スティーヴン・マルクマスと初めて会ったのはペイヴメントの1回めのUKツアーのときだった。僕は彼らのデビュー・アルバム『スランテッド・アンド・エンチャンテッド』の“サマー・ベイブ”にやられていたので、彼らに会うのが楽しみだった。 “サマー・ベイブ”はバンド名に相応しい道の端に落ちたゴミのような音だった。でも、夜道を歩いているとき、たまにそのゴミが落ちた道が綺麗に感じられることがある。“サマー・ベイブ”はまさにそんな音だった。ドイツの写真家、現代アーティストのアンドレアス・グルスキーの作品で、ゴミが散乱した川を美しく撮っているシリーズがあるけど、“サマー・ベイブ”の魅力はまさにそんな感じだった。
ルー・リードの歌もまさにそういう感じなのだが、スティーヴン・マルクスの歌はルー・リードみたいにドラッグ、ゲイ、性倒錯者みたいなセンセーショナルな素材を探すこともなく、普通に日常にいる変な人、たとえばペイヴメントのドラマーみたいな人や風景を若々しい目線で歌っている感じがした。それはまさに90年代の感じがした。 当時のアメリカからはいろんな面白い人たちがどんどん出てきていたから、こんな歌を歌っている人はどんな人だろうと期待していた。 カート・コバーンは完全にレッドネックなのに、本当に素晴らしい目線を持っていた。レッドネックがどんなドラッグをやれば、あんな新鮮な目線を見せてくれるんだろうと僕は思っていた。バットホール・サーファーズは本当に気がふれているようだった。で、ペイヴメントのスティーヴン・マルクマスはどんな人だったかというと、ブダペストのTシャツを着ていて、その姿は「何でブダペストのTシャツやねん」とつっこむ感じじゃなく、あっ、この若い青年はブタペストの歴史とかそういうものに興味があって、ブダペストに2週間ほど、旅行に行ってきたのね。と思わせてくれる風貌だった。悪くいえば金持ちの坊ちゃんという感じ。アメリカの若者でブダペストなんかに行くやつは金持ちしかいないよ。 スティーヴン・マルクマスの顔を見てもらえばわかるけど、ロスの青年弁護士みたいな雰囲気を出してますよね。彼のソロ1作めのジャケットなんて完全にそれですよね。なんで、音楽なんかやっているのという感じです。
でも、そんな彼の作品はじつはどれも素晴らしいんです。とくにペイヴメントの後では『リアル・エモーショナル・トラッシュ』が素晴らしい。イギリスの67年くらいのあの音なんですよ。デヴィッド・ボウイなんかがやろうとしていた音、ヒッピー前夜の混沌としていたあの感じをうまく現代にあった感じでよみがえらせています。XTCのアンディ・パートリッジなんかが好きなサイケ感ですよね。アンディ・パートリッジよりもその感じを上手く再現していると思うのですが、日本のその筋の人たちから評価されないのが不思議です。その次のアルバム『ミラー・トラフィック』はその感じにペイヴメントのあの感じを足したというか。僕はちょっと安易じゃないかと思ったんですけど、イギリスではチャートに入り、アメリカでも3万枚売れたみたいです。スティーヴンもレコード会社からペイヴメントみたいなのやってと言われているんでしょう。
で、今作『ウィグ・アウト・アット・ジャグバッグズ』なんですけど、『リアル・エモーショナル・トラッシュ』をもっとよくした感じなんです。ペイヴメントよりな『ミラー・トラフィック』があったから、ペイヴメントっぽいものから離れようとしていた不自然さが完全になくなって、『リアル・エモーショナル・トラッシュ』以上にプログレみたいな曲やアシッド・フォークなどのいろんなジャンルの曲を完全に自分のものとしてやっているのです。その上にスティーヴン・マルクマスのあの独特なメロディがしっかりとのっているのです。『ウィグ・アウト・アット・ジャグバッグズ』を聴いて思うのは、ルー・リードを受け継ぐのはスティーヴン・マルクマスしかいないということです。トム・ヴァーレイン、リチャード・ヘル、ショーン・ライダーでもピート・ドハーティーでもなく、ロスの弁護士のようなスティーヴン・マルクマスが彼を受け継ぐというのもどうかなと思うけど、正しいんでしょうね。やっぱ、ジャンキーはダメなんですよ、現代は。
「Nothingã€ã¨ä¸€è‡´ã™ã‚‹ã‚‚ã®
あたかも極限状態を試すかのように、このところハウス・ミュージックばかりを聴いている人間が日本に少なくとも5人いるはずである。彼らは日夜『HOUSE definitive 1974-2014』のため、なかばマゾヒスティックなまでに4/4キックドラムを浴びているのだ。雪が降ろうと快晴だろうと、腹が減ろうと満たされていようと、外へは一歩も出ずに……
長年音楽を聴いてきて、大衆音楽史においてもっとも大きな分水嶺となっているがディスコ/ハウス・ミュージックだったというのは確信がある。数ヶ月前も、たまたまある場所で、ある高名な音楽評論家と目があった瞬間に「俺はクラブは嫌いだから」と言われたが、こういうことは西暦2014年になろうが珍しいことではない。ノイズ/インダストリアルの愛好家でも、80年代半ばにそれがディスコを意識するようになってから離れていった人は少なくないが、僕も最初からディスコ/ハウス・ミュージックを素直に受け入れたわけではないので、その気持ちがわかる。10代~20代前半の若い頃は、ダンス・ミュージックなんてものはナンパで軽くて、低俗だと思っていた時期がある。恥ずかしくて聴けたものではないと。たんに自分がその超然とした優雅さを理解できなかっただけのことだが。
ディスコは一時期商業的に大ブレイクしたので、1975年までのアンダーグラウンド時代を、そして流行が終わった後のアンダーグラウンド回帰時代(代表的なのがアーサー・ラッセル)を顧みずして、先入観や偏見だけで出来上がってしまったイメージがまだある。ダンスがうまくて、やたらキラキラしたイメージだ。実際は、音響装置の実験もあり、また、ゲイの運動家たちの拠点としての政治的な側面も併せ持っていたりと多様だが、たぶんどんな人にもざっくりとしたイメージがあるだろう。ところがハウス・ミュージックには、ディスコほど明確なイメージがない。ハウスはディスコから来ているが、しかしそれが出てきたとき、ディスコと違って匿名的で、つまり妖しく、より異質に見えた。
ラリー・ハードの超名曲がほのめかしたように、ハウス・ミュージックは「ミステリアス」だった。ジョン・サヴェージが言うように、80年代半ばのレアグルーヴ(昔のファンク崇拝)が支配するダンスフロアにとっては、あり得ない何かに思えたものだ。この日常世界のどこかには、自分たちのまだ知らない感性による何かが始動している。まだ知らない世界がある。〈トラックス〉や〈DJインターナショナル〉、〈ニュー・グルーヴ〉のレーベル面の素っ気ないロゴ、ラフなデザインと印刷もそうだが、クレジットには初めて見るような名前ばかりが印刷されている。同時代のニューウェイヴ・ディスコの洒落たデザインとは対極で、しかも事前の情報もなく、ただそこに1枚の12インチがある。
そこには好き勝手に録音された得体の知れない音が彫られている。ときにはセクシャルなトーチ・ソング、ときには狂ったかのようなドラッギーな反復、ときにはディープな思いを誘発する音が、名も無き人たちによって作られる。世界のどこかで醸成されるその「ミステリアス」さ、これがハウスと括られるジャンルの大きな魅力だった。
かつて、ベルリンのベーシック・チャンネルというレーベルは確信犯として、その「ミステリアス」さを継承した。アーティスト名が読めないくらいがちょうど良いのだ。誰が作ったかという情報を明記するよりも、どんな音がそこにあるのかということへの関心を高めるほうが、このジャンルでは最高の効果を果たす。今日、東欧(ルーマニアやブルガニア、ロシアなど)のミニマルなハウスが異常に人気なのも、「ミステリアス」さと大いに関係があるのだろう。そしてNYのレーベル〈L.I.E.S.〉もまた「ミステリアス」であることに自覚的だ。
本作は、昨年末のリリースで、レーベルにとって2作目のコンピレーションとなる(1枚目は『ピッチフォーク』いわく「スクリレックスの口のなかに尖った棒をぶっ込んでいるかのような」作品。どんなものかわかるでしょ?)。先日、NYでクリス&コージーがライヴを披露したときにサポートしたのがこのレーベルだったというが、彼らの音は明白なまでにアシッド・ハウス寄りで、ガラージ・ハウスもしくはディープ・ハウスなどよりはノイズ/インダストリアルに近い。ディスクロージャーではなく、ファクトリー・フロアやBEBの側……いや、それ以上に衝動的な何か。レーベルを主宰するロン・モレッリは、自身の作品はノイズ/インダストリアル系の〈ホスピタル〉から出している。
紙エレキングで島田嘉孝氏が書いているが、〈L.I.E.S.〉は、昨年から日本でも人気レーベルなっているそうだ。レゴヴェルトはテクノ・リスナーにはそこそこ知られているだろうし、昨年話題になったトーン・ホークもこのレーベルから出している。が、基本「リリース経験の乏しい名の知れないようなアーチストばかり」の作品を出しているというのに売れているのは、レーベルへの信頼度や極めて衝動的(ガレージ・ロック的)であるがゆえの楽曲のユニークさもさることながら、そこで何が起きているのか知りたいという欲望が駆り立てられているからなのだろう。ハウスは難しい音楽ではないが、これが意外と気持ち良ければいいって音楽でもない。『Music For Shut Ins』には挑戦的な若々しさ、毒々しさ、激しさがある。
NYは、ディープ・ハウスよりの〈Mister Saturday Night〉も調子が良い。NYは、アレックス・フロム・トーキョーによれば、のぼり調子だという。なにせ新しいNY市長ビル・デブラシオへの期待が大きい。民主党から(左よりの)NY市長が当選するのは24年ぶりだそうだ。前々市長のジュリアーニや富裕層を優遇した前ブルームバーグ市長に真っ向から対立する低所得者層支援の政策を掲げている彼は、これまで日常化していた警察の職務質問まで緩和させる方向らしい。デブラシオはイタリア系で、ディスコもディスコティックのイタリア語風の読みだし……。何にせよ、ウォール街のデモは無駄ではなかったわけだし、NYのクラブ・カルチャーも盛り上がるわけだ。〈L.I.E.S.〉の流通をベルリンのハードワックス(マーク・エルネストゥスが経営する世界的人気のレコ屋)が手がけるということも島田氏のくだんの原稿に書かれているが、さすがに鼻のきく連中だと感心する。時代の風向きはここにあるのだ。
そういえば、ディスクロージャーのリミックス・アルバムの人選にラリー・ハードの名前があった。EDMとの違いを見せつけているが、それが通って話ではなく、読者にはハウス・ミュージックの「ミステリアス」さに注意を払って欲しい。これはレトリックの問題でもあるが、アティチュードと音楽性に関わる話でもある。ハウス・ミュージック以降の電子音楽の実験系でもそれは踏襲されている(3~4年前のOPNもそうだった)。「ミステリアス」とは辞書的に訳されるところの「神秘的」ということではない。「より多くを知りたくなる何か」であり、「咄嗟に説明の付かない何か」であり、それは安易に長いものには巻かれないことで保たれる。ま、『Music For Shut Ins』は僕のようないい歳の人間が聴くにはドラッギー過ぎるのだが、この1週間、ディープ・ハウスばかり聴いていたので、口に直しにはちょうど良かった。
電子音楽の創造的なダンスホールにようこそ。コーヘイ・マツナガ(aka NHK yx koyxeи)が、マーク・フェルを引き連れて日本ツアーをやります。かつてはSND名義の作品でエレクトロニカを追い求める玄人なリスナーからさんざん支持されたフェルですが、ここ3~4年はエディションズ・メゴからのソロ作品によって、(感覚派の多い今日の電子音楽界にあって、良い意味で)理屈っぽく、どう考えても頭でっかちで、ロジカルに、そしてユニークなミニマル・サウンドを創出している。彼の最新のプロジェクト、Sensate Focusも好調なようで、今回のライヴPAは見逃せない。
コーヘイ・マツナガも、PAN(ベルリンのもっともいけてるレーベル)からのダンス3部作の3枚目『Dance Classics Vol. III』も無事リリースされ、好評を博している。また、関西のほうでは、MadeggやAOKI takamasaも出演する!
●2月25日@Dommune (web stream 21pm~midnight)
NHK Special.8
Mark Fell
Christophe Charles
Interviewer
Minoru Hatanaka (ICC)
live: Miclodiet、
Yuki Aoe
dj: Susumu Kakuda、
NHK fm
●3月1日@Soup 東京
-soup 7th anniversary "wasted"-
Sensate Focus
NHK yx Koyxen
CoH
Miclodiet
Nobuki Nishiyama
DJ Spinkles (aka Terre Thaemlitz)
https://ochiaisoup.tumblr.com
https://sludge-tapes.com
●3月2日@ACDC gallery 大阪
Sensate Focus
NHK yx Koyxen
shotahirama
lycoriscoris
DUCEREY ADA NEXINO
Madegg
And Vice Versa
hyAhar
Eadonmm
https://www.acdc-japan.com
https://idlemoments-jp.com
●3月5日@Metro 京都
-"night cruising" Red Bull Music Academy-
Mark Fell
NHK yx Koyxen
Sub-tle
Marihiro Hara
AOKI takamasa
Tatsuya Shimada(night cruising)
https://www.metro.ne.jp
https://www.nightcruising.jp
●3月7日@CMVC 大分
Mark Fell
NHK yx Koyxen
in
AOKI takamasa
https://twitter.com/cmvc_hita
●3月8日@DEF 金沢
Sensate Focus
NHK yx Koyxen
DJ NOBU (Future Terror/Bitta)
DJ Susumu Kakuda
Haruka Nitta
(石川県金沢市片町2-5-6 AYAビル2F)
●3月9日@Soup 東京
-soup 7th anniversary "wasted"-
Mark Fell
Kouhei Matsunaga
Painjerk
Christophe Charles
AOKI takamasa
NHK fm
https://ochiaisoup.tumblr.com
https://sludge-tapes.com
ジュリー・バーンの鈍く立ち上がる歌い起こしにつられて、一日が質量を持ちはじめる。彼女の歌を聴くなら朝がいい。朝から元気いっぱいならアッパーな音楽で加速するのも楽しいだろうけれど、そうでもない身体を起こすべくテンションの高い音楽をかけたり、目覚ましの音をマックスでセットしたりするのは、冷や水を浴びるようなもので、むしろストレスを増すだけだ。バーンは重たい。遅い。起伏が少ない。しかし心地よい温かみがある。チルアウトではなくてウォームアウト。そんな言葉はないけれど、彼女のギターと歌は、どちらかといえば後ろ向きな寝起きの思考と身体を、あったかく落ちつけて覚ましてくれる。
ジュリー・バーンは現在はシアトルで活動するシンガー・ソングライターで、本作は彼女のカセットテープ・リリース2作をコンパイルしたデビュー・アルバムだ。冒頭のように書くとさぞオーガニックでスローな価値観やテクスチャーを持った音楽だと思われるだろうが、たとえばグルーパーをオーガニックでスローだと考えるのならばその意味ではそうだと言える。シンプルな弾き語りをリヴァービーな音像に仕上げる、『ドラッギング・ア・デッド・ディア・アップ・ア・ヒル』のようなプロダクションを持ったサイケ・フォークの逸盤だ。アシッド・フォークと言い切らないのは、たとえば木でできた家具ばかり商っていたりするオーガニック系の店などでもぎりぎりかけられるようなクリーンな明るさがあるから。グルーパーがより彼岸に振れる音なら、バーンは此岸にとどまる音である。
というのは印象だけの問題でもなくて、実際に歌われている内容もドメスティックなものが多いようだ。部屋の描写、いっしょに暮らしていた男性のこと。ちょっと変わっているのは、彼女が長くイヴェント・ホールに住んでいたということだろう。それは自身にとっても人生を大きく変えるような経験だったと彼女は語っている。大きな規模のハコではなくて、おそらくはささやかな場所なのだろうけど、つねに人がなにかをしていて、プライヴェートを分け合うような生活だったというその述懐のなかには、若い女性の日常というにはもう少し大きい、ホールを舞台として交錯する無名的な人々の時間、そこに生まれる悲喜交々といったものが影絵のように動いている。
おもしろいことに、2本のテープのうちの1本はそうした暮らしのなかで生まれた作品だそうだが、もう1本はその後小さなアパートメントに引き移ってからできたものだという。仕事場と部屋を行き来し、部屋ではずっとラジオを聴いて過ごしていた時期があった、その、ホールとは対照的な空間や時間の流れがパッケージされた作品だと推測するが、時期的にはどちらだろうか、『ジュリー・バーン』『ユー・ウッド・ラヴ・イット・ヒア』はともに2012年作である。音からすると『ジュリー・バーン』のほうによりウォーミーな感触がある。けっして飛翔することはないけれど、“キープ・オン・レイジング”のアルペジオなどには、ジュリアナ・バーウィックの光の束から1本の光を抜いてきて、フォーク・ソングに鍛えたというような静かな輝きが感じられる。“アタッチト・トゥ・アス・ライク・ブッチャー・ラップ”などの物哀しくミニマルな曲調を持った前半の方が、「アパートメント・ソング」なのかもしれない。しかし互いが互いの尾をつかむように、音の流れは円になってめぐる。底に流れるバーンの声のゆったりとした幅、印象的な低音が一貫しているから、両者は何周かするうちに入れ替わり、両方の生活の色をつないでいく。“ピアノ・ミュージック・フォー・ルーシー”が終曲となっているのは素敵な偶然だろう。にぶいオルガンがほぼ単音で紡ぎ出すこのアンビエント・トラックは、その境界があいまいになったふたつの場所を、ともに彼女の人生として撚り合わせ、聴く者の心へと流し込む。心が起きはじめるのを感じるのは、ひとりの生が流れ込んでくるからだ。そしてそれは、多くの人が拒絶の必要を感じない、なにかおおらかな力を持ったものだということを強調したい。ジャケットの近影もなにかそうしたことを裏付けるに十分な表情を浮かべていると思わないだろうか。
パテンには詐欺師の魅力がある。前作の目くらましのようなタイトル(『グラックジョーザックソウ』2011年)が誰にも確と発音されないまま堂々とシーンをわたっていたのもおもしろかったし、いまだに素性を明かさないまま「D」とだけ名乗っていることも、もはやちょっと愛すべきエピソードになりつつあると思う。〈ノー・ペイン・イン・ポップ〉から最初のアルバムをリリースしたのが2011年。彼の今作と昨年末のEPが〈ワープ〉から登場したことは、〈エディションズ・メゴ〉と〈メキシカン・サマー〉をまたぐOPNが同名門とサインしたインパクトに次いで、現〈ワープ〉のアブストラクトでアンビエントな方向性を明確にするものとなった。
必ずしもダンス・ミュージックを出自に持たない両者だが、ビート、プロダクション、参照する音楽性、言動、どこかしらインチキな感じがするのがパテンだというのが筆者の印象だ。キャラクターはある意味で対照的で、パテンが詐欺師なら、OPNは錯視家。詐欺は騙しだが、錯視はアートであり科学であり哲学でさえある。それは、『エストイル・ネイアント』と『R・プラス・セヴン』のアートワークにも表れていると言えるだろう。パテンは今回もコラージュだ。ひとつひとつのパートに意図があるようで見えきらない。情念はさらさらない。
もちろんパテンを貶めるのではない。筆者はそこにこそ彼の魂の躍動を感じる。そして同時に、音楽をけっしてアートや学問にしない、フロアやベッドルームへ向けた勘も働いているように思う。リミックスの依頼も引きも切らないというし、彼自身もレーベル〈カレイドスコープ〉を動かしていて、新人の発掘にも余念がない。ミュージック・ヴィデオにも意欲があり、現在はジェーン・イーストライトと組んで(やはりコラージュ的な作品を)制作している。自身のフォームを築きあげるというよりも、人を触媒として音を世間にめぐらせていくことを楽しんでいるのではないだろうか。
クラムス・カジノやハウ・トゥ・ドレス・ウェルが2011年に持っていた濁り──スクリューに由来した、あるいはただ過剰にオーヴァー・コンプ気味な音に「ゴーストリー」という衣を着せた、シーンは違えどあの頃の気分をよく思い出させるどろりとしたテクスチャーを口よく直して“ゴールド・アーク”や“ヒア・オールウェイズ”ははじまり、“23-45”をピークとして中盤をちょうど新作のOPNのようなアンビエント・トラックが埋める。インスタントなエメラルズといった印象のものから、アニマル・コレクティヴの『ストロベリー・ジャム』以降のアルバムにおけるインターミッションのような、エクスペリメンタルなスタイルのものまで幅がある。後半には硬質なテクスチャーのものも聴こえ、ちょうどゴールド・パンダのようにドリーミーでインディ・ロックに近い発想のダンス・トラックも散見される。大体のものにはつかみどころのないビートが組み込まれていて、トラップやダブステップの片鱗がのぞいたりもする。
まとまりがつかないようで強烈に何かを思い出す。何かなーと記憶をたどると『グラックジョーザックソウ』だ。彼の音をいろいろ思案しながら聴いていると結局のところ歴史にも地図にも物語にも結びつかず、彼自身の作品に戻ってしまう。戻ったところで彼は言うんじゃないだろうか、「音楽とは何なのだろう?」とか。これはかつて『ダミー』が行ったインタヴューで、彼の「謎の存在」感に拍車をかけることになった発言のひとつだ。問い自体が詐欺寄りの詭弁、真意をつかもうとすると彼はそこにいない、でも『グラックジョーザックソウ』が残っている。彼はにやっと笑う。『エストイル・ネイアント』はどこかに消えてしまった。そもそも「エストイル・ネイアント」って何なんだろう、すごくめちゃくちゃな感じがする(調べてみると、また騙されたと思うことだろう。変な星型がへらへらするばかりだ)。
護身にはナイフ1本、頭脳労働専門、人間を動かして観察するのが趣味の詭弁家の情報屋というあるキャラクターを思い出す。悔しいながら彼が魅力的であるようにパテンも魅力的だ。「俺が必然を愛するように、偶然は俺を愛するべきだよね」というセリフがあったけれども、パテンのあのランダムなビートはまさに偶然に愛されたいビートではないかと思う。偶然に愛されないから必然を愛するふりをする。そんなところもあの詭弁家に似ている。騙し続けられなくなったら終わりという、その詐術的な弱さの強さに惹かれてしまう。
オブモンってったら「オブ・モンスターズ・アンド・メン?」、オブモンってったら「ああ~あのエレファント6系の?」。そんな声が結構耳に入って来ましたっけ、来日前には。
オブ・モントリオールに対する日本の状況。ここ何年かは明らかに本国やヨーロッパなどとの評価&人気の差がついてましたから、主催者としてちょっと……いやかなり心配だったんです。12月に来日したアクロン/ファミリーが「次は誰を呼ぶの?」「うん、オブモン」「おお! それは日本中がディスコ・ナイトになるネ!」なんて言われてもスカスカ・ディスコだったらオエ~だなァとかとか。
実際オブ・モントリオールは作品を出す度に進化、そして成功を収めて来ました。とくに2010年の『ファルス・プリースト』はまさかのビルボード34位を記録。ライヴでの圧巻パフォーマンスもあってフロントマンのケヴィン・バーンズは確実にインディー界のスターになったわけです。そのグングン上がっていったオブモンの状況がとにかく日本ではぽっかりと空いてしまっていた。ほとんど伝わっていなかった。ああ~もったいないってことで、新作『ロウジー・ウィズ・シルヴィアンブライアー』も出たしってことで、5年ぶりの単独公演を本当にドキドキしながら開催したのですが……あ~良かった! ディスコになりましたよ。お客さんってば本当に素敵!
ケヴィン以外のメンバーはボブ・パーリンズ(ベース)、ベネット・ルイス(ギター)、ジョジョ・グライドウェル(キーボード)、クレイトン・ライクリク(ドラム)、そして紅一点レベッカ・キャッシュ(ヴォーカル、キーボード)の5人。ちなみに昨年のTAICOCLUB出演時のメンバーとは誰ひとりかぶっておらず、『ロウジー・ウィズ・シルヴィアンブライアー』のレコーディング参加メンバーを揃って連れて来たかたち。
ただ、ここ数年のオブモン作品はほとんどケヴィンひとりで制作しており、ライヴとレコーディングは別物にしていたので、この両方が同じメンバーで構成されていることはオブモン史に取ってすんごいトピックなのです。そんな新生オブモンのステージはレベッカ嬢のデタラメ英語からファンキー・チューン“Girl Named Hero”でスタート! キラキラフリフリのテトリスみたいな柄のジャケットを着こなしたケヴィンの登場に会場は一気に色めきトキメキー。もうすでにディスコ。そしてケヴィンが本当にかっちょいい。デヴィッド・ボウイかプリンスかヒデキ・サイジョーか岡村ちゃんか。グラマラスにソウルフルに、踊りながら、ピョンピョン跳ねながら、お客さんを煽る煽る。そしてこんなに歌がうまいのかと。声量があるのかとビックリさせられる。かと思えばセクシーなブラコン・ナンバー“Faberge Falls for Shuggie”では目の前のお客さん(もち女性)に耳元で囁いたり抱擁したりでキャー。そしてケヴィン、レベッカ、クレイトンの三人でのザ・コーデッツのカバーを挟み、新作から“Colossus”、レベッカがメイン・ヴォーカルを務める“Raindrop in My Skull”と。レベッカがまたいいんです。まだ23歳、普段はキャッキャッ言いながら辛いモンばっか食ってる小娘なんすが、この曲ではエレガンスにエモーショナルにいたいけな小娘になりやがる。可愛い!そして人気曲 “Plastis Wafers”。こんなにライヴでは激しいのか!って、会場はドッカンドッカン。ディスコ・ロックですよ。ディスコ・フレディ・マーキュリー。そして一転してミラーボールがこれほどまでに似合う“St. Exquisite’s Confessions”では、ハイ来ましたー。ケヴィンの脱ぎ脱ぎコーナー。その鍛えられた贅肉全く無し腹筋ムキムキの身体にまたまたキャー。イギー・ポップの100倍輝いている。そして激・志茂田景樹な衣装替えを挟んで“Oslo in the Summertime”もこれまたビックリのへヴィー・アレンジ、で、大名曲“Heimdalsgate Like a Promethean Curse”を爆発させて本編終了。お客さんの笑顔が乾かない内にアンコールは“Gronlandic Edit”と“She’s a Rejecter”。いや~もう完璧でしょ。こんなに幸せになれるとは私も思わなかったし、お客さんも思わなかったはずです。
で、ツアー中ずっと一緒にいて本当に思ったのは、ケヴィンがこのメンバーと一緒にやっていることが心から楽しいのだろうなぁってこと。全員が彼より年下なもんで、ケヴィンがお父さんみたいに世話してるんですよ。でもそれが本当に嬉しそうで。実際ツアー前のやりとりもエージェントを通さずにケヴィンとやりとりしていたので、彼がメンバー全員のビザ書類を集めたり、機材リストを作ったり、ホテルの部屋割りをしたり。地元アセンズに「ケヴィン御殿」を建てたスターが、今回は敢えてすべてをやってくれたんです。それ位このメンバーに思い入れがあるようだし、新しいオブ・モントリオールのあり方みたいなものを彼自身が発見したんじゃないかな。そのタイミングに日本に来てくれたこと、そして体験出来たことを心から嬉しく思います。冒頭に「日本ではぽっかりと空いてしまっていた」と書きましたが、いやいやそれ以上のものだったと。白馬に乗ったケヴィンとか、紙吹雪とか風船も無かったけど、さらに輝きはじめたいまのオブ・モントリオールがやっぱ最高! だって何回もケヴィンは言ってくれましたよ。「また日本に来るよ。もちろんこのメンバーでね!!」
ダム・ダムという言葉を聞くと僕はINUの「ダムダム弾」を思い出してしまいますが、ダム・ダム・ガールズはイギー・ポップの“ダム・ダム・ボーイズ”よりもヴァセリンズの“ダム・ダム”ですよね。
2010年リリースのダム・ダム・ガールズの『アイ・ウィル・ビー』を初めて聴いたときはびっくりしました。こんなにもイギリスのあの音をやれるアメリカのバンドが出てくるとは。「あの音」とはプライマル・スクリームの“ヴェロシティ・ガール”のことです。もう何十年もぼくたちの胸をジーンとさせてくれる謎の音は、すべてここからはじまったと言っていいでしょう。ダム・ダム・ガールズの原点もこれですよ。
もともとはアメリカの音なんですけどね。ヴェルヴェッド・アンダーグラウンドの音、デヴィッド・ボウイが“ジーン・ジニー”とかでパクった方じゃなく、捨てられた部分、いなたい部分、でも切ない部分。それをイギリスの公団住宅に住んでいるニキビ面の少年たち、ドラッグも買えず、シンナーしかできないような子どもたちが拾って、新しいポップの歴史を作っていったのです。
この永遠の音は、永遠ですけど、永遠すぎて、前進できないんです。みんな成長していかなければ──プライマルはガレージになったり、アシッドハウスになったり、ビッグなドラム・サウンドを入れたりしないとダメなんです。そして、青春はどこかに消えていくのです。ストロヴェリー・スイッチブレイドがそうであったように。それでなければ、ヴァセリンズのように清くありつづけて、どこにも行かないと宣言するかです。
ダム・ダム・ガールズのセカンド『オンリー・イン・ドリームス』(2011年)は中途半端でした。行きたくないのか、行きたいのか、どっちやねんという感じです。でも、この3作め『トゥー・トルー』はふっきれてますね。この手のバンドのふっきれるときの常套手段、ビッグなドラム・サウンドが入ってます。でも、セル・アウトしてないんですよね。ビッグなドラム・サウンドも、ゴスっぽい展開もどこか冗談ぽいんです。彼女たちはちゃんとわかっているという感じです。こういうところ、アメリカ人はイギリス人よりも強いのかもしれません。クランプスが一度もセル・アウトせずに生き延びることができたように。
『トゥー・トルー』はビッグなドラム・サウンドになってますが、あの青春的なイナタさは失っていません。どっちつかずだったセカンドより輝いています。
僕はダム・ダム・ガールズを応援します。
ああ、なんてこった。とんでもないコンピレーション・アルバムがリリースされた──インターネット・ミュージック・ディガーのみんなにはおなじみのブログ、Hi-Hi-Whoopeeがコンパイルした『Meili Xueshan I&II』だ。
参加ミュージシャンには、『ele-king vol. 12』でもたびたび名前の挙がっていた奇天烈実験音楽家アレックス・グレイことD/P/Iを筆頭に、これまで3作の傑作ミックステープをリリースしているエクスペリメンタルR&Bの急先鋒デュオ18+、〈Beer On The Rug〉からの『TIMETIMETIME&TIME』で知られるYYU、その〈Beer On The Rug〉の主催C V L T S、〈Exo Tapes〉主宰のSofa Pits(=Mediafired=JCCG)、〈AMDISCS〉からの『Fools』も記憶にあたらしいAyGeeTee等々。
日本からはジュークとエクスペリメンタルを接合する食品まつり a.k.a footman、axion117 + Lidly + canooooopyによるGANGHOUSE FUNGI、ele-kingのDJチャートでもおなじみのあらべぇ(先日、パーティー〈ELMER〉で超限定リリースされたイルビエントな『Bootleg CDR Vol One』も最高だった!)などなど。
他にもM. Sage、Ahnnu、E+E、susan balmar、James Matthew、Constellation Botsu、Real Clothes、Angel 1、Ñaka Ñaka、Rhucleらも要注目――っていうか、すごいぞ、みんな。
Hi-Hi-Whoopeeの記事には親切にも各アーティスト(39名!)について詳しい紹介とリンクがついているから、そちらをぜひ読んでほしい。
とにかくとにかく。これはナカコーも絶賛する、とんでもない、恐ろしいコンピレーションだ。すでに海外では「Tiny Mix Tapes」や「Ad Hoc」が紹介し、反響を広げている。
インターネットの奥の奥、あるいは裏の裏をかきわけ、立ちのぼる蒸気のその向こう側にそそり立っていたものは、前人未踏のエクスペリメンタルな音が視界いっぱいに広がる美しき秘峰だった! ってな感じなのでダウンロード&リッスン!
UKのレーベル〈ザ・トリロジー・テープス(The Trilogy Tapes)〉。その主宰ウィル・バンクヘッド(Will Bankhead)は、古くは〈モ・ワックス〉のデザイン、最近ではアクトレスのアートワーク、また、日本でも人気に火がついたスケボー・ブランド〈パレス(PALACE)〉のアート・ディレクションを手がけつづけていることもあって、多くのカルチャー・ディガーから熱い視線とリスペクトを向けられている存在だ。昨年3月に渋谷ヒカリエでのファッション・ショーとそのアフター・パーティーのために〈フェイド・トゥ・マインド〉のトータル・フリーダムらとともにDJを披露してから早1年。あのレイヴ感を忘れられない人たちも多いと思うけれど、なんと、今年の3月に〈C.E〉のためにカッセム・モッセとともに再来日することをブログでほのめかしている!
「TTT – Tokyo in March for C.E. crew with Kassem Mosse.」
https://www.thetrilogytapes.com/blog/2014/02/14550/
〈C.E〉については、先日もANYWHERE STOREにて完売となったキャブスTシャツをドロップしたことでも皆さんもご存じでしょう。スケートシングによるグラフィックと凝ったデザインが目を惹きつつ、絶妙なフェミニンさで女性にも人気のファッション・ブランドだ。2014年春・夏向けのルック・ヴィデオでは、なんとアクトレスをモデルとして抜擢! もちろん音楽もアクトレス。ウィルとおなじく〈モ・ワックス〉のグラフィックなどで知られるベテラン・デザイナー:ベン・ドゥルーリーと、ホット・チップのMVやジャングルの海賊ラジオのドキュメンタリーまで手掛けるロロ・ジャックソンがタッグを組んだ映像も美しい。息をのむ緊張感だ。
とにもかくにも、今年も3月は熱くなりそうだ。続報を待ちましょう。
ギャング・ギャング・ダンスの音沙汰がなくてやきもきしていた人たちは少なくないだろう。2011年に予定されていた来日公演は3月に起きた震災の混乱のなかで中止となり、当時の新作『アイ・コンタクト』以降のライヴを日本にいたリスナーは現在まで観ないままだ。運よくリリース直前のライヴをロンドンで観ていた身としてライヴの感想を述べるとすれば、電子機材の多さから音響の調整が難しいからなのかもしれないが、ローやリズムが迫ってくることもないけど、ウワモノが迫ってくるということもなく、そしてリジーのシャーマニックな歌やほかの生楽器が強いわけですらなく、なんともノリどころが掴めないものだった。「(ギャング・ギャングは)ライヴ・バンドだよ」とホット・チップのアレクシスに言われたけども、僕はむしろ反対の意見で、なにが足りなかったんだろうなんてふたりで話したこともある。
思うに、ギャング・ギャングにはちょっと整理が必要だった。丁寧なミックスで仕上げられたアルバムをライヴでそのまま再現するのは難しかったのだろうけども、再現以外の方法を図りかねてしまったというか。ブライアン・デグロウ(Brian DeGraw)によるシンセやエフェクトへの比重がおおきくなる一方で、生楽器とのバランスがとれないままライヴをしていた印象がある。ダンスのリズムを軸に置きはじめてから、それに絡めとられて動きづらくなっているんじゃないかとも。
そんなわけで、ブライアンのイニシャル名義の本ソロ作『サム/ワン』は、彼自身がやりたいことをバンドから離れたところで整理するなかででき上がったものとして受けとることができる。
内容はやっぱりブライアンお得意のシンセサイザー。エキゾチックな旋律の弦。エフェクトの効いたよくわからない楽器やヴォーカル。意味不明なサンプル。逆回転。相変わらず多用されるタムなどの打楽器。それらのチョップ、チョップ、チョップ。ループ、ループ、ループ。ディレイ、ィレイ、レイ……。リズムにはダブステップも感じさせつつ、ハウスやトラップを意識したような節もある。ギャング・ギャングの『セイント・ディンフナ』に入っていたインストを思いださせるし、そこから毒っぽい要素を抜いたら本作のサウンドになるのかもしれない。ブライアンが綺麗な水面に浮かぶ写真が象徴するように、やけにクリーンだ。初期からずいぶんと変化をしたが、本作を聴けば、バンドの変化とはつまりブライアンの変化だったのではないかと感じられる。
ウワモノにはメディテーショナルな趣もあるけど、ダンスのリズムがリスナーを浸らせない。どうせならダンスから離れたほうにおもいっきり舵をきってみるのも面白かったかもしれない。ソロ作ということでバンドよりもさらに吹っ切れた自由奔放ストレンジなサウンドを聴けるんじゃないかと期待していたら肩透かしをくらってしまうけど、とはいえ、最後の“クオンタム・ポエト・リディム”(量子詩リディム)の無邪気で楽しいヴァイブスを聴けば、子どもといっしょになって踊りたくなる。にくめない。
本作に参加しているゲスト・ヴォーカルは、ギャング・ギャングのリジー。そのレーベルメイトでもあったダグラス・アーマー。さらには、盟友のアレクシス・テイラー(ホット・チップ)とラヴフォックス(CSS)がおなじ曲で歌っている。同窓会っぽくて微笑ましいけど、さて、整理を終えて、次はどう動くのだろうか。