかではすこし異色な作風であったと思います。ほかのアーティストとご自身について、意識されている差はありますか? NaBaBaさんの場合、もっとふつうのアニメ絵とのハイブリッド作品もあったりしますよね。

NaBaBa:自分にかぎらずみんなそれぞれの路線を持っているとは思います。あの展示はゆくゆくは海外でも行う、むしろ海外を勝負の場所として前提したものなわけですね。だから、自分としてはいままで以上に西洋絵画との接合というのをやっていこうと思いまして。すごく意識的に古典絵画的な厚塗りと写実に乗っかったつもりです。そういうテクニックに乗っかった日本のオタク的絵なんだ、ということが海外でも伝わるように、意識的に仕上げたものではありますね。ほかの方々とのあいだに上下という意味での差はまったく感じませんが、そういう部分で海外からの見られ方を想定した点は、僕の場合は強いですね。

NaBaBaの絵とは(2)――日本とオタクへのアジテーション

ピクシブなりなんなり、ローカルな場所での盛りあがりなんて、世界からみれば蚊帳の外のことなんだと。まずい、のんきに楽しんでる場合じゃない!

「ネット絵をキャンバスに」というのは、キャンバスってものをモニターやコミックなどの平面にラディカルに近づけていく作業なのか、その逆で、モニターやコミックなどの平面にある絵をキャンバスに取り出して盛ろうという作業なのか。それともまったくそういうこととは別のものを作ろうということなんでしょうか?

NaBaBa:目標としては別物を組み立てたいですよね。取り出す/取り出さないってところで表現をすませてはいけないところだと思うんですよ。とはいえ、今回の展示で言えば、「取り出す」っていうこと自体がまず相当難しいことであるということもわかりました。単純にイラストと油彩とを往復するにも、技術的な関門がありますね。そのへんの実証と、あとは作業効率化も考えて、今回下絵はすべてCGで作ってあります。

ピクシブ(PIXIV https://www.pixiv.net/)なんかでみるイラストやCGっていうのは、物理的にはモニターなどの端末のなかに見えているもので、同時に、別の位相ではインターネット空間やそこにあるコミュニティのなかで成立しているものですね。ネット絵を「取り出す」といったときには、絵柄だけではなくて、そうした全体を巻き込まなくてはならないことのようにも思います。

NaBaBa:もちろんその通りで、今回の展示の本質は文化の横断です。その手段として絵画を用いているからには絵柄の差ってのは重要になるわけですが、同時にそれを取り巻くさまざまな物事にもアプローチしなければいけない。その施作のひとつとして、会期中はストリーム配信でネットの中の人たちへの投げかけを積極的に行いましたし、今後も様々な方法で横断的な取り組みは行っていきたいと思っています。

ほかにNaBaBaさんの大きな特徴のひとつとして、さきほども挙がりましたメッセージ性の強さがあります。「ラブレター」のような世界情勢へのまなざしや観察から生まれているものもありますし、ひろく社会批評的な関心から描き起こされていたりすることが多いですね。なかでも日本のいまとか、世界のなかの日本とか、日本というテーマに非常につよい執着が感じられます。NaBaBaさんのなかでは日本というのがひとつ大きなモチーフとしてあるんでしょうか?

NaBaBa:それは大きいですね。自分がすごくリアリティを感じている世界対日本という構図は、やはりゲームの分野がいちばんなんですけどね。僕はオタク側の絵にずっと片足以上突っ込みながら、そこにめがけてメッセージを放ちつづけていたわけなんですが、いまのままじゃまずいと。ピクシブなりなんなり、ローカルな場所での盛りあがりなんて、世界からみれば蚊帳の外のことなんだと。オタク・カルチャー全体を見ても海外市場開拓という点で取り損ねや遅れがある。それじゃまずい、のんきに楽しんでいる場合じゃない。生き残りの問題ですから、自分たちに勝負するつもりがなくても、向こうのほうから殴り込みがかかってくるし、自分たちの中で小さく回していても緩やかに縮小するしかないんです。それに対して備えないとお株を奪われるぞという思いがあるわけです。守るために攻める。そのためには西洋的なコンテクストを作品のなかに入れて、市場としても表現としても拡大や進化が必要だと。まあ、村上(隆)さんがおっしゃっていることと同じようなことではありますが。自分の作品では、どういうところが世界に負けているのかということを、1例ずつ挙げていくっていう感じなんですよ。「ラブレター」なら、これを描いた当時はリーマン・ショック真っただなかでしたから、火の粉がいつこっちに降りかかるかわかんないぞというようなことを言っているわけです。ふるきよきアメリカを象徴する画家と言えるアンドリュー・ワイエスをオマージュし、それを燃やしてしまう。ふるきよきアメリカの崩壊。そこに対して、アニメ塗りの女の子が危機感ゼロな憧れを向けている、というように描いてます。


「ラブレター」(左)、「晴天」(右)

わたし「晴天」とか好きなんですが、総じてゼロ年代というものを象徴するような風景とか風物が、たくさん串刺しにされてますね。郊外、下町、河川敷、女子学生、さわやかな制服、携帯、とかいろいろです。晴天というか青空自体がそうかも。こういう青空のアニメ作品などを、わたしですら見知ってます。それがまた、アニメ絵っぽいけど油彩で、半分写実的に描かれて......すごくオーソドックスだけど、どこか空気を緊張させるような批評性がありますよね。

NaBaBa:オーソドックスで、アニメっぽいところもあって、みんなが好きそうな食材が揃っているようにみえる。でもいざ食べようとすると食べづらい。そう簡単には食べさせるものかっていう気持ちもありますね。

でも、日本というローカリティに対する憎しみもあれば、そのぶんの愛もあるわけですよね。

NaBaBa:はい、はい。

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カオス*ラウンジと「悪夢のどりかむ」展

僕たちのやっていることといえば、日本のオタク・カルチャーやソーシャル・メディアへの賛美ではないし、過剰にそこを意識したり前提としているわけでもありません。むしろ従来のオタク・カルチャーへの批判もあります

で、ちょっとまえにローレル・ヘイローというアーティストが会田誠さんの絵をジャケットに使用して、そのことについてインタビューを受けているのを読んだんですが、あまりの理解されてなさっぷりに驚いたんです。ほとんど「ワオ、なんてクールなライオット・ガールたちなのかしら」くらいの感じで。まずもって「セップク」であって、「アサシン」なんかじゃありえないじゃないですか。彼女は知的なアーティストだし、会田誠さんというのも、比較的よその国で翻訳されやすい描き方をされている方だと思うんです。それでもそんな感じ。だからこの(「晴天」の)河川敷とかローファーっていう繊細な表象から日本を説明するなんて超難しいわけですよね。先ほどから言っておられるように、そこに絶えざる翻訳作業をはさんでいくことになるのでしょうが、これは一方ではほとんど不可能なことのようにも思えます。しかし、その困難さやローカリティに居直ることは、たとえばカオス*ラウンジの弱点でもある。村上隆さんの発言を総合すると、まずひとつ、そういうふうに言われているように見えます。

NaBaBa:そうですね。

そうしたことへのレスポンスというか、批評のモチヴェーションがあったりするんでしょうか。

NaBaBa:ローカリティっていうのは、注視しつづけなければならないものでもあって、かつ外部への意識というのも、持たなければならないものです。会田誠さんのその作品が、もともとの意味を剥奪されて、ただ単にかっこいいヴィジュアルとしてしか受け入れられていないっていうのもわかるんですが、ある意味、そういった方法を駆使してでも、向こうの文脈に入り込まなければいけないって気もしていてですね。そんなものを目指したり考えたりしていってそれがつもりにつもった結果、ある瞬間に、作品に少しずつこめてたイヤミみたいなものがすべて固まって一気に爆発して、「なんじゃこりゃあ!?」ってものになってくれればいいなあって。思います。

ああ。なるほど。

NaBaBa:長期的には、そんなふうに思ってます。時限爆弾なんですよね。ピクシブとか日本にむけてやっていることも同じですね。ピクシブって、はじめにサムネイルっていう縮小された絵を一覧から選んで、それをクリックすることで実際のサイズの作品をみるという順があるんです。だから、サムネイルでみた段階ではきれいっぽいけれど、開いてみたらとんでもないものだったというような、ステップの逆用で自分の伝えたいものを届かせたりすることもあります。目的のためには、ある段階においては相手にあわせる。

二重の闘いがあるんですかね。日本との闘いと、その闘いを世界に説明する闘い。

NaBaBa:それはこれからの勝負ですね。洋ゲーなんかも、日本ではもともとの意味や文脈がフラット化されていたり、あるいはそもそも楽しまれてもいなかったりするわけです。でもまあ、自分なんかは海外のニュース・サイトをみるなりして、洋ゲーの持っているコンテクストを正しく理解していきたいって思っているわけです。実際むこうの人からみて正しく理解できているのかどうかわかりませんよ? でもそういう姿勢で挑んでるっていう自分の矜持もあるんで、海外のビューワーや、日本のサブカルチャーを楽しむ人に対しても、そういう視線でみてもらえる人を少しでも増やしたいと思う。そうやってゆくゆくは市場を作っていかないと、国内で自分たちの好きなものを楽しむことすらままならなくなってしまうだろうって思うんです。

自分たちこそ海外のものとどう向き合ったらいいのかって問題、ありますよね。ところで、カオス*ラウンジにも深い、込み入った問題提起があったと思うんですね。いろいろ言われていることをまとめると、まず、ウェブっていうアーキテクチャが自動的に集約する欲望や興味、そういうもののおもしろさとかグロテスクさをすごくコンセプチュアルに取り出そうとしたと。または、「つかさ」(※1)とか「踏み絵」(※2)なんかはそうですけど、リレーショナル・アートみたいなものを逆手にとるようなやり方で、ネット上のコミュニケーションを物理的な空間に取り出そうとした。(椹木野衣「美術と時評:6 カオス*ラウンジ    萌えいづる自由・平等とその行方」アート・イット、ほか参照)要はわれわれをとりまいて、いつのまにかわれわれを動かしている新しい環境に対して美術の側から侵入しようとしたり、2次創作の総体をコミュニケーションの問題として可視化したりっていうようなことで、問題自体にすごくエッジイなものがあるわけです。「悪夢のドリカム」ではそういう層の問題も引き継がれているんでしょうか? それともそのへんはまったく新しく仕切り直し、ということになっているんでしょうか?

NaBaBa:そこは争点になっている部分ではありますよね。僕たちの展示の座談会でも話題にあがっていました。カオス*ラウンジっていうのはネットやソーシャル・メディアのなかで起こっていることを、物理空間に持ってきて露骨にみせる、そこの異常性や新しさというものを人々に伝える広告塔として働いたと思うんです。今回の展示のパンフレットでも言ったんですが、日本のソーシャル・メディアに対しての賛美であるとかが強くあるのはわかるんだけど、そこの賛美で終わってしまったら、いち作家というパーソナリティへの評価がうやむやになってしまう。自分ももちろんネットのなかのオタク・カルチャーみたいなものをつよく引き継いでいるわけですけれども、最終的に自分のオリジナルの世界観のなかに作品を落とし込まなければいけないと思うんです。梅沢(和木)さんの作品なんかは、ご自身の世界観をつよく持っているものだと思うんですけど。うーん......

難しいですね。

NaBaBa:難しいところなんですよ。僕はなにもカオス*ラウンジを全否定しているわけではなくて、ひとつの核心を突いていたとは思うんです。ソーシャル・メディアで起こっていることのおもしろさ、異常さ、すごさを伝えていく、再翻訳してアート・シーンに提示するっていう役割。であるからには、ソーシャル・メディアに対して友好的な関係を持ちつづけなければ、そもそもカオス*ラウンジとしてのコンセプト自体が成り立たないとも思っていました。カオス*ラウンジの進化としてこうなると理想だなって思っていたのは、ネットで活躍するクリエイターとかももっと取り込んで、たとえば「キメこな」(※3)の騒動のときなんかも、「ふたば☆ちゃんねる」(※4)までを取り込んで、素材と作品の相互循環的な、ネットもリアルも込みのエコ・システムみたいなものを作ってしまえばよかったと思う。そういう着地があればハット・トリックとして最高だったなって思いますけどね。カオス*ラウンジっていうスタイルだからこそ、そこは決裂じゃなくて友好的な巻きこみ方をするべきだった。逆に僕たちのやっていることといえば、日本のオタク・カルチャーやソーシャル・メディアへの賛美ではないし、過剰にそこを意識したり前提としているわけでもありません。むしろ従来のオタク・カルチャーへの批判もあります。彼らがいままでやってこなかったこと、できなかったこと、これからやるべきことをやろうと。ケンカを売るというのではなくて、自分たちが正しいと思うものを海外の文脈にのせていく努力をしようということです。そのへんがカオス*ラウンジと自分たちの立ち位置の違いかなと思います。

ナイトメアは、運動体というより作家本位の連合体って感じですかね?

NaBaBa:アーキテクチャの可視化っていうようなことは、オタク・カルチャー的なものをアートの文脈にのせるときには、どの作品にも大なり小なりふくまれてくるものだと思うんですよ。しかしそれのみに特化させていくモチヴェーションは自分にはあまりないです。「ナイトメアはカオス*ラウンジの上位互換か」みたいなことをツイッターで言われたりするんですけど、それは微妙に違うと思います。

カオス*ラウンジがただ著作権の問題として矮小化されたフレームで断罪されたりするのはもったいないですよね。それふくめて「悪い」環境自体をあぶりだしたという両義的な評価もあるかもしれませんが。

NaBaBa:それはやっぱり大事なことでもあって、カオス*ラウンジはともかく、他のところに目を向けても、本来責任をもって作品を発表している人たちが、ちょっとの過失やそれにも当たらないようなことで、無責任なネットの有象無象に徹底的に私刑されるという構図を最近よく見ます。僕はそこに違和感を感じているのですが、とはいえただそれを拒絶するのも戦略としてはうまくなくて。無理やりつっこまれる要因をつくる必要はないですよ。マーケティング的な意味もありますが、社会的にデリケートなところに神経を尖らせていくっていうのは、自分が伝えたいことを届けるための手続きでもありますから。原理主義をつらぬいていたらうまくいかないこともある。梅ラボさんとかカオス*ラウンジにも言えると思いますが、作品としての正義はそれでも自分にありつづけているという感覚。それはある意味で正しいんだけど、原理主義のために不必要な摩擦を生むこともある。それはもったいないと思います。

※1 カオス*ラウンジの前身となるグループ企画「ポストポッパーズ」が行ったライヴ・ペインティング。美水かがみ原作『らき☆すた』に登場する「柊つかさ」を支持体とし話題となった。

※2 カオス*ラウンジによる、他人の制作したイラストや画像などを床に敷きつめ、来客者に踏ませるというインスタレーション。使用した画像等をめぐり著作権侵害が議論された。

※3 画像掲示板「ふたば☆ちゃんねる」から生まれたキャラクター。梅沢和木氏が作品中にこれをコラージュしたことが、掲示板のユーザーの感情を損ね、また著作権侵害にあたるとして問題になった。

※4 2001年よりつづくインターネット上の画像掲示板


「アートは総合戦」か? ポストお絵描き掲示板世代の戦略性

ここに出てくる絵師さんたちは、かつてはその場所、つまりお絵描き掲示板にいて絵の純粋性を追い求め、いまは社会の世知辛さをすごく感じているというたぶん最初の世代なんです。

ちょっと話がそれるかもしれませんが、NaBaBaさんのようなその現実主義的な「まじめさ」......たとえば世界のアートの文脈にどう接続するかという戦略ですとか、相手目線でどうペイしていくか、どう身を立てていくかっていうような、アートの神秘性みたいなものをはなから信じていないような感覚。これってどこからくるものなんでしょう? 時代とか世代の問題なのか、絵師・イラストレーターという人種の問題なのか、何なんですかね? NaBaBaさんだけではなくて、けっこういろんなところで感じるんですよ。

NaBaBa:大学でもイラストの教本だとかでも、創作の神秘性をしつこく刷り込まれるわけです。美術ってものは、創作ってものは、市場であるとか、儲ける・食ってくってことと切り離されているときがもっとも純粋なかたちなんだ、ってことをですね。でも社会に出るとそれでにっちもさっちもいかなくなることがあたりまえにあるんですよね。いまの時代だからどうだっていうより、普遍的な問題です。モラトリアムの問題ではないかと。ある意味、僕はそれは議論するまでもないことだと思います。それを受けいれ、その上でさらにどう長期的な視野で目標達成を目指していくのか。到達するまえに飢え死にはできないですしね。

音楽でもやっぱり動機の純/不純なんていうことを問われたりしますが、それで食べていく以上は商業ベースのものの考え方に部分的に乗っからざるをえなかったりもするという、そこのアンビヴァレントですよね。いや、それはよくわかるんですけど、そこまでみんな現実的だったかというと......たとえばいまは、仮に就職できたとしても、日本に右肩上がりの経済成長なんてありえないだろうし、ラクして生きていくのは不可能だ、みたいな見積もりがすごく若い人にまであったりするじゃないですか。で、さらにそこに新自由主義的な価値観っていうんですかね、が輪をかけますね。そういう一種の世知辛さのようなものに関係してたりしないのかなあって思うんですが。ネオリベ的で世知辛くって頭打ちな社会で身につけたひとつの倫理観として、神秘性を否定して、自分を説明する責任を重視したり、「オマエはそれほどのものじゃない」という批判を内面化させたり、自己卑下・自己批判的な感覚を持ったりするんじゃないのかなと。なんか、「低クオリティですみません、注意!」みたいなことまでみんな超言うじゃないですか。NaBaBaさんも『ネット絵学』(虎硬編、2012)では就職のしかたを説いていらっしゃったりしますが、どうです、このへんは?

NaBaBa:ははは! いや、それを編集された虎硬さん自身もすごくそういう意識のある方でして。理想をただ追求しても手づまりになるという。『ネット絵学』に関して言えば、かつてネットの絵のカルチャーのなかに、そういう理想を掲げていた人たちとその人たちが集まっていた場所(お絵描き掲示板)があったということを、歴史として書き起こしたものですね。いままでそこは文字としての記録がなかった部分でして、『ネット絵学』は彼らのおこなったことを意味づける仕事でした。でもそれ以外に、あの本が出てきたってことは、やっぱひとつの気付薬として若い人たちには自覚を持ってほしいという願いがあるということだと思うんですよ。ここに出てくる絵師さんたちは、かつてはその場所、つまりお絵描き掲示板にいて絵の純粋性を追い求め、いまは社会の世知辛さをすごく感じているというたぶん最初の世代なんです。その第1世代が第2、第3の世代に対して「このまま準備もせずに外に出ると大変だぞ」ということを忠告しなきゃいけないと思っている。それにお絵描き掲示板後に出てきたピクシブには、「評価」とか「ビューワー数」とかの項目があって、そこで点を稼ぐべくふるまっていくか、純粋性を守るか、っていうような選択をすでにして求められるわけなんですね。そこで戦略性を優先した人が結局いま残っているという事実もある。そういう厳然とした事実に対して、理想を求めて散っていった人たちへの鎮魂歌が『ネット絵学』であるとも言えます。

うーん、鎮魂歌。まさにですね。お絵描き掲示板へのレクイエム。

NaBaBa:多様に存在していたお絵描き掲示板ってものを、ピクシブのなかに一元化して、ひとつの秤ではかる。そうするとその秤にのる作風もあればのらない作風もあるわけですね。それまでそれは掲示板ごとに住み分けされていたんです。けれどよくもわるくもピクシブによって統一の基準で評価されて、しかもそれが実社会と平行な関係を持つようになってしまった。点が高くて注目を集めたりすると、実際の話、仕事がきたりするようになったんですね。そうすると趣味で好きで描いてたはずの空間が、いつのまにか食ってく空間に変わってしまう。そしてそのたったひとつの秤にのるために、作風すら転換していかなければならなくなってしまった。そんなふうに導入された市場原理に、絵描きたちも自覚的にならざるをえなくなっている......。

うーん、「僕は君たちに武器を配りたい」ってやつですね。ひとりひとりが武器を持って自覚的に戦っていかなきゃ生きていけないというような皮相な自由競争の世界を、ピクシブのシステムは反映している。そしてそれをまえにする後続のティーンたちに渡したい武器が、『ネット絵学』のなかにあると。

NaBaBa:はははは。もちろんそこでいう「武器」を持たずに純粋性を優先している人たちもいます。僕自身のことを言えば、ピクシブの登場以前からそういう純粋性っていうのはほとんど持ってなくて、なんでなんですかね、表現っていうのは総合戦だって思ってるようなところがあるんですよね。ネットの絵師って、絵ばかりで評価されているわけではなくて、自分がどう望んでいようが、本人のキャラクターみたいなものもトータルで評価される面もあるんです。ツイッターとかいい例ですね。作品+キャラクター。絵はそこそこでも人気がある人は多いし、その逆もある。そういう総合力が問われてる部分は確実にあります。僕はそれに対しては肯定もなにも、そういうもんだと思ってる。で、総合戦として、こうしてインタビューを受けたり、ゲームの批評を書いたりしている。絵っていう枠からみれば外れてるかもしれないですけど、全部組み合わさった上でのステータスが高ければ、僕はそれでもいいって思ってるんです。ほかのステータスを切ってまで絵のステータスに集中しなくてもいいんじゃないかと。そういうスタンスです。

一種の芸人化、というと言い方が悪いかもしれないですが、それはやりようによっては純粋性を守る方法にもなるかもしれませんね。

NaBaBa:まあ、ほんと芸人化ですよね。ソーシャル・メディアの発達でいろんなことをひとりで発信できるようになった。ということは、いろんなことをひとりでやらなければならなくなったということですよ。逆に言えば、全部自分ひとりでできる人は浮上できる時代だということですよね。

美術の世界の地盤を揺るがすような、新しい事態ってことになりますか?

NaBaBa:タレント性の演出を視野に入れなければいけないというのは、絵描きのみならず創作する人々みなに問われている同時代的な課題です。少し舵の切り方を間違えただけで炎上騒ぎになりますし。そういう作家個人に色々なものが問われる時代だからこそ、編集者、プロデューサー、エージェントといった類の人達も、もっとコンパクトなかたちで役割を果たすことを求められる時代になると思っています。

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ギャルゲーは日本で唯一の主観視点ゲーム!? 没入感で読み解くNaBaBa的洋ゲーの楽しみ方

僕はそういう体験性っていうもの、没入感というものをすごくつよく意識していて、作り手としてもそこは極めていきたい部分ですね。

では、ゲームのお話もおうかがいしましょう。私は実家がゲーム等禁止だったものですから、常識的なところが抜けておりまして恐縮なんですが、洋ゲーっていうのは、輸入物ならなんでも洋ゲーっていうんですか? それともなにか独特のニュアンスがあったりするんでしょうか?

NaBaBa:まあ輸入物が洋ゲーということで間違いはないですが、しいて言うならアジアは除かれるかもしれませんね。韓国なんかもゲーム大国なんですが、そこは別枠にして欧米のゲームを洋ゲーと呼びならわすのかなって思いますね。

NaBaBaさんはよく「没入感」ということに言及されているんですけれども、主観的な世界への没入っていうのは、NaBaBaさんにとってゲームを評価する上での大きな指標になるんでしょうか?

NaBaBa:はい、それはめちゃくちゃ大きいですね。ある意味それがいちばん重要だと言いきります。ただ、それはひとつの手法にすぎないので、人によってはそこまでの意味を持たないかもしれません。でも僕はそういう体験性っていうもの、没入感というものをすごくつよく意識していて、作り手としてもそこは極めていきたい部分ですね。どうしてそこまで没入感を意識するかというと、それがゲームでしか表現できないことのひとつだと思うからですね。映画とか既存のメディアは、観客はあくまで傍観者として、その物語のテンプレを一方通行に追うことしかできませんよね。自分自身の意志でその世界に干渉できるというのがゲームの特徴です。その干渉に対してゲームからのフィードバックもある。遊んでいるあいだは現実を完全に忘れられるというようなことも可能になる。僕はそういう点にすごくひかれます。

没入感というのは、一般的なゲーム批評でも重要視される点なんですか?

NaBaBa:洋ゲーはそうですね。FPS(ファースト・パーソン・シューター)と呼ばれるゲームが持つ一人称視点。要は自分の視界そのままであるかのように画面が展開していくゲーム。これは没入感の優先を前提にした画面ですから、ゲームの遊びやすさ、効率という点からいえば場合によってはあまりよくないかもしれない。たとえばマリオのように落とし穴をジャンプするようなゲームでは、キャラクターが全身で映ってくれていたほうが、落とし穴と自分(キャラクター)との距離感がつかみやすかったりはするでしょう。これが主観視点だと、自分の身体が画面には映らないわけなんで、やや難しい。でもその不自由さ、非効率性を含めた上で僕は没入感というものの達成をはかります。洋ゲーはそれが深く追求されていますね。でも日本にはほとんどないと言っていい。主観視点のゲームって日本にはないんですよ。

え、ないんですか?

NaBaBa:それこそ90年代半ばの3Dゲームの黎明期にはあったのですけど、それは没入感とか以前の問題でしたし、そもそも専門性の高い技術で可能になる表現なものですから、日本では早期から取り組んでこなかったという事情もあって、開発の現場でそのノウハウがないんですね。いまからやろうとしたらそれこそすごいコストがかかるし。だからいまから取り組むのはすごくリスキーなことなんですよ。やろうとして失敗した会社はかつてたくさんあったし、参入するのは現実的ではないですね。

では日本に主観視点のゲームが根づかないのは、純粋に技術的な障壁があるからであって、たとえば風土や国民性というようなものとは無関係ってことですか?

NaBaBa:いや、関係なくはないと思いますよ。FPSが出てきたのはアメリカなんですが、その背景には銃社会だということがかなり大きく関係していると思います。日常的に銃を撃つことがありえる社会で、その体験をできるだけよどみなくゲームのなかに表現しようと思ったら、FPSのようなかたちになるのは当然だとも思いますね。逆に言えば、日本ではその体験の生々しい感覚というのは導かれにくい。銃を撃つという行為が引いた視点からキャラ同士で行われるほうがしっくりくるかもしれない。

しかし、ないっていうのもまた意外な気がしますね。

NaBaBa:すごく拡大解釈すれば日本にも主観視点のゲームはあって、それはギャルゲーなんですよ。

ああ、なるほど!

NaBaBa:女の子の立ち絵と書き割りのほかは、背景だけって感じになりますよね。あれは日本での没入感の追求のひとつのかたちであって、やっぱ女の子のいちゃいちゃや恋愛関係をリアルに感じようとすれば、主人公(自分)の姿がまるまる映っては邪魔なわけです。それは自分なので没入感を高めるためには俯瞰の絵ではまずい。主人公の視点で視界を構築する。だから日本は日本なりに、女の子と擬似恋愛するために没入感を追求していったってことになりますね(笑)。

はははっ。やや図式的ではありますけど、アメリカで1人称視点のゲームを作ると万人が敵であるようなシューティング・ゲームになって、日本でそれをやるとミクロなリア充疑似体験になって私小説的な1人称が召喚されたりするってことですね。

NaBaBa:没入感を追求すれば、行き着くさきは主観視点しかないのかなというのは思いますが、ギャルゲーっていうのは日本に固有のゲームで......

えっ、日本だけなんですか?

NaBaBa:欧米にはまずないですね。韓国やアジアには似たものはあるんですが、やはり起源は日本ですし、独自の進化を遂げているものになります。そういう日本独自の主観視点を持ったものと海外の主観視点とを融合させたものを、作り手として作っていきたいなとは思っているんです。遠い将来の夢としては。

没入感の先にあるものが何なのかということをうかがいたいんですが、それは現実の世界の見え方を少しいじって変えるというよりは、別の世界をたちあげて、そこをほんとのことにしてしまいたい、みたいなことなんですか?

NaBaBa:後者ですね。ゲームのなかの世界にいるあいだは理屈ぬきで入り込んでいたい。身体も性別も時代も超越して、モニターの向こうの世界の存在になりきりたい。ただ一方で終わりのないゲームというのは好きではないんですよ。なりきったまま帰ってこれなくなるのはいろいろとまずいわけです。かつて宗教画が、言葉や文章ではなく見たままに感じられる絵解きとしてその伝達目的を効率よく果たしたように、没入の仕組みを作るということは、よりメッセージを伝える上での効果的な方法であると思うわけです。そしてそのメッセージは現実をより強く生きるためのものであるべき。現実に帰ってきた時にほっとして、それまでの疑似体験やそこにあったメッセージ性によって、よりよい現実の人生をつくるうえでの糧になってほしい。遊び手としてそういうゲームを求めていますし、作り手としてはそういうものを作りたい。

FPSって、なにも知らないで説明だけきいたりすると、自分以外が全部敵であるようなとても殺伐とした暴力の世界を想像してしまうんですね。でも少しまえに現れたアーティストで、その名もファースト・パーソン・シューターって人がいるんですけど、彼の音なんかはとても内向的で、外に向けるべき銃を内に向けなおしたような感覚があるんです。で、曲名からはほぼあきらかにゲームの体験をテーマにしてるんだなってことがわかります。それで、こうした感覚がFPSに実際にあるものなのかどうか、不思議に思ってたんです。

NaBaBa:内向性っていうのは確実にあるでしょうね。撃ちあうだけのFPSっていうのはもう過去の話で、いまは広義の疑似体験装置としての進化がいろいろとあります。それで、そもそも没入感って内に内に入っていくっていう感覚ですから、内向するというのも当然はじめからあり得ることになります。僕なんかはもう、ヘッド・ギアみたいなやつをがちゃっと頭につけて、外界をいっさい遮断した状況でやりたいなって思うくらいですね。ただ、なかには、その主観視点の世界にほかのプレイヤーを入れて協力プレイをするようなものもあるんですよ。現実の知りあいと同じ仮想空間を体験することが作用を生むようですね。ただ、自分はちょっと受け入れられない。現実の知りあいって時点で、現実のいろいろなしがらみが仮想世界にも流入してしまいますから。そういうもの一切を遮断して、完全にひとりで没入したいですね。......なんか自分がいかに主観視点が好きかみたいな話で(笑)アレなんですけど......。これはまあ、極端な楽しみ方だとは思うんですよ。いまは協力プレイ込みのゲームのほうが増えているんで。ひとりで入り込むっていうのは、先鋭化された楽しみ方であるというか、そこに対する恐怖心というか、警戒を持っている人は多いですね。

先鋭化された楽しみ方っていう言い方、すごく合点がいきます。

ゲームと社会の成熟関係――チェルノブイリやアフガンをゲームにできますか

現代社会を舞台にしたゲームは非常に少ない。でも一方で『Medal of Honor』という米軍の一員となって、アフガニスタンでの戦争を追体験するというようなゲームもあります。アドヴァイザーとして米軍自体が協賛している場合もある。

NaBaBa:ウクライナのゲームに『S.T.A.L.K.E.R.: Shadow of Chernobyl』というのがあるんですが、これは事故のあったチェルノブイリ近辺を、自由に歩き回れる3D空間として再現したものなんです。とくにルートが決められていたりするわけではなくて、勝手に移動してサヴァイヴァルする。ただし放射能の汚染がつよい地域なわけで、場所によっては死んでしまう仕組みになっています。これは地球上に現実にあって、かつ行くことができない場所でもあるわけで、没入するにはもっともふさわしいロケーションじゃないでしょうかね。もちろんそういう場所を舞台として選定した、あえてゲーム化した、ウクライナの人たちの強いメッセージも感じる。

チェルノブイリをゲームに用いるというのは果敢ですね。事故から時間も経ってますけど、日本でフクシマとなれば、映画とか文学とかアートには許されても、ゲームはけしからんということになるでしょうね。

NaBaBa:現代社会を舞台にしたゲームは非常に少ない。でも一方で『Medal of Honor』という米軍の一員となって、アフガニスタンでの戦争を追体験するというようなゲームもあります。当時も遺族から批判があったりして問題があった。それでも作っちゃうわけです。さらにはアドヴァイザーとして米軍自体が協賛している場合もある。

ええ!

NaBaBa:アメリカの場合はプロパガンダ的な意味あいも強いんですけどね。志願兵制度ですから、米軍の兵士というのは、こんなに立派で、こんなに国民のみなさんを守ってますということをメディアを通じて宣伝するわけです。ハリウッド映画もあれば、ゲームもある。いっときは米軍がFPS作ってましたよ。『America's Army』というそのものズバリなタイトルですね。もともとは訓練用のものではありましたが。ゲームと社会との関わり方という点では日本とアメリカは大きくちがいますね。ウクライナだってそうです。ゲームというメディアに対する意識のちがい、ひいては表現作品に対する意識のちがいを感じざるをえないところですよね。

ほんとうにそうですね。

NaBaBa:市場規模でもハリウッド映画とゲームの関係は逆転しましたから。いまはゲームのほうが儲かってます。『アメイジング・スパイダーマン』のトレーラーなんかも、いちばんはじめに公開されたやつは、スパイダーマンの主観視点で街を飛びまわるもので、アメリカでは批判が起きましたね。映画なのにゲームの表現をパクるのか? みたいな。それも象徴的な話です。ご覧になりました?

いえ、観たかな......?

NaBaBa:あるゲームのトレーラーにそっくりで、僕なんかも笑っちゃったんですけど、ええと......

(iPadでみせていただく)

ああ、観ました!

NaBaBa:で、これがそのパクリのもとだって言われてる『Mirror's Edge』というゲームとの比較映像です。



あ、NaBaBaさんのサイトで紹介されてましたね。......うわ、ほんと似てる。

NaBaBa:ですよね。映画人的には映画のほうがゲームより優れているんだという意識がありつつも、市場的に逆転されつつあることへのくやしさもあるはずなんですが。そういう地殻変動が指摘されてからもう数年経っています。世界的な不況でマーケット自体がちょっと縮小してはいるんですが、それだからこそインディのものが元気になりはじめたりもしていて、まあ、日本とは温度差がありますね。

「洋ゲーを通して見えてくる日本はありますか?」って質問をしようと思っていたんですが、すでにいろいろ出揃いましたね。

NaBaBa:ははは!

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なんでぜんぶ、女子の絵ばっかりなんでしょう?

でも、自己投影だったり自己模造だったりするんですよ、その女の子の絵も。

では素朴に質問するんですが、「悪夢のドリカム」展もそうですが、たとえばあのなかとかに女性・少女の絵しか出てこないのは、なんでなんでしょう?

NaBaBa:......ですよね。狙ったわけではないんですが、男性の絵が排除されていて女性の絵ばかりになってはいる。これは......なんでだろうな、日本のオタク文化の問題でもあると思います。性的な趣向という部分もある。オタク文化はしばらく男性本位のものでもあったわけで、しかもオタクだからリアルな女の子との接点もなかなかない......そんななかで女性の神秘性への憧れを引きずっているのかもしれない。ただ、いまの人たちや、このまえの展示に出ていたような方々が、そういうオリジンの持っていた憧れをどこまで引いているかはわからない。その様式だけを継承しているのかもしれないですし。まあ、オタクの象徴として女性を描くということはあるかなと思います。あと、ギャルゲーに男性の絵が出てこないことと同じかもしれないですね。

女性のほうも、じゃあ『テニプリ』(『テニスの王子様』)でもなんでも、イケメン・パラダイス的な消費とか動機とかがあるわけですが、それが反転しただけってことです?

NaBaBa:いわゆる腐女子の人とかは、男性をモチーフにされるわけですけど、男性のほうはそうやってモチーフにされることに慣れていなくって、われわれが腐女子の描いた男性の絵とかをみるとまだ生理的に受けつけられないんですよ。女性の場合はもうずいぶんと長いあいだ描かれつづけてきたからか、慣れているんじゃないでしょうか。たしかに男性本位で描かれた女性像なんだけど、それはそれとして女性も楽しめるという感じになっているんじゃないか。そこは一周まわって、『らき☆すた』や『けいおん!』とか、男性も女性も楽しめるハイブリッドが出てきているんじゃないかと思うんですけどね。いまは女性のモチーフというのはもともとの意味性を剥奪されて様式化・テンプレ化されてきてるのかなと。女性の描く男性はまだ男性も受け入れられるというレベルのテンプレ化まではきていない。

ポルノとしての機能を超えて、女性の描き方が様式化されてきているというのは納得もできるんですが、ではそうだとして、なぜ男性が男性をほとんど描かないんでしょう?

NaBaBa:なんだろうな、男性からみれば男性っていうのは魅力的ではないですし......僕についていえば、べつに男性を描いてもよかったんですけど、ピクシブなんかで目立つときに、戦略としては女性の絵を打ち出していかないとだめですよね。海外では、ある種マッチョなものへの嗜好として、男性が男性を描くっていうのはありますけどね。でも、自己投影だったり自己模造だったりするんですよ、その女の子の絵も。結果としては性別は女性に変えてしまうけどっていう。

あ、自己投影とか自己模造なんだ、なるほど......! あの女の子たちは自分なんですか......。説得力ある男性のモデル、テンプレってやつがまだできてないというようなことですかね。

NaBaBa:西洋絵画の歴史を紐解いても、女性の絵が多いわけで、それは男性社会だったから女性は絵が描けなかったということもあるかもしれないけれど、裸婦像なんかはポルノとしての役割を確実に果たしてもいた。女神だなんだと意味づけをして女性の裸を描く。描き方にもいろいろあって、ある方法にのっとればそれはオーケー。ポルノではない、とか。今回の出店した「あっち向けってんだろホイッッ!!」かは、指人間みたいなかたちで、男性の筋肉のキャラクターを描いてはあるんですけど、やっぱり、男性を出すときっていうのは、汚い、現実側の存在として描きますね。

父とか制度とかっていう?

NaBaBa:まあ、童貞的な世界観なのかもしれないですけどね。言ってしまえば。ギャルゲーに主役の男性像を抑えがちなのも、そういう、現実側の象徴が出てきてしまっては没入感が阻害されますから、そういうことかもしれません。かつては『Air』や、『Clannad』だのといったKey原作の京都アニメーションの作品だとかは男性のキャラクターが出てきてたんですよ。でもそれも最近はさらに排除されてきている。

童貞以外の「大人」の男性の像がない、というか、かたちにならないってこと自体クリティカルなことにも思えますね。あたらしい男の人のかたちが見えてこないことには、絵にもできない。音楽のシーンでも、2000年代っていうのはマッチョイズムの解体とともに進んできたようなところがあるんですよ。だから新しい音を創出してきた人たちは、ある意味で男性性を薄められた「しょぼい」存在かもしれないんです。けど、ならばこそ女性がそのよさを見つけ出して描いて取り出していくほうが簡単かもしれないですよね。

NaBaBa:父以外の男性の輪郭っていうのは腐女子文化によって整えられていくようにも思えますよね。それが、まだ男性の側まで届いていない。女性に理想像をつきつけられたときに、とまどってしまうことはあるかもしれないですね。僕らはまだそのような視線によって「みられる」ことに慣れてはいないですから。敗戦後はおそらく、日本では男性とか父というものに対してはある意味でダメオヤジ的な蔑むような視線が投げかけられてきたし、軍隊も持たなかった。アメリカのゲームに出てくるような強くて逞しい男性像は描きにくいです。

NaBaBaのこれから

線がブレてて、マティスっぽい背景で、建物が水墨画で、手がワタワタしてたり......

では、しめくくりとしてこれからのご活動の予定や告知などをおうかがいしたいと思います。

NaBaBa:予定は未定といったところもあるのですが、いちばん大きいのは今回の「悪夢のドリカム」展の海外での展示が控えていますので、それにむけての準備というところになるかと思います。遠い未来には自分でゲームを1本作りたい。......これ、あちこちで言ってるんで、ほんとに実行しないとまずい状況にはなってきました(笑)。

その海外にむけての準備というのは、具体的にはどういうことになりますか?

NaBaBa:そうですね、すでに新作を何点か描こうというようなことにはなっています。ライヴ・ペインティングで描いていたもの(https://www.ustream.tv/recorded/23047115)を完成させようかなと思っております。これはニコ生のほうで流れたときにいろいろとコメントがついていたんですが、ひとりだけ、昼の1時から夕方6時まで、ディスのコメントを書きつづけていた人がいたんです。たしかにディスなんだが、こんな時間ずっとこの映像にかじりついてコメントを書きつづけている執念はなんなんだと。マティスっぽいからダメだとか、水墨画のほうがいいとか、線がブレすぎ、とかいろんなことを言われたんですが、じゃあ、この人の批判点を全部ひとつの作品のなかに盛り込んだら、彼はいったいどんな気持ちになるんだろうと思って、描いちゃおうと。

あははっ。

NaBaBa:線がブレてて、マティスっぽい背景で、建物が水墨画で、手がワタワタしてたりとか、そういうオーディエンスとの緊張関係はこれからも作りつづけていきたいなと。

インタラクティヴ性みたいなことのほかに、相手の要求を技術的にも満たすっていう緊張感がありますね。

NaBaBa:そうそう。文句は言わせないけど、君の要求することは全部入れました、みたいな。やっぱそこは意識的にやられちゃうと、まえのような批判はもうできなくなると思うんですよ。その掛け合いは楽しみたいですね。

(笑)ぜひ、会場でもそのときのニコ動の映像を流してください。

NaBaBa:もう、絵のタイトルをそいつの言った言葉全部つないだやつにしようと思ってます。

(笑)とてもおもしろいお話をうかがうことができました。ありがとうございました。


Jeremiah Jae - ele-king

 フライング・リザーズのセカンド・シングル"マニー"(79)はニューウェイヴの金字塔といえるヒット作だけれど、イギリス国内ではいささか数奇な運命を辿っている。"マニー"のチャート入りと同じ年に発足したサッチャー政権は市場を「見えざる神の手」に委ねることなく、可能な限り政府が金融政策に介入するというマネタリズムを主張していたため、TVで保守党の金融政策に関する特集やニュースが組まれるたびに同曲は条件反射のようにして流され、チャートに無関心な人たちにとっては否応もなく保守党やマネタリズムのテーマ曲として刷り込まれてしまったからである。しかし、マネタリズムは当時、ケインズ主義と対立すると考えられていたにもかかわらず、10年も経たないうちに相容れない考え方でもないとする方向に経済学の流れは変わり、政権発足当時ほど物議を醸すトピックではなくなっていく。残ったのはフライング・リザーズ=保守党という図式である。最近でこそ、選挙のキャンペーン・ソングに"マニー"を使う労働党の若い議員も現れたらしいけれど、ある世代から上はフライング・リザーズといえば保守党の金融政策でしかない。https://www.businesspundit.com/30-best-songs-about-money/

 80年代にサッチャーとレーガンが強引に変えていった金融のルールは、30年後のいまも、世界を襲い続けている。極端な売り浴びせやアジア通貨危機などを引き起こすグローバル・マニーがその主役で、実感のない好景気や100年にいちどだったはずの大恐慌が5年といわず短い周期で繰り返される状態もすでに常態化しつつある(英米にも言い分はある。親アラブだった日本やフランスが逸早くオイル・ショックから立ち直れたのに対し、10年以上の遅れを挽回する必要があったのである)。アウトキャストにフック・アップされたキラー・マイクは、エル-Pのプロデュースによる5thアルバム『R.A.P.ミュージック』から、いまさらのように"レーガン"(https://www.youtube.com/watch?v=JPyjJ1MMUzQ&feature=related)で金融を武器に喩え、レーガンのやったことを責め立て、ブルース・スプリングスティーンも『レッキング・ボール』で金融危機を引き起こした人たちへの怒りをそれとなく表している(規制緩和で肥え太ったネオリベ=ファット・キャットを揶揄する歌詞はあっても、金融関係を直接的に扱った歌詞はない。たとえば、"イージー・マニー(あぶく銭)"では銀行家をボニー&クライドに見立ている)。

 〈ブレインフィーダー〉からデビューする新人、ジェレマイア・ジェイはデビュー・ヒットとなった"マニー"で、ひとつの仕掛けを編み出した。3つの人格を生み出し、金持ちと貧乏人、そして、夢想家の3人にそれぞれ違う立場からステイトメントを表明させたのである。リッチ・マンの豊かさやプアー・マンが陥る葛藤はこの際、置いておこう。どんな手を使っても金儲けしたいと考える夢想家がこれと同等の立場で扱われていることがやはり気を引かれてしまう。グローバル・マニーの時代に金のあるなしで線を引くわけではないのである。

 いまでは時給という考え方も当たり前のものになっているけれど、「働いたら、それだけの金は欲しい」という感覚はアウグスブルグの宗教和議(1555)に遡り、それを認めさせてきたのがプロテスタントの歴史と重なっていく。レーニンが「働かざる者、食うべからず」と言ったのも、この感覚の延長線上にあり、いわば、宗教改革というのは神様から与えられる恵みを人間同士で再分配するシステムに移行させたプロセスだといえる(そういう意味では資本主義も共産主義も同じ宗教観の産物でしかない)。ところが、デイトレードをはじめ、70年代からゆっくりと推し進められてきた金融再編がもたらした金銭感覚は、ここ500年ほど続いた「働いたら、それだけの金は欲しい」という観念を根底から揺さぶり、ジェイが夢想家に託したような「どんな手を使っても金儲け」という人物を大量に生み出してきた。池辺雪子のようなFX主婦にももちろん才能はあり、それに掛けている時間のこともあるので、仕事の質が違うだけという側面もあるとは思うけれど、「働いても、それだけの金を得られるわけではない」という自覚の部分を思えば、明らかに労働観は同じものではなくなっているのではないだろうか。ジェイはそれに対して、肯定も否定もない。金持ちと貧乏人、そして、夢想家をそれぞれが夢を見るという点において同等に扱っただけである(トム・ヨークが過剰反応しているのはなぜ?)。

 "マニー"に耳がとまった理由は、しかし、その部分ではない。ポップ・グループ"ウイ・アー・オール・プロスティチュート"を思わせる奇天烈なイントロダクションである。最初はそれがすべてだった。それに導かれるというよりも振り回されるようにしてはじまる同曲は、ゼロ年代を通じてロン・ブラウズによってアラブ・ミュージックから掠め取られてきた違和感と相似形のようでいて、金属的で都会的な鋭利さと切迫感に満ちている。そして、いま、マイルス・デイヴィスが生きていたらロン・ブラウズとジェイのどちらに寄っただろうかという妄想まで掻き立てる。そう、80年代のマイルス・デイヴィスを支えたロバート・アーヴィング3世を父に持つジェイは、なるほどスウィング感のあるブレイクビートを組み立てるのに長けつつ、リズムも感情もミニマルに切り揃えたビートをもって、どこか内省的なヒップホップをジャズ・ファンクの延長線上に位置づける。一見、統制が取れていないかに見える曲の組み立ては、リー・バノンと共時性を感じさせつつも、錯乱じみた印象からはほど遠く、徹底的にチルの効果を内包し(自分では、自分の曲がリスナーのチャクラに達することが目的だとスピったことを言っている)、ときにはポップであろうとし、他愛のない空気のようになることまで楽しんでいる。フライング・リザース......じゃなかった、フライング・ロータスも面白い才能をデビューさせたものである。
 例によってサウンドクラウドは短い曲の嵐(https://soundcloud.com/jeremiahjae)。どうしてここまで音を悪くするのかという曲まであって(ヘンなラジオ・ドラマも?)、「合法的」に1日中、楽しめます。1曲だけ聴くなら「ガーデンズ」(soundcloud.com/jeremiahjae/gardens)かな。

 Don't get it twisted with some shit it isn't. (Jeremiah Jae)

ヨルシャワ閉店 - ele-king

 レコード店は音楽の現場であり、メディアでもある。例えば、下北沢にあるZEROにはベース・ミュージックとグライムがある。ジェット・セットに行けばチルウェイヴとクラウド・ラップが交錯している。下高井戸のトラスムンドに行けば池袋ベッド系の音があって、ロスアプソンに行けばクンビアがあるだろう。いずれにせよ、お店に集まってくる情報は、amazonにはない、生々しい同時代性と緊張感がある。
 僕が知る限り、〈デジタルズ〉や〈ワイアード・フィレスト〉や〈ノット・ノット・ファン〉をもっとも早い頃から推していたのがワルシャワだった。僕が最初にポカホーンティッドのレコードを買ったのもこの店がまだ渋谷にあった頃だった。店長の柳澤祐至君が、2008年のある夏、「これ知ってますか?」と教えてくれたのが最初だった。まだすべてがミステリアスで、素性がわからない頃に、自分の耳だけを頼りに音の茂みに入り、音の探索を試みることの楽しさがある店だった。
 ワルシャワはUSアンダーグラウンドにおけるカセットとヴァイナルの動向を早くから追っていたが、先走りすぎていた。下北沢に越してからは、その速度はさらに速まり......そして彼はレコード売りを止めて、店をヨルシャワへと方向転換した。〈CMP〉の連中もこの場所でDJパーティを開いていたことがある。
 そのヨルシャワが今週末の金曜日で閉店することになった。店長の柳澤君は、1998年、店がまだ吉祥寺にあった頃から働いているので、およそ14年ものあいだエクスペリメンタルやドローンやアンビエント(そしてインディ・ロックやアンダーグラウンド・ヒップホップ、ミニマルやダブステップ......)の真っ直なかで汗をかいていたということになる。ワルシャワでしか買えないレコードは本当に多かった。また、ヨルシャワになってからもあのラフな感じが好きで通っていた人も少なくない。
 以下、柳沢君からいただいたコメントです。
 「レコード屋としてのwarszawaは3月に終っていたので、あらためてになりますが、長いあいだほんとうにありがとうございました。少し違う形で、ワルシャワまたはヤナギシャワとして続けていきますので、今後ともよろしくお願い致します! ――柳澤祐至」

 柳澤君には一時期は原稿も書いてもらっていた。本当に長いあいだお疲れ様でした! ありがとうございました! 金曜2時から8時までのあいだ、半額セールをやっている。柳澤君に会いたい人は、お世話になった人は、この機会を逃すなよ!

河村要助 『河村要助の真実』 - ele-king

 日本のイラストレーション界に大きな足跡を残しながら、ある日、忽然と私たちの前から姿を消したのが河村要助だった。

 イラストレーションが新しい文化として花咲いた1970年代から90年代にかけて、東京を発信地にたくさんの名作、秀作を発表しつづけた「ヨースケ」。
本書は、新発見された10代の「戦闘機の絵」からニッカ「黒の、50」シリーズ、『ミュージック・マガジン』『Bad News』などの音楽誌の表紙のほか、「伝説のイラストレーター」の全豹を300ページ/639点に及んで紹介する。

作品の選出、総合デザインは佐藤晃一が担当。
全音楽ファン必読必見必殺の一冊である。

 誰もが待ち望んでいたあの伝説のイラストレーター河村要助のイラスト、その全集とも言える豪華本がついに発売されます!

 まさに天才、河村要助の底知れぬ魅力のすべてを。
 1960年代後半から話題となりいまや確立した「ヘタウマ」。それだけにはとどまらない繊細で切れ味も鋭くユーモアもある珠玉のイラスト集。河村要助なしでは語れないラテン・ミュージック関係から、これまた伝説化した『ミュージック・マガジン』や『Bad News』での表紙を飾った百花繚乱たるミュージシャンたち。今回表紙のGOLDEN BOY CANDY(金太郎飴)に代表される「和」のシキタリ/伝統を「洋」の文化の人々に向けての、ほのぼのとした説得力ある脳内観光ニッポン傑作画。とことん鋭い画力と観察力に溢れたイラストは天下一品唯一無二!!

■今回氏の幼少期の貴重なイラストも収録。
■故田中一光氏のその魅力を見事なまでに分析した「河村要助論」も収録。
■また2011年ギンザ・リクルートで行われた展覧会での佐藤晃一、佐藤卓、藤田正の対談。
■デザインは僚友であり世界に名だたる佐藤晃一氏。

河村要助
『河村要助の真実』

発売日:2012/07/18
ISBN:978-4-906700-35-6
定価:¥3,800+税

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Clams Casino - ele-king

 言葉のあるなしにかかわらず、音楽は内面の空虚さを埋めるために使われる。クラブ・カルチャーもその代表例のひとつ。週末の夜をぶっ飛ぶことそれ自体が問題なわけではない。問題はハイな夜を終えた、日曜日の朝方の過ごし方にある。

 最近の『NME』の調査によれば......、LAのリル・Bによる"ベースド"、フロリダのメイン・アトラキオンズらによる"クラウド・ラップ"、NYのエイサップ・ロッキーによる"ヒップスター・ホップ"と分けられるそうで、いずれにしても、これらプログレッシヴな(ヒプナゴジックな)ラッパーたちはクラムス・カジノに感謝しなければならない。彼らがいま試みているのは、いわばヒップホップの変異体で、同紙によれば「完璧なまでにメチルモルヒネの毒気で作られたコクトー・ツインズか、さもなければ電子機器で押しつぶされた唱歌隊の音楽」となる。メチルモルヒネがどんなものなのかは知らないけれど、なんとなく想像はできるだろう。先日、レヴューしたスペースゴーストパープもその手の音のキーパーソンのひとりである。昨年、我が国でも評判となった(何故か二木信が気に入っていた)ザ・ウィークエンドもこの男の影響下で生まれたR&Bの変異体のひとつだと言える。

 ニュージャージーで暮らすインターネット・ベースのプロデューサー、クラムス・カジノことマイク・ヴォルプは、昨年無料で流した、彼にとって最初のミックステープ『Instrumental Mixtape』によって評判を広めている。続いて〈トライ・アングル〉から「レインフォレスト(Rainforest )」なる12インチを発表して、その評価を決定的なものとした。
 先月末、クラムス・カジノは彼にとって第二弾となるミックステープ『Instrumental Mixtape 2』をネット上で発表した。アルバムには、エイサップ・ロッキー、ザ・ウィークエンド、マック・ミラーメイン・アトラキオンズリル・Bらに提供したトラック、彼が手がけたウォッシュト・アウト、ラナ・デル・レイ、XVのリミックス・ヴァージョンのためのトラック、それから新曲もひとつ収録されている。『Instrumental Mixtape』は最初は無料配信して、数ヶ月後にはCDになっていたので、今回もある時期までは無料配信して、ある時期になったらCDとなって捨てられる......いや、売られるのだろう。不思議な順番に思えるが、買ってもらうことよりもまずは聴いてもらいたいのかもしれないし、OFWGKTAのように消費文化の秩序に挑戦しているのかもしれない。

 アルバムの最初を飾るエイサップ・ロッキーの"パラス"や"ワサップ"、"ベース"、ザ・ウィークエンドの"ザ・フォール"までは、言われるように「押しつぶされた唱歌隊」のような重苦しさ、一種のホラーめいた緊張感を展開している。6曲目のマック・ミラー"ワン・ラスト・シング"、続くウォッシュト・アウト"アモール・ファティ"から最後14曲目のリル・B"アイム・グッド"まではわりと気持ちよく聴いていられる。マック・ミラー"エンジェルズ"はポーティスヘッドの領域へと、XV"スウェルヴィン"やリル・B"アンチェイン・ミー"などはナイトメアズ・オン・ワックスの陶酔とも重なるかもしれない。"ボーン・トゥ・ダイ"におけるディスコ・パンクめいたノイズとメタリックなパーカッションの再構築も面白い。
 2013年の音を先取りしていると評され、多彩なアーティストとアクセスしながら孤立しているかのようなこのプロデューサーは、同じスタイルにとどまるつもりはないのだろう。が、それでもアルバムにおける唯一の新曲"ヒューマン"では、自らの城に閉じこもる王のように、彼の退廃的なセンスを全開に生かしている。粉々になったギターの単音が宙を舞い、雑巾のように捻られたヴォーカルが徘徊して、ダークサイドのなか息を殺しながらゆっくりと歩くような、お馴染みのクラムス・カジノ・サウンドだ。
 
 虚構な幸せほど不幸なものはないという立場は、この20年代間、クラブ・ミュージックにパラドックスを与え続けている。クラムス・カジノのディストピックな魔法の時間もその発展型である。

日本のイラストレーション界に大きな足跡を残しながら、ある日、忽然と私たちの前から姿を消したのが河村要助だった。

イラストレーションが新しい文化として花咲いた1970年代から90年代にかけて、東京を発信地にたくさんの名作、秀作を発表し続けた「ヨースケ」。
本書は、新発見された10代の「戦闘機の絵」からニッカ「黒の、50」シリーズ、『ミュージック・マガジン』『Bad News』などの音楽誌の表紙のほか、「伝説のイラストレーター」の全豹を300ページ/639点に及んで紹介する。
作品の選出、総合デザインは佐藤晃一が担当。
全音楽ファン必読必見必殺の一冊である。

誰もが待ち望んでいたあの伝説のイラストレーター河村要助のイラスト、その全集とも言える豪華本が遂に発売されます!
正に天才、河村要助の底知れぬ魅了の全てを。
1960年代後半から話題となり今や確立した「ヘタウマ」。それだけには留まらないその繊細で切れ味も鋭くユーモアもある珠玉のイラスト集。河村要助なしでは語れないラテン・ミュージック関係から、これまた伝説化した『ミュージック・マガジン』や『Bad News』での表紙を飾った百花繚乱たるミュージシャン達。今回表紙のGOLDEN BOY CANDY(金太郎飴)に代表される「和」のシキタリ/伝統を「洋」の文化の人々に向けての、ほのぼのとした説得力ある脳内観光ニッポン傑作画。とことん鋭い画力と観察力に溢れたイラストは天下一品唯一無二!!

■今回氏の幼少期の貴重なイラストも収録。
■故田中一光氏のその魅力を見事なまでに分析した「河村要助論」も収録。
■また2011年ギンザ・リクルートで行われた展覧会での佐藤晃一、佐藤卓、藤田正の対談。
■デザインは僚友であり世界に名だたる佐藤晃一氏。

ryo of dextrax (dxtx / The Dubless) - ele-king

ジャックハウス集団dextraxと並行して、The Dublessというバンドユニットで活動してます。
ROOM FULL OF RECORDSより今夏12インチをリリース予定。
The Dubless Live Schedule
7/21(sat) Idjut Boys Japan Tour at eleven
8/25(sat) VIDEOGRAM at Star Pine's Cafe
The Dubless
https://soundcloud.com/thedubless

Around The Dubless


1
The Dubless - Blackkite(Rondenion's Ragrange Mix) - ROOM FULL OF RECORDS

2
Fleetwood Mac - Albatross

3
Steve Miller Band - Fly Like An Eagle - Capitol

4
Donna Summer - I Feel Love - Casablanca

5
Laidback - Fly Away - Sire

6
山田美也子 - 勇気一つを友にして - みんなのうた

7
Todd Rungren - Lost Horizon - Rhino

8
Rondenion - Mechanical Motion - Ragrange

9
MINGUSS - Portrait Of Jon - Tokiora

10
Rampoo - Pop Demo - Soundcloud

BISK (Naohiro Fujikawa) - ele-king

12年ぶりの復帰作『MEMORABILIA』をリリースしました!
junoではすでに販売中、amazon MP3で8/9発売開始です!
https://www.junodownload.com/products/memorabilia/1980437-02/
https://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/B008FZX9KA/

エレクトロニカやダブステップ、UKファンキーからR&Bに至るまで、様々なジャンルのエレメントを吸収しつつ独自のストレンジな音世界に昇華させた意欲的作品。
詳しくはこちら!
https://bisk.jp/priv/jp/

最近のベスト・チャート10枚


1
DARLING FARAH - Body
〈Civil Music〉のニューカマー。ストイックでダークなテクノ。若いのにやたらと渋い抑えのきいたトラック満載。

2
Debruit - From the Horizon
同じく〈Civil Music〉。変態ブレイクビーツにエスノな上モノが走る、ストレンジ・ベースミュージック

3
Cristian Vogel - Inertials
ベテランテクノアーティスト、UKベースとの邂逅。緻密でエクスペリメンタルながら骨太感のある不思議な質感。

4
Sven Kacirek - Scarlet Pitch Dreams
生音をベースにしながらも、電子音響、エレクトロニカ、チルアウトなどあらゆる解釈が可能な驚異的な振れ幅を見せる大傑作。

5
Teeth - Meme Is The New Riddim
前述のDebruitとも通ずる。ジュークやUKベースを通過した無節操で肉感的、アジテイティブなビートが炸裂。

6
Dro Carey - Leary Blips EP
もっと話題になってもいい系トラックメイカー代表。相変わらずブロークンでどこを目指しているのかわからないところが秀逸。

7
Blawan - Long Distance Open Water Worker
ゴリっとした、どプリミティブなトラックは中毒性高し。とにかくイカつい。そして怒涛の音圧・・・。

8
Drexciya - Journey Of The Deep Sea Dweller II
IとII両方おススメ。やっぱりこの人凄かったんだね、と時代は2周くらいしてまたここに戻ってきた。Bang-Bangというトラックが最高。

9
Jimmy Edgar - Majenta
いつも絶妙にダサカッコいいところを狙ってくるエレクトロ・ファンクの傑作。音数少ないのに最後まで聴かせてしまうその力量に脱帽。

10
Ghosts In Disguise - ODENWALD
我らが〈Shhhh〉レーベルからのリリース。Helge Neuhaus & Matthew Adamsによるニュー・ユニット。
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