「Nothing」と一致するもの

第16回:貧困ポルノ - ele-king

 今年の英国は、年頭からC4の『Benefits Street』という番組が大きな話題になった。
 これは生活保護受給者が多く居住するバーミンガムのジェイムズ・ターナー・ストリートの住人を追ったドキュメンタリーである。が、ブロークン・ブリテンは英国では目新しくも何ともない問題なので、個人的には「なんで今さら」と思った。日本人のわたしでさえ何年も前からあの世界について書いてきた(その結果、本まで出た)のだ。UKのアンダークラスは今世紀初頭から議論され尽くしてきたネタである。
 が、この番組で英国は蜂の巣をつついたような騒ぎになった。デイヴィッド・キャメロン首相から『ザ・サン』紙まで、国中がこの番組について語っていた。よく考えてみれば、一部のコメディや映画を除き、あの世界を取り上げた映像は存在しなかったのである。
 なるほど。アンダークラスは本当に英国の蜂の巣だった。というか、パンドラの箱だったのである。みんなそこにあることは知っているが、蓋を開けるとドロドロいろんなものが出て来そうだから、遠くから箱を批判することにして、中をこじ開けようとはしなかったのである。
 当該番組がはじまったとき、メディアの多くが使ったのは「貧困ポルノ」という言葉だった。が、お涙ちょうだいの発展途上国の貧困ポルノと、アンダークラスのそれとでは質がちょっと違っていた。元ヘロイン中毒者や若い無職の子持ちカップル、シングルマザーといった「いかにも」な登場人物たちが生活保護受給金で煙草を吸ったりビールを飲んだり、犯罪を行ったりして生活している姿をセンセーショナルに見せ、国民の怒りを扇動している。と同番組は非難され、無知な下層民がスター気取りで自分たちの貧困を晒していると嫌悪された。
 が、彼らがそれほど「貧困」していないこともまた視聴者の神経を逆撫でした。「他人の税金で生きているくせに、薄型テレビを持っている」、「フードバンクの世話になってるわりにはビールを買っている」などのツイートが殺到し、「働かざる者、食うべからず」、「子供を育てる余裕のない者は、子を産むな」といった、昨今ではPCに反するので公言でないような言葉を文化人でさえ口にした。近年の英国でこれほど人々を感情的にさせた番組があっただろうか。と思っていると、C4の番組としては、倫敦パラリンピック開会式以来最高の視聴率をマークしたという。

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 昨年末、久しぶりに底辺託児所に行った。底辺生活者サポート施設には、もはやわたしが出入りしていた頃のような活気はない。労働党政権時代には政府の補助金のおかげで、PCスキルや外国語、アートなど様々のコースを無職者のために無料で提供していた施設が、保守党政権が補助金を打ち切ったためにコースを維持できなくなり、人が寄り付かなくなったという。
 元責任者アニーが引退してから、当該託児所は複数の責任者たちによって運営されている。そのうちのひとりがわたしのイラン人の友人であり、年末は人員が不足するだろうと手伝いに参じたのだが、子供の数はたったのふたり。常にガキどもで溢れ返り、粗暴で賑やかだったあの底辺託児所はどこに行ってしまったのだろう。
 「みんな、どこに行ってしまったの?」と言うと友人が答えた。
 「生活保護を激減されて、ここに来るバス代すら払えなくなってるんだよ」
 「じっと家にいるのが一番金はかからないけど、それって危険だね」
 「うん。玩具や食料を車に乗せて、気になる家庭を定期訪問しようっていう提案もある。経費の関係でどうなるかわからないけど」
 一般に、虐待や養育放棄などの不幸は閉ざされた空間で起きる。だから乳児や幼児のいる家庭を孤立させてはいけない。というのは、幼児教育のいろはである。ましてや食うにも困っている人々が子連れで閉じ篭っている状況はとても不健康だ。

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 放送開始当初は「英国の恥部。あの通りの住民を皆殺しにしろ」などというヘイトまで生んだ『Benefits Street』だが、放送が進むにつれ議論も進化した。左翼系の団体や文化人は一貫して「貧困者を社会の敵にしている」と主張し、同番組の放送中止を求めたが、変容してきたのは右翼・保守系の論調である。ふだんは、豪邸をあてがわれた生活保護受給家庭がいかに地域住民に迷惑をかけているかだの、子供ばかり産む下層女はけしからんだの書いているウヨク新聞デイリー・メイル紙でさえ、「『Benefits Street』は貧困者のモラルの無さを描いているのではない。彼らを作り出した社会制度がモラルに欠けていたということを示している」と書いた。
 わたしは日本にいた頃、ザ・スミスが歌っているから。という程度の知識で「サッチャーはダメだ」と思っていた。しかし、英国に住んでから彼女が犯した罪とは本当は何だったのかということがわかった気がする。それは、経済の転換によって犠牲になる人々を敗者という名の無職者にし、金だけ与えて国蓄として飼い続けたことである。
 アンダークラスの人々を知った当初、「24時間自分の好きなように使えるのに、どうして彼らのライフタイルには幅がないのだろう」と不思議に思ったものだった。しかし人間というものは、HOPEというものを全く与えられずに飯だけ与えられて飼われると、酒やドラッグに溺れたり、四六時中顔を突き合せなければならない家族に暴力を振るったり、自分より弱い立場の人々(外国人とか)に八つ当たりをしに行ったりして、画一的に生きてしまうものののようだ。
 「それはセルフ・リスペクトを失うからです」と言ったのは昔の師匠アニーだった。自らをリスペクトできなくなった人間に、もう国は貴様らを飼えなくなったから自力本願で立ち上がれ。というのは無茶な話だ。自力本願。というのは各人が自分の生き方の指針にすべき考え方であって、それを他人にまで強要するのはヒューマニティーの放棄である。自力を本願できる気概やスキルが備わっていない人間を路傍に放り出せば、英国だって餓死者が出る社会になるだろう。

 アンダークラスを生んだのは、サッチャーだけではない。PR専攻の人気取り政治に終始したトニー・ブレアもまた、ドラッグ・ディーラーの如くに無職者に生活保護を与え続け、麻痺させて黙らせていたのである。2005年にカイザー・チーフスが“I Predict A Riot”という曲で「裸同然の少女たち」が、「コンドームを買うために1ポンド借りている」だの「ジャージ姿の男に襲われている」だのと歌ったとき、「1977年のパンクから影響を受けたというバンドが、デイリー・メイルお得意の『衝撃のアンダークラス!』記事から書き写したような歌詞を書いている」と嘆いたのはジュリー・バーチルだったが、ブロークン・ブリテンと呼ばれる階級は顔のない集団悪として描かれることが多かった。『Benefits Street』関連で個人的に一番吃驚したのは、C4主催の討論番組で、若いお嬢さんが「こういう生活を送っている人々が本当にいるということに驚きました」と語っていたことだが、ミドルクラスの人々にとって下層の世界はカイザー・チーフスの歌詞ぐらい現実味のないものだったのだろう。しかし、ジェイク・バグのようなアーティストの登場や、『Benefits Street』のような番組により、ようやくアンダークラスの人々もインディヴィジュアルな人間としての顔や声を出しはじめた。
 そう思えば、UKのアンダークラスもまた、「そこにいるのにいないことにされていた人たち」だったのかと思う。世の中の癌であり、UKの恥部である階級が、自分たちと同様に個性や感情を持つ人の集まりであることを、この国の社会は認めたくなかったのだ。

 人間の恥部を晒すことがポルノであるならば、アンダークラスを撮った番組は貧困ポルノと呼ばれる宿命を負っていただろう。
 しかし、この貧困ポルノは「同情するなら金をくれ」と言っているポルノではない。彼らは金は貰ってきたのだ。そしてその金と引き換えに、それより大事なものを奪われてしまったのだ。

 イラン人の友人から電話がかかって来た。
 底辺託児所は春から家庭訪問サービスを始めるそうだ。
 資金は全くないのだが、車を貸す人や運転する人、玩具を貸してくれる幼児教育施設、食料を寄付してくれる店などが見つかったらしい。

 金だけではどうにもならないことを、金がないからこそ形にしていく人々がいる。
 これを市民運動と呼ぶのなら、UKの地べたにはその屋台骨がある。

Otto A.Totland - ele-king

 ポストクラシカルは、00年代的なアンビエント/ドローンのヴァリエーションである。ポスクラ特有の素朴な旋律はプレテクストな側面が強く、リスナーはエレクトロニカの電子音を摂取するように、生楽器(ピアノや弦楽器)の響きに耳を傾ける。ゆえにピアノのメロディは口実のように綺麗なアルペジオを奏でるし、弦楽器は音響的なレイヤー感を添えるのだ。

 結果、まるで西欧の片田舎のフォーク・ミュージックのような瀟酒な音楽が奏でられることになるのだが、しかしここにおいて歴史は(初めから)剥奪されている。先に書いたように、メロディや和声は一種の口実でしかない。聴き手は「響き」のアトモスフィアを味わう。その意味で、一種のポスト・モダン・ミュージックですらあった。歴史の無化と動物的な音響聴取。それこそエレクトロニカ以降のリスニング環境の特徴だろうし、ポストクラシカルとエレクトロニカはその点において繋がっている。そして、エレクトロニカ的なアンビエントにはチルアウトという意味もない。ただ、気持ちよい音を摂取すること。それゆえエレクトロニカ以降のアンビエントはドローンへと接続される。同じことはポストクラシカルにも言える。旋律やリズムが響きの中に溶け合うような感覚があるからだ。

 だが同時にポストクラシカルにはアンビエント/ドローンとは違う「わかりやすさ」がある。ピアノで奏でられるメロディは、多くの人の耳に届きやすいものだ。そもそもアンビエントとBGMの境界はつねに曖昧だ。ポストクラシカルのわかりやすさは時にBGM的な(一種のカフェ・ミュージック的な?)わかりやすさへと落ち着いてしまう。そこでは響きへのフェティッシュは、聴き取りやすい旋律の後ろに後退する。ヒーリング・ミュージックに安易さ/危険さに隣接すらしてしまうだろう。ポストクラシカルがエレクトロニカ以降の音楽的発展の中で反動的に聴こえてしまうのもカフェ・ミュージックとヒーリング・ミュージック特有の問題/危険性を内包しているからだ。

 しかし、ここ数年、ニルス・フラームら北欧の音楽家たちの活躍によって、ポストクラシカルは(ようやく?)、このような危うさから脱却しつつあるように思える。音楽と音響のちょうど良いバランス(と過激さ)を確立しつつあるのだ。重要な作品は、ニルス・フラームの2011年『フェルト』だろう。『フェルト』は、一聴、ローファイな録音だが聴き込んでいくと、ピアノ内部のハンマー音、鍵盤にタッチする音、ピアノと演奏者を取り囲む環境音などが渾然一体となっており、その素朴な精密さには聴き込むほどの感動がある。つまり密やかな音の中に、環境音やノイズを過激なまでに取り込んでおり、一筋縄ではいかない作品に仕上がっているのだ。現代のポストクラシカルは、単に素朴で綺麗なメロディを奏でるだけの音楽ではない。エレクトロニカ以降の、カジュアルなノイズ聴取環境以降に存在する音楽としてあるのだ。

 そこで、ようやく本盤の話だ。オット・A・トットランドのピアノ・ソロ・アルバム『ピノ』。この作品こそポストクラシカルの現在を考える上で重要なアルバムのように思える。

 オット・A・トットランドはノルウェイのアンビエント・ユニット、ディーフセンターのメンバーだ。ディーフセンターは、闇の中のカーテンから漏れる光のようにロマンティックな音楽性が特徴のユニットだが、ピアノ・アルバムである本作には彼(ら)の音楽に見え隠れする良質なセンチメンタリズムが前面に出た仕上がりになっている。リリースはポストクラシカル作品をリリースしつづけるベルリンのレーベル〈ソニック・ピーシズ〉から。初回盤は、いつものように限定450部のハンドメイド・ブック型ジャケットである(セカンド・プレス以降はカード・ホルダー・タイプ)。

 アルバムを再生すると、微かなノイズのむこうで鳴っているピアノの旋律が聴こえてくる。まるで90分ほどの小さな映画のテーマ曲のようなささやかな幕開け。録音マイクはピアノの中にあるハンマーの音から、その周辺の環境音までも繊細に捉えている、その儚くも優しい、しかし確かな存在感を感じる音。ああ、この音はどこかで聴いたことがある。ニルス・フラームの『フェルト』だ。事実、このアルバム『ピノ』はニルスのスタジオで録音されており、彼も制作に関与しているという(ちなみにディーフセンターの2011年作品『アウル・スプリンター』の録音にも、ニルス・フルームは関わっており、そのメランコリックな空気をさらに親密なものとして録音していた)。

 それにしても、なんという録音か。そのピアノの音はどこで鳴っているのだろうか。ほんの少し離れた隣家からか。それともこの部屋で、誰かが傍らで演奏しているのか。それとも数十年も昔に録音されたテープからか。それとも、未来からか。微かなノイズと、遠くにあるようで、しかし、自分の傍らで鳴っているようなピアノの音。どこか聴いたことがあるようで、まるで聴いたことのない音。夕方から夜にかけての光のようにメランコリックな旋律と残響。響きが溶けあうようなアンビエンスの芳香。やさしくて、優しくて、ささやかで、個人的な音。〈ソニック・ピーシズ〉はこれまでも素晴らしいモダン・クラシカル作品をリリースしてきたが、本作はその中での最高傑作ではないか。楽曲と録音と演奏が、極めて独自のレヴェルで共存/存在しており、そこから近年、なかなか聴くことのできない、極めて純粋な(個人的な)音楽が鳴っているように思えるからだ。

 同時に、この音は世界に対して開放されている。音楽をとりかこむ環境=音響を自然の共演者のように迎え入れているからだろうか。アルバムを聴く進むほどに、ピアノの残響は深く、音を包み込む。旋律が環境のアンビエンスに溶け込む。とくに11曲め“ジュリー”においては、(たぶん)録音していた部屋に入ってきたであろう鳥の鳴き声が見事に音楽の中に取り込まれているのだが、その瞬間こそ、ミュージックとアンビエントが見事に融合した瞬間である。そのアンビエンスは聴く者の耳に鮮烈な驚きすら与えてくれるはずだ。

 最後になったが、オット・A・トットランドの作曲家としての才能にも注目したい。はじめに書いたように、ポスクラにとってメロディは一種のプレテクストであり、それゆえ即興によるアンビエント効果を狙いすぎる傾向もある。しかし、本作の場合は、素朴ではあっても決して安易な雰囲気に逃げることなく、自分だけの旋律と和声を持った楽曲が、しっかりと作曲されている。もはやメロディは音響摂取のための口実ではない。これはとても重要な変化に思える。

 このアルバムは「作曲家オット・A・トットランド」が、自らの楽曲を世に問うた最初のアルバムなのだ。そのメランコリックで美しい楽曲の数々は、一人の才能あふれる作曲家の誕生を告げている。ささやかで、慎ましやかで、美しく、親密で、そして儚い曲の数々。だがしかし、たしかに、ほかにない静かな野心が蠢いている作品でもある。その独特の録音が、それを証明している。旋律、ノイズ、環境、響き、融解。これらのおぼろげな交錯の場としてのピアノ・アルバム。まさに、ニルス・フラーム『フェルト』以降、ポストクラシカルの豊穣な達成がここにある。

Wonder Headz - ele-king

 アシッド・ジャズというキーワードが京都に新しい空気を持ち込んだのはたしかだと思う。僕はそのときの京都の変化を何となく感じていたが、体験はしていない。大阪は新しいバンドが出てきてもいつも同じような気がする。なんか泥臭く、懐かしの大阪の匂いがする。昔は京都のほうがしっくりきたのになあ……。というわけでその秘密を解き明かそうと京都に住もうと思ったりもした。
 そんな折、ワンダー・ヘッズを聴いてみた。Nabowaのリズム隊ふたり(川上優、堀川達)がやっているこのバンドにはググっときた。生音コズミック・ディスコというか、ジョルジオ・モロダーとクラフトワークのブレンド具合が見事だと思う。
 若い人たちのなかにはジョルジオ・モロダーとクラフトワークは同じものと思っている人もいるかもしれないけど、このふたつは相反するものなのです。ジョルジオ・モロダーはポップの権化、クラフトワークはアートの権化というか。
 ジョルジオ・モロダーを引き継いでいるものといえばダフト・パンクをはじめ何百というアーティストがいるんですが、クラフトワークを引き継いでいるものといえばジョイ・ディヴィジョンくらいしかいないんじゃないか。偶像崇拝禁止。アートのために、いちばん儲かるはずのアーティストTシャツを売らなかった人たち。クラフトワークはポップスでしたが、ポップスを作ろうとしたことは一度もない、彼らは作品を作ってきていたのです。
 ワンダー・ヘッズにはそんなクラフトワークと同じ心意気を感じる。そんな部分が彼らの音楽を素晴らしいものにしている。ドラム、ベースという職人さんだからでしょうか。それとも京都という土地がそうさせるんでしょうか。
 そして、ワンダー・ヘッズは先に書いたようにクラフトワーク/アート的な部分だけじゃなく、ジョルジオ・モロダー的なポップでいなたい部分も持っている。いや、いなたくはないか、ジョルジオ・モロダーのいなたい部分をニュー・オーダーがアートの世界に持っていたのと同じ気品を感じる。このへんも、京都の職人さんの感じがするんだよな。
 すべてが終わった現代では、すべてが終わった都市で、職人さんが新しい文化を作っていっている。そして、それが新しい未来を作っていっている、なんてね。でも、大げさかもしれないけど、ワンダー・ヘッズのファースト・アルバムを聴いているとそんなことを考えてしまうのだ。Kenji Takimi、Prins Thomas、ALTZのリミックスも聴かなきゃね。

SEMINISHUKEI 「OVERALL "ALL OVER" MIX Release Party 」 - ele-king

 昨年、トーフビーツを取材して彼の口から出たもっとも意外な言葉が、〈SEMINISHUKEI (セミニシュケイ)〉だった。もし、00年代の東京のストリートに何が起きていたかを知りたければ、このレーベルを訪ねれば良い。ストリート・ミュージックとしてのヒップホップ、ストリート・ミュージックとしてのハードコア、ストリート・ミュージックとしてのハウス……などが混じっている。もし、快速東京が言うように、00年代の東京のリアルがハードコアだとするなら、このレーベルはその重要拠点でもあるので、まだ知らない人は知っておいたほうが良いですよ。
 OVERALLのミックスCD『ALL OVER』のリリースを記念してのパーティが週末にある。数ヶ月前にアルバム『Midnight Wander』を出した、DJ/トラックメイカーのブッシュマインドやレーベルメイトのDJハイスクールも出演。〈WD SOUNDS〉(大型新人、febbのリリースを控えている)からミックスCDを出しているWOLF24。ゲストには、我らが大将コンピューマ……と豪華なメンツ。
 しかも、入場無料、ドリンク代1000円のみという良心価格。夕方6時からやっているので、仕事帰りに寄れるし、週末は恵比寿リキッドルームだ!

SEMINISHUKEI 「OVERALL "ALL OVER" MIX Release Party 」

SEMINISHUKEI 「OVERALL "ALL OVER" MIX Release Party 」

release DJ:OVERALL
guest DJ:COMPUMA
seminishukei DJs:BUSHMIND / DJ HIGHSCHOOL
batbat DJ:WOLF24

2014.2.28 friday evening
Time Out Cafe & Diner[LIQUIDROOM 2F]
access
open/start 18:00-23:00
entrance free *1st drink charge 1,000yen(include music charge)

info
Time Out Cafe & Diner 03-5774-0440
LIQUIDROOM 03-5464-0800

概要→https://www.timeoutcafe.jp/news/140228000708.html



OLDE WORLDE
The Blue Musk-Oxen

Groundhog Records

Tower HMV

 これを男性が、しかも日本人が歌っているというのは驚きだ。気持ちよくのびる高音、透明度の高い中性的な声、そしてヴォーカルに負けず劣らずソングライティングも光る。
 シンガーソングライター沼田壮平によるソロ・ユニット、OLDE WORLDE(オールディ・ワールディ)。2010年のファースト・アルバム(『Anemone "Whirlwind"』)につづくセカンド・フルのリリース情報が届けられた。プロデューサーにスマッシング・パンプキンズ、ピート・ヨーン、ベン・リー、サニー・デイ・リアル・エステイト、トータス他を手掛けたブラッド・ウッド(Brad Wood)を迎え、ピート・ヨーンやザ・ポーグスのジェイムズ・ファーンリーもレコーディングに参加したという、充実の作品だ。
 先行曲“Thinking About You”は、NTTドコモCM「ドコモウェルカムキャンペーン」篇のCMソングとしても使用されていたので、「ああ!」という方もおられるかもしれない。ピート・ヨーンやベン・リー、ベン・クウェラー、あるいはデス・キャブ・フォー・キューティなどに比較できるだろうか。完成度の高いポップ・ソングと巧みな弾き語り、どこかミステリアスでさえあるクリアなヴォーカル、ポップ成分の足りない人には、この上質をお届けしたい。

■OLDE WORLDE、3月12日発売のニュー・アルバム『The Blue Musk-Oxen』よりシングル「Your Bird」のビデオが完成!
吉祥寺Star Pine's Caféでの東京公演も決定!

 ピート・ヨーンやザ・ポーグスのジェイムズ・ファーンリーも参加したブラッド・ウッドのプロデュースによる2年半振りのニュー・アルバム『The Blue Musk-Oxen』は3月12日リリース。2月19日からは「Your Bird」とNTTドコモCMソングとして使用された「Thinking About You」のデジタル先行配信も開始。

“Your Bird”

■「吉祥寺Star Pine's Café」ライヴ
OLDE WORLDE 2014 「The Blue Musk-Oxen」
会場:吉祥寺Star Pine's Café
日時:2014年6月6日(金) 開場18:00 / 開演19:00
問合せ:VINTAGE ROCK std. / 03-3770-6900(平日12:00~17:00)
www.vintage-rock.com

■OLDE WORLDE / バイオグラフィー
 OLDE WORLDE(オールディ ワールディ)は、シンガーソングライター沼田壮平によるソロユニット。中性的で無垢な純粋さを醸し出す浸透度の高い声、多彩な才能を感じる自由度の高いメロディと洋楽的サウンドが印象的。1983年、東京生まれ。2009年5月にOLDE WORLDEとして活動を開始。2009年11月に『time and velocity』でデビュー。2010年4月、ファースト・アルバム『Anemone "Whirlwind"』をリリース。同年の夏にはSUMMER SONICをはじめ様々なフェスティヴァル・イベントに出演。2011年7月、アートワークまで自身で手掛けたセルフプロデュースのセカンド・アルバム『THE LEMON SHARK』をリリース。同年の夏にはFUJI ROCK FESTIVALに出演、ワンマンライヴも実施。また、Predawn、Turntable Filmesとの自主企画「POT Sounds」で全国ツアーもおこなった。LIVE活動を続けつつ、2013年、プロデューサーにスマッシング・パンプキンズ、ピート・ヨーン、ベン・リー、サニー・デイ・リアル・エステイト、トータス他を手掛けたブラッド・ウッド(Brad Wood)を迎えて、米ロサンゼルスでレコーディングを実施。先行曲「Thinking About You」は、NTTドコモCM「ドコモウェルカムキャンペーン」篇のCMソングとして使用された。

■アーティスト・ホームページ:https://oldeworldemap.com/index.html


D/P/I - ele-king

 昨年末からLAのマシュー・サリヴァン及びアレックス・グレイ邸を間借りし、僕がボングを銜えたまま猫を揉んだりしている間に、この男は2枚のアルバムを仕上げてしまった。

 アレックス・グレイは基本的に一日中喋っている。こちらがノー・リアクションでも自身のギャグに爆笑するような底抜けにハッピーな男である。先日、26歳の誕生日を場末のバーで愉快な仲間たちに祝われスパークするグレイ、具体的にはショーン・マッカンとともにカラオケでサブライムを熱唱する泥酔グレイを眺めながら、この男が絶好調であることを確信した。そう、LAのローカル・メイトの誰もが昨今のD/P/Iのサウンドがネクスト・レヴェルへ達したことを確信している。

 同じ屋根の下で暮らすマシュー・サリヴァン、ショーン・マッカンが得意とするミュージック・コンクレートをディープ・マジックを通して消化したグレイは自身のジャングル・ミュージック・バッグ・グラウンドと近年のフットワーク・ビートへの傾倒を披露する。D/P/Iの本作『08.DD.15』はもちろん〈リーヴィング〉から。盟友Ahnuuと激しく共鳴しながらロー・エンドに群がるキッズたちの耳にトラウマ・グルーヴを刻み込んでいる。先日のテープお披露目ショウでも静寂の間を音源以上にフィーチャーし、フロアを置いてけぼりにしていたのが記憶に新しい。というのは昨今のD/P/Iのサウンドが〈リーヴィング〉に代表されるニューエイジ・ビートからのさらなる飛躍でもあるからなのか。

 マシューデイヴィッドはよりポジティヴなニューエイジを、キャメロン・スタローンは新たに始動したソロ名義とゲド・ゲングラスとともに主宰する〈ダピー・ガン(duppy gun)〉でよりアフリカン・ルーツを掘り下げているのを横目に、グレイはその独自の軽薄なキャラを体現するかのように彼等が手を出してこなかったフットワークやジャングルを波乗りしているのだ。その軽薄さゆえ、本人が意図しないまでもD/P/Iはヴェイパー・キッズから熱いラヴ・コールを受けているのは必然なのかもしれない。それまでマシューとキャメロンの影響下にあったグレイは彼等を触発するほどに成長したことは間違いない。それは今後のサン・アローのサウンドに顕著に表れてくるだろう。

 そしてこの〈リーヴィング〉からのテープにダメ押しをかけるかのごとく〈ブーム・キャット〉からの12”がリリースを間近に控えている。確実に期待して良し。

 この国のファンクと歌謡曲の水脈の豊かさ、ことばのしたたかさと毒々しさ、社会を低い地点から観察するあたたかいアイロニー、したたる哀愁、洗練された諧謔精神、そして心とからだをじっとりと侵食してくるグルーヴ。僕はその日、面影ラッキーホール改めOnly Love Hurts(以下、O.L.H.)が表現する、それらすべてに激しく興奮し、心を打たれた。たまらなかった。
 いまだにあの日のライヴのことを思い出すと、胸がざわつき、ニタニタしたり、真顔になったりしながら、人に語りだしたくなる。小器用に格好つけるだけでは到達できない次元に彼らはいた。僕は久しく忘れていた、いや、忘れようとしていた感覚を思い出し、その感覚を肯定する気持ちになれたことを、O.L.H.に感謝しなければならない。

 ヴォーカルのaCKyのいかがわしくも愛らしい風貌とニヒルなMC、哀愁が滲み出した歌ときわどい歌詞と物語は、そこら中に転がっている、なんでもなくどうしようもないけれど、何かではある人生の寄せ集めそのものだった。公序良俗からはみ出してしまう気質。aCKyの存在と表現は、そういう抗し難い気質と性分としか言いようのないものからできているように思えた。 
 じゃがたらもビブラストーンもリアルタイムで体験できず、口惜しい思いをしている、遅れてきた世代のジャパニーズ・ファンク・フリークや、喉の奥に魚の小骨が引っかかったような、社会に対する違和感を抱えながら毎日をやり過ごしているぐうたらな不満分子は、O.L.H.を聴いてライヴに行くべきだと声を大にして言いたい。
 純愛、背徳的な愛、不幸な愛。ふしだらな性、性の悦楽。都会と田舎。渋谷のクラブの喧騒と場末のスナックの倦怠。階級、貧困、身体障害。ドラッグ、DV、児童虐待……。ヴォーカルのaCKyが取り上げる、こう書くとずいぶんと重たいテーマすべてを貫くのは、意地悪くもあたたかい人間観察と情熱的ニヒリズム、スケベ心、黒人音楽――ソウル、ファンク、ジャズ、R&B、アフロ――と歌謡曲への偏愛とその探求だった。

 うん、どうにもこういう書き方では、O.L.H.のいち側面を伝えているだけになってしまう。O.L.H.の華やかなステージングまでは伝えられない。なんてったって、O.L.H.は派手で、愉快で、ダンサンブルな集団なのだ。会場をバカ騒ぎさせて、笑いながら泣かせる演奏と歌をキメるプロなのだ。トランペット、サックス、トロンボーンを縦に横に動かすキュートな振り付けと艶やかな女性コーラス隊ふたりのキレの良いダンスの対比などは見事なもので、その光景はなんとも贅沢だった。会場の一体感というものに、胡散臭さを感じなかったのも久しぶりだった。
 主役のaCKyは、ピンク色のスーツとハット、薄いスモークがかかった妖しげなサングラスをかけて登場した。スーツはおそらくダブルだった。違ったかもしれない。とにかく、全身、眩しいまでのショッキング・ピンクだった。映画『ワッツスタックス』で観ることのできるルーファス・トーマスと初期・米米クラブのカールスモーキー石井と70年代のNYのギャングスタかピンプをミックスしたようなファッションといでたちだった。華やかなアーバン・ライフに憧れる地方出身者を戯画化しているようにも見えたし、まさにあのファッションがO.L.H.のリアリティとも感じられた。いや、どちらが真実だとかはどうでもいい。ウソとホントの境界線をぼやかしているのが、aCKyとO.L.H.の本質ではないかと思うからだ。

 生々しい物語をときにひっくり返る声で咽び泣くように歌い、セクシーな女性コーラス隊が空間を広げ、最高にグルーヴィーでエロティックな演奏を高いレヴェルでびしっとキメ、本物なんてクソ喰らえ! と舌を出す。スライもダニー・ハサウェイもディアンジェロも山口百恵もPファンクもモーニング娘。も、彼らがやるとすべてが素晴らしくいかがわしくなるのだ。ギター2人、ベース、ドラム、パーカッション2人、キーボード、コーラスの女性2人、サックス、トランペット、トロンボーン、そしてヴォーカルのaCKyという強力布陣から成るその日のO.L.H.がやったのは、そういう高度な芸当だった。
 “今夜、巣鴨で”、それから、まさにじゃがたらの“でも・デモ・DEMO”を彷彿させるアフロ・ファンク“温度、人肌が欲しい”へと展開するオープニングで一気にたたみかけると、aCKyはMCでギャグを連発した。「俺の方がヒップホップ育ちだよ」「ソールドアウトにはなれないけど、イル・ボスティーノにはなれるかな。イル・ボスティーノに失礼かwww」などなど。そして、“必ず同じところで”ではオールドスクール風のラップをかました(O.L.H.のドラマーは元ビブラストーンの横銭ユージだ)。その後も、ヒップホップ・ファンを意識したサーヴィス・トークは止まらなかった。

 そう、僕はここでもうひとつ大事なことを書かなくてはならない。その日の対バン相手は、田我流擁する山梨のヒップホップ・クルー、スティルイチミヤだったのだ。ある酔客のウワサによると、この対バンは、田我流のラヴ・コールによって実現したという。が、真相はわからない。いろんな幸運が重なったのかもしれない。とにもかくにも、O.L.H.の前にライヴをしたスティルイチミヤもまた、小器用に格好つけるのではなく、アウェイの雰囲気を楽しむように、山梨ローカルのバカ騒ぎをみせつけていた。
 デーモン小暮のようなメイクのMr.麿が歌謡曲から持ち歌までを絶唱しまくり、最後に田我流が、「新曲です」と言って、カラオケなのか、その曲をサンプリングしたトラックなのか、H Jungle with T「WOW WAR TONIGHT」の荒れ狂うビートの渦のなかでノリノリになって、大盛り上がりするパフォーマンスに至っては、見る側の気持ちも恥ずかしさを通り越して、爽快の域に達するほどだった。O.L.H.に対抗する俺たちのやり方はこれだ! という、この組み合わせにふさわしい、言うなれば、じつに潔い世代間闘争がくり広げられていた。黒人ができないドメスティックな方法論で音とことばを練磨することで、精神まで黒人化していくという逆説は、じゃがたら、ビブラストーンからOLH、そして田我流までが実践してきた共通テーマのように思えた。

 スロー・バラード、スウィート・ソウル、しっとりとしたジャジーな演奏から、猛烈なディスコ・ファンクへ。つねにいかがわしさを漂わせながら進んだO.L.H.の大人のナイト・ショーのボルテージはアンコールで最高潮に達した。袖から上下ピンクのスウェットで戻ってきたaCKyは、アンコールの2曲でステージ上で激しく飛んだり跳ねたり、踊りながらして服を脱ぎ捨て、最後はピンクのブリーフ一枚になり尻をむき出しにして、お客をこれでもかと煽り、去って行った……。もう最高だった。僕はことばを失い、ウーロンハイが空になったカップを口に咥えて、できる限り大きな拍手をO.L.H.に送ったのだった。
 
追記:この日、Jポップ/歌謡曲セットのDJで出演したセックス山口が、中森明菜のラテン・ナンバー“ミ・アモーレ”から槇原敬之のニュー・ジャック・スウィング“彼女の恋人”へと見事につないだ瞬間、僕はわおっ! と飛び上がり、彼がジャパニーズ・ファンクのなんたるかを全身全霊で表現していると思ったものだ。あの日の素晴らしいプレイをMIXCDでぜひ聴きたい!


Only Love Hurts


stillichimiya


SEX山口


Bruce Springsteen - ele-king

 911の回答としての『ザ・ライジング』(02)に象徴されるように、たぶん、いつもこの男の正しさ、立派さは同時に抑圧的だったろう。アメリカを巡る物語に、国外はもちろん、アメリカ人だってすべての者が参加しているわけではないのだから。テロリストに星条旗が焼き払われる映像が世界中に流されたとしても、すべての民が喪に服する義務があるわけではないだろう。911以降、(『ザ・ライジング』よりも時期的には後にはなるけれども)アメリカの価値観の揺らぎに肉薄している数々の表現に出会った僕は、スプリングスティーンのやり方は真面目すぎるように思えたのだ。
 だが、ダーレン・アロノフスキー監督作『レスラー』の主題歌を聴いたとき、僕ははじめてブルース・スプリングスティーンを本当に「いま」立ち上がってくるものとして感じられた。「持っていたものをすり減らしていく俺を見ただろう」……死んでいくかつての栄光に捧げる、せめてもの慈愛の歌。相変わらずメロドラマじみてはいたけれども、スプリングスティーンはそこで、老プロレスラーとともに終わっていくアメリカを背負うように見えたのだ。
 いや、その少し前、オバマの就任記念コンサートで、スプリングスティーンがピート・シーガーとウディ・ガスリーの“わが祖国”を歌うのを観ていたからかもしれない。“わが祖国”は国家としてのアメリカを讃える歌ではない。そこに住む、ピープルを讃える歌である。その数年前(06)、スプリングスティーンは『ウィ・シャル・オーバーカム:ザ・シーガー・セッションズ』を発表していたが、そんな風にして語り部としてかつての「人びとのアメリカ」を頑固に歴史の表舞台と接続しようとしているのならば、スプリングスティーンの使命感は機能していると思ったのだ。つまり、うるさい頑固親父としての。『レスラー』で親父は自らの老境を認めているようで、そしてその映画がアメリカで公開されるほんの数ヶ月前にリーマン・ショックが起こった。

 オバマ政権に対しても疑念が漂いはじめ、ウォール街デモから地続きのものとしての『レッキング・ボール』(12)における「We take care of our own(俺たちは自分たちで支え合う)」というスローガンには、だから、はじめ素直に頷いた。だが少しして、この「We」とは誰のことなんだろう、と思いはじめ、次に僕はアニマル・コレクティヴを聴いているようなドリーミーな若者のことを考えた。彼にこの「We」は響いているのだろうか? このアルバムで歌われる「希望と夢の国」がかつてのアメリカの理想として、それはもう消えていくものなのではないか? 「自由の鐘の鳴る音が聞こえないかい」……、それは、いつの時代の残響音なのか? スプリングスティーンの不屈さに鼓舞されると同時にいたたまれなくなるような、奇妙に分裂する感覚を僕は繰り返し聴くほどに覚えた。

 本作『ハイ・ホープス』は、11年に他界したクラレンス・クレモンズへの哀悼の意もあり、この10数年間からの録音を集めたものとなっており、その分コンピレーション的にカジュアルに聴ける面もあるかもしれない。だが、収録曲の3分の2にトム・モレロのギターがフィーチャーされていることで、音の主張は近作群よりも強くなっているようにすら思える。正しく、立派で、誇り高い。ドリーミーな若者たちには、彼らが愛でるノイズよりもこのアルバムが文字通り騒音的にうるさく聞こえるだろうが、だからこそスプリングスティーンが歌う意味がある。つまるところ、頑固親父がいる彼らのことが、僕は羨ましいのだ。ギターがエモーショナルに泣きわめくような“ザ・ゴースト・オブ・トム・ジョード”辺りになってくるとさすがに疲れてくるけれども……しかし、最良の瞬間はその次にやって来る。シンプルでウォームなフォーク・バラッド“ザ・ウォール”はスプリングスティーンがヴェトナム戦争で喪った音楽仲間に捧げられており、この個人的な歌はもちろん、戦争とつねに隣り合わせにあるアメリカ国家に対する静かな怒りでもある。ここでも頑なに、スプリングスティーンは無名の人間の生をアメリカ史と繋げていく。そうだ、彼の正しさにはなお、素朴な思いやりがこめられていて、だからこそ多くのひとが彼の声に耳を傾け続けるのだろう。
 そしてまた、続くラスト・トラックであるスーサイドのカヴァー“ドリーム・ベイビー・ドリーム”が暗示的だ。何かを振り払うようかに「カモン、ベイビー、夢を見続けよう」と繰り返される呼びかけ。これは『デヴィルズ・アンド・ダスト』(05)の頃のツアーでよく歌われた曲だというが、2005年といえばまだブッシュ再選の記憶も新しい頃で、そこでスプリングスティーンが言う「夢」はつまり気高き理想、やがて来るべき「change」のことだったろう。けれども、アメリカが落ちぶれていくこの10年のなかで、夢の意味は傷つきやすい若者たちが外界から身を守るためのものへと変容したのではないか? 僕はそのことにスプリングスティーンが気づいていないとは思えない。しかしそう知ってなお、この曲をアルバムの締めくくりに……この10年の終曲に選んだのではないか。いまでも共有できる夢があるのだと、「We」は支え合えるのだと。

 僕はいま、このアンビヴァレントで煮え切らない文章をどう終えようか決められずにいるが、ただ、ピート・シーガーの冥福を祈りたい気持ちはとてもシンプルに自分のなかにあって、だからそのことを書いておこうと思う。少なからずアメリカ文化から影響を受けてきた自分のような人間がいま、ピート・シーガーの遠い末裔のように錯覚してしまうのは……スプリングスティーンのせいでもある。

#2 泉まくら - ele-king

泉まくらとヒップホップ

 ご存知の方も多いかと思うが、泉まくらはヘッズだ。

泉:当時好きだった人が餓鬼レンジャーとラッパ我リヤのCDを貸してくれたんですよ。それが日本語ラップを好きになったキッカケですね。中高生の頃は吹奏楽部にいたんですけど、日本語ラップはわたしがそれまで聴いてきたどんな音楽とも違っていて、とにかくカッコよかった。

 僕が彼女に興味を持ったのは「わたしは日本語ラップを愛している」という主旨の発言を何かのメディアで読んだときからだった。

泉:とはいえクラブに行ったりはしませんでした。苦手なんです。わたしはCDを集めて、1曲の中で山田マン(ラッパ我リヤ)が何回韻を踏んでいるか数えたりするようなタイプ(笑)。ラップにはいろんな魅力があるけど、わたしが好きなのはガシガシ韻を踏むところ。韻踏(合組合)とかMSCとかも大好きです。ヒップホップには「like a ~」って表現が多いですよね。あれって普通のポップスにはあまり出てこない表現だと思うんですよ。ああいう表現って、明らかに韻を踏むための言葉選びですよね。それがダジャレみたいでダサいって人もいるけど、わたしにはカッコいいものに思えました。

 彼女が作り出す音楽や雰囲気は、ステレオタイプな日本語ラップのイメージと到底結びつかなかった。

泉:賞とかは一回も獲ったことはないですけど、昔から小説を書いていて。物語的な起承転結はあまりなくて日常の機微みたいなことを書いていました。だいたい同年代か少し年下の女の子と男の子の話が多いですね。“balloon”の歌詞はわりと自分が書いている小説に近いかも。小説的な世界観を表現するという意味で、日本語ラップの文字数の多さもわたしにとってすごく魅力的でした。あと、ラップだと普通の日常のなかにあるどうでもいいことや、テレビに出てる人たちの何気ない一言がパンチラインになり得るんですよ。なんでもない日常を韻を踏んで歌うことで、いくらかの人にグッときてもらえるのはすごく楽しい。

泉まくら “balloon” pro.by nagaco

 泉まくらを発掘したレーベル〈術ノ穴〉を主宰し、自身もトラックメイカー・デュオFragmentとして活躍するKussyは彼女をこう評す。


泉まくら
マイルーム・マイステージ

術の穴

Review Tower HMV iTunes

Kussy(Fragment):作品を制作する上でアーティスト自身のバックボーンがとても大切だと思うんです。泉はヒップホップがどういうものかということを感覚で理解しているのが大きい。ラップを使って表現する人は多いけど、彼女はヒップホップとしてのラップで表現するんです。たとえば、EVISBEATSさんがトラックを作ってくれた“棄てるなどして”って曲があるんですけど、このタイトルは雑誌から取ったものらしいんですよ。

泉:家に「部屋を片づけましょう」みたいな冊子があったんですよ。そこに「部屋は定期的にいらないものを棄てるなどして~」みたいな文章があって。その「棄てるなどして」が引っかかったんですよね。漢字も含めてそれをそのままサンプリングして、リリックを書き上げていきました。

 トラックメイカーが膨大なレコードの中から使えるブレイクを探してループを組み上げていくように、彼女は目に映るあらゆる言葉から使えるフレーズを探して、リリックを書く。

泉:(韻を)踏みたいけど、ダサくなるのは嫌。だからいまのスタイルになったんです。べつにわたしのヒップホップ愛は、みんなに伝わらなくてもいいんです。けど、誰かが「あれ!?」って気づいてくれたらおもしろいかなって。

泉まくらというプロジェクト

 日本語ラップの何が泉をそこまで惹き付けたのだろう?

泉:昔から自分に自信を持てなかったんです。プライドが高いわりに何かをできるわけでもなくて、とりたてて容姿がいいわけでもない。それに小学校の頃、上級生にちょっといじめられたりもして、徐々に「自分には何もないんだ」って思うようになったんです。でも、中高でやってた吹奏楽はけっこういい感じで。練習もすごいして、部員の中では誰にも負けないくらい演奏できるようになってました。音楽ならやれるんじゃないかって気にもなってたんです。だから、高校を卒業したら音楽の学校に行きたかった。そしたら、親に反対されて。「お前、音楽学校なんかに行って将来どうするんだ?」って言われたときに、何も言えなかったんですよ。いま思えば、親に反対されて諦めるくらいだから、そのときは「音楽でのしあがっていく」なんて意識はなかったでしょうね。その程度のものだったんです。でも当時のわたしにとって、それは挫折でした。音楽の道が断たれてしまったことで、また自信のない自分に戻ってしまったんです。それで高校を卒業して親に言われるがままに就職しました。ちょうどその頃に日本語ラップと出会ったんです。
 ヒップホップを聴いていると自分が強くなれたような気がして。自信を持てないその頃のわたしは、ずっとヒップホップを聴いてました。でもそのときは自分がラップするとは思ってなくて、このまま普通に働いて、貯金して、みたいな感じで人生を過ごすのだろう、と感じていたんです。でも、途中でそういう生活のなかにいることに対して、疲れちゃったんですよ。わたしは自分ががんばっていることが目に見えた形で残らないと嫌なタイプで。仕事をしているときはそういう部分で結構無理をしていました。そしたらふとした瞬間に「わたしはなんのためにこれ(仕事)をやっているんだろう?  何が楽しいんだろう?」って思っちゃって。そしたら精神的にガタっとくずれちゃって。認められないとダメと思っていたというか、誰かがいいって言ってくれないと自分のやっていることは正しくないんだ、足りないんだって思いがあって。だからラップをはじめた頃も人にとやかく言われるのが本当に嫌でした。いまはもうそうでもないですけど。もちろん「いい」って言ってもらえれば嬉しいですけどね。でも、そのことで一喜一憂はしない。

 では学生時代の泉まくらはどんな人物だったのだろう。深いカルマを背負った人間だったのだろうか?

泉:ぜんぜん(笑)。吹奏楽部では副部長してたし、誰とでも喋れるわけじゃないけど普通に明るくて友だちもいっぱいいました。でも大事な場面で人と合わせられないというか。たとえば、ここはあなたが「うん」と言えばすべて丸く収まりますよ、みたいなシチュエーションで「うん」と言えないことが多い(笑)。でも、なんかそれでも許されるような気がしたのがヒップホップだったかな。ヒップホップはなんでもありじゃないけど、なんていうか楽しめそうっていうか……。ありのままを許容してくれるような感じがしました。

 そんな彼女がラップをはじめたのは、友人の何気ない一言だったという。

泉:ラップ自体はずいぶん前からやってみたいと思っていたけど、思っていただけというか。「いいなー、いいなー。男の人はいいなあ、こんなことができるのかあ。カッコいいなあ」ってずっと思ってたんですよ(笑)。でもそういう思いをふつふつと溜めていただけで、なにも動いてはいませんでした。そしたら友だちが「やりたいんだったら、まず録ってみるといい」ってインスト集をくれたんですよ。そのインストに合わせてラップをはじめたのがきっかけですね。2011年かな。

 彼女が日本語ラップに見ていたカッコよさと、彼女のラップのカッコよさは明らかに異なる。本人いわく「ふつふつと溜めていた」思いはラップをはじめることで発露されたのだろうか?

Kussy:泉が最初に書いた曲はファースト・アルバムの『卒業と、それまでのうとうと』にも入っている“ムスカリ”って曲で。アルバムではオムス(OMSB)くんにトラックをお願いしているんですが、原曲はBLACK MILKのインストに泉がラップを乗せているんです。その曲なんかは、リリックがめちゃくちゃハードで(笑)。この子はトラックありきなんですよ。リリックはトラックからインスパイアされて書いているんです。

泉:いまのわたしのスタイルから考えると“ムスカリ”はぜんぜん違いますよね(笑)。鬱々とした思いは自分のなかにあったんだけど、“ムスカリ”を作ったことでそれが膿として出ちゃったというところはあるかな。でも、自分としてはそういうハードな曲が「もういいや」ってなってるわけじゃなくて。最初にもらったBLACK MILKのインストからインスパイアされたものがたまたまそういうかたちだったんですよ。そして次にもらったトラックがたまたま“balloon”だったというだけです。あのトラックでハードなことをするのも違うし。本当にわたしのリリックはトラック次第なんですよね。

 では、“ムスカリ”以降の曲は自身のパーソナリティが反映されたものなのかと訊くと……。

泉:自分としてはけっこう「作ってる」イメージですね。ドキュメントというよりは小説に近いというか。自分の感じたことももちろんあるけど、それは全体の20%くらい(笑)。トラックを聴いて感じたテーマを自分の頭の中で膨らませていって、わたしだったらこういうときにどう考えるか、どういう景色が見えるのかって考えてリリックにしていきます。そこに伝わりやすい言葉を選ぶ作業を足す。

Kussy:泉は“balloon”で才能が開花したんです。そのトラックを作ったのがnagacoってプロデューサーでした。彼が泉の才能を引き出したんだと思います。だから『卒業~』も『マイルーム・マイステージ』もメイン・プロデューサーはnagacoで行こうっていうのがみんなの共通認識でした。でも全部nagacoが手掛けてしまうのも、つまらないじゃないですか。だから泉のそういう資質も鑑みて、MACKA-CHINさんやEVISBEATSさんのようなヒップホップ寄りの人から、kyokaさんみたいなエレクトロニカ寄りの人までいろんなプロデューサーと組ませてもらって、彼女のいろんな引き出しを開けてもらおうと思ったんです。そういう意味では「泉まくら」はみんなの共同プロジェクトみたいな部分もけっこうあるんですよね。

泉:今回のアルバムはたしかにバラエティに富んでいて、ラップもいわゆるまくら節みたいなものはないと思うんです。でも、それはひとりの人間のできることがひとつじゃないのと同じように、トラックを聴いたときに思い浮かぶこともひとつじゃないから、まくら節みたくならないのは、わたしとしては当然のことだと思っています。

MACRA-CHIN

 しかしコラボレーション作業は口で言うほど簡単なものではないようだ。

泉:“真っ赤に”の制作は本当に大変でした。いままでいちばん悩んだ曲かもしれない。あんなふうに「ずっちゃちゃずっちゃ」って鳴るビートをわたしはいままで聴いたことがなくて。「どうしてくれようか?」みたいな感じでしたね……。

Kussy:MACKA-CHINさんからまくらの声がああいうラヴァーズっぽレゲエ風のビートに合うんじゃないかと。

泉:でもMACKA-CHINさんから来たトラックのファイル名が「MACRA-CHIN」(まくらちん)ってなってたんですよ(笑)。それ見たら「頑張ろう」って思えて、タイトルをMACKA-CHINさんと「まくらちん」から連想して「真っ赤に」にしたんです。そこからいろいろイメージを膨らませていきました。

 赤はとても女性的な色だと思っていた。ルージュやマニキュア、そして生理。どろどろとして女性の情念のようなものが込められているリリックかと思っていたが、ふたを開けてみれば元ネタはMACKA-CHINがつけたかわいらしいファイル名だった。

泉:たしかにいろんなトラックをもらえるのは嬉しいですよ。わたしはつねにトラックと1対1で向き合ってたいんです。それを続けた結果、いまのようになったというか。“新しい世界”みたいなトラックと“真っ赤に”みたいなトラックをいっしょにもらえるラッパーって少ないと思うし。わたしがそういうふうにもらえるっていうことは、「できるだろう」って思ってもらえてるのかなって。だからわたしとしてはつねに柔軟でいたいんですよ。「これはわたしの感じじゃない!」とかっていうよりも、いろいろなことを試して楽しみたい。

Kussy:泉はいま、いろんなビートをもらって、「こんなのが書けたんだ!」みたいな感じで自分のなかのいろんな才能に気づいている段階なんです。でも、唯一書けかったのは食品まつりってトラックメイカーのビートで。『160OR80』にも参加していた人でジュークのトラックなんです。泉は楽譜が読めるぶん、ジュークの変則的なビートは苦労するみたいで。いまも挑戦している最中なんですけど。

泉:聴いてるぶんにはカッコいいんですけどね(笑)。そこに自分が入ると思うと、なかなか……。

 泉の挑戦はいまも続いている。

マイルーム・マイステージ

 『マイルーム・マイステージ』というタイトルを聞いたとき、これはCDを出す以前の彼女のことなのではないかとわたしは思った。自分の部屋をステージに見立てて、「強くなれるヒップホップ」に憧れながら、コツコツとラップを録り溜めているような。

Kussy:たしかに彼女は「部屋感」のある人というか、引きこもり感のある人ですからね(笑)。レコーディングも自分の部屋でやってるし。

泉:でも引きこもっているかと訊かれれば、いまのわたしは意外とそうでもないんですよね。精神的にまいっていた時期は、「やっとベランダに出られた」みたいな状況だったこともあったんですが。

 アルバムの冒頭でも宣言される『マイルーム・マイステージ』というコンセプトはどのように生まれたのだろうか?

Kussy:『マイルーム・マイステージ』というコンセプトを最初に決めて制作をはじめたわけではないよね。

泉:あのコンセプトに関しては、何曲かリリックができて、その歌詞を読んでいて「あたしはいま部屋にいるんなだな」って感じたんです。そこから「マイルーム」というキーワードを思いつきました。でも「マイルーム」だけだと、あまりに限定的な気がしたので、何かないかなと思って考えて「マイルーム・マイステージ」という言葉に行き着いたんです。しかも、アルバム冒頭の朗読は最後に入れましたし。最初はラップのアカペラにしようって考えてたんですが、「これからこういう感じでやりますよ」っていうのが伝われば朗読でもいいのかなって思って、あの感じにしたんです。

 ドキュメントではなくあくまでフィクション。大島智子のヴィジュアル。彼女のリリック。ヴァラエティに富んだサウンド。『マイルーム・マイステージ』は作品として完成されている。

Kussy:僕の中では構成とかアルバムの長さとかのバランスは完璧ですね。

 オルタナティヴなヒップホップ・アルバムに仕上がった『マイルーム・マイステージ』。彼女は自分がプレイヤーになったいま、日本語ラップのシーンを意識したりするのだろうか?

泉:どっちでもいい……。

Kussy:でも「泉まくらはJ-POPじゃん」って言われるのも寂しいでしょ?

泉:そうですね。とは言え、自分がどう観られたいとかっていうのもぜんぜんないです。つねに全力でやれば誰に何を言われようとも大丈夫かなって。でも、「泉まくらはラップしなくていいじゃん」とか、「アイドルみたいな女の子ラッパーになればいいじゃん」とかって言われることもあると思うんですけど、そこは意地っていうか。わたしは音楽がやりたいわけであって、アイドル的な存在になりたいわけじゃないんですよ。「やっぱりイケてる女子になれない」っていう自分のスタンスが、わたしはけっこう気に入ってる(笑)。

Kussy:自分のイメージとしては、いまの泉まくらを保ちつつ進化してポップ・シーンにまで届くようにすればいいかなと思っているんです。いま、泉はアニメの仕事をしていて、菅野よう子さんとmabanuaさんと曲を書いてるんです。レーベルの僕らとしてはできるだけ、彼女にたくさんの可能性を作って、そこから彼女自身の新しい引き出しを開けてもらえればと思っています。そういえば昨日、イラストをやってもらってる大島智子からメールがあったんですよ。彼女が“candle”で初めて前向きな女の子が描けましたって内容で。これは彼女が楽曲から自分の違う引き出しを開けてもらったってことだと思うんですよ。そういう意味でも泉くらっていうのはみんなにとってのプロジェクトであり作品なんですよね。関わっている全員が楽しんでいて、本当にすごくいい状態です。

泉:……本当ですか!?  知らなかった。嬉しいな。

カフカ鼾 - ele-king

(1) ジム・オルークにとって音楽は、大きく3つのタームに分けられる。1.実験音楽、2.即興音楽、3.ポップ音楽である。オルークはこの3つの領域を横断しながら、ときにミックスするように、ときに全く別の次元で演奏するように作品を生みだしてきた。この3つはそれぞれオルークのアルターエゴを形成するものでありながら、同時に彼そのものであった。「ジム・オルークの考える音楽のすべて」だ。

(2) そして、ジム・オルークにとって音楽の歴史はすでに終わったものである。それが彼の強烈な批評性であり、音楽への愛の証といえよう。過去にこれほどまでに厖大で素晴らしい音楽がある以上、新しい音楽など作る意味はあるのか。ジョン・フェイヒーもデレク・ベイリーも、レッド・ツェッペリンもヴァン・ダイク・パークスも、高柳昌行も小杉武久も、武満徹もメルツバウもすでに存在するのに、いまさらどんな音楽を作れというのか。

(3) 同時にジム・オルークは音楽家である。彼は批評家ではない。新しい作品を作り、演奏をする人間だ。先の批評性は、強烈な自己批評性へと転化し、その矛盾を乗り越えようとする動きが彼に音楽を作らせる。どんな楽曲を作るべきか。どんな音を奏でるべきか。ソロ名義のアルバムが00年代以降、急速に減っていくのも、自己批評性・自己吟味の表れであり、00年代以降、インプロヴィゼーションやコラボレーションが増えてくるのも、即興や共闘こそが新しい音楽が生まれ出る可能のひとつとジム・オルークが認識しているからだろう。たしかに、出会いと即興は同じことを繰り返してはいけない。そこでは反復すら反復ではない。

 2014年早々、カフカ鼾のアルバム『Okite』が発表された。カフカ鼾は、ジム・オルーク(シンセ・ギター)、石橋英子(ピアノ)、山本達久(ドラム)ら3人によるインプロヴィゼーション・バンドである。彼らはカフカ鼾結成以前から別バンドやユニットなどでレコーディングを繰り返していたが、その活動のなかで自然発生的にカフカ鼾として録音するようになったという。バンドキャンプに2012年頃の音源も上がっているので必聴である。また、オルークと石橋、山本に、須藤俊明、波多野敦子、千葉広樹を加えたマエバリ・ヴァレンタイン(!)も活動中だ。

 本アルバム『Okite』は、2013年6月にジム・オルークが自身の音楽歴を総括する連続コンサート〈ジムO 六デイズ〉におけるカフカ鼾のライヴ録音である。同コンサートは初期の実験音楽から名作『ユリイカ』なども含めたオルークの音楽活動を総括したもの。そのコンサートのなかでカフカ鼾はオルークの新バンドとして登場し話題を呼んだ。オルーク自身も6日間に渡るコンサートのなかで最も思い入れが強い演奏と語っている。その後、彼自身がミックスを手がけ、アルバムとして完成した。

 言うまでもなく本作は、先の3つのタームでいえば即興音楽の部類に入る。事実、石橋英子の硬質なピアノ、微分的にリズムを刻む山本達久のドラムに、ジム・オルークの微かなギターとシンセが絡み合う38分間の濃密なインプロ演奏を記録した盤である。石橋のミニマル/リリカルにして鋭利なピアノはその都度、新しい音楽を生成し、山本の常人には絶対不可能なリズムの分割感は、他にはない圧倒的なグルーヴを演奏に与えている。そんな超絶インプロヴィゼーションの横溢のなかで、まるでスティーヴ・ライヒとシャルルマーニュ・パレスタインが衝突しあうような驚異的な音楽が生まれているのだ。

 そして、ジム・オルークの演奏は、彼らの演奏のあいだに、もしくは違う層に存在しているように思われる。だがそれは演奏に介入する異物というわけではない。そうではなく二人の圧倒的なプレイとは違う場所で、でもたしかに、同じ時間に鳴っている音という印象なのだ。これはどういうことか。これまでのオルークのインプロヴィゼーションにおいて、そのような音の質感や運動はあまりなかったと私は思う。

 オルークは、即興と作曲を同時にしているように私には思えるのだ。即興と作曲の同時生成。実際、本盤でのジム・オルークのシンセやギターの音は、彼の初期の電子音楽を思わせる。たとえば傑作『ディスエンゲージ』(92)や、近年発掘リリースされた初期音源集『ロング・ナイト』、そしてクリストフ・ヒーマンとの発掘コラボレーション作品『プラスティック・パルス・ピープル』シリーズ(1991年)を思わせる響きと構成、電子音の緩やかで乾いた持続、まるで水の底に沈むような音の質感、次第に盛り上がっていく物語的な構成力など共通点は多い(オルーク作品には「水」のモチーフが出てくるのだが、本作のジャケットもまたそれを感じさせるものだ)。

 先に上げたバンドキャンプの演奏よりも、その傾向は強まっているとも思う。もちろん自身の総括コンサート〈ジムO 六デイズ〉での演奏という作用もあるだろう。そして同じ人が演奏しているのだから、かつての作品と似たトーンがあるのは当然という意見もわかる。だが重要なのは、本作『Okite』において重要なのはジム・オルークの即興演奏と実験音楽の境界が少しずつ無化されてきた、という点ではないか。そもそも、コンポジションとインプロヴィゼーションはその根源においてじつは同じものではないか。

 あるインタヴューで「あの人と即興をやると、新しい音楽が浮かんでくるっていうのが成功」とジム・オルークは語っていた。石橋英子と山本達久が生み出す音が、ジム・オルークにそのような変化を与えたのは明白だ。そしてそんな彼らが、この演奏を正式なアルバムとしてリリースしたのも、何か特別なものが宿っているからではないか。それは何か。私見だが、ここには実験音楽と即興音楽が安易な融合ではなく、その二つが同時に生成しているような、非常に高度な音楽のように思えてしまうのだ。オルークは次のようにも語っていた。「私たちが作ったのは即興音楽じゃなくて、カフカ鼾の音楽。別のドラマーやピアニストだとできない、この3人だけの音楽」と。3人によって作曲と即興の差異が高密度に無化されること。ジム・オルークの音楽の現在は、このような領域へと至っているのかもしれない。実験音楽と即興音楽の新たな領域への「移動」。ジム・オルークという稀有な音楽家は、昨年の〈ジムO 六デイズ〉以降、「総括と包括」から、それらの「超克の時代」へと移行しているのではないか(オルークがバンドキャンプで過去の発掘音源をリリースしはじめたのも示唆的だ。)。

 そして、このカフカ鼾の最初のアルバムには、そんな「総括以降」の音楽がたしかに鳴っている。実験音楽・即興音楽、ポップ音楽の総括と超克。このカフカ鼾の最初のアルバムには、そんな空想すら確信に近いと思わせるだけの力があるのだ。微音から爆音まで、音楽が自在に生成し変化する。その自由さ、その豊穣さ。音楽の生成と即興と作曲。その音の気持ち良さ、演奏者のテンションの高さ。それらが高いレヴェルで絡み合うことで、誰も聴いたことのないようなインプロヴィゼーション/コンポジションが生まれているのだ。終盤、演奏はロック的かつダイナミックなミニマリズムへと至る。そう、ここからポップ音楽への距離は、そう遠くない。

 いつの日か、ジム・オルークという厖大な音楽記憶装置という存在は、実験音楽と即興音楽とポップ音楽という3つのテーゼを包括し、音楽史そのものを超克するような作品を作るだろう。その最初の「鼾」のような兆候が本作とはいえないか(ちなみにフランツ・カフカには「掟の門前」という短編作品もある)。そして、そのような大切な音楽=演奏が、ジムひとりだけではなく、3人の才能に溢れた音楽家とのコンビネーションによって生まれたという事実を私は何より嬉しく思う。3人だからこそ生まれた音楽、そのジョイフルな共闘。本作もまたアワー・ミュージックなのだ。1から3へ……。つまりは3のOkite!

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