「Nothingã€ã¨ä¸€è‡´ã™ã‚‹ã‚‚ã®
当時『NME』といえば、ポストパンクやアンダーグラウンド・ミュージックの発信源でもあり、筋金入りのアンチ・サッチャリズム、アンチ・レイシズムのデモ行進を表紙にしたほどの音楽紙。理屈屋で、「アシッド・ハウスは音楽か?」議論の戦場でもあった。ディスコにはさしたる興味を見せなかったが、80年前後にはレゲエ、80年代なかば以降はヒップホップ、そしてシカゴ・ハウスとデトロイト・テクノに情熱を注いだ。
そんなメディアが1988年、たった1枚の「ビート・ディス」で大ヒットを飛ばしたボム・ザ・ベースを表紙にした理由は、それがポップ・チャートをも席捲した、サンプリングの痛快さがほとばしる、若い世代(当時20歳)のエネルギッシュなダンス・ミュージックの出現だったから......だけではない。経費8万円弱、レコードとサンプラーのみで作られた曲が爆発的に売れて大金を稼いだことも大きかった。ポストモダンの列車強盗として、持たざるモノがやってのけたということだ。
これと同じ論法で、ザ・KLFがザ・タイムローズ名義で「ドクトリン・ザ・ターディス」をヒットさせ、コールドカットが「ドクトリン・ザ・ハウス」と続いた。著作権法によってサンプリングの自由が奪われた後も、初期レイヴではこの手のギミックが氾濫した。ギミックだらけになって飽き飽きもしたが、良くも悪くも当時のダンス・カルチャーはディスコ・クラシックに出る幕を与えなかったのである。〈DJインターナショナル〉や〈トランスマット〉にはチャンスを与え、ボム・ザ・ベースを格好良く思わせた。たとえ音の善し悪しなどは主観的なものだとしても、コンテキストにおいては善し悪しが言える。「素人のディスコ」と揶揄されながらも、コンテキストにおいては、ハウスやボム・ザ・ベースは立派に格好良かったのである。
さて、こんなに回りくどい前口上を書いてしまった理由とは、何を隠そう、テイ・トウワの新作をいざ聴くと、「ビート・ディス」やその時代を思い出したからである。チップ・Eの"ライク・ディス"については言わずもがな。1曲目のイントロの、サンプラーの使い方が88年風で、高橋幸宏が歌うその曲"Luchy"も、バート・バカラックをブレイクビーツに組み込んだりした『イントゥー・ザ・ドラゴン』と重ならなくもない。随所に見られる効果的なカットアップの使い方も似ている。
コンテキストにおいては、むしろ対極だ。サマー・オブ・ラヴに馴染んだディー・ライト在籍時だったら話は別だが、今日「ビート・ディス」のポジションにいるのは、PC1台とR&Bサンプルで作られるベース・ミュージックだ。斎藤が好きな〈ナイト・スラッグス〉や〈フェイド・トゥ・マインド〉のような連中である。ゲイ・ラップやヴェイパーウェイヴもその一部かもしれない。それでもアルバム『Lucky』が、「ポップとして優れたダンス・アルバム」というクリシェにとどまらず、「ビート・ディス」まで蘇らせるのは、この作品が初期レイヴ・リヴァイヴァルと気持ち的にどこか繋がっているんじゃないだろうかと思わせるフシがあるからだ。まあ偶然だろう。だが、繰り返し聴いている度に、草間弥生のデザインもその機運にリンクしていると思えてくる。セイホーの「アイ・フィール・レイヴ」や瀧見憲司のBeing Boringのアルバム(小野田雄が自分がreviewを書くと言って、いまだに書いてくれていない傑作)と並んで、新たな上昇を感じる。
僕は、日本では、ダンス・カルチャーやクラブ・カルチャーは、ある世代以降はしぼみつつあると思っていたところがある。若者の週末の深夜は自宅で過ごし、サマー・オブ・ラヴはオヤジの郷愁としてある。シーンには内輪受けの小宇宙が増え続け、クラブは自分のジャンルしか知らない専門家化されたDJに支配され......いや、しかし、そうではなかったようなのだ。たとえば、先日のDUM DUM PARTYの最初のDJを務めたtomadoのプレイにも兆候が見られた。それはいま起きつつあることの断片なのだとはある情報筋からの入れ知恵である。
「ラッキー!」という言葉が印象的だったことは、88年や初期レイヴにはない。グラスゴーの〈ラッキーミー〉、テイ・トウワの「ラッキー!」は、20年前の「ラヴ」に相当するのかもしれない。「勘が働いた」ということなのだろうか。ダフト・パンクの新作と同じように豪華ゲストを招いて作ったダンス・ポップのアルバムだが、『Lucky』の遊び心にシニシズムはない。「ラッキー!」なる言葉は、この作品ではシニカルに使われていない。太くはないが軽快かつ繊細なグルーヴがあり、グッド・ヴァイブレーションが作品を支配している。ビートレスの曲"GENIUS"が作品の表情を象徴しているし、"KATABURI"や"LICHT"のようなインスト曲が、実はアルバムでは重要な役目を果たしている。だいたいクローザー・トラックは"LOVE FOREVER"。ベタな曲名だが、これが不思議とクサくない。ゆえに、この曲がいま起こりつつあるレイヴ・リヴァイヴァルのクローザーとなっても僕は驚かない。いや、驚きたい。
ウィスパーズや、タツロー・ヤマシタが......、踊っている。いや、踊らされている。なにかの亡霊のような姿で。深夜3時に、YouTubeでディスコ・クラシックの巡回中にたまたま完成してしまった最高のプレイリスト――『HIT VIBES』は、その記憶の断片を大急ぎでかき集め、突貫工事で復元したミックステープのように聴こえる。
妙なこもりというか、1枚の靄を隔てて聴いているような聴覚へのソフトな接触は、ゴーストリー・フュージョンとでも呼べばいいのだろうか。ウェルメイドな往年のディスコ、アーバン・クラシックをあえてローファイに、しかも音のタッチを均一化するかのごとく、ある種のスクラップ作業(のようなエディット)が延々と続いていく。
これをリミックス集と呼ぶのは、ちょっと違うのだろう。ビート・プロダクションは差し替えられつつも、実質はサンプリングのピッチ操作とエフェクト程度の拙い二次創作のようにも聴こえる。アートとしてのサンプリングを盗窃と呼ぶなら、このコピペ感は間違いなくあのけったいな蒸気音楽、ヴェイパーウェイヴ以降のものだ。
そう、この限りなく貧しい場所で、セイント・ペプシを名乗る人間はディスコによる甘い夜間遊泳と、すべての音源をクリエイティヴ・コモンズたらしめる、あのイリーガルな蒸気が描いた夢の続きを見ている。
あなたは『Life of Leisure』という作品を覚えているだろうか。夜の23時に、ディスコをひとりで部屋聴きするということ。それがすなわち、チルウェイヴという概念だった。だが、いま思えば、ドリーミーなディスコをインターネットに流布することで世界への接続を望むとは、なんと素朴で純粋な夢だったことだろう。それは言わば、インターネット・インディにおける表の世界といったところだ。
裏の世界に蔓延っていたのは、チルウェイヴにおける一部の成功者に対する逆恨みのような嫉妬である(少なくとも僕はそう推測している)。実際、この微小ジャンルにおける首謀者のひとり、通称ヴェクトロイド(LASERDISC VISIONS a.k.a MACINTOSH PLUS a.k.a情報デスクVIRTUAL a.k.a FUJI GRID TV a.k.a ESC不在a.k.a Sacred Tapestry a.k.a ......、『Tiny Mix Tapes』はそれを「偽造されたオンライン・コミュニティ」と呼んだ)は、元を辿れば一介のチルウェイヴァーだったことで知られている。
そして、すでに削除されている某作に引用された「スーパー・チャンスが溢れてる(時代はスーパーだ!)」という、おそらくはその意味を理解しないままサンプリングされていた広告のコピーは、結果的にはチルウェイヴの成功者たちへのアイロニーにも聴こえたわけだが、現実はさらに皮肉めいていて、「誰でもミュージシャンになれる」というこの時代ならではの希望に対するアイロニーだったはずのこのトラッシーなサンプリング・ミュージックは、むしろ「本当に」誰しもをミュージシャンにしてしまったのだった(暇な人はどうぞ→https://bandcamp.com/tag/vaporwave)。
こうなってくると、さすがにもう終わりだろう。いや......、間違いなくそれは終わった。iTunesに降り積もっていく一度聴くか聴かないか程度のフリーダウンロードを前にウンザリもする、そんな後遺症に悩まされているのは、きっと僕だけではあるまい。あとには、間延びした惰性だけが残る。それだけの話だ。
だが、そんなヴェイパーウェイヴの最終章に彗星のようにキラッと現れたのが、このセイント・ペプシだった。コピペとしてのサンプリング、とりあえずのスクリュー、謎めいた日本への関心、それら「芸」として蒸着されたヴェイパー・マナーを踏襲しつつも、R&Bやソウル、シンセ・ファンク、そしてディスコと、2013年だけでも10近い矢継ぎ早なリリース群のなかに、おそらくはヴェイパーウェイヴからもっとも遠く離れた世界の、言わば魂の音楽が注入(ないし略奪)されている(彼はそれをVaporboogieと呼ぶ)。
そしてなんと言ってもこれ、『Hit Vibes』は、インターネット世代による仮想のミラーボールとなった。ここに連れ出されているディスコとは、おそらくはチルウェイヴの原風景であり、仮想敵としてのミュージシャンシップ、その象徴でもあるのだろう。もし、最高のディスコ・バンドを自分の手で組めたら? もしくは、最高のアーバン・ポップの作家に自分の才能だけでなれたら? セイント・ペプシは、そのような夢をアイロニカルに叶えることによって、むしろその続きを永遠に見続けることを選んだのだろう。
変な話、これを作ったのが神戸のDJニュータウンなんかだったら面白かったのに、とも思ってしまったが、ここに並べられたディスコはそれくらい、シニカルで、際どい場所に立ちながら、それでもなお(図々しくも)ポップを夢想している。そう、ゴミは、ゴミでなくなりつつある。が、その先に何が待っているのかを、僕たちはまだ知る由もない。
ともかくこれは、すべての音楽をクリエイティヴ・コモンズ化しなければ本来は成立し得ない夢だ。だが、それは実際に鳴っている、このグレーな場所で。ダフト・パンクの新作『Random Access Memories』が、本当に夢を「実現してしまった」音楽だったとしたら、セイント・ペプシは悪い夢でも見ているのだろう。だが、、、夢は、実現するよりももう一度見る方がいい。『Hit Vibes』は、音楽とインターネットへの愛憎で引き裂かれた2013年におけるカルトだ。
『テラ(大地)』だからといって、『メア(雄馬)』だからといって、『バッファロー・ソングス』だからといって、ジュリアン・リンチに自然崇拝や大地讃賞のモチーフなんてあるだろうか? もし彼にインタヴューする機会があったらまずは訊いてみたい。あなたはサバンナの土を蹴り、オーロラを眺め、密林を、砂丘を、流氷の上を歩き、動物と戯れたりしたいと思いますか......。「そんなことはない」という筋書きになってほしいというのが、筆者の彼の音楽に寄せる解釈であり勝手に寄せている親しみの情である。
アーシーだなどとは言いようもない、むしろ土から足の離れた人間がやわらかい壁に四方を囲まれながら思いめぐらせる自然。あるいは杉本博司の『ジオラマ』シリーズのように、世界の「真実らしさ」にはひらかれない視線。彼の動物はミニチュアか、神話の挿絵のような顔をしている。あるいは今作のジャケットのように、びりびりに裂かれている。そうした地点に彼のベッドルームはあり、彼のサイケデリアは花ひらいている。大学で民俗音楽を学んでいたというのも、なにもポンチョを着てケーナを吹きたかったというわけでないことは明白だ。
リアル・エステイトにもタイタス・アンドロニカスにも在籍していたシーンきっての才人、ジュリアン・リンチ。若いながらも幅のある表現、「フォーク」をめぐるほとんどライフ・ワーク的ともいえる研究・実験、そこにきちんと音楽的な洗練を加えられる卓越したセンス、などなど挙げきれない美点によってほんの数年の間にアーティストもメディアも一目置かざるを得ない存在になっている。ブルックリンから出てこなかったダーティ・プロジェクターズ......ニュージャージーが生んだフォーキー・エクスペリメンタルの巨才とも言えるだろう。そこにはリアル・エステイト/マシュー・モンダニルのベッドルーム・サイケ(2000年代USインディ・ロックの知性の粋だ)も、タイタス・アンドロニカスの歌心やエネルギーも隠されている。
クラリネットやバス・クラリネットの重奏のように聴こえる柔らかいアンサンブルが、この2年ぶりのフル・アルバム『ラインズ』の基調をなしている。リヴァーブ使いのインフレが止まらなかったこの10年、何がそれを代替してくれるのか楽しみに見守っていたのだが、なるほど木管楽器はブレイクスルーかもしれない。残響感がドリーム・ポップを保証する時代は終わりかけているが、リンチの今作の音作りはそのオルタナティヴとして、新鮮なプロダクションとフィーリングを引き出している。
"ホース・チェスナット"などにおいてはサックスが馬の声のようにあしらわれるが、これも重奏の整合感をバラしながら自然に現れてくるもので、これみよがしなところがなく、じつに心地よい。ジャンベか何かのようなパーカッションが軽やかにリズムを刻み、アコースティック・ギターのたゆたうようなストロークが心地よく添えられるのも今作の特徴だ。ダックテイルズのUS版「終わりなき日常」的な覚醒と夢幻のギター・セッションを思わせる。ヒプナゴジックなインプロヴィゼーションとしてとくに前半の流れには水際立ったものがある。本当にどれも隙なく素晴らしいのだが、この流れが頂点を迎えるのは"Carios Kelleyi I"だろうか。彼の音の来し方行く末を美しい線のように描き出している。
かつて『ピッチフォーク』誌上の企画で、リンチはマイケル・ハーレーからの影響を詳らかにしていた。ひところ無調無拍の不定形な音楽性に浸かっていた彼に「まさか自分が再び"ソング"を作るようになるなんて思わなかった」と言わしめ、いまの音に向かわせたのが、マイケル・ハーレーによるファースト・ソロ・アルバム『ファースト・ソングス』(1965年)であったという。狼男のイラスト・ジャケが有名だが、画家としてもファンの多いこのアヴァン・フォークの生ける伝説が、リンチの導きの糸となったというのは素敵な話だ。彼もまた、アシッディでアウトサイダー的でありながらも、フォークにしかめ面をさせなかった音楽家であったから。
リンチの音楽は、実験性を折込みつつも関節やわらかく、隅々まで音楽している。こうした彼の呼吸のなかに自然があるのであって、大自然のなかにそれが見つかるわけではない。ベッドルームの自然にわれわれは注意を払わなさ過ぎる。
中原昌也、浅野忠信、FourColor、ダエン、そしてDJにMichitoki KTを迎える福岡の電子音楽フェス〈ex〉が8月2日に開催される。
主催するのは、福岡を拠点に「アンビエントの自己解釈」というコセンプトでカセット主体のリリースを展開している〈ダエン〉。これまでに白石隆之、RIOWARAI、NYANTORA、MERZBOW、YOSHIMI(ボアダムズ)ら電子音楽家のカセット音源を手掛けてきた一方で、USB対応のポータブルのカセット・プレーヤー「CHILL OUT」をリリースするなど、オンライン時代のアナログ・メディアの楽しみ方を包括的にサポートしてくれるレーベルだ。
電子音楽というジャンルに良質な音楽が存在することをひとりでも多くの人に知ってもらいたい――このイヴェントをはじめるきっかけは? との問いに、主宰のダエン氏が答えてくれた。
「ジャンルは違うんですが、〈山形国際ドキュメンタリー映画祭〉のような。ドキュメンタリー映画の聖地といえば"YAMAGATA"と認知されているように、電子音楽の聖地といえば"FUKUOKA"と認知されるように取り組んで行きたいです」
なかなか大きく、そして夢のある目標だ。そしてこの目標とは一見矛盾するようだが、彼らは「大きくなる」ことを望んでいない。次に掲げるのは彼らのイヴェント運営理念だが、じつにいまらしく、クリティカルなポイントを突いている。
「ご来場いただいたお客様に対して、痒いところに手が届くようなきめ細かいサービスを目指しています......と書くと少し堅苦しいですが、ひとりでも多くのお客様に楽しんでいただくために次の事項を遂行します。
1. 出演アーティストは4組前後。今回は限定150人とかなり小規模なフェスです(出演者を厳選することで22:00過ぎにはイヴェントを終了させる予定です。終電前には帰宅できるので明日の学校や仕事に備えてください)
2. 1フロアで行うのでお客様がステージ間を移動することもありません。もちろんトイレ休憩有です(快適な状態で鑑賞なさってください)。
3. すべての時間を圧縮することで、短時間に濃縮された各アーティストのパフォーマンスを堪能できます(皆さまの大事な時間をいただき、拘束する以上、量より質を追求していきたいです)。」
ここには、規模の拡大によって失われてしまうものへの、細かな配慮が働いている。かたちはまるで異なれど、〈月刊ウォンブ!〉とも通じる、現在形のイヴェント運営をめぐるリアリティと挑戦が見えてこないだろうか(https://www.ele-king.net/interviews/003001/)。
「このイヴェントに関して、少人数のスタッフで運営していくというスタンスは変えないつもりです。毎年動員数を右肩上がりに増やす方向ではなく動員数が常時200~300人の規模で、できるだけ長く続けていきたいと考えております」
小規模で、質を守り、長く続ける。かくも明確に打ち出されたコンセプトには、先の10年を牽引してきた大規模イヴェントへの2013年からの回答とも呼ぶべき視点が感じられる。「帰宅」を保証することで、非日常ではなく日常と折り合うスタイルを模索するかのような姿勢にも、いまでこその批評性が働いていると言えるだろう。
「今回開催する〈アクロス福岡円形ホール〉という場所は、福岡市の公共施設で、"天神"という九州有数の繁華街のなかに位置します。会場の目の前には天神中央公園という市民の憩いの場があり、ちょっと歩くと遅くまで営業している屋台やラーメン屋なども見つかります。昼間でしたらアート系のギャラリーや、こだわりを持ったセレクト・ショップなども多数開いていますので、県外から来られた方は、これを機会にぜひ福岡の街も散策されてみてはいかがでしょうか」
東京から気軽に参加というわけにはいかないが、未来の電子音楽の街"FUKUOKA"に期待したい。
「招聘したいアーティストが数多くいるので、来年以降は2日間にわたっての開催を検討しております。それには今回のイヴェントに皆さまご来場いただかないことには計画が計画で終わってしまいますので(笑)、ご来場を心よりお待ちしております! 今後このイヴェントが皆さまにとっての大事な行事になりますよう祈りつつ」
■日時
2013.8.2 (fri) OPEN 18:30 START 19:00
■場所
アクロス福岡円形ホール(福岡市中央区天神1-1-1)
■料金 ADV/3800 DAY/4300
■TICKET
e+
enduenn@gmail.com
*チケット購入希望の方は件名にex-fesと書いて住所・氏名・枚数をお教えください。
■公式サイト
https://exfes.tumblr.com/
■アーティスト情報
ASANO TADANOBU
73年生まれ、横浜出身。映画を中心に国内外問わず数多くの作品に出演し日本を代表する国際的俳優。同時に、溢れるイマジネーションを形にするアーティストでもある。監督作品に、DVD「TORI(トーリー)」の他、ドローイング・ペインティングの展示から作品集の出版等、ハードコアバンドsafariやPEACE PILLの活動、Tシャツ・デザイン、ソロアルバム"CRY&LAUGH"では10年以上前から書きためてきた曲から、21曲をアコースティックギターとマイク1本で収録する等、溢れるイマジネーションを自由に表現している。ここ数年はダンストラックを制作。コンパクトなシーケンサーをリアルタイムで操作し極限まで研ぎ澄まされたミニマルなテクノをフロアに響かせる。その唯一無二なパフォーマンスはクラブ、野外イベント、レセプションなど幅広い分野から絶賛・注目を集めている。
中原昌也
小説、映画評論など文筆活動の傍らで前世紀末より継続されている中原昌也による音楽プロジェクト。テーブル上にぎっしり並べられた夥しい量の機材(発振器、エフェクター、サンプラー、リズムマシン、アナログシンセetc)を同時にあやつる剛胆さと聴衆の前に提示されるその音の複雑さ/繊細さにより、行為としての即興演奏を更新し続けるヘア・スタイリスティックスのありかたは、ノイズ・ミュージックの文脈のみならず多分野からの注目を集め、熱心なリスナーを獲得している。boidからの月刊ヘアスタや自主制作100枚シリーズなど、Hair Stylisticsとしてのリリース作品はきわめて多数。
FourColor
FilFla、Vegpher、Minamoの名義でも活動するサウンドアーティスト/コンポーザー杉本佳一によるソロプロジェクト。調和不調和、曖昧と明瞭、デジタルとアナログ、必然と偶然、これら相反する物を同次元で扱う事でユニークな音楽を生み出す事を目指している。杉本の作品はニューヨークの「12k」をはじめ、ドイツ「TOMLAB」、日本の「HEADZ」など国内外の音楽レーベルから発表されており、英「THE WIRE」誌ベ スト・エレクトロニカ・アルバムに選出されるなど、海外での評価も非常に高い。また、数多くの映画/映像、演劇、エキシビジョンへの楽曲提供・制作や、CMをはじめとする広告音楽を手掛け、担当作品がカンヌ映画祭・監督週間「若い視点賞」、フランス・エクスアンプロヴァンス映画祭「オリジナル映画音楽部門賞」を受賞するなどの実績も残している。
最新作は2011年12kレーベルより発表した「As Pleat」。
https://www.frolicfon.com/
https://vimeo.com/27304187
ダエン
福岡を拠点に「アンビエントの自己解釈」というコセンプトでカセット主体のリリースを展開している「ダエンレーベル」主宰。これまでに白石隆之、RIOWARAI、koji nakamura a.k.a NYANTORA、MERZBOW、YOSHIMI(ボアダムズ)らのカセット音源のリリースを手掛ける。自身の制作及びLIVE演奏ではROLAND SP-404一台というミニマムな環境でどこまで表現できるかを追及している。エキソニモ主宰IDPW正会員。
Michitoki KT
道斎(みちとき)KT。実験ターンテーブリスト。数台のターンテーブルを楽器として用い、「音と空間のコラージュ」という自身の奏法を追究し続ける。2013年6月duenn labelよりリリースのsuzukiiiiiiiiii×youpy/dnn012にリミキサーとして参加(Canooooopy・NH-Trio+・Yaporigami)。
■主宰・問い合わせ
duennlabel (enduenn@gmail.com)
PS. exではイベントの趣旨に賛同頂き文化的な活動に関心及び既に取り組まれてる企業様や団体(個人でも可)様の協賛を常時募集しております。詳しくはenduenn@gmail.comまでご連絡下さい。宜しくお願い致します。
duennlabel
今週の木曜日、7月11日は、代官山ユニットへ行こう。踊ってばかりの国、新ベーシストの通称シド・ヴィシャス加入後の、公式では最初のワンマン・ライヴだ。会場に行って、歴史的なライヴを目撃したことを友だちに自慢しよう。日本にもストーン・ローゼズに負けないくらい最高のチンピラ・バンドがいるってことを知ろう。名曲「踊ってはいけない」で踊ろう。自慢の新曲「東京」がどれほどのものかしっかり聴こう。下津光史を大笑いしてあげよう。ステージでビールを飲ませるな。会場内で、ele-kingも物販やります! たのむから買ってください。
https://odottebakarinokuni.com
代官山Unit
OPEN : 18:30
START : 19:30
CHARGE : ADV 2,500yen (ドリンク代別)
今月の24日、結成20周年を祝する編集盤『ReDiscoVer. Best, Re-recordings and Remixes of Buffalo Daughter』のリリースを控えたバッファロー・ドーター、アルバムのなかでもとくに注目曲のひとつ(というか、最大の注目曲)、KAKATO (環ROY×鎮座DOPENESS) のラップを加えた"New Rock"のセッション風景の動画がアップされました。格好いいですよ。
なにせスタジオは、エンジニアを担当するzAkのホームスタジオ"ST-ROBO"、ドラマーはZAZEN BOYSのメンバーであり、長年バッファロー・ドーターのライヴ・サポートをつとめている松下敦。どうぞ!
「 KAKATO Freestyle 3 with Buffalo Daughter」
疑う余地もなく今月もっともホットなLAからの2リリースが到着。
会うたびにいろんな意味で目ツキがヤバくなっている気がしなくもないアレックス・グレイ(Alex Grey)はLAのアンビエント・ハウス(紙ele-king参照)の住人のなかでもっともお調子者キャラを炸裂させている。彼もプレイするサン・アロー・バンド(Sun Araw Band)でお馴染みのキャメロン・スタローンズ(Cameron Stallones)のニタニタ笑い、猫背、マシンガン・トークも強烈だがアレックスのヘラヘラ笑い、常時ハイテンション、マシンガン・トークも強烈である。サン・アローはサウンドのみならずクレイジーなバンドであると断言しよう。
アレックスほど数々の名義で活動するアーティストも珍しい。三田氏が大絶賛する彼の最新プロジェクト、DJパープル・イメージはフィールド・レコーディング、サンプリング、ソフトウェア・シンセジスをコラージュする実験音楽だ。ディープ・マジック(Deep Magic)のオーガニック・アンビエント、ヒート・ウェーヴ(Heat Wave)での妙チクリンなヒップホップ・トラックにも共通する彼の作風、潔く迷いが無いシンプルな構成はDPIにおいてもっとも輝きを放っている気がしてならないのだ。
同居人であるショーン・マッカンやマシュー・サリヴァンたちの影響によるミュージック・コンクレートへの傾倒がDPIの動機になったであろうことは明らかであり、ゆえに僕はクリエイティヴ・コミューンの素晴らしさを見いだしてしまうのだ。
でもエスプレッソ・ディジタルって......。
そもそもアレックスやキャメロンのサン・アロー、キャメロンとゲドのダピー・ガン、マシューデイヴィッドやディーバたちに強く結ばれる熱きLA愛は地元に広く受け入れられているようだ。〈ダブラブ〉と〈ロー・エンド〉、それからストーンズ・スローも巻き込み、拡大を続けている。僕には彼らの音楽遍歴において何度めかの大きな波が押し寄せていることを確信している。
マシューデイヴィッドの、彼自身の〈リーヴィング〉からひさびさのリリースとなる(『Disk II』以来?)は43分の長編アンビエント。
はっきり言おう。これは大作である。同じく完全なアンビエント作品であったエクヘインからのデスティンでのダークな世界観とは真逆の、終始多幸感に満ち満ちたメディカル・ウィード級ストーナビエント。ディーヴァ(元ポカホーンテッド)との昨年の素晴らしいセッションも収録。ビートメイカー、マシューとしても学生時代以来のラップを復活させネクスト・レヴェルに達したと同様、彼のアンビエント・サイドも新たな空間を得たようだ。木陰の下にハンモック、強烈なジョイントの煙の先にかくも遅く、美しい時間が流れてゆく......。
今年の上半期のベスト映画を訊かれたら、迷うことなくタヴィアーニ兄弟による『塀の中のジュリアス・シーザー』 だと僕は答える。イタリアの刑務所で囚人たちによって実際に行われている演劇実習を映画化した作品だが、それをドキュメンタリーにしようなどという普通の発想を兄弟監督はしなかった。刑務所内のあらゆる場所で、役者たち=囚人たち(終身刑の者もいる)がシェイクスピアの『ジュリアス・シーザー』を演じることで、刑務所がそのままローマ帝国となり、その舞台でこそ「物語」が進んでいく。彼らはそれぞれの訛りを使いながら、やがて、シェイクスピアの書いた人物たちの人生を生きていく......。つまり、「芸術はどこに存在するのか」という問いに対する、ひるむことのない回答である。
あるいは、ジェームズ・マンゴールドによるジョニー・キャッシュの伝記映画『ウォーク・ザ・ライン/君に続く道』(2005)での冒頭、有名なフォルサム刑務所でのライヴ・シーン。そこにはたしかに、キャッシュの歌の物語を自分たちのものとして必要としている囚人たちがいる。「ある朝目覚めてうろついて、コカインをキメて女を撃った」......。
ドーン・ギブソンは囚人でも元囚人でもない。ないが、まるで「彼ら」のようにカー・ラジオから聞こえるカントリーに心を奪われていたのではないか。なぜならギブソンは、アメリカの名もなきひとりの労働者......元トラック運転手だったからだ。ブルージーなロック・ミュージックに乗せて、おそろしく低い声でギブソンは歌う。「俺をおかしくしたのはあの一杯/この大麻は強烈だ("キッシン・オン・ザ・ブラックトップ")」......。男はカントリーのマナーに則って、社会が無視しようとする暗闇について語っていく。
昨年ひっそりとリリースされたデビュー作『オール・ヘル』のジャケットで鏡に映る自分の髭面と胸毛を明らかに誇示していたギブソンは、一見すると昔ながらのアメリカのマッチョな男の像を結びそうである。肉体労働によって培われた屈強な肉体を持った歌い手......だが、『オール・ヘル』が興味深い作品となっていたのは、ホリー・アザーやデムダイク・ステア、ブリアル......といったダークなエレクトロニック・ミュージックの影響をもう一極で強く受けていた点である。『タイニー・ミックス・テープス』のレヴューにつけられたタグは「クラウド・カントリー」。ブリアルからジョニー・キャッシュまでを繋いでいくのがギブソンの音楽的なアイデンティティであり、そしてそれらを結びつけるのは、紛れもなく闇に埋もれた世界、その場景描写である。
『ミー・モーン(俺の呻き)』は〈サブ・ポップ〉と契約した彼の2作目で、たとえば先んじて公開された収録曲"ユー・ドント・フェイド"などに彼らしさをまずは見出せるだろう。不穏なサンプリング・ヴォイスのループと重々しいビート、そして何よりも、イアン・カーティス風に官能的に響くパワフルなバリトン・ヴォイス。ただ、アルバム全体で言えば『オール・ヘル』ほどサンプリングが多用されているわけではなく、バンド・サウンドが軸となり、よりソングライター的な側面が前に出た印象だ。ソロ・アーティストのキャリアの重ね方としては順当なところだろう。だが同時に、よく聴けば生音の響きが肉感的になったサウンドのなかで、ムーディなシンセが今様のエレクトロニック・ミュージックの浮遊感を生んでいる。これはインターネット以降のアメリカのアンダーグラウンド・シーンの動きと無関係ではないだろう......カントリーに思い入れたトラック運転手がウィッチ・ハウスに出会っているのだから。その交配が生んだ、新たな姿のカントリー・ミュージックがここにはある。
ギブソンが描く物語の多くはフィクショナルだが、しかしこれは彼がアメリカの長大な道路を行き来しながら実際に見聞きした世界とそう遠くないものだろう。ウィッチ・ハウスからの影響がたしかに感じられる"ファントム・ライダー"で歌われる悪夢的な光景や、穏やかなバラード"フランコ"で歌われる息子の自殺。ドラッグに退廃、貧困と悲哀、疲弊していく日々、先の見えない愛。「終わることのない俺の土曜日/もうどうでもいい、俺が過去に犯した失敗なんて/すべてが休日 "オール・マイ・デイズ・オフ"」、「幸運の反対側にある俺の人生/記憶の紐を解くなんて無理な気がする/酔って紛らわしたくはないけど、昨日の件はやり切れない "イントゥ・ザ・シー"」......。かつてのスプリングスティーン的な、ブルーカラーの美しいメロドラマすらここにはない。
「俺の呻き」はギブソンそのひとのものというよりは、暗い日々を生きる顔のない人びとの口から漏れた吐息の集積であるだろう。光は簡単に感じられない。しかし......そう、『塀の中のジュリアス・シーザー』において終身刑の囚人が告白する、牢獄のなかで芸術を「知ってしまった」ことの苦しみは同時に彼の魂の解放を示しているように、ドーン・ギブソンの歌の世界では暗闇のなかでエルヴィス・プレスリーとブリアルとジョニー・キャッシュとホリー・アザーと......それからジョイ・ディヴィジョンが集まり、その埋もれた感情に生きる場所を与えていくようだ。そこでうめき声の主たちは、その重苦しい心が少しばかり解放されることだろう。
1984年生まれの新進気鋭、三宅唱が監督した35ミリのモノクローム、映画『Playback』と、stillichimiyaのMMMが監督した田我流とEVISBEATSのメロウ・アンセム"ゆれる"のミュージック・ヴィデオが、いずれも2011年の6月ごろに、つまりあの震災の発生からそう間を置かないタイミングで撮影されているというのは、偶然とはいえ興味深い、そして重要な事実だと思う。
当時、いまだ収まることを知らない余震が、非・被災圏に残された平穏を脅かしつつも、どうしたって心のどこかではその回復を覚悟するほかなかった、あの日常という怪物の足音を遠くに感じながら、しかし彼らは堂々と日常を、そしてその総和である「人生」を描いている。そう、震災のわずか数ヶ月後に。少なくとも、前もって計画されていたそれらの撮影を、彼らはそのまま決行した。あるいは、それを取り戻すために。
MMMは、「何も起こらない一日」のなかで揺れるひとりのラッパーを。三宅唱は、「ありえたかもしれないもうひとつの人生」という深い溝に落ちたひとりの俳優を、撮った。ラッパーは「揺れる」という深く傷ついた言葉をあえて拾い、俳優は地震で砕かれたアスファルトの上でスケートボードを蹴る。そこには、他者の苦痛へのまなざしが挿入されながらも、いま引き受けなければならない己の人生への普遍的な問いがあった。
では、2013年、僕らはどんな歌に、音楽に、映像に出会うのだろうか。
タングステン・ヒューズは、あの震災になにか巨大な影響を受けたことを認めながら、しかし実際的にはなんら致死的な影響を被ることなく続く自らの人生に潜り、さらにはリスナーの人生に――それが言い過ぎなら、何かしらの決断の前のちょっとした感情の揺れに――少しでも音楽の、そして言葉の波紋を届けようとしているように思える(歌詞カードは言葉で溢れ返っている)。
それがポップの普遍性なのか、はたまたある種の不感症なのかは、聴いた人がそれぞれ判断すればいい。だが例えば、バレアリックな美しい光沢のなかで夢の終わりを歌う"ストレリチア"のような曲が、ともすれば野暮ったくなりそうな過量の言葉を擁しつつも(それはラップとポエトリーリーディングの交差点から発せられる、とてもフラットなフロウで)、シンセを纏ったダンス・ビートがその光沢を失わないとすれば、そこにいま、人生を歌うことの後ろめたさが感じられるからだろう。
彼ら自身も、おそらくは分かっているのだ。もっと大きな物事にコメントする選択だって、あり得るのだということを。そしてそれが、いま、絶好のフックになるということも。
タングステン・ヒューズは、しかし、それでも内に向かう。社会の存在は言葉の枠外に留保されたまま。偽悪的に言うなら、随所に登場する「闇」や「光」といったごく一般的で、抽象的な語彙が、リスナーの内にめり込んでいくような暴力的なまでの重量を得ているかと言えば、そこに疑問符を付されるのを完全には免れないだろう。だが、震災そのものではなく、その何かしらの反映を人間のなかに見出そうとするような言葉の捜索は、自身らのキャリアに対する誠実さの賜物なのだと思う。
ドラスティックな変化を施したのはむしろトラックの方で、これまでのノイジーなミニマル・ロックのプロダクションはほぼ全面的に撤回され、マシン・ビートと電子音で滑らかにシンセサイズドされている。それは何かを我慢するように、整然と鳴っている。(彼ら自身はポスト・ロックを標榜しているようだが、媒体によっては「ラウド/パンク」とか「ブレイクビーツ/テクノ」とか「アンビエント・パンク」などと称されており、すでにその枠は無効だろう。)
僕は互いに喧嘩し合うような、どうにも相反する複数の立場が混在している表現が好きだが、藤原伸哉の作るトラックと西垣朗太の発する言葉がいい意味で掛け違いになっているところにこのデュオのポテンシャルがある気がする。前述の"ストレリチア"や、"100匹目の猿"といった曲の透明度の高いダンス・トラックは、それらのギャップをさらに広く取ることに成功していると思う。
だが......いや、だからこそ、先に述べたような語彙の細かい選択が、個人的には惜しい。ストレリチアの花言葉は「輝かしい未来」らしいが、文学的なスペーシングよりは、リスナーの平常心とぶつかり合うような、一線を踏み越えた緊張度の高い言葉を聞きたかった。向光性の精神は頼もしいが、シリアスな物言いがメランコリックな雰囲気のなかで差し出されると、僕はやはり身構えてしまう。きっとこのデュオはもっと美しく壊れられる。