音楽、映画、演劇、お笑い、プロレス、落語、歌舞伎、女装……更新されていく日本のポップ・カルチャーのフロンティアをつぶさに追い、丹念にドキュメントする一冊。まだ名づけられていない事柄に深くコミットし、取材と執筆を通して現場をつくり、リスペクトと共感をもってそれらをつなげてきた、真性の編集者/ライター九龍ジョーによる初の単著。
社会は変態の夢を見るか矢野利裕
九龍ジョーの初単著『メモリースティック』は、「1章 音楽と映画のインディペンデント」「2章 非正規化する社会と身体」「3章 格闘する記憶をめぐって」という3章からなる。ライター・九龍ジョーの持ち味は、刺激的なカルチャーをいち早く見つけてきては、それを紹介することだと言える。だからだろう、『メモリースティック』も、ネットなどの反応を見ていると、知られざる刺激的なカルチャーを紹介した、という受け取られかたが多いように思える。もちろん、間違いではない。というか、その通りである。しかし、本書に圧縮されたファイルを僕なりに解凍すると、その印象は少し変わる。膨大な固有名が詰まった『メモリースティック』を貫いているのは、おそらく変態‐性なのだ。
2章の最後「鏡になってあげると大島薫は言った」は、AVの話題からはじまって、リアル男の娘・大島薫が紹介される。この「ノンホル/ノンオペの男性にしてAV女優」という変態‐性こそが、本書の核心だと思う。大島をまえにして、九龍は言う。「彼女がそうであるように、ぼくたちも自分の欲望のポテンシャルを低く見積もらないほうがいい」と。つまり、「変態であれ!」ということだ。いつのまにか成立している社会や秩序や規範のありかたに目を奪われず、変態であれ!――このメッセージに、強く共感する。大島薫が登場する記事の直前、「「女装」のポテンシャル」と題された座談会では、松井周(劇団サンプル)、鈴木みのり(ライター)、Koyuki Katie Hanano(モデル・女装男子)、井戸隆明(『オトコノコ時代』編集長)が、それぞれセクシュアル・アイデンティティをめぐって言葉を交わしている。印象的なのは、馴染みのない人からすれば、大雑把に括ってしまうかもしれない「女装」のありかたが、当事者たちにとっては、それぞれ非常に微細な差異を持っているということだ。考えてみれば、当然のことである。座談会ではそのような、それぞれ固有の性のありかたが披瀝されている。ドゥルーズ&ガタリを参照する九龍が、「人間の数だけ「n個の性」がある」(「トランスするサンプル」)と言うとおりだ。だとすれば、これはマイノリティ/マジョリティという数の水準を超えて、すべての人に投げかれられるべき問題である。わたしたちは、自らの性をどのくらい解放/抑圧しているのだろうか。いつのまにか成立している社会や秩序や規範のなかで、自らの変態‐性を見て見ぬふりしていないだろうか。
九龍は、そもそも舞台芸術にトランスジェンダーの物語が多いことを指摘し、「ジェンダーという社会的構築物とセクシャリティとの間にすでに「演じる」という要素が入っている」(「トランスするサンプル」)と言う。九龍からすれば、わたしたちは程度の差こそあれ、みな変態である、その変態‐性を一般社会に馴染ませながら生きている、ということになる。いつの間にか成立した普通を「演じる」ことで、社会を生きている。これはなにも、性に限ったことではない。わたしたちは、あらゆる領域において、固有の生と社会的な生の偏差を演劇的に埋めている。九龍の舞台への関心は、おそらくここから来るのだろう。チェルフィッチュ、五反田団、サンプル、あるいは、落語やお笑い、プロレスにいたるまで、九龍にとって舞台芸術とは、わたしたちが抱く演劇的な真実とでもいうべきものを、現出させてくれる空間なのかもしれない。変態とは、「アブノーマルabnormal」を意味すると同時に、「メタモルフォーゼmetamorphose」を意味する。社会的・秩序的・規範的な生から脱し、なにか別の存在に変身する、その瞬間に顕わになる変態‐性を九龍は見逃さないだろう。固有の生と社会的な生が重なるその瞬間を、リアルな身体とキャラクターの身体の「二重性」を抱えたミスティコのその跳躍を(「ロロと倉内太のポップな反重力」)、立川志らくによる「これからは師匠(立川談誌‐引用者注)は自分の身体に入ってきて落語を喋るんだ」と思うことにした、というその発言を(「江戸の風の羽ばたき、立川談誌の成り行き」)、九龍は見逃さない。
『メモリースティック』が、知られざる刺激的なカルチャーを紹介した、というのは、その通りである。とくに1章で紹介されている、前野健太、松江哲明、どついたるねん、大森靖子、韓国のインディ音楽など……。九龍は、いまだ知られざるミュージシャンやクリエイターが一般的な認知を得ていく過程をリアルタイムでドキュメントしていた。しかし、その営みを単なる紹介として捉えないほうがいい。それはまさに、固有の文化が社会に認知されていく――その変態の瞬間を保存したものなのだ。九龍の『メモリースティック』はさしずめ、名づけえぬ変態たちを「名前を付けて保存」する作業だということか。「ポップカルチャーと社会をつなぐやり方」という本書の副題は、その地点から見るべきだろう。九龍は、「ドラマ性をはぎ取られた真空の位相でこそ、「正しい」も「間違い」も「真面目」も「でたらめ」もすべてが可能になる」(「現実を夢見る言葉の位相」)と言うが、変態‐性を秘めるポップカルチャーこそ、社会自体の変態可能性をはらんでいる。『メモリースティック』においては、インディーシーンも労働問題もセクシュアリティの問題も、変態の夢を見ているのだ。
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「ぴんときた」は、奇跡だろうか?綾門優季
突然で恐縮だが、九龍ジョー『メモリースティック』の話をはじめるにあたって、『メモリースティック』収録には惜しくも間に合わなかった九龍ジョー氏の最近の仕事である『ポストラップ』について述べさせてほしい。
劇作家のわたしは田舎から上京して5年、『メモリースティック』に収録されているイヴェントや舞台に関して残念ながら目撃することが叶わなかったものも多く、また舞台は直接目撃したものしか熱っぽく語れない特別なジャンルなので、ご容赦願いたい。過去の記録映像を参照したところで、その場に立ち会っていなければ意味がないのだ。
『ポストラップ』は政治批判をリリックに織り込むなど、社会性の高い内容が話題を呼んだ気鋭のラッパーSOCCERBOYと、演出家・チェルフィッチュ主宰の岡田利規がタッグを組んだ、異色な組み合わせが功を奏した公演であり、SOCCERBOYの攻撃的なリリックに、岡田利規のリリックとは相反するように思えることもある不自然で予測不能の振付が、えもいわれぬ効果を生み出し、場内を興奮の渦へと導いていた。
その回はたまたま九龍ジョー氏が司会をつとめるアフタートークが催されたのだが、そこで観客のどよめく事実が発表された。じつは『ポストラップ』が決まるまで、 SOCCERBOYも岡田利規もお互いのことをほとんど知らず、両者の知り合いである九龍ジョー氏がぴんときたので、試しに組ませてみた、というのである。端的にいって、九龍ジョー氏がこの世に存在していなければ、SOCCERBOYと岡田利規は手を組むどころか、知り合わないまま一生を終えていた可能性もじゅうぶんにあった。そして、『ポストラップ』が存在しなければまた、わたしのその日の「すっげえもんみた!」という帰り道の高揚も、この世に存在することが叶わなかったのである。
この九龍ジョー氏の「ぴんときた」は、奇跡だろうか? ならば、『メモリースティック』は奇跡に満ち溢れた本と呼んでいいだろう。松江哲明と前野健太の幸福な遭遇を筆頭に(奇しくも前述の岡田利規は初の子ども向けの作品となる『わかったさんのクッキー』で前野健太に劇中歌の作曲を依頼している)、九龍ジョー氏が仕掛けた、完全に意図的な「未知との遭遇」が、本来であれば存在しなかった作品を生み出しつづけている。
『メモリースティック』は、その記念すべきドキュメントの一部始終である。刮目せよ。