「Nothing」と一致するもの

Tropic Of Cancer - ele-king

 平日の深夜、いったい何が起きたのだろう、僕は都内のゲイバーに橋元といた。壁には四谷シモンと金子國義の絵が見える、反対側には、そのバーを訪れた世界中のクイーンが残していった紙幣が貼り付けられている。テーブルには『ベニスの死す』のサントラと演歌のCD……。外見は男性だが内面は女性のママさんは、グラスを傾けながら、我々に向かって、パリのモンマルトルのことを話した。ボヘミアニズムの大いなる故郷に生きる娼婦や男娼たちの話だ。
 『北回帰線』(1934年)、原題「Tropic Of Cancer」は、ヘンリ・ミラーのもっとも有名な小説だが、僕はまだ読んだことがない。が、もっとも有名な小説なので、それがパリで書かれた退廃的で淫靡で性的な内容をもっていることは知っている。貧困と放蕩とセックス三昧は、ある意味では古典的なロマンティシズムに思えるが、トロピック・オブ・キャンサーの、「アイ・フィール・ナッシング(私は何も感じない)EP」に続く『レストレス・アイディル(不穏な田園生活)』なるデビュー・アルバムは、いままさにその名の由来への忠誠を示すかのように、暗いロマンティシズムをぶちまける。
 ゴシック/インダストリアルの拠点として一貫した美学を貫いているロンドンの〈ブラッケスト・エヴァー・ブラック(BEB)〉は、今年、精力的なリリースを展開している。そのなかには元SPKのメンバーでもあった、ラストモード名義で知られるブライアン・ウィリアムズのアルバム『ザ・ワード・アズ・パワー』も含まれている。屠殺場でのフィールド・レコーディングとチベットの呪文とのおぞましい混合や聴覚を脅かすような低周波数の実験で知られるダーク・アンビエントの先駆者だが、彼のような過剰だった先人が〈BEB〉のようなクラブ系のレーベルから作品を出すことは個人的には面白いと思う。
 まあ何にせよ、〈BEB〉は、もっとも暗い、もっとも悲観的な思いに陶酔しきっているのだ。さあ、この暗さを楽しもう。そんなレーベル側の思いが伝わってくる。トロピック・オブ・キャンサーはロサンジェルスだが、レイムと並んでレーベルにの顔でもあるので、これは待望の1枚目なのである。

 音的なことを言えば、これはニュー・インダストリアル時代のジョイ・ディヴィジョンに喩えられるかもしれない。もともと〈ダウンワーズ〉という老舗のテクノ・レーベルから作品を出しているのでエレクトロニックな要素はある。電子ドラムはクラウトロックの系譜で、淡々とリズムを反復する。ギターは美しい旋律を爪弾き、歌は深いエフェクトのなかで霧となって消えていく。なるほど、ジョイ・ディヴィジョンとコクトー・ツインズを目一杯スクリューしたようなこの感覚は、古典的な暗いロマンティシズムを新鮮なものにする。レイムほどの斬新さはないが、メロディは悪くはない。ハウスのハッピーなノリへの反発心の表れだとしても、クラブ・カルチャーを通過している分、解放感があっていい。ヘンリ・ミラーからの引用も、何か仰々しい思いがあるようには感じないけれど、訴えたい感情はあるはず。さもなければ、真のクラブ・カルチャーたるもの、どうせイクならここまでイケということか。しかし、夜更かした翌朝は、本気でつらいから困ったものである。

「いまさらきけないSEAPUNK & Vaporwave」 - ele-king

 ソーシャルTV局こと2.5Dと『ele-king』が、音楽好きなベッドルーマーたちへ贈る季刊音楽情報&トーク番組、「10代からのエレキング!」が今週金曜2.5Dに登場!
 その名のとおりヤングな皆さんとともに、気になるアーティスト、気になる作品、気になるシーンについて考える番組です。DJタイムを楽しみながら、『ele-king』を片手に、さまざまなゲストやライター陣とお話しましょう。

 第一回目のテーマは、熟読ele-king! 「いまさらきけないSEAPUNK & Vaporwave」ゲストに〈maltine records〉主宰tomad氏と、Hi-Hi-Whoopeeの管理人ことハイハイさんを迎え、新刊『ele-king vol.11』の特集記事を解きほぐす座談会です。特集の焦点となる「SEAPUNK」や「Vaporwave」というキーワードをわかりやすく解説しながら、この謎多きインディ・ムーヴメントについて探っていきましょう。

 今回は、ゲストを含めた真剣Vapor世代がしゃべり場スタイルで激討論! みなさん、どうぞツイッターなどでツッコミいれてやってくださいね! 

 また、redocompass、tomad両氏によるDJタイムもお聴き逃しなく! DJを挟む前後半2部スタイルで、夏期~秋期話題盤をめぐる話題とテーマ・トークをじっくりとお楽しみください。

2.5Dはこちらから■ 


■ele-king×2.5D「10代からのエレキング!」

出演:
中村義響、 竹内正太郎、 斎藤辰也、 橋元優歩、 ちゃんもも◎、 redcompass、 tomad、 ハイハイさん(スカイプ出演)
内容:TALK&DJ
時間:OPEN 19:30 /START 20:00/END 23:00
観覧料:¥1,500
場所:2.5D(PARCO part1 6F)
配信URL:https://2-5-d.jp/livestream/

DJ
redcompass、tomad

第一部
「シーズン&トレンド」
出演:中村義響、redcompass、ハイハイさん
司会:橋元優歩
春期~夏期リリースの重要作を、スピーカー1人1枚全力レヴュー。そのなかからトピックを抽出してクロストーク!

第二部
「いまさらきけないSEAPUNK & Vaporwave」
出演:竹内正太郎、斎藤辰也、ちゃんもも◎、redcompass、tomad
司会:橋元優歩、中村義響
しゃべり場スタイルで激討論!

※放送内容は予定です


Julianna Barwick - ele-king

「エイフェックス・ツインも『ミュージック・フォー・エアポート』も好き。でも、だからといってアンビエント・ミュージックのファンというわけではないの」「わたしはヴォーカル・ミュージックが好き。ドレイクをとてもよく聴くって言ったら、みんな驚くんじゃないかしら」(参照 https://pitchfork.com/features/update/9182-julianna-barwick/

 ジュリアナ・バーウィックの音の背景には、もちろんさまざまな音楽の系譜と歴史が連なっているが、そんなことはこの「ヴォーカル・ミュージックが好き」の一言のもとにすべて溶け合わされてしまう。2006年のデビュー作から、一貫して自身の声とループ・ペダルのみで曲を生むというミニマルなスタイルを崩さない彼女は、人の声というものの持つ情報量に対して並ならぬ感度を持っているのだろう。ひょっとすると、会話などよりも、声やその波長からのほうがより正確に相手のことを理解できるのかもしれない。「ヴォーカル・ミュージック」とはおそらく彼女にとって人そのものであり、感情そのもの。その一点で、彼女のなかにジャンルの概念はほとんど意味をなしていない(とはいえ、一方でジャンルの概念の必要性を理解し、そうした自身の性質を対象化してもいるところが彼女のクールなところなのだが)。

 よって、声が好きといっても、バーウィックの音楽は声をフェティッシュに彫琢したりするものではない。声は素材ではなく、声になったときにすでに完成しているものだ、という思いがあるのではないだろうか。それは、ある感情が身体を離れるときの副産物とも言えるかもしれない。痛みにああと声を上げるとき、感動にああと声を漏らすとき、感情にはやっと出口が与えられる。もし声がなかったら、その気持ちをたえることができるだろうか。声は感情の分身であり、バーウィックはその出口が与えられた分身が飛んでゆくべき場所を指し示してやるだけ。彼女の作品において、音はそのように音楽になる。

 『サングイン』『フロライン』『ザ・マジック・プレイス』、2枚の美しいアルバムとEPのあとには、イクエ・モリとの『ジュリアナ・バーウィック&イクエ・モリ』とヘラド・ネグロとの『ビリーヴ・ユー・ミー』(オンブル名義)が続いた。前者は〈リヴェンジ〉の実験的なコラボ・プロジェクト・シリーズの一作として、後者は〈アスマティック・キティ〉からのパーソナルでカジュアルな歌ものプロジェクトとしてリリースされたが、こうした関わりのなかで、バーウィックは彼女のなかの実験音楽的な側面と歌うたいとしての側面を自然なかたちで伸ばしていった。小節線のないスタイルがバーウィックの曲のひとつの特徴だが、今作には、“ワン・ハーフ”のような歌曲としての拍子とフレーズを持ったトラックに存在感がある。“ルック・イントゥ・ユア・オウン・マインド”など、ピアノを含めた弦楽器がフィーチャーされている曲も増えた。

 とくにこのトラックにおいて増幅されたバスが果たす役割は大きい。オーヴァー・コンプ気味な音像は、大きくて黒い影のように、天をゆくコーラスに地を与え、重力を与えている。“ピリック”でもピアノとコントラバスによって重みが加えられており、バーウィックにはめずらしく、それらの旋律によって声たちに方向づけと色づけがなされている。鳥の群れを先導する鯨、といった印象。ふわふわと和音をなす声の層は、今作では翳りと重力によって、地面の影響を受けている。光ばかりだった彼女の音楽には、地面と海と風が与えられた。創世だ。
アルバム・タイトルともなっているネーペンテースとはウツボカズラのこと。古代ギリシャ人はこれを悲しみや苦痛を忘れさせる薬になると考えたという。なるほど、筆者が翳りと感じたものはこの悲しみや苦痛にあたるのだろう。しかし、この音楽を痛みを忘れるための麻薬や麻酔であるとは考えられない。いずれ癒えるべくして癒える痛みに寄り添い、暗がりから視界がひらけるところを示そうとしてくれる音だと筆者には感じられる。ここではないどこかや、あるいはあの世などに救いがあるのではない――今作に与えられた地面や海は今生の景色であり、現実のいろかたちをしており、バーウィックのささやかな創世はそのことを力強く、しかしやさしく示してくれる。“ザ・ハービンガー”のようなベタが『ネーペンテース』においてはあまりに心の琴線を揺さぶる。

 どうしよう、ポエムになってしまった。彼女については3つレヴューを書き、『ele-king vol.6』においてインタヴューも行っているので、こんな回もあることを許してください。ぜひそちらもご参照のほど。

 巷では新世代のインダストリアル・サウンドが拡大するなか、オリジナル・インダストリアルにも脚光が当たっている。こんな本も出ているし、〈ミュート〉はキャバレ・ヴォルテールのバックカタログを再発する。そして、11月には、インダストリアル・ファンのあいだでは長年愛され続けているスペインの巨匠、名前をイタリアの未来派詩人マリネッティの言葉から引用した筋金入りのインダストリル・グループ、エスプレンドー・ジオメトリコが来日する! 
 来日に合わせて、彼らの最新盤もリリースされる。その多くが限定発売のため入手困難となっているので、興味のある人は思い立ったら吉日でいこう。詳しくはココ→https://suezan.com/eg/

interview with Jun Miyake - ele-king


三宅純
Lost Memory Theatre act-1

Pヴァイン

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 三宅純はインターナショナルに活動しているパリ在住の日本人作曲家である。わりと最近では、2009年の寺山修司版『中国の不思議な役人』の音楽を担当して国内外で話題になった。昨年は、ドイツの高名な舞踏家、ピナ・バウシュを描いたヴィム・ベンダースの映画『Pina ピナ・バウシュ 踊り続けるいのち』にも楽曲を提供しているが、映像や彼女のパフォーマンスもさることながら、その音楽も国内外で賞賛されている(そういえば、1996年の大友克洋の『MEMORIES』にもフィーチャーされています)。
 近年欧米では、賛辞の意を込めて、現代のクルト・ワイル、新時代のギル・エヴァンス、未来のバート・バカラック……などと喩えられているが、こうした表現が正しいか否かはさておき、それが多彩な音楽(ジャズ、ボサノヴァ、エレクトロニカ、クラシック等々)がミックスされた魅力的なものであることはたしかだ。エレガントで静謐で、そしておおらかで、想像力を喚起する面白さがある。「記憶を喚起するような音楽」を主題とした新作『ロスト・メモリー・シアター-Act-1』には、とくにそうした魔法があるように感じる。一流の料理人が用意したご馳走であり、旅人の描いたオデッセイアの断片でもあり、美しいミュータント音楽でもある。 
 ゲストも豪華で、アート・リンゼイをはじめ、大御所デヴィッド・バーン、ピーター・シェラー(exアンビシャス・ラバーズ)、かつて〈4AD〉からの作品で一世を風靡したブルガリアン・ヴォイス、天才ベーシストのメルヴィン・ギブスなどなど……、それからなんとニナ・ハーゲンの名前まであるじゃないですか。

小学6年のときにチャーリー・パーカーとマイルス・デイビスを聴かされて、雷に打たれたようになりました。その和声感、リズムの躍動、即興で奏でられる旋律、すべてにスリルを覚え、自分のやりたいことはこれしかないと思いました。

『Lost Memory Theatre act-1』はとても美しい作品ですが、まず、「失われた記憶の劇場」という主題が興味深く思いました。ヴィム・ヴェンダースがライナーで言っているように、それは「心象風景」に関する音楽ということなのでしょうか? 

三宅純(MJ):ヴェンダースさんにはご自身が感じられた通りに書いて下さいとお願いしました 。僕は常々言葉で限定することで、リスナーの感性を制限するようなことはしたくないと思ってきました。コンセプトノートに書いたように、失われた記憶が流入する劇場が自分のために欲しかったのです。そして結果的に失われた記憶を喚起するような音楽を創れたら良いと思いました。

それは、郷愁という言葉にも置き換えられる感覚なのでしょうか?

MJ:むしろ単に懐古的にはしたくありませんでした。「過去はいつも新しく、未来はいつも懐かしい」という言葉が好きです。パーツを見ると層になった記憶の断片から作られているのに、全体として聴くといままで聴いたことがないものが出来上がったという風にしたかったのです。

「失われた記憶が流入する劇場があってもいい」という考えは、音楽がしうることのひとつを表していると思います。記憶を喚起する音楽、思い出すことを促すであろう音楽を今回お作りするにあたって、何を重視されましたか? 

MJ:僕個人の記憶を投影するのではなく、 失った記憶を呼び覚ますトリガーになるような音楽とはどんなものだろう? というのが大きな課題でした。言うのは簡単ですが、実現は極めて困難です。まだ語り尽くせていないと感じるのでシリーズ化するかもしれません、『act-2』の曲はすでに出揃っています。

三宅さんご自身のリスナー体験として、自らの記憶を刺激するような音楽というと何がありますか?

MJ:物心ついた時から音楽とともに生きて来たので、数限りない音楽 、そして風景や香りが、さまざまな記憶と結びついています。特定するつもりはありません。

ご自身の記憶の風景のなかで、いつか音楽の主題にしたいものがあれば教えてください。

MJ:脳裏に残る情景があったとしても、実際に音にするかどうか、そのときが来るまでわからないのです。僕にはいつか音にしたい「感情の備蓄」のようなものがありますが、風景の備蓄はそれに比べると少ないように思えます。

三宅さんとジャズとの出会い、トランペットとの出会いについて教えて下さい。日野皓正さんに憧れて、ジャズの入ったと聞いたことがありますが、ジャズのどんなところが三宅さんにとって魅力だったのでしょう?

MJ:小学6年のときにジャズ狂のお母さんを持つ友人宅で、チャーリー・パーカーとマイルス・デイビスを聴かされて、雷に打たれたようになりました。その和声感、リズムの躍動、即興で奏でられる旋律、すべてにスリルを覚え、自分のやりたいことはこれしか無いと思いました。当時はまだジャズは進化の途中でしたから、音楽の様式に惹かれたというよりも、日進月歩で進化する自由な魂に憧れたのだと思います。
 それから独学でやみくもに練習をはじめましたが、大学受験の時期に両親の反対にあって、日本でもっとも尊敬できるトランペッター日野皓正さんの門を叩き、彼に才能が無いと言われたらやめようと思ったのです。彼は僕を沼津の自宅に連れていってくれ、聴音の試験をし、奏法上の問題を指摘し、音楽家として生きる厳しさについて話をしてくれました。つまりやめろということだと思った時 、心配した母親から電話があって、日野さんはいきなり電話口で「お宅の息子さんはアメリカに行くことが決まりました」と宣言されたのです。大騒動になりました。

バークリー音楽院では学んだことで、いまでも大きな財産となっていることは何でしょう?

MJ:むしろ学校外の演奏活動で多くのことを学びました。学校では……良くも悪くも楽曲をシステマチックにアナライズすることでしょうか。

とくにアメリカではジャズの演奏家の層も厚いと思いますが、そういう競争率の高い、演奏能力の高い次元で活動することは、それなりのプレッシャーやストレスもあったと思うのですが、いかがでしょうか?

MJ:日々が他流試合の連続だったのでプレッシャーやストレスもあったと思いますが、そういう環境のなかで突出できないのなら、やる意味がないとも思っていました。

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日本は美しく愛すべき祖国ですが、地理的には残りの世界から隔絶していますし、文化的にも閉塞しています。僕は一定の国や文化に執着せずいつも浮遊していたい、自分の創作のためのコラボレーションの起点になりうる場所に身を置きたいたいと思うのです。


三宅純
Lost Memory Theatre act-1

Pヴァイン

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アート・リンゼイとは長いお付き合いになっているかと思いますが、彼との出会いについて教えて下さい。

MJ:89年頃プロデュースした作品のミックスをNYでしているときに、当時アンビシャスラヴァーズでアートのパートナーだったピーター・シェラーが隣のスタジオで仕事をしていて、話すうちに仲良くなり。アートにも紹介され、その後交流がはじまりました。彼らが初めて僕の作品に参加したのは93年の『星ノ玉ノ緒』で、ピーターもいまだ参加ミュージシャンの常連です。

彼のどんなところがお好きで、また、彼とはどんなところで気が合うのでしょうか? 

MJ:彼のなかには天使と悪魔が同居していて、そのふたりともがインテリで、壊れやすく、ユーモアに富んで います。 音楽のセンスは合うと思いますが、よく喧嘩もするので、気が合うと言えるのかなぁ……

アート・リンゼイもある種、自由人というか、エクレクティックというか、ひとつの型に固執しないタイプのミュージシャンという点では似ていると思います。三宅さんはジャズ出身ですが、クラシック音楽の要素もありますし、ブラジル音楽の要素も、キューバっぽいリズムや東洋の旋律もあります。どのような過程をもって、現在のようなハイブリッドな音楽に辿り着いたのでしょうか?

MJ:80年代のバブル期に創造的な広告制作の現場に携わった経験が、ハイブリッドな手法やセンスを磨いてくれました。 僕らは音楽様式が飽和した時代に生きているわけで、そんな時代に自分の『ヴォイス』を探し出すには、ハイブリッドな異種交配という手法がふさわしい気がしたのです。

“The World I Know ”はブリジット・フォンテーヌみたいだと思ったのですが、いかがでしょう?

MJ:全然意識していませんでした。ストリングスのバックトラックは アニメのサントラに書いたもので、そのスコアを活かして、全く別のリピートしないメロディを乗せてみようと思って作りました。

“Ich Bin Schon”はドイツ語ですが、何を歌っているのでしょう?

MJ:そんな時、Google translationは役に立ちます。ある程度。

『Lost Memory Theatre act-1』にはいろんな言語で歌われていますね。“White Rose”はロシア語ですか? 他に英語、日本語、フランス語、ポルトガル語の歌がありますね? 他にあるのはスワヒリ語ですか? 

MJ:White Rose”はブルガリア語です。後はスワヒリ語ではなく……シラブルだけで言語ではないものがあります。

こうした試みは何を意味しているのでしょう?

MJ:試みという意識はありませんでした。僕を取り巻く、この星の日常です。

広い意味での、ワールド・ミュージックというコンセプトは意識されましたか?

MJ:いいえ、僕を取り巻く、この星の、そして自分の脳内の日常です。

ちなみに“Calluna”の旋律はどこから来ているのでしょう?

MJ:え? 頭の中からです。

三宅さんにとってブラジル音楽、とくにボサノヴァにはどのような魅力を感じていますか?

MJ:人びとの暮らしの一部として音楽が存在している国から生まれた、メロディとハーモニーとリズムの関係性が素敵な音楽です。

アメリカで活動して、帰国したものの、2005年からはパリを拠点にしていますが、日本に居続けるよりは外に出た方が活動しやすいからですか? 

MJ:日本は美しく愛すべき祖国ですが、地理的には残りの世界から隔絶していますし、文化的にも閉塞しています。僕は一定の国や文化に執着せずいつも浮遊していたい、自分の創作のためのコラボレーションの起点になりうる場所に身を置きたいたいと思うのです。

ここ10年ぐらいはアンダーグランドなミュージシャンでも海外を拠点に活動している人たちが少なくありません。そういう人たちはたいてい実験的なことをやっていて、海外のほうが、耳がオープンなオーディエンスが多くいると感じています。ミュージシャンが挑戦しやすい環境は、やはり欧米のほうがあると思いますか?

MJ:場所がどこであれ 、ヴィジョンがはっきりしていれば関係無いと思います。ただ、欧米では音楽は独立した言語のひとつとして存在していて、あえて他の言語に置き換えずとも音を聞けば通じるという側面があり、それは僕らにとって非常に楽なところです。

『Lost Memory Theatre act-1』はエレガントで、穏やかなアルバムだと思います。エレガントさ、穏やかさについては意識されていますか? 

MJ:いいえ。 お言葉は嬉しいですが、意識はしていませんでした。

穏やかではない音楽、エレガントではない音楽にもご興味はありますか? たとえばノイズとか、ダンス・ミュージックとか。

MJ:世のなかのすべてのものは表裏一体です。

たとえば“Still Life”のような曲ではエレクトロニクスも使って実験的なアプローチをしていますが、しかし、三宅さんは、敢えて前衛的な方向に、敢えて難しい方向に行かないように心がけているように思います。その理由を教えてください。

MJ:理由はわかりませんが、自分で何度も聴きたい音楽、反復に耐えうる音楽、しかもいままでに無かった音楽を作りたいと思っています。前衛(という言葉がすでに前衛的ではないですが)に含まれる独善的な成分は排除したい要素のひとつです。

ビョークのやっているような電子音楽にはご興味ありますか?

MJ:彼女のやっていることを電子音楽という言葉で括れるのかどうかわかりませんが、彼女の存在自体に興味とリスペクトがあります。

『Lost Memory Theatre act-1』に限らずですが、三宅さんがもっとも表現したい感情はなんでしょう? 

MJ:感情は脆く移ろいやすく、常に複数のレイヤーによって構成されています。音楽はそれが表現できるメディアです。

『Lost Memory Theatre act-1』のアートワークは何を暗示しているのでしょう?

MJ:自ら限定するつもりはありません。

デヴィッド・バーンは今回のアルバムでどのような役割を果たしていますか?

MJ:皆さんがそれぞれ感じられた通りで良いかと思います。

ヴィム・ヴェンダースの映画でお好きな作品を教えて下さい。その理由なども話してもらえるとありがたいです。

MJ:個人的には初期の作品群が好きですが、それを限定してしまうのは避けたいです。どんな芸術にも一度見たり聴いたりしただけでは感じ取れない要素があり、個人の体験値によって感じ方も変わって来るものだと思うからです。

パリでの生活のなかで水泳もされているそうですが、体力というものと音楽とはどのように関連づけて考えているのでしょう?

MJ:パリだけではなく、この26年間どこにいても365日毎朝泳いでいます。どんなに体調が悪くても泳ぐので、体力のためかどうかは疑問……ただ脳の疲労と体の疲労のバランスを取るには良いのかもしれませんね。屈折した心象風景を描くためには、健全な身体が必要だと思います。朝の水泳だけでなく、 放電のため深夜に1時間ほど散歩をする習慣があります。

パリの街を歩いたことは2回しかないのですが、とても美しい街並みと美味しい料理、あとクラブでのフレンドリーな感覚はいまでも忘れられません。しかし、散歩していると必ずイヌの糞を践んでしまったのですが、あれもフランス的な自由さの表れなんだと受け止めています。日本だったら、怒る人は本当に怒るじゃないかと思うのですが、いかがでしょう?

MJ:自由さの表れ……アハハまさか! フランス人が自由かどうかわかりませんが、少なくとも皆自己中心的で、「横並び」という意識の対極にあります。パリの街を良くしようと思ったら、フランス人にはブランディングだけを任せ、実務をドイツ人に、外交をスイス人に、料理をイタリア人と日本人に、衛生面をシンガポール人に任せれば良いのではないかと思う次第です。

アメリカでもっとも好きなところ、パリでもっとも好きなところ、日本でもっとも好きなところと嫌いなところをそれぞれ挙げてください。

MJ:挙げるのは簡単なのですが、やめておきます。繰り返しになりますが、感情は脆く移ろいやすく、常に複数のレイヤーによって構成されています。国や政治も同じ……アメリカはかつてのアメリカではないし、日本も違う。いまの日本はとても心配です。個人としてどのようにいまを生き、どのような意識をもって行動するかが大切ではないかと思います。

最後に、三宅さんにとって重要なインスピレーションをもらった5枚のアルバムを教えてください。

MJ:5枚に限定する事なんて「言ってはいけないこと」のひとつです。

Senking - ele-king

 2013年の〈ラスター・ノートン〉は、フランク・ブレットシュナイダー(『スーパー.トリガー』)、ピクセル(『マントル』)、アトムTM(『HD』)、そして待望の青木孝允(『RV8』)などのアルバム・リリースが相次いでおり、いわば「オールスター・リリース」ともいえる状況になっている(しかも11月には池田亮司の新作のリリースも控えている!)。その上、どの作品もある種のアップデートが極端に行われており、00年代以降の電子音響と、それ以前の音楽史が複雑に交錯することで、いわば快楽性と批評性が同時に刺激される極めて豊穣な事態になっているのだ。

 そのような状況のなか、センキングのアルバムが遂にリリースされた。前作『ポン』(2010)より実に3年ぶりである。その名も『キャプサイズ・リカバリー』。このアルバムはまるで電子音とノイズとビートによる、ひとつ(にして複数の)のイマジネーションのサウンド・トラックのようである。ミニマル、ノイズ、電子音、ビート、空間、時間、無重力、反転。過剰な情報、その音響物質的な転換。情報化社会のポスト・インダストリー・ミュージック。

  結論らしきものへと先を急ぐ前に基礎的な情報を確認しておこう。センキングとはイェンス・マッセル(1969年生まれ)のソロ・ユニットである。マッセルは1990年代より音楽活動を開始し、1998年に〈カラオケ・カーク〉から1998年にアルバム『センキング』をリリースする。2000年以降は〈ラスター・ノートン〉から『トライアル』(00)、『サイレンサー』(01)、『タップ』(03)、『リスト』(07)、『ポン』(10)とコンスタントにアルバムなどを発表していく(〈カラオケ・カーク〉からは2001年に『ピン・ソー』をリリース)。彼はラップトップなどのコンピューターを使わないことで知られている音楽家である。その結果、トラックには独特の音響/リズム(低音)の揺らぎやタイム感などが横溢しており、一度ハマると抜け出せないような中毒的な魅力があるトラック(ある種、ダブ的な?)を生み出しているのだ。そこはかとないユーモアや、イマジネーションを添えて。

 本作『キャプサイズ・リカバリー』リリース前に、センキングは2011年にEP『ツウィーク』、2012年に同じくEP『デイズド』を〈ラスター・ノートン〉からリリースしている。青の地にタイポグラフィという鮮烈なアートワークを纏ったこれからのトラック(特に『デイズド』)は、ダブ・ステップ的なビートを内側からズラすかのような独特なビート感がある。いまにして思えばインダストリーな質感も含めてアルバム・リリースの前哨戦ともいえるトラック・ワークといえよう。

 さて、コンピューターを使用しないことで知られるセンキングの音楽/音響には、ある独特のタイム・ストレッチ感覚がある。いわば伸縮する感覚とでもいうべきか。先のEPを経由した上で生まれたこの『キャプサイズ・リカバリー』においては、その伸縮感がこれまで以上に拡張させられている。ある種のダブ的な音響でもあるのだ。そのビートには時間の伸縮感覚をコントロールしたドラムン・ベースのリズムを、ロウテンポのビートに不意に挿入させていく。ダイナミックに蠢く電子音/ノイズの奔流が聴覚へのさらなるアディクト・コントロールを促していく。さらには、シンプルなメロディを奏でる夢見心地のシンセサイザー・メロディ。とくに、マリンバ的なミニマル・フレーズと粘着的なノイズ/ビートが交錯する“コーナード”と、ダブ的な処理は素晴らしくイマジナティブなアルバム・タイトル・トラック“キャプサイズ・リカバリー”は最高である。まるでダブ・ミックスされたクラフトワークが、TG的なインダストリーな音響の渦の中でスティーヴ・ライヒと正面衝突したような……。そして、このアルバムのノイズやビートの交錯には、どこかロックな快楽すら宿っており、複雑怪奇になったスーサイドとも形容したくなるのだ(また音楽的には一見正反対だが、ミカ・ヴァイニオの今年リリースの新作『キロ』の音響処理に近いものを感じた)。

 そう、複雑怪奇と言いたくなるほどに本作の音響の情報量は濃厚である。しかし、このアルバムにおいては、そのサウンドの奔流がカオスにならずに、見事にデザインされているのだ。まるで都市の雑踏が情報の洪水に転換され、それをひとつのデザインとしてコンポジションされていくかのように。まさにサウンドのカオスを「転覆を修復する」ように、 サウンドのアマルガムに適切なエディットを施すこと。つまりは音響(=情報)をデザインすること。その音楽/音響は、ひとつの(複数の)音響のシグナルのように聴覚から脳を刺激するだろう。

 いわゆる、ノイズやインダストリアル・ミュージックと本作を大きく隔てるのは、そのデザインへの数学的ともいえる繊細にしてダイナミックな感性と技術ゆえ、ではないか。これはカールステン・ニコライをはじめ〈ラスター・ノートン〉の音楽家/アーティストに共通する感覚だが、同時に、彼らは時代と共にその個性をアップデートしており、本年のリリース作品にはどれも強靭なビート感覚に支えられたダイナミックなポップネス(エレクトロ的ともいえる?)を獲得している。そう、いまや、サウンド・アートはあるポップネスを内包するに至った、とはいえないか。

「現在の電子音響/エレクトロニクス・ミュージックを聴きたい」という方には、まずは〈ラスター・ノートン〉の2013年リリース作品をお勧めしたい。なかでも、センキングの本作品は、いわゆるミニマル的な状況から一歩先に脱出したような魅惑があり、現代社会特有の複雑さを快楽的な音響とともに提示している。時代の情報と知覚のスピードが、音楽/音響の速度にトレースされている、とでもいうべきか。より多くのリスナーの耳に届いてほしい作品である。

山下達郎 - ele-king

再発見され続ける音楽 松村正人

 1972年、昭和でいえば47年、沖縄は本土に復帰したが、いまのような夏のリゾートのイメージに結びつくのはまだ先のことである。沖縄より先に本土に復帰した奄美は、72年生まれの私が子どもだった70年代後半までは、最南端のリゾート地としてそれなりににぎわっていて、夏ともなると毎日、建ったばかりの近所の白亜のホテルから──レンタカーなんてなかったから──自転車でくりだしてくる新婚さんたちに私が目を細めたのは、太陽のまぶしさのせいばかりではなかった。子どもだった私にとって彼らは大人であるとともに都会的であった。そこには時間と距離という乗り越えがたい壁があって、私はいつか私が恋や愛や性や分別を弁えた大人になるだろうとはうすうす勘づいていたが、海を渡り、この閉域の外へ、都市生活者となった自分を想像することはできなかった。しばらくしてそんなことを考えなくなったのは、観光客を海外や沖縄に奪われたから、というのも詮ないが、山下達郎が前々作『MOONGLOW』収録の初のタイアップ曲でありJALの沖縄キャンペーン・ソングだった“愛を描いて─LET'S KISS THE SUN─”を出した79年には80年代がフライングしていて、30年前の 1983年、『MELODIES 』の2曲目、ANAの沖縄キャンペーン・ソングでもあった“高気圧ガール”が先行シングルとしてリリースされたとき、だからシマはすっかり鄙びていた。
 それなのに、この曲が頭から離れなかったのは、楽曲の解放感もさることながら「擬人法的なラヴソング」と山下達郎みずからライナーで注解する通り、高気圧という気象用語を人称につなぎ、語彙の飛躍が海を隔てた場所と場所をむすぶイメージの飛距離となるからだ。イメージの跳躍は海を渡る。それはすぐれて広告的だが、欲望を誘うのではなく情動を解放する。目の前に開ける光景はコバルトブルーと真砂の白に塗りこめられ、風景のなかで匿名ゆえの存在感できわだつ女性というよりも記号としての女性をとらえるが、同時にそれは天気予報に使用する衛星写真のようなカメラアイのようなメタフィジカルな高度もそなえている。
 時代は消費に舵をきっていた。しかしながら、山下達郎は80年のシングル“ライド・オン・タイム”でようやくブレイクしてからというもの、「夏だ、海だ、タツローだ」なるコピーに開放感を感じるとともに、風俗的発散の道具として消費される不安も抱いていた、と自筆ライナーにある。折しも彼は〈RCA〉を離れ、7枚目のアルバム『MELODIES』はその第一弾として〈MOON〉からリリースした。そのためここではビジネスマンでありプロデューサーでありシンガーでありソングライターである者の、音楽がポップとして求められるかぎりの葛藤がうずいていたはずだが、それを取らせないこともまた、ポップのポップたるゆえんである。もちろんおくびにもださないのではない。趣味志向思想信条は音となり、『MELODIES』の場合、言葉にもなった。本作で山下達郎は長年吉田美奈子が重要な役割を担ってきた歌詞をみずから書くことになる。自分の言葉で歌を作ることは、この先音楽を続けていく上で、とても重要なことに思えました、とこれもライナーに書いている。複数の職業作家のプロフェッショナリズムの集積で曲を作る体制からの脱却は賭けに近い試みだったかもしれないが、職業作家の作家性がスキルを担保し、保険として働くのにくらべ、作家性はもとより私性である。それは職能におさまりきらない個を晒すことであり、アマチュアリズムを内に抱えるものだ。いいすぎだろうか? そんなことはないですよね。それは初心であり終心(という言葉はないけれども)だと私は思う。

 30歳になった山下達郎は、前作『FOR YOU』で体制を整えたコンボを支えに、リスナーへの配慮を欠くことなく、そこを突き詰める。16ビート基調のクロス・オーヴァーよりの演奏から、宅録に近い自演も含め、曲想は多様になり、作品に奥行きがうまれた。単なる奥行きであれば一望できなくもないが、ここには翳りがある。シカゴ・ソウルのタイトなリズムとゴージャスなホーンがあり、ブライアン・ウィルソンのカヴァーがある。メランコリックなムードがあり、これまでの路線を継承したバイオニックなファンク“メリー・ゴー・ラウンド”があるが、そこにはシュガー・ベイブのころから変わらぬ愛情を注ぐブラッドベリのやわらかく乾いた詩情が降り注いでいる。メロディーはそれらの言葉を載せるヴィークルであり、旋律に乗った言葉は歌となり、私性と時制を離れ、幾度も回帰する。ときにシティ・ポップの元祖として、あるいは“BOMBER”がディスコ・ヒットしたように、クラブミュージックに対応可能なグルーヴ・ミュージックとして。そのたびに私たちは山下達郎を再認識するのだが、つねに新しさとともにあった。50年代、60、70年代の職人の手になる佳曲は山のようにあるが、山下達郎はそれらを援用はしてもそれが目的ではない(モチベーションにはなるかもしれない)。音楽は再生される音のなかにあるから、聴き直すたびに発見することも多々。シティ・ポップなる恣意的な括りで例証されるのはその一面にすぎない。もちろんそこから多面を見いだすこともあるだろう。つまり閉じていないのだ。余談になるが、いまではシュガー・ベイブのやりそうな曲をやるのがコンセプトのあっぷるぱいなるバンドもあるそうである。これは私が先日、ウルトラデーモン以後のトレンドと風俗をふまえ、脳内で結成したポストロック・バンド、シー&パンケイクに勝るとも劣らない秀逸なネーミングである。
 『MELODIES』の掉尾を飾る“クリスマス・イブ”は畢竟の名曲だが、私はこの曲を日本語でいまさら説明する必要は感じない。ひとつだけ。この曲をふたたび、今度はテレビで聴いたのは90年前後、バブルまっただ中だった。音楽で国民的なコンセンサスが成り立つ最後の時代だった、かもしれない。私はシマを出て都市生活者の仲間入りをしていた、思い出深い曲なのである。

松村正人

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Tatsuro As Rare Groove, Tatsuro As Culture Crash 野田 努

 池袋には、どこかくすんだ空気が漂っているように感じる。バブルの頃は高価な“文化”で賑わったものだが、いまやその跡形はほとんどない。池袋にはヒップホップの拠点として知られるベッドというクラブがある。池袋は山下達郎が生まれ育ったところでもある。歩いてみよう。頭のなかでは空しさをなだめるように“ウインディ・レイディ”が鳴っている。

 1. ネット普及後の世界においては、かつて世界中のコレクターが探したアメリカのレアグルーヴはアーカイヴ化されているが、未整理な領域のひとつに70年代後半~80年代前半の日本がある。ジャズ・ファンクのコレクターが探しているのは、山下達郎、細野春臣、吉田美奈子、大貫妙子、鈴木茂などなど。彼らのメロウでグルーヴィーなダンス・ミュージックだ。
 2. 90年代の日本では、70年代のマーヴィン・ゲイ、カーティス・メイフィールド、スティーヴィ・ワンダーないしはハービー・ハンコックなどの再発盤がレコード店の棚に並んだとき、山下達郎は再発見されている。周知のように、山下達郎自身がDJカルチャー顔負けの超マニアックなリスナーなのだが。

 東京在住のフランス人DJ、Alix-kunに訊いてみる。彼は日本のジャズ・ファンクを集めているコレクターのひとりだ。日本全国のレコード店を訪ねながら70年代後半~80年代初頭の山下達郎や細野春臣、吉田美奈子や大貫妙子といった人たちの作品を蒐集している彼は、DJとしては主にデトロイト・テクノやディープ・ハウスをプレイしているだが、“いつも通り”もDJミックスする。彼はハウスに痺れるのと同じように山下達郎のグルーヴに痺れている、ある意味では。今年再発された『PACIFIC』(いわゆる和モノレアグルーヴの定番)はマストだし、“あまく危険な香り”はキラーチューンだ。が、別の意味では、これらアメリカの影響下で生まれた日本の音楽に独自な個性を感じている。そしてそこには、エキゾティック・ジャパンに想定されることのない領域が広がっている。
 たとえば(個人的に大好きな)『オン・ザ・ストリート・コーナー・2』のB面には“ユー・メイク・ミー・フィール・ブランド・ニュー”が収録されている。スタイリスティックスのあんな美しいソウルをアカペラでカヴァーするという試みそれ自体がひとつの文化的実験だ。影響を自分の血肉としながら、しかしオリジナルとはまたひと味違った滑らかな光沢を感じる。躊躇することなくアメリカに飛び込んでいったところは、寺田創一、富家哲、テイトウワなどなど、日本の初期のハウス・シーンのプロデューサーとも重なる(テクノはヨーロッパ志向)。

 エレキングの読者においても、ここ2~3年でたとえば鴨田潤がファンクラブに入会するほど心酔、レイヴ・カルチャーにどっぷりだったラヴ・ミー・テンダーが敬意を表すなど、山下達郎再評価が高まっていることは記憶に新しい。文化的アンビヴァレンス──長いあいだ日本のロック/ポップスは欧米の物真似だと言われてきたが、エキゾティック・ジャパンが我々を救ってくれるわけでもない──を払いのけて、サウンドを追い求めるDJカルチャーだけの話ならわかりやすいが、00年代以降の日本のクラブ/インディ・シーンで活動してきた人たちが山下達郎をいま支持している現象はこれまた興味深い。さらに、山下達郎はディストピアとしての都会を主題にしたパンク前夜からニューウェイヴの時代にかけて名作を出しているので、最近はどちらかと言えばパンク/ニューウェイヴの側にいた人間(たとえば僕や松村のことだが)にさえも求心力を持ちはじめているという事実は、一考の価値がある。
 もっとも、ドリーミーな音楽がポップのモードとなり、とくにR&Bが若い世代に好まれている現代では、それは当然の成り行きだとも言える。『ノー・ワールド』の後に『サーカス・タウン』を聴いても根幹のフィーリングに近しいところがあるからだろう、それほどの違和感はない。トロ・イ・モワの後に『スペイシー』を聴いたら前者が貧弱に思えるかもしれない……のように、一連の達郎再評価現象には批評と問題提起も内包されている。自閉的なJ-POPへの反論もあるだろう。価値の多様化にともなうシーンの細分化や素人の氾濫という名のポストモダン「アーティスト」への異論もあるかもしれない。あるいは、下北のインディ・キッズがAORをディグりはじめたこのご時世だ、純粋にアーバン・ポップ・ミュージックへの探求心に火が付いたのかもしれない。フィラデルフィア・ソウルとビーチ・ボーイズとの奇跡的な出会いにただただ感動したのかもしれない。そもそもフィリー・サウンドはディスコの青写真であり、すなわちハウスの重要な起源のひとつでもある。そう考えれば、(((さらうんど)))のバックボーンと必ずしも遠いわけではない。そしてAlix-kunは「“いつも通り”こそシティ・ポップの誕生」だと主張し、来日したエヂ・モッタ(ブラジリアンAORの巨匠)はブルーノートで“ウインディ・レイディ”をカヴァーする。

 1983年、彼自身のレーベル〈MOON〉の第一弾としてリリースされた『MELODIES』は、周知のようにシュガー・ベイブのアルバムや最初の2枚(『FOR YOU』を入れて3枚?)と並んで山下達郎のクラシックな1枚として有名だ。発売から30周年を記念してリマスターされた本作には、“悲しみのJODY”のインストゥルメンタル、“高気圧ガール”のロング・ヴァージョン、“BLUE MIDNIGHT”や“クリスマス・イブ”のミックス違いなどレア・トラックが5曲収録されている。テナー・サックス以外のパートすべてを自分で演奏している多重録音の“JODY”(圧倒的なファルセットのヴォーカリゼーション)は後に英語でも歌われている。
 前作までは夏や南国のイメージでヒットを飛ばしている山下達郎だが、『MELODIES』は、本人がライナーで書いているように内省的な曲が多く、『サーカス・タウン』や『スペイシー』と同様に、都会の夜の切ない空気が詰まっている。コーラスとパーカッションの“高気圧ガール”やファンキーな“メリー・ゴー・ラウンド”をのぞけば、おおよそメランコリックな響きが耳にこびりつく。個人的には“夜翔”や“BLUE MIDNIGHT”を好んでいるのだが、Alix-kunは「やっぱ“メリー・ゴー・ラウンド”だ」と言う。これぞDJ目線。山下達郎のトレードマークとも言える陶酔的なグルーヴがたまらないのだろう、などと言うと「でなければ“ひととき”だね」と言う。
 このように、こと『MELODIES』は聴き手によって好きな曲がばらけている作品なのではないだろうか(『サーカス・タウン』ならほぼ満場一致で“ウインディ・レイディ”でしょう?)。アルバムにはブライアン・ウィルソンの超レア・シングルのカヴァーという、マニアックなリスナーとして知られるこの人らしい“GUESS I'M DUMB”なる曲も収録されている。
 アメリカの影響下で生まれたポップにおける日本らしさはメロディにあると外国の人はたびたび指摘する。「日本語は、外国人の耳では音として柔らかい」とフランス人のAlix-kunも言うが、日本語の歌は子音で止まることがないので、滑らかに聴こえるのだ。

 とはいえ、江利チエミや雪村いづみが少女歌手としてジャズを歌ったとき、彼女たちの歌は「英語発音の祖国を喪失したあやしげな日本語」だと知識人から批判されている。同時代の歌手として知られる美空ひばりが農村や老年までの幅広い層に受け入れられたのに対して、江利チエミや雪村いづみのファンは主に都会で暮らす若者に限られていた(*)。今日の日本のアーバン・ミュージックは、この頃、つまり戦後「祖国を喪失したあやしげな日本語」を彼女たちが歌いはじめたときに端を発しているのだろう。そして、それがいつの間にか大衆音楽の本流となっているわけである。日本語で歌われる“JODY”と英語ヴァージョンとの境界線は素晴らしく揺れている。
 山下達郎の音楽はマニア受けもしているが、マニアにしかわからない音楽ではない。むしろ彼は意識的にマニアの壁を突破してきている。彼には職業作家としての自覚があるが、それは大衆に迎することを意味しない。『MELODIES』と同時発売されたリマスター盤『SEASON'S GREETINGS』はアカペラのクリスマス・ソング集、こちらは20周年記念盤だそうで、ちなみに今年はプリンスの『ラヴ・セクシー』から25周年。若い世代がR&Bで盛り上がっているのは「いま」。清志郎は南部だったが達郎は北部。初のリマスタリングCD化、聴いていない人はこの機会を逃さないように。これは日本で生まれた永遠の都会情緒、アーバン・ソウル・クラシックである。
 
(*)加太こうじ・佃実夫編集『流行歌の秘密』(1970年)

野田 努

Blind Boys of Alabama - ele-king

 「ブラインド・ボーイズ」とは、1930年代にアラバマの盲学校で生まれたそのグループのアイデンティティと誇りが込められた呼び名である。が、ここにおいては「ブラインド」も「ボーイズ」もひとつのメタファーとして機能している。キリスト教時代のボブ・ディランのカヴァー、“エヴリー・グレイン・オブ・サンド”を聴いてみよう。本作のプロデューサーを務めたジャスティン・ヴァーノンはライナーノーツでこのように説明している……「この歌は僕の人生のもっとも暗い時期を支えてくれた」。その歌を、ゴスペルを何十年も歌い続けてきた高齢の「ボーイズ」とともに、地元の音楽仲間たちの演奏でヴァーノンは歌う。81年のディランの歌が時空を超えて、ゴスペルのレジェンドの力を借りてシェアされる……ここでは、様々な「ブラインド」な人間が集まり、そして同じ歌のなかを生きようとしている。

 ブラインド・ボーイズ・オブ・アラバマは1939年から現在まで70年以上の活動を誇るゴスペル・グループであり(初期の音源もまとめられている、創設メンバーであるジミー・カーターはいまなお堂々とその歌声を披露している。2004年のフジロックのステージで観て僕は彼らの存在を知ったが、その魂と活気に満ちたステージに圧倒された記憶がある。
 本作はボン・イヴェールのジャスティン・ヴァーノンがプロデュースし、彼の幼なじみである音楽仲間フィル・クックが中心となって制作したボーイズの新作だ。どういう経緯で実現したプロジェクトなのかは知らない。ヴァーノンは恐らくプロデュース・ワークをやることになるだろうと僕は以前から予想していたのでその点では驚きはしなかったが、それでもこの理想主義的な振る舞いにはただ、強く胸を打たれる。伝統的なフォークをはじめとするルーツ・ミュージックを掘り起こし、それに現代的な文脈を乗せることをアメリカのインディ・ミュージシャンは近年試みており、ヴァーノンもそのひとりだが、ここではその道をさらに先まで繋げようとする。そもそもボン・イヴェールにしてもヴォルケーノ・クワイアにしても、ヴァーノンの音楽的な支柱にはフォーク以上にゴスペルがあり、彼のファルセット・ヴォイスはゴスペルやソウルを歌う黒人シンガーたちの影響を強く受けていることはよく知られている。
 だからこれは彼にとって夢の実現となる企画だっただろうが、このアルバムでは大御所との共演に過剰に気負うことなく自分たちの土俵に持ち込んでおり、たとえば“ゼア・ウィル・ネヴァー・ビー・エニー・ピース”におけるフォークトロニカ的なガチャガチャとしたパーカッションが聴けるイントロなどは、文句なくいまの耳に対応している。ゲスト・ヴォーカリストにフォーク・シンガーのサム・アミドン、マイ・ブライテスト・ダイアモンドのシャラ・ウォルデン、ホワイト・ヒンターランドのケイシー・ダイネル、そしてチューンヤーズ(tUnE-yArDs)のメリル・ガーバスと、若いインディ・ミュージシャンが参加しているのもいい。

 アルバムは“ゴッド・プット・ア・レインボウ・イン・ザ・クラウド”のゴキゲンなゴスペル・ロックで幕を開ける。パワフルなストンプ・ビート、弾むブラスと鍵盤、ヴァーノンいわく「クックのアイディアによるライ・クーダー風グルーヴ」、そしてしゃがれ気味の黒いヴォーカルとそれと重なる見事に温かいコーラス。オーガニックで喜びに満ち溢れ、なんというか、とにかく人間味が感じられる音楽だ。続くタイトル・トラック“アイル・ファインド・ア・ウェイ(トゥ・キャリー・オン)”でどこまでも広がる優しさと慈愛。メリル・ガーバスがセクシーでスウィートなハスキー・ヴォイスで魅了するソウル“アイヴ・ビーン・サーチング”。そしてハイ・テンポで疾走するブルージーなロックンロール“ジュビリー”のクロージングまで……トラディショナルなゴスペルを引用し、それに新しい音響を与え、過去の遺産の再発見を全身で歓喜する。そして歌う……希望と光について。
 ゴスペルをスピリチュアルな意味で霊歌と呼ぶとき、このアルバムにも様々な霊たちが息づいているように錯覚する。この歌たちを歌ってきた、歴史の表舞台には出ることのなかったひとびとの霊たち……。そして、様々な人種と年齢と宗教と性の人間たちが集い、共存し、彼らの魂を召喚する。これこそが現代においてもっともコミューナルな音楽のあり方に思える。歌は人間たちによって歌い継がれ、物語を語り継いでいく。声なき「ブラインド」なひとびとの人生と感情を。「I'll Find a Way」……けれどもこの「I」は、紛れもなく「We」であるだろう。道を見つけていくのはきっと、いつだってそんな「わたしたち」であるだろう。

嫁入りランド - ele-king

 半袖の季節が終わりきる前に、ある7月のイヴェントの強烈な印象について書いておきたい。スーパーボールの原色や蛍光が目の前を乱れ飛び、逆光のなかでカメラのシャッターがこちらに向かって切られたあの瞬間を、わたしはスローモーションで思い出すことができる。たくさん女子が笑っていた。いや、人数にすれば大したことがないかもしれないけれど、この日の記憶に焼きついているのはとにかく女子が笑っていたということで、どんな規模であれどんなトライブであれ女子が笑うところには天の岩屋戸を動かすエネルギーがある。黄色い声が飛び交うイヴェントはたくさんあるけれども、あのとき目にしていたのはちょっと予想外の感触。その感触を解きほぐせないうちから「“何かの瞬間”に立ち会っているかもしれない」感に心が躍った。ステージの上にいたのは嫁入りランドである。

 見ようによってはちょっと文化系の女芸人とも解釈できそうなたたずまいの女性3人組。彼女たちはすでにシーンでは熱い注目を浴びる“噂の”ラップ・グループだ。彼女たちの存在をヒップホップの文化史に照らしたり、そのなかに位置づけたりする能力は筆者にはないが、「新世代のスチャダラパー」のように言われたり、日本の「歌謡ラップ」をスネークマンショーから説き起こす磯部涼の論考(「ニッポンのラップ」第四回、『エリス』収録)の末尾にもその名が登場するなど、語るべきエネルギーと検証すべき魅力が詰まったグループであることは間違いない。

 だが、ひとまずそういうことは後回しだ。ぼんやりしているうちに彼女たちはリングにはやくも学祭のように賑やかなノリを引っ張ってきてしまった(〈月刊ウォンブ!〉なのでステージはリング。翌8月には実際にレスリングが行われた)。爪を見せ合って「見て、WOMB仕様。」「カワイイ。」なんてやっている。DJがついているわけではなく、ポチッと機材のボタンを押すだけのカラオケ・スタイルでトラックがはじまり、ラップがはじまる。

 たとえばMARIAのようなスキルを持っているわけではないけれど、彼女たちには彼女たち一流の言葉のセンスがあり、その斡旋に長けている。そしてたたずまいそのものにもとてもスマートな批評性がある。なんとなく学校を出たわたしたち、というような学生とも社会人ともいえない時間感覚、かつそうした枠の外のワイルド・サイドとは縁遠い「平均的な」風貌に親しみを覚える人も少なくないだろう。実際のところ彼女たちがどういう境遇にあるのかは知らないが、そのパフォーマンスからは「平均」や「普通」ということが持つクリティカルな側面がなめらかに切り出されていて、とてもいまらしさを感じる。

 「普通」問題は繊細だ。実際、「普通の女の子」というときの普通の水準はけっこう高い。「非モテ」から「貧困」まで、社会的文化的な関心が、より高いものではなくより低いものに向けられるようになってから、普通という言葉が示すところは揺らぎ、多様化したように思う。嫁入りランドのステージは、そんなバランスの上で成立する「普通」のひとつがおおらかに楽しげに歌われ謳歌されているようで、ぐっときた。そもそも“郊外の憂鬱”とか “嫁入りランドのLOCAL DISTANCE”“暮らしのジャングル”など、曲名だけをとってみてもかなり意識的に2000年代の風俗や社会感覚が切りとられていて、彼女たちがけっして若さや女子ユニットという華やぎに寄りかかる芸風でないことは明らかだ。そして批評的に機能する力を持ったそれらキーワードに寄りかかることもない。彼女たちは彼女たちの言葉を持っている。「ヤーマン越え 谷越え 川越~」という軽やかな言葉遊びのひとつから、ばーっと視界が開けていって、2013年の風景がみえる……そしてなぜだか女子がみんな楽しそう……そんなステージなのだ。

 さて、「えんたけー」「えんもたけなわってヤツですね!?」とまた奇妙な角度からのMCがはじまり、どうやら宴もたけなわになった。「ここはヤグラなんですよ」「これは盆踊り大会なんですよ」「びっくりでしょー!?」とさらに急角度で設定が加えられて、〈WOMB〉は盆踊り会場になった。たしかに、オーディエンスには何か見たことのないものに触れる興奮のようなものが伝播していたけれども、そこに唐突に盆踊りというコンセプトが与えられたことで、一気にエネルギーが放出口を見出して流れ出した。
 「ちょっと、目つむって!」「スゴーイ!!」「ヤグラじゃん!!」「ヤッター!」「ヤッター!」夏祭りのお囃子の音とともにリングはヤグラに変わり、この急展開のなかで〈月刊ウォンブ!〉も新しいステージを踏んだ……のだろうか。なんだか楽しくてヤグラにむかってへらへらしていると、今度は「ペンシルカルパス」と印刷された古ダンボールが引っ張り出されてくる。そしてこのレポートの冒頭へ場面は移る。ダンボールのなかから小さめのスーパーボールがバラバラとオーディエンスに向かって投げられはじめ、女子も男子もきゃあきゃあ笑ってそれを拾うというさらなる謎展開、そして舞台の上からカメラのシャッターが切られ、これまた唐突にわれわれの姿は無作為にフィルムのなかに収められることになる。彼女たちは自撮りにも余念がない。これは宴もたけなわというか、宴の底が抜けた瞬間で、その後また急に幕引きを迎えるまで不思議な恍惚状態がつづいた。アルコールでも薬物でもなく、また黄色い声援が生む熱狂でもなく、何かもっと透明なものを火元に燃えているこのヤグラの炎を、筆者は憧れとリスペクトの眼差しで見つめた。

 言葉の達者だけれども言葉だけではない、音やビートの彫琢によってでもない、しかし芸というよりは生きた音楽として、嫁入りランドのライヴは際立った印象を残した。宴会芸や学芸会の出し物のようでいて、それは素人の起こした奇跡とは違う。青文字も赤文字もオタクもすり抜けて、職業意識からもアマチュア意識からも表現活動や芸術活動の使命感等々からも自由に、強いて言えばおもてなし感覚くらいを添えて……。

 明確な計算のもとに行われたものではないだろうけれども、彼女たちは何かを描き、取り出しているということがはっきりと伝わった。そしてその根元を支える普通さの感覚にしびれた。それがダイレクトに女子を笑わせているところに感激した。ちょっと女子女子と言い過ぎだと自分でも思うけれど、だって、たとえば同じ年頃でも、140文字で必死に虚勢とカッコをつけあい、フォロワー増やしゲームに絡め取られるツイート男子たちが、彼女たちの言葉より女子を楽しくさせることができるだろうか、と考えると感じ入ってしまう。
 ここで見たものが何だったのか、誰かもっとうまい言葉にしてくれたらうれしい。さわるとゴムがねちゃねちゃするこのスーパーボールが、未来の礎になることを期待して。

LIQUIDROOM - ele-king

 すっかり秋だなーと思いに耽っていたらいきなり台風、甚大な被害をもたらした26号が通り過ぎてくれたかと思ってひと息つけば27号。まるで『スローターハウス5』のように、あっち行ったりこっち行ったりと、不条理極まりないこの世界でいちばん大事なモノ、それは俺の自由。10月最終週のリキッドルームが熱すぎるぜ。
 エレキングでは先日、WOODMANとKES(ペイズリー・パークス)との対談をやったばかり。シミラボのマリアちゃんのロング・インタヴューももうすぐUPされるであろう。大変な時代だが、面白い時代である。


▼10月23日(水曜日)
BLACK OUT SPECIAL@LIQUIDROOM + LIQUID LOFT + Time OUt Cafe & Diner
概要→https://www.liquidroom.net/schedule/20131023/16833/

▼10月26日(土曜日)
THE HEAVYMANNERS@LIQUIDROOM
概要→https://www.liquidroom.net/schedule/20131026/16006/

▼10月27日(日曜日)
Battle Train Tokyo -footwork battle tournament-@KATA + Time Out Cafe & Diner
概要→https://www.kata-gallery.net/events/btt/
*こちらは23日(水曜日)にDOMMUNEにて開催記念番組があります。

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