「Nothing」と一致するもの

Karinga(REXITL) - ele-king

8月の現状。8月の現場SOUND。8/14

R.I.P. 奧成達 - ele-king

 詩人、ジャズ評論家にして偉大なるパロディストの奥成達が8月16日永眠した。73歳。
 日本の戦後サブカルチャー史を紐解けば、その名前はところどころに散見されはするものの、あたかも自らの証拠を消していく知能犯のように、いまとなってはその名はさまざまな雑音のなかで滲み、遠のくようでもある。
 奧成達とは、中学時代に北川冬彦の門を叩いた逗子の早熟な詩人であり、あるいは詩とジャズを結合させるというビートニク的展開の実践者でもあり、そして怪人四面相、異魔人、芸術一番館などなど、さまざまなペンネームを使い分けて権威を小馬鹿にし続けたパロディストである。
 彼が創刊に関わった1968年の雑誌『NON』は、80年代で言えば『HEAVEN』のような雑誌だ。特集は「暴動」で、寄稿者には赤瀬川原平、白石かずこ、平岡正明、松田政男らがいる。奧成達はその雑誌の最後に、アレン・ギンズバーグの「吠える」ばりの錯乱した言葉を連ねている。
 (話は逸れるが、奧成達とツイストを踊った詩人の白石かずこは、パティ・スミスが1974年に「こんな小便臭い工場では、ジェイムズ・ブラウンも聴こえない」と書いた6年前に、「アメリカとはジェイムズ・ブラウンのことである」と『NON』誌において意気揚々と書いている)。

 奧成達が編集長を務めたいわゆる『ぴあ』のようなタウン誌の先駆けにして、伝説的な雑誌『東京25時』においては、サザエさんのパロディ「サザエさま」(原案はテディ片岡)を掲載したかどで、長谷川町子本人から訴えらてもいる。そして、それから奧成達は、夕刊紙、二流漫画誌、東京スポーツなどいかがわしい媒体を根城に大量の毒を吐きまくっていたと平岡正明の『スラップスティック快人伝』に記されている。

 もうひとつのよく知られた顔は、ユリイカの山下洋輔と菊地成孔の対談においてその名前が出てきているように、ジャズ評論家としての顔である。名著『ジャズ三度笠』(坂田明や山下洋輔、ドルフィーやコールマンから赤塚不二夫やタモリまで論じられている)の著者としての奧成達だ。
 しかし、冗談というものがますます居場所をなくしているような、真面目であることだけが取り柄の音楽や文章がはびこり、社会派であることがその作品の評価に直結するとでも言わばかりのこの時代において、果たして『ジャズ三度笠』のような大いなる脱線と雑学と成り行きにまみれた書物が好まれるかどうかはあやしい。とはいえ、もうひとつのジャズの書『みんながジャズに明け暮れた』は、新宿ピットインなど日本ジャズ史の重要な局面の目撃者だからこそ書ける一冊であり、この先日本ジャズ史が振り返られたときに参照されるべき本ではないだろうか。

 先を急ごう。奧成達には、ぼくが知り限りでも、ほかにも『ドラッグに関する正しい読み方』という名著がある。ウィリアム・S・バロウズやP・K・ディックから中上健次や坂口安吾、川端康成からサガンなどなどをドラッグ・カルチャーという観点から論じている画期的な本だ。
 近著では『宮澤賢治、ジャズに出会う』が素晴らしかった。晩年の賢治にはジャズに触発された詩「『ジャズ』夏のなはしです」(素晴らしいタイトル!)があるのだが、それを書いたのは、日本にジャズという言葉が広まるきっかけになった映画『ジャズ・シンガー』公開よりも先立っているという話からはじまる、ジャズ・ファンの観点から描かれた斬新な日本ジャズ史であり、賢治論だ。

 おこまがしくも個人的なことを書かせていただくと、ご遺族の好意により、ぼくは去る6月に葉山のご自宅にて奧成さんとお会いすることができた。9月14日の赤塚不二夫の生誕日に刊行される『破壊するのだ!!──赤塚不二夫の「バカ」に学ぶ』の取材のために時間を割いてくださったのである。短い時間だったが、とても印象的な言葉を話してくれた。それをひとことで言えば、「クーダラナイもの」や「イデオロギーのないもの」への最終的な共感だった。平岡正明は最高の褒め言葉として奧成さんを「インチキくさい」といい、奧成さんはそれを名誉だとした。
 「あてもないほど面白いことはない」「歌には『何もないのだ』、坂田明は「あきれるほど無目的」だからいい……などなど、あらゆる高尚さやもっともらしい論説を嫌悪し、ある種の虚無を快楽とすることができた、その態度こそがいま本格的に失われつつあるものなのかもしれない。ちなみに、タモリを有名にしたハナモゲラ語だが、その決定本『定本ハナモゲラ』の編集者は、奧成さんだ。

 詩人としての奧成達の、もっとも初期の作品には稲垣足穂の影響があると指摘したのも平岡正明である。足穂は、1950年代を生きる不良少年の必須アイテムのひとつだったそうだが、ぼくがお邪魔したときの奧成さんの書棚には横一列に足穂が並んでいた。ぼくの書棚にも並んでいる。稲垣足穂、植草甚一、赤塚不二夫、平岡正明、相倉久人、鶴見俊輔、そして奧成達。謹んで、ご冥福をお祈りいたします。


こうして「俺たちぁなあ、ご法度の裏街道を歩く渡世なんだぞ、いわば天下のきらわれもんだ」とわかっているけど止められない。「いやな渡世だなあ」と思っちゃいるけど、一度やったらどうにもやめられないのが、ペテン稼業というものである。奧成達「ペテン師宣言」


 適当な音楽を流しながら、その曲が何年に発表された曲なのかを当てる、というひとり遊びをよくする。「おしい、67年かと思ったら68年だったか」とか「2004年にもうこんなサウンドになっていたのか」とか、ささやかな発見がある。ピタリと当てたときは、少し嬉しい。僕は1983年生まれなので、生まれる以前の音楽も多いのだが、そういう知るよしもない時代のことを想像しながら、音楽を聴く。ちなみに、自分が生まれた1983年――ハービー・ハンコック『フューチャー・ショック』が発表された年だ――以降、ポップスにもリズム・マシンが多用されてくる印象があって、それ以前の音楽にへんに郷愁を覚えたりする。とくに、中・高音域がクリアになっていく印象がある1970年代なかば過ぎ――1977年のスティーリー・ダン『エイジャ』あたりが境目だという印象――以前の音楽には、独特なあたたかみを感じる。これは、日本の音楽に対しても同様だ。僕自身はドラムに耳が行くのだが、たとえば、大瀧詠一“乱れ髪”のバタバタしたドラムを聴くと、〈70年代感〉としか言いようのないあたたかい響きを感じる。DJだったら2枚使いしたくなること間違いない、荒井由実“あなただけのもの”や大貫妙子“くすりをたくさん”冒頭のドラム・ブレイクも同様だ。いわゆるジャンル性とも違って、なかなか言葉では説明はしにくいが、共有してもらえると信じる。


萩原健太
70年代シティ・ポップ・クロニクル

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 萩原健太『70年代シティ・ポップ・クロニクル』は、日本における1970年代前半を、ポップ・ミュージックの歴史の随所に存在する「奇跡的に濃密な5年間」のひとつと捉え、はっぴいえんど『風街ろまん』や小坂忠『ほうろう』など、この時期の名盤たち15枚について語る。著者自身がリアルタイムで体験したこともあり、実証的にポピュラー音楽史をつむぐというよりは、自身の記憶を中心に振り返っている。必然、文章中には「感触」「手触り」「実感」「感覚」といった言葉が多くなっている。しかし、このような、ジャンルや音楽性によって整理された歴史から抜けがちな「感触」こそ、一方で大事だったりする。僕自身、日本のポピュラー音楽の通史については後追いで知った気になっているが、たとえば、フジテレビの音楽番組『リブヤング』で音楽の紹介者となっていた加藤和彦のことは知らない。深夜ラジオがきっかけでフォークルが大反響になっていった「感触」もない。きっと一部のリスナーは、そういう「手触り」のなかでサディスティック・ミカ・バンドの登場を見ていたのだろう。あるいは、南佳孝『摩天楼のヒロイン』のレコード・ジャケットのことは知っているが、「あの時代、ステージ上で非日常的に、というか、スクエアな方向で着飾るのはどこか“嘘っぽい”イメージがあった」という、当時の「感覚」は知らない。そのような「感覚」の総体として、きっと当時の南佳孝は存在していたのだろう。

 いつの時代も、音楽は、それをとりまく「感触」や「感覚」とともにやってくる。萩原は、「記憶違いもあるだろう」ということも承知で、実証性より記憶を大事にして書いている。リアルタイムではないと抜け落ちてしまうような、「感触」の総体をこそ再現しようとしているのだろう。その意味で、萩原自身が書評を書いていた、ウィリアム・ジンサー『イージー・トゥ・リメンバー』(国書刊行会)の手つきに似ている。本書の大きな魅力だ。というか、こういう語り口こそ、僕が勝手に抱いているところの〈70年代感〉的なあたたかみの正体をつかむ手がかりになっているようである。萩原は、「まえがき」で次のように言っている。

この時期注目を集めるようになった新しい日本のポップ・ミュージックに関しては、送り手と受け手両者が、確実に何か変わりつつある“場”の空気を共有しているという実感があった。前述したような“肌触り”をベースに、自分の言葉を自分のメロディを乗せて表現する日本人アーティストたち。彼らは“場”を共有していた聞き手たちと微妙な目配せを交わしながら、あの時代ならではの誤解や屈折すら味方につけ、少しずつではあったが、マジカルな名盤をひとつ、またひとつと生み出していったのだった。

 萩原にとって1970年代前半の名盤たちは、リアルタイムの「感触」なしでは語れないのかもしれない。なぜなら、当時の「“場”の空気の共有」こそが、大事だったのだから。後世代の僕は、あるいは読者は、その「空気」の残り香くらいしか共有できていないのかもしれないが、だからこそ本書を読むことで、その一端を共有することになる。

 本書を貫く問題意識のひとつは、外国の音楽を日本でどのようにおこなうか、ということだろう。はっぴいえんど『風街ろまん』からはじまる構成も、本書の主題を示しているかのようである。「日本語ロック論争」のことは言うに及ばず、A面1曲め“抱きしめたい”に対する「外来文化のロックと、日本古来の芸能である落語との融合」という指摘や「アナーキーな文節の区切り方」という指摘は、日本でロックをおこなうことの苦心と工夫を伝えている。あるいは、サディスティック・ミカ・バンド『黒船』に対する「自分たちの眼差しを海外から日本へと襲来する黒船側に置いている捩れた位置取り」という指摘や、細野晴臣『泰安洋行』に対する「屈折しきったエキゾチシズムを実に愉快に、躍動的に、そして毒々しく表現した傑作」という評価も、日本でポップスをおこなうことの意味を問うた先でなされている。本書を締めくくる名盤は、サザン・オールスターズ『熱い胸さわぎ』だが、サザンもまた、はっぴいえんどに端を発する「自分たちの母国語である日本語を使って、それを“どうロックさせるか”、そのうえで“何を歌うか”」という問題意識の延長で語られ、ランプ・アイ『下剋上』(!)に接続されている。

 本書を読んでいると、このような、日本から異国の音楽に焦がれるような態度が、1970年代的な「空気」を形成していたのだろうと思える。しかし、そのこと自体は、いつの時代にも共通するものである。重要なことは、その異国の音楽の内実だ。僕が1970年代の音楽に感じるあたたかみは、ジャンルを越えて存在する。萩原は、「当時、いわゆるロックとかフォークとかソウルとか、従来の音楽ジャンルの枠組みではとらえきれない柔軟な音楽性を持つ海外アーティストたちが日本の輸入盤店やロック喫茶でも話題を集め始めていた」と書いている。具体的には、トム・ウェイツやマリア・マルダー、ヴァン・ダイク・パークスなどだ。つまり、1970年代における「“場”の空気の共有」とは、そういった「柔軟な音楽性」を追求するような態度、その雰囲気なのかもしれない。だとすれば、「フォークでもない、ロックでもない、歌謡曲でもない、従来の枠組みでは計り切れないポップな風景と色彩感に満ちた日本の音楽を、はじめてトータルな形で作り上げてみせた」という『風街ろまん』のインパクトは、やはり大きかったのだろうと想像する。この「柔軟な音楽性」については、「ローラ・ニーロならではのソウル感覚」とともに振り返られる、吉田美奈子『扉の冬』についての文章が良い。『扉の冬』自体が好きなこともあるが、本書全体のコンセプトが詰まっているという点で、本書のハイライトである。萩原は、次のように言う。

ソウル音楽というのは黒人だけのものなのか。黒人ならば誰もがソウルフルなのか。白人に、あるいは白人の音楽にソウルはないのか。それじゃ、日本人は……? そんな永遠の命題に向き合う素晴らしいきっかけになってくれた1枚だった。

 異国の音楽を、柔軟な音楽性を、すなわち1970年代の音楽を、いかに日本のポピュラー音楽として奏でるか。萩原が自身の記憶とともに追っているのは、そのような試みとしてあった音楽なのだろう。そして、そのような音楽たちが、ジャンルを越えて、国境を越えて、時代を越えて、〈70年代感〉的なあたたかみの「感触」として、僕たちのもとに届けられているのだろう。本書を読むと、そんなことを考えてしまう。
 ちなみに『扉の冬』のバックを務めるのは、キャラメル・ママの面々である。1970年代の日本のポップスにおいて、キャラメル・ママ‐ティン・パン・アレーが果たした役割は言うまでもない。時代を彩ったゆたかなサウンドは、ティン・パン・アレー系のミュージシャンによるところが大きい。本書においても、従来的なバンド形態ではない彼らの存在は重要視されている(と同時に、逆説的に、バンドにこだわった鈴木茂やシュガー・ベイブの試みも浮き彫りにされている)。日本のポピュラー音楽について考えるにあたって、このことはけっこう重要だ。というのも、例えば1970年代には、キャラメル・ママをバックに雪村いづみが歌った『スーパー・ジェネレーション』や、ティン・パン・アレーをバックにいしだあゆみが歌った『アワー・コネクション』などがあるが、このような高い音楽性を兼ねた企画モノは、キャラメル・ママやティン・パン・アレーのような独立したミュージシャン集団のもとでこそ成立するからだ。このような、高い音楽性に加えてノベルティ成分が入ったノリは、「プラスティック・オノ・バンドをもじったバンド名からして大いにふざけていたし、プライベート・レーベルを用意してのデビューというのもお遊び感満点だった」と指摘されるサディスティック・ミカ・バンドにも通じるかもしれないし、なにより、大瀧詠一の一連の仕事に接続される。ノベルティ・ソングにただならぬ思い入れを見せてきた萩原は、そのような文脈においても、1970年代の音楽に愛着を感じているのかもしれない(これは、勝手な想像だが)。

 そう考えると、大瀧詠一の存在感は、やはり大きい。本書には、大瀧詠一がソロ第一作『大瀧詠一』を制作するにあたり、キャロル・キングが果たした役割が語られている。すなわち、「前時代的なアメリカン・ショービズの伝統を汲む形で活動していたゴフィン&キング」が、ビートルズのような自作自演のロックの趨勢とともに、いったんは活動の場を奪われたものの、アルバム『つづれおり』で「再び時代に請われるような形でシーン最前線にカムバックしてきた」、「大瀧詠一にとっても、これは事件だった」のだ、と。萩原は、続けて言う。

が、この瞬間、ついに封印は解かれた。新しいとか、古いとか、そんな曖昧な価値基準に何か意味があるのか、と。彼なりの確信を深めた結果、生み落とされた多彩でマジカルな傑作がこの“ファースト”だった。

 大瀧のソロ・ファーストが、ロックン・ロール風ありガールズ・ポップ風ありの傑作であることは、聴いたことがある者ならよく知っている。僕も知っていたつもりだ。しかし、その多彩な音楽性の意味を真に理解した気がするのは、引用部を読んだのちである。このようなゆたかな名盤が、1972年に生まれたことには、それなりの必然性があったのだ。だとすれば、1970年代的な「柔軟な音楽性」を下支えしているのは、時代のトレンドに左右されず、軽やかに音楽を享受する態度なのかもしれない。そのような態度は一方で、自作自演のアーティストとは異なる、ノベルティ・ソングへの興味を引き起こすだろう。この大瀧への指摘は、本当に素晴らしい指摘である。

 1990年代前半、そして現在と、「シティ・ポップ」ブームはたびたびくり返される。とくに現在の「シティ・ポップ」ブームらしきものには、僕は正直ノれないでいるのだが、この「シティ・ポップ」という言葉のなかに、大瀧的な、軽やかに音楽を享受する態度が含まれているのだとすれば、少しは理解できなくもない。本書は、萩原の個人的な記憶とともに語られているが、それゆえに、時代を越えた「感触」を獲得している。話題は1970年代のことに終始しているかもしれないが、その「感触」は、そこにいなかった者たちにも、あるいは、それ以降の時代に生まれた者たちにも、共有できるはずである。本書の言葉を借りれば、「地域性でもなく、人脈でもなく、ジャンルでもなく、言語化しにくい“肌触り”に貫かれた音楽」の「感触」を。

J.A.K.A.M. / COUNTERPOINT EP.3 - ele-king

 DJからワールドに向かった人は少なくない。リズムへの関心が高まると、やはりどうしてもどんどん国境を越えてしまうのは、音楽ファンのひとつの傾向であり欲望で、とくにこの10年はDJカルチャーにもその欲望は顕在化し、作品として具現化されている。かつてはジャングリストとして活躍したムーチーもそのひとりで、共感を覚える人も多いことだろう。
 現在もがっつり精力的に活動しているムーチーだが、今年に入って、“J.A.K.A.M.”名義で自身のレーベル〈CROSSPOINT〉から「COUNTERPOINT」シリーズを12インチもしくは7インチのフォーマットで毎月リリースしている。8月にはシリーズの7枚目がすでにリリースされ、9月にもさらにリリースを控え、また、年内にはアルバムとしても発売されるらしい。
 詳しくは彼のホームページ(https://nxs.jp/index)を見て欲しいのだが、現在、森田FESN氏によるPVが公開されている。ムーチーらしいメッセージのこもった映像で、どうぞご覧下さい。スケーターっていうのが、良いですね。

井手健介と母船 - ele-king

 ガット弦の爪弾きに乗せたコーラスがシャボンのように弾けたなかからあらわれた母船は息をひそめ、こちらをうかがうような演奏で歌の後ろ髪を引く。井手健介と母船の『井手健介と母船』は1曲めの“青い山賊”で、眠りを誘う足どりで漕ぎ出していくのだが、中間部でこの曲はボサノヴァ(?)調に転じるとともにバイテンになる。もし私がこの曲を書いたなら頭からお尻まで余裕でこっちでいっていましたね。ところが井出健介はそうしない。この冒頭の1曲がすでに彼(ら)の非凡さを集約している。まだお聴きになっていない方には以下にMVがあるのでご覧ください。大仰ではないが、凝っていてイベントがあり、叙情に流れないユーモアがある。彼の歌の肌ざわりをここでは水のイメージが代用している。水といえばタルコフスキーだが、私は井手健介の丸メガネにむしろソクーロフを思い出すのは、ソクーロフが裕仁天皇をモチーフに『太陽』を撮ったからかもしれないが、彼とはじめて会ったのが映画館だったせいもなくはない。

 バウスシアターは2014年6月に惜しまれつつ閉館した吉祥寺の映画館で、二百あまりの客席のバウス1に2館を加え、俗にいう単館系から娯楽ものまで雑多な、しかし筋の通ったというかバウスらしい映画がかかる武蔵野市の東の要だったが、後年boid主宰の「爆音映画祭」の根城としても知られるようになる。私も何度となく通いつめ臙脂色のシートと爆音に身を沈めたばかりか、ありがたいことに、裸のラリーズも演奏したその舞台に立たせていただいたこともある。井手くんがいつからバウスのスタッフになったかは憶えていないが、気づいたときにはそこにいた。シネコンにはじかれたひとびとが集うそこで井手くんの草食的な風貌は目立つかと思いきや、しっかりなじんでいたから私は気づかずにいたのだろう、ほどなくバウスと井手くんの線描的なたたずまいはイコールで結ばれるようになったが、彼が歌をうたっているのを知ったのはじつはごくさいきんのことだ。

 ちょうど『別冊ele-king』で「ジム・オルーク完全読本」をつくっていたとき、代官山のライヴハウスでジムさんと石橋英子さんのツーマンがあり、終演後会場にわだかまってだべっていたら、石橋さんが「いま井手くんとアルバムを録っているの」という。井手くんってどの井手くんですか、と返す私に、ほらバウスの井手くん、と石橋さんはいう。バウスの井手くんとは、あの探し出されたウォーリーみたいな井手くんですか、と訊ねると、なにをいっているかはわからないが、おそらくそうだとおっしゃる。どうやらあの井手くんらしい。私は彼が以前バウスでぼくも音楽やっているんですよ、といっていたのを不意に思い出したが、石橋さんとの関係はおろか、彼がアルバムを録るとも出すとも知らなかった。

 こんなことをつらつら書くとまた身びいきと憤激される方もおられようが、そう思われるなら拙文はスルーしていただいてよろしい。よろしいが井手健介と母船のファーストを聴かないのはもったない。数ヶ月後めでたく船出した彼らの音楽には若手バンドの周到な引用とはちがう裸の志向がみえる。山本精一、とくに羅針盤との親しさを感じさせもするが、山本精一のフォーク~サイケが散光に似ているのにくらべると井手健介のそれは飛沫を思わせる。西海岸の、とくにサンフランシスコあたりのサイケを規範にしても適度な湿り気を帯び、フルートやピアノはアシッドフォークを彷彿させながら、ときにファズ・ギターが空間を切り裂くのに過剰さに耽溺しない母船の、石橋英子、山本達久といったジム・オルークのバンド・メンバーと墓場戯太郎、清岡秀哉らからなるアンサンブルのそれは妙味ともいえるものである。その大元になるのは井手健介のソングライティングの資質であり類いまれなメロディ・センスである。プレーンな歌唱から重さをふくませた歌い方まで、つぶさに耳を傾ければ、コーラスをつとめる柴田聡子との対比から歌手=井手の立ち位置もみえてくる。“雨ばかりの街”、“ふたりの海”などの水を思わせる曲のしずけさと激しさ、“ロシアの兵隊さん”(と書いて、なぜ私はタルコスフスキーやらソクーロフやらもちだしたのかわかった)の夢見心地も『井手健介と母船』の屋台骨のたしかさをあらわしている。もちろん道行きはつねに順風満帆とはかぎらない。過去の総決算のファースト以降にどう舵を切るかが今度の課題だろうし、規範とも歴史ともいえるものとの対話もやがてふくまれてくるだろう。しかし井手健介なら心配いらない。なにせ“幽霊の集会”と歌うひとなのだ。私は生きている人間だけ相手にする表現は相手にしない。井手健介のハラは据わっている。いまはその船出をよろこびたい。

第五回:おしっことうんこ - ele-king

 ele-kingでの連載なのに、音楽と関係のないことをあまり書いてはいけない。とは思っている。のだが、一般の方々が抱いている大きな誤解を、一刻も早く解かなければならないと思っていることがあるので、今回は書くことにした。それは「おしっこ」と「うんこ」は全く別のものであるということだ。僕は決して性的嗜好を持つスカトロジストではないが、全ての医師は糞便学をもっと学ぶべきだと思っている。

 まずは、誤解の修正から。「おしっこ」というのは左右2個ある腎臓という臓器を流れる血液から、体内に必要のない老廃物が濾過され、それが尿管を通って、膀胱に溜まるものだ。つまり、数分から数時間前まで自分の血液として体内を循環していた、細菌もほとんどいないとても綺麗なもの。

 一方の「うんこ」は、口から入ったものが、身体の内腔(口から肛門はひとつの管で、厳密には体内ではない。人間は筒のような構造をしている)を通過して、無数の細菌の中で、様々な化学反応を経て出て来たものだ。自分の体内には一度たりとも吸収されておらず、細菌も無数に含まれているので、綺麗とは言えない。というより、汚い。

 と、アトピーの弟に、知人から勧められた「飲尿療法」を試してみさせるために、一晩かけて「おしっことうんこの違い」を説得したことがある。アトピーに長いこと悩まされ続けて来た健気な弟は、ひと晩考えに考えた挙げ句、翌朝起きて僕にこう告げた。「俺、お兄ちゃんが一緒に飲んでくれるなら、飲んでみようかと思う」

 究極の交渉術。と、弟の成長を嬉しく思ったが、いざ自分が飲めと言われると、昨夜あれだけ「きれいなんだ!」と熱弁していたにも関わらず、さすがにかなり躊躇われた。けれど、いつにない弟の真剣な眼差しの奥に、キラリと光る未来への「希望」を見つけてしまったもんで、いちばん効果があるという、朝一番の濃縮された尿を、3日だけ毎朝一緒に飲んだことがある。

 「おしっこ」は、その可愛らしい名前に反して、想像を絶するほどまずい。言葉にするのが陳腐なほどにまずい……。ふたりで飲み終えた後、腰に手を当てて朝日を眺めている弟の背中に「俺はついにやったぞ!」という底知れぬ達成感が満ちあふれていたのを、いまでも覚えている。

 僕は3日付き合ってやめたが、弟はそれから1ヶ月ほど、飲み続けた。実際にアトピーも良くなったし、何よりも「自分は頑張っている!」という達成感が、弟の身体と精神を元気にしていった。

 そんなあるとき、
 「お兄ちゃん、俺、最近毎朝感じることがあるんだよ」
 「何? やっぱ毎朝飲んでると体調いいでしょ?」
 「うん、そんな気もするんだけど、それと同時に『俺って、ひょっとしたら、実はそーとーヤバいことしてるんじゃないか』っていう猛烈な不安がこみ上げてくる……」
 と言って、数日後に飲尿道を諦めた。でも、そのとき、体験者でもあり、人間の健康について考えなければならない立場にある僕は考えた。飲尿療法を成し遂げた後は、底知れない達成感とともに、何かすごいエネルギーがこみ上げてくるのも、たしかな身体感覚だったのだ。

 考えた挙げ句、「尿」というのは自分の身体のその時の状態の「最新データなんだ!!!」ということに気がついた。漢方薬の成分には、トリカブトの含まれているものもあり、僕の祖父母も、その漢方薬をかれこれ5年ぐらい飲み続けている。漢方薬には「毒をもって毒を制する」ということが割とあてはまる。いくつかの代替療法も、これと同様の理論に基づいているものがある。

 人間は口から肛門という体外を通過するものに応じて、身体全体の免疫を調整している。漢方薬の全てではないが、いくつかの生薬やその成分は、小腸を通過すること自体に意味がある。その「悪いもの」の通過が、免疫体制を高める方向へ、心身全体の免疫モードをシフトする。と僕は考えている。

 「おしっこ」というのは、「今の自分の身体にとって、いらないものは何であるか」ということに関する「データバンク」なのだ。それを腸管に通す。「あ、いま体の外ではこんな悪いものが存在しているのか、体内にもきっとあるから排泄しよう!」と判断し排泄する。という反応が起こっているんじゃないか。これは、医療に積極的に導入するべきだ! ということに気付いた若かりし頃の僕は、興奮しきって眠れない夜を過ごした。ひとつだけ残る大きな問題は……。この素晴らしき「おしっこ」は、とにもかくにも強烈にまずい。ということだった。要は尿がノドを通過することが、一番の問題なのだ。

 そんな問題に直面していたころ、ちょうど心臓外科にいたときだった。術後の患者さんの鼻には「胃管」という管、そして膀胱には「尿道カテーテル」が入っていた。真夜中に術後の患者さんの回診をしていたときに、僕は閃いてしまったのだ。そうか! これをつなげればいいのか!!! 僕は早速、患者さんのベッドサイドに溜まっている尿を、胃管から流し込んだ。

 なんてことはさすがにしない。だけど、僕は人類史に残る発明を確信した。名付けて「伊達チューブ」。翌朝、意気揚々として「先生! おかげさまで、昨夜人類史に残る発明をしました! 名付けて伊達チューブ!」と概要を述べた。

 結局、伊達チューブは一蹴されてしまったのだが、それ以降、「伊達!  伊達チューブ入れとけ!」と言われると、患者さんに胃管と尿管を入れるという仕事が与えられた。でも、飲尿療法ってきっと効果ある。自分が癌にでもなったら、伊達チューブを実験してみようと思っている。


El Mahdy Jr. - ele-king

 イスタンブールでスクリューされたラップとノイズが掻き回され、ベースがうねりを上げながら風景をゆがめる。政治的激動に晒された死せる街の強力なサウンドトラックとはこのことで、読者が初めてブリアルやシャックルトンを聴いたときのような凄まじいインパクトをお探しであるなら、ここにある。しかしエル・マーディ・ジュニア……アルジェリア生まれの、ガンツの盟友でもあるこやつは何者か。

 ロンドンのレーベルからリリースされた本作『ゴースト・テープス』は、USはポートランドの〈Boomarm Nation〉から発表された『いかれた場所の精神(The Spirit Of Fucked Up Places)』以来、2年ぶりのセカンド・アルバムとなる。その間マーディ・ジュニアは、オルター・エコーとガウルスのリミックスを収録した10インチ「ライ・ダブス」(ベーシック・チャンネルの“ネクスト”。日本のバンド、ゴートおよびそのファンは必聴)や12インチ「ガスバ・グライム」によって評判を呼んで、またガンツの12インチの共作者としても名を広めている。
 しかしながら、ガンツのくだんの「Spry Sinister」収録の“Rising”ような、アラビックな旋律があり、グライムめいたビートが打ち鳴らされるといったアレを想像してもらっても困る。リリース元の〈Discrepant〉とは「矛盾/食い違い/不具合」を意味する言葉だが、マーディ・ジュニアの音楽では、国境は溶解され、国籍は失われる。ターキッシュな要素(アラベスク、地元ラジオないしは地元ヒップホップ化したライ)がカットアプされてはいるものの、それらはサンプラーを通して異様なものへと姿を変えている。いったいこれは何なのか……トルコ、知られざる音楽の宝庫だ、などというワールドなオチとは別の、むしろトルコ文化がないがしろにしてきたサブカルチャーを引っぱり出すことが目的でもあると、実際そんなようなことを彼は語っている。
 結果、『ゴースト・テープス』はブリストルのヤング・エコーとほぼ同じ地平にいる。アナログ盤ではA面1曲、B面1曲という構成で、下手したら90年代末のゴッドスピード・ユー・ブラックエンペラー!をも彷彿させる。“デッド・フラッグ・ブルース”のダブ・ヴァージョン? いや、この音が渦巻く空間たるやダブとは言いたくなくなるような独自なものがある。

 「もしダブがアルジェリアや中近東で生まれていたら」というのが彼のもうひとつのコンセプトである。父親のレコード棚にはジャマイカのダブのコレクションがあったというが、彼のダブ解釈はリー・ペリーでもキング・タビーでもなければアラビックな旋律にエコー効かせるだけのものでもない。音が回転するかのようなダブ的感性の背後にはスーフィーの影響があるのでは、と中東好きの友人は言う。
 さらにもうひとつ、東西の境目でもあるイスタンブールのありのままの衝突を描くこと。そう、この音楽はいま起きている何かを懸命に伝えようとしているわけだが、冒頭に書いたように、まずはその圧倒的な迫力と斬新さという点において素晴らしい。つまり、この作品の国籍がどこであれ、『ゴースト・テープス』は1枚の突出したエレクトロニック・ミュージックなのだ。

代官山UNITの11th Anniversary - ele-king

 いよいよ今週末21日金曜日の代官山ユニットに田我流Bandが登場する。今回は、やはりバンド形態でのライヴであること、そして、共演に仙台からGAGLEというのが注目でしょう!! 盛り上がること必至。
 ちなみに田我流Bandのメンバーは以下の通り。

 Vocal : 田我流
 Drums : Taichi
 Bass : 松崎幹雄
 Percussion : 高田陽平
 Keyboards : 中村圭作
 T.Sax : 後関好宏
 B.Sax : 上運天淳市
 Guitar : 竹久圏 (KIRIHITO)
 Chorus : 今井瑠美子
 DJ : Young-G

 さらにDJ KENSEIによる「stillichimiyaの流れ」Live Mixが予定されているほか、交流の深いGAGLEと田我流Bandのセッションも見られるかも知れない──ですよ!

2015/08/21( 金 ) @ 代官山 UNIT
OPEN 18:30 / START 19:30
UNIT & Mary Joy Recordings Presents
UNIT 11th Anniversary 田我流BAND×GAGLE

出演
田我流BAND
GAGLE
DJ KENSEI


 田我流BAND 本格始動! GAGLEとDJ KENSEIを迎えアルバムレコーディングを前に一夜限りの貴重なLIVEを敢行!!!

 田我流が、stimを母体とした自身のバンドでアルバムプロジェクトを始動。今秋に発表予定のプロジェクトから新曲を含む渾身のセットで UNIT のステージに臨む。
 共演は、 昨年アルバム「VG+」をリリースした仙台のGAGLE。
 2013~2014 年にかけて数多くのバンドと、いわゆる“他流試合”を行い、MC+DJ というスタイルからバンド編成へとその表現の幅を拡げる田我流。 片やこれまでcro-magnonやOvallとの共作 / 共演なども繰り広げながら この日は2MC & 1DJという編成で究極のHIPHOP SHOWを見せるGAGLE。
 まさに“挑戦”と“極み”の真っ向勝負!
 さらに、GAGLEともstillichimiyaとも交流が深く、7月にstillichimiyaの音源のミックス CD 「stillichimiya の流れ」 を発表したDJ KENSEIがstillichimiya音源によるlive mixを披露!

ADVANCE TICKET 3,000円 ( 税込 /1D 別途 )
PIA(P:271-954), LAWSON TICKET(L:79719), e+, Mary Joy Online (www.maryjoy.net),
Jazzy Sport Music Shop, Jet Set Tokyo, diskunion (渋谷/新宿/下北沢Club Music Shop, 吉祥寺), UNIT店頭
主催 : Mary Joy Recordings / 株式会社スタンダードワークス
制作協力 : Jazzy Sport
www.maryjoy.net
www.unit-tokyo.com


いせや闇太郎 (井の頭レンジャーズ) - ele-king

血と汗のスキンヘッドレゲエ

interview with Hocori - ele-king

 駐車場で車を載せて回るアレも、ターンテーブルと言うのだそうだ。

 先日公開された、Hocoriによる“God Vibration”のミュージック・ヴィデオでは、「都内某所」といった雰囲気の無機質で無名的な屋内駐車場を舞台に、回しっぱなしのカメラが、回りっぱなしのターンテーブルで踊るひとりの男を映し出していた。ドリーミーな音色につつまれ、儚い一夜を祝福するかのようにゆっくりと高揚していくハウシーなポップ・ナンバー。

 しかしヴィデオに登場するのは踊る男がひとりきり。画面は固定されたままで、物語は展開せずにただただ盤が回転する──じつにミニマルだ。音の昂ぶりや、艶やかさと愛嬌とをそなえたあの忘れがたいヴォーカルとは対照的で、しかしそれがなんともスマートに感じられる。そして、これがきっと彼らに見え、感じられているいまの世界なのだろうなと思いがめぐる。

 酒やネオンやきらびやかな装飾品にふちどられたナイト・ライフのリアリティではなく、そこではそのホログラムが、合理性を剥き出しにした風景をスクリーンにして映しだされ、オルゴールのように回っているのだ。そう、われわれはもうしばらくこうした環境の中で生を謳歌している。何は持たずとも、なんということもない場所にさまざまな情報を投射して充足を得ることができる。日常としてのAR空間、この音とヴィデオはそうした環境のリリカルな喩とさえ思えてくる。

 Hocori(ホコリ)──というのは、メジャーなシーンで活躍するMONOBRIGHTのフロントマン桃野陽介と、エレクトロ・ポップ・ユニットgolfや、映像グループSLEEPERSFILMの中心人物として活動を広げる関根卓史によるデュオである。昨年結成されたばかりのこのささやかなユニットは、たがいに「ホーム」を有するふたりにとって自由な遊び場として機能しているようだ。好きなものを、好きな形になるまで誰にも急かされることなくつくるという、インディ的にしてある意味で贅沢なプロジェクトであり、この7月に発表されたファースト・ミニ・アルバム『Hocori』ではその実りを聴くことができる。

 6曲をゆるやかにつなぐコンセプトは「トレンディ」や「アーバン」。80年代や90年代の意匠がノスタルジックに参照され、ポップ・ソングとして丁寧なトリートメントを施されている。これらの時代の音の再評価がシーンを耕してすでに何年も経つが、その間、リヴァイヴァル・サウンドのパッチワークは、ポストモダンでスクリーンのようになった世界をさまざまに色づけてくれた。われわれは、そこにまたとびきりの幻影師が現れたことを知ることになるだろう。

 互いのメイン・プロジェクトの名はむしろ意識しないほうがよいかもしれない。たとえばネットレーベル発の才気あふれるプロデューサーやユニット群のひとつとして、あるいは“東京インディ”の新しき1ピースとして、ぜひともこの“ニュー・カマー”の音に耳をかたむけていただきたい。

■Hocori / ホコリ
ロック・バンドMONOBRIGHTのフロントマン桃野陽介と、エレクトロ・ポップ・バンドgolf、映像グループSLEEPERS FILMにて活動する関根卓史による音楽デュオ。2014年に結成され、2015年7月、ファースト・ミニ・アルバム『Hocori』を発表した。

32歳なんですけど、30歳を越えたあたりからは、そういう衝動うんぬんじゃない作り方もやってみたいな、と思うようになりました。 (桃野)


Hocori
Hocori

Conbini

J-PopSynth-PopHouse

Tower

このユニットのそもそもの出発点は、“God Vibration”ということになるんですか? 曲のパラ・データを桃野さんから関根さんのほうに送られたのがきっかけだということですが。

桃野陽介(以下桃野):僕はもともとMONOBRIGHTというバンドで活動しているんですけど、バンド・サウンドじゃない音楽をバッと出せる場ができたらなという意味で、ソロ・プロジェクトを誰かとやりたいなと思っていて。そういう思いはデビュー当時からふわっとあったんですけど、一年前くらいに知り合いを通じて関根さんを紹介してもらって、互いに北海道出身というところで意気投合して、「じゃあ、ちょっとやってみようか」というので最初に送ったデモがモGod Vibration”ですね。

関根卓史(以下関根):いくつか聴かせてもらったんですよ。そのなかでもとくに印象に残って、いい感じに仕上げられる予感がしたのが、その曲だったんですよね。

じゃあ、チョイスされたものなんですね。

桃野:5曲くらいデモを送って、そのなかから関根さんが“God Vibration”を気に入ってくれて、そこから手を付けてみようと。

関根:とりあえず、感じるままに作ってみたんです。

でも、結果としてミニアルバムのリード・トラックになっちゃうような、愛誦性もあって印象に残る曲ですよね。それが最初というのも運命的というか。

関根:そうですね。逆にそういうものが最初に作れたから、次も作ってみようかという感じになったところはありますね。

桃野さんは、バンド(MONOBRIGHT)の結成は……

桃野:2006年ですね。

ぼちぼち世間的にはエレクトロ・ポップだったりとか、そういった音がバンドの表現を変えていくような雰囲気があったんじゃないかなと思うんですけど、そういう流れもどこかで意識されていたんでしょうか。

桃野:バンドに関しては、周りがやってなさそうなことをやろうみたいな、ちょっとあまのじゃく的な部分もありましたし、それと同時に、やっぱりバンド・サウンドってメンバーのぶつかり合いというか。そうやって曲を作っていけるように初期衝動を大事にしていたところもありました。なので、僕が田舎育ちというところもあるんですけど、エレクトロとかっていうのはまだ未知の存在で、どうやって作っているのか検討もつかなかったというか。DJとかもそうですけど。
だからそういうものっていうのは、初期衝動とは反対側の存在として自分のなかにはあって。いま32歳なんですけど、30歳を越えたあたりからは、そういう衝動うんぬんじゃない作り方もやってみたいな、と思うようになりました。

その参謀役として、関根さんに白羽の矢が立ったということですね。出身地という共通項がありつつも、なんとなく思い描くような音楽を持っていそうだなということで、関根さんだったんですよね。

桃野:そうです。

関根:僕自身は、自分が歌うわけではなくて、他にヴォーカルを立てて音楽を作ることもやりたいなと思っていたので、タイミング的にはすごくよかったんです。

「golf」名義ではもっと前からご活動されてますよね。

関根:結成は2001年です。

あっちはもっとアンビエントというかアブストラクトな音ですよね。

関根:はい。当時からアンビエントやエレクトロニカとか、そういうものを好きで聴いてきたので。

しかし桃野さんとやれることというと、ひとつ、カチッとしたJポップというフィールドが見えてくるんじゃないかと思うんですけど、意識はされました?

関根:うーん、それは意識しなくてもそうなったのかもしれないです。

桃野:どっちかというと僕にエレクトロはないので。

はははは(笑)。そうなんですか? 

桃野:音の響きだったりとか、メロディとかはきっとどこかで刺激を受けているんです。だけど日本語で歌詞を書くと、同時に昭和のメロディとか、そういうものを大事にしたいというような気持ちも出てきたり。それは自然に自分の中に根づいていた部分でもあるので、そういうところがJポップらしさにも繋がっているかもしれないです。

ホームグラウンドがどこにあるのかが明らかなふたりなので、Hocoriは遊べるところというか。 (関根)

おふたりともがそれぞれにソングライターでいらっしゃいますが、出てくる個性はそれぞれにあって、対照的とさえ言えますよね。ヴォーカルとしての発想、それからミキシングだったりとか、トラックメイカーとしての発想。

関根:若干のグラデーションはありつつ、僕がおもにサウンドを作り、桃野くんがメロディとか言葉を含めた曲の特徴を作るといった、大まかな役割分担はあったんですが、実際は桃野くんが構成したものを僕がぶっ壊すというような関係でもあるので、そのへんは、それぞれの得意な部分を上手くやって合わせた感じなのかな(笑)。
でも、曲作りは楽曲をお互いの間でけっこう行き来させているので、本当に混ざっていると思いますね。

トラックメイキングというよりもソングライティングというイメージなんですかね?

関根:そうかもしれないですね。僕が、ミキサーやアレンジャー的な役割も多少していると思いますけど。

「壊す」とおっしゃったことに集約されていますよね。そこにふたりの間の綱引きがあったり、新しいものが生まれてきたりする。

関根:ホームグラウンドがどこにあるのかが明らかなふたりなので、Hocoriは遊べるところというか。かつ、自分たちがそれぞれやってこなかったことが、ちゃんとここで反映されるようなものを作らないと楽しくないな、というような認識でやっています。なので、お互いによくわからないものを目指してやっているというか(笑)。

桃野:そうだね。

関根:「よくわかんないけど、これはおもしろいんじゃないか?」みたいな(笑)。

桃野:っていうものに引っ張られていくというか。

関根:そういう選択が多かったよね。

すごくいい形で実験できているわけですね。そのわりにはすごく聴きやすくて耳に残る、忘れられない音というか。

関根:キャッチーというか。

6曲が6曲ともシンセのヴァリエーションがあるじゃないですか。さらっと聴こえてけっこうマニアックな作りになっているんじゃないかなと思うんですけど。6曲を組みあげる上で目標にしていた着地点はあったんですか?

桃野:いや、本当に面白がりながら作っていきました。一応の方向性というか、キーワードはありました。ディスコとかエイティーズの感じとかっていう。

関根:ファンキーなものとかね。でも、わざわざ何かに寄せたということはないかもしれないですね。むしろそうならないようにしたかったので、曲によってカラーも違うかもしれないです。

北海道人からみた都市感みたいなものじゃないでしょうか? (関根)

なるほど。そのキーワードの「エイティーズ」だったりとか、たとえば「シティ」みたいなモチーフも感じるんですけど、そのあたりは時代の空気を感じて出てきたものなんでしょうか? もうちょっとちがうところから出てきたもの?

関根:僕らとしては何か目的があって作った、というわけでは全然なくて、これヤバいよね? とか言い合いながら作っているうちに、こうなったというほうが正しいのかもしれないですね。

もし自分で分析するとすれば、それって何ですか? たとえばノスタルジー的なものだったりするんですか?

関根:北海道人からみた都市感みたいなものじゃないでしょうか? 僕らも一応はもう都市生活者なので、ふつうにおもしろいものを作ろうという感覚でその都市感が出てきちゃっている。きっとそういうことなんじゃないかな(笑)。

一十三十一さんが北海道出身ですよね。

関根:そうですね。札幌市ですよね。

ご実家が、すごく「アーバン」なレストランを営まれていたというお話を、立ち会った取材でうかがったんですよ。

桃野:スープカレー・ブームの先駆けですよね!

関根:ぜんぜん会ったことがないんですけどね(笑)。でも同じ北海道人としてグッとくるものがなぜかあるという。

そうそう! ヤシの木か何かが立ってて、それこそ大瀧詠一とか山下達郎みたいな世界が広がっているという。ユーミンとかがかかっていて、「アーバンな」人たちがいる……そういう感覚に近いです?

関根:そうですね……僕らの意識の中に昔からある都市感がパッと出てきた感じ(笑)。。

桃野:北海道のひとって、ある意味でさらに島国というか、隔離されている気がするんですよね。僕、テレビや雑誌からしか文化的なものを吸収できなかったし。

ええー、そんなにですか。『北の国から』とかウソですよね?

桃野:あれは本当ですよ。

関根:僕の地元ですしね(笑)。

そうなんですか(笑)。

桃野:僕も酪農をやっていたのでわかるんですが、草太兄ちゃんがビジネス農業に没頭したりとか、ああいうのって実際にあるんですよ。  話が脱線しましたが、東京の持つシティ感っていうのは、イメージとしてポッとあるんですよ。ここ2~3年でびっくりしたのは、北海道ではっぴいえんどを聴いていたときよりも、東京ではっぴいえんどを聴いたときの方がしみてくるというか。こう、電車の音に混じっていって……。そういう、場所によって生まれてくる音楽があるんだなって思います。北海道だと、Coldplayみたいに音程が長いやつのほうがなんかしっくりくるなと。

ここ2~3年でびっくりしたのは、北海道ではっぴいえんどを聴いていたときよりも、東京ではっぴいえんどを聴いたときの方がしみてくるというか。 (桃野)

関根:松山千春とか。

桃野:本当にそうなんですよね。だからそういう意味では、自然と北海道の音楽を僕は作っていたんじゃないかと思うんですよ。東京で培ってきたものがちゃんと出せる場所なんじゃないかと。

じゃあ、「シティ」とか「アーバン」とか、あるいはエイティーズ・ポップみたいなものにあらためて光が当たっていたことは、あまり意識されてないんですか? ──ただただ周期的なものだとも言えますけども。

関根:僕はもともとシティ・ポップが個人的にすごく好きなので、きっと影響がないわけではないと思うんですけど。ただ、Hocoriについていうと、どっちかというと80年代頭のテクノ・サウンドやシカゴ・ハウスやデトロイトとかの音と掛けあわせてみたいというのがあったので、いまみんなが言っているシティ・ポップとやっていることはちょっと違うのかもしれないです。

まあ、そもそもはっきり定義された言葉じゃないですし、雑に比較するわけじゃないですが……ほとんど「東京インディ」くらいの意味合いで使われていたりもしますもんね。

関根:参照点があれなのかもしれない──僕らの世代にとっては、いまよく言われている「シティ・ポップ」って、わりと既視感があるものだから、ついそこで、僕らはよりおっさん臭いものを求めてしまっているかもしれないですね。

桃野:アーバンやシティ・ポップというよりは、ちょっとトレンディというか。

なるほど、むしろ70でも80でもなくて、ナインティーズなんじゃないですか? トレンディ・ドラマ感(笑)。

桃野:僕はもうトレンディ・ドラマっ子だったので。10歳上の姉の影響とかもあって、全盛期の月9とか木10とかそういうものを見ていて。

いわゆるシティ・ポップというのはもちろんリアタイじゃないですからね。

桃野:そうですね。

そういうときに戻ったシティの原風景というのが、80年代か90年代にあるのかなというところだと思うんですけど。

桃野:たぶんその境目くらいにあるんだと思います。

関根:僕らは80年代前半生まれなので、おそらくバブル時代よりちょっと後ろくらいがシティ感の原点なのかもしれない。

微妙に楽園を知っているというか。

関根:僕らが知っているわけじゃないんだけど、深層心理に組み込まれているというか。

いまフレッシュなひとたちって、最初から楽園が消失していたみたいな世代というか、あとは下るしかないみたいなところをデフォルトにした強かさがあるような気がしますが、われわれはもうちょっと浮ついていますよね?

桃野:どちらかというと気にしていないというか(笑)。

はっぴいえんどとかって、日本人としてのアイデンティティみたいなものを、洋楽という借り物音楽のなかで模索した人びとだと語られますけども。そうした歴史の上に日本語の歌詞の洗練があって、Hocoriにおいても、非常に日本語が機能していますよね。

関根:そうですね。それはいままでの僕たちのキャリアも影響していると思いますが、やっぱりそれをやらなきゃと思っているし、何かに似たようないまっぽい音楽をやってもしようがないので、ポップスのなかにちゃんと落とし込めるような音楽にしたいっていう気持ちはありました。

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『ぷよぷよ』ってゲームあるじゃないですか? (中略)ある程度ざーっと積んで一気に消すっていう方法があって、なんか桃野くんの歌詞はそれをすごく感じるんですよ(笑)。──感覚的に作ったあとにつじつまをあわせることができるんだと思うんだよね。 (関根)

フラットに桃野さんの歌詞ってどう思いますか?

関根:僕は本当にすごいと思います。僕にとっては出どころがわからない作りが多いというか。僕も僕のバンドで歌詞は作るんですけどね。なんというか、桃野くん自身の体の中から生まれてきているんだけど、やたらとバラエティがあるというか。そういう印象がすごくあって。ひとつの絵だけを見て作っているような言葉ではないなと思っていて、それは僕にとっては謎です(笑)。

ひとつ感じるのが、歌いやすい、歌って気持ちいい、みたいなところからことばが発せられている感触がするんですけども。それでいて意味とか景色みたいなものがばらけないのがすごいなと思います。やっぱり歌って気持ちいいものを歌いたいです?

桃野:音の響きの気持ちよさとかで歌詞を書いていくんですけど、やっぱりどうしても日本語って、洋楽のメロディにハマらないなっていつも思っていたんですよ。そういう意味での試行錯誤の結果というか。今回は曲ごとにストーリーというか、ラヴ・ソングにしようとかって風になって。だからなのか、二人称の歌が多いかもしれないですね。

関根:ぜんぜん関係ないんですけど、『ぷよぷよ』ってゲームあるじゃないですか? あれっていろんなやり方があると思うんですけど、ある程度ざーっと積んで一気に消すっていう方法があって、なんか桃野くんの歌詞はそれをすごく感じるんですよ(笑)。

なんか、すごい的確かも。

関根;基本通りの連鎖を組んでいく場合は、一段消してトントントンって消えるようになっているんですけど、桃野くんのHocoriでの歌詞って、どーんっと積んだときに最後にポンってやると、ダダダダダダって消える感じがする。だから一見するとよくわからないことが組み合わさっているんだけど、最後に筋が通ったことになっているっていう(笑)。

たしかに微分しても意味がない歌詞なのかもしれないですよね。かつ英語の節回しで適当に日本語を組み合わせましたというのともちがいますよね。ちゃんと普通に日本語だし、でありながら、のばす音が全部「あ」とか「お」とか歌いやすい母音だったりとかね。そういう意味で自分の身体から発想されているのかなという感じもします。

関根:感覚的に作ったあとにつじつまをあわせることができるんだと思うんだよね。

あるいはただ出しただけなのに、つじつまが合っているんだ。

桃野:それってよくも悪くも染みついたもので、考えてそうしたわけではないというか。

すごく秀逸な比喩をいただきましたね(笑)。よくわかっておられるというか。

関根:僕もそういう歌詞がたまにうまく作れるときがあって、自分でも不思議だなと思っていたところがあって、そこをこのプロジェクトでは感じたので。……と、いまふと思ったんだけどね(笑)。

一言で済むんですよ。「24時間火がついているんだ」って言えば。そうなんだけど、ちょっと回りくどく言うとか、しつこいやつが僕は好きで。 (桃野)

今回は完全にお部屋同士のやりとりで?

関根:ほぼそうですね。

じゃあ、いっしょにレコーディングするみたいなタイミングってぜんぜんなかったんですか? 

関根:歌録りのときは一緒にやって、それだけかもしれないですね。

でも作り方としては、関根さんの場合はそっちの方が慣れていらっしゃったりするんじゃないですか?

関根:それはあるかもしれないですね。やり方を決めていたわけではないんですけど、自然とこうなったというか。一緒に楽器を触ってどうとかって感じではなかったですね。

ギターがめっちゃ入っているやつとかありましたよね。

関根:“Lonely Hearts Club”とかはけっこう入れましたよね。

あれ、ギターをやっているのはどちらなんですか?

関根:僕です。

これ暑苦しいですよね? 歌詞とかも。

関根:「ロンリー・ハーツ」とか言っちゃっているもんね。

なにか、ずっと火をつけているでしょう? 目覚めて火をつけて。働いて火をつけて。

桃野:一言で済むんですよ。「24時間火がついているんだ」って言えば。そうなんだけど、ちょっと回りくどく言うとか、しつこいやつが僕は好きで。

クールなラヴ・ソングじゃなくてそうであるところが好きでしたけど。

桃野:そういうしつこさって僕の感覚でいうとトランスするというか。何回も聴いているうちに気持ちよくなってくるみたいな。

ははは! ミニマルというか、リフレインが歌詞にも多いですよね。

桃野:そういう意味では、試みとしては、サビを繰り返し歌うところとか、ループ感とかは、これまでの僕としてはあんまりやっていなかったことかもしれないですね。

この反復性はどちらかというと、関根さんが持ってきたものなんですね。

関根:そうですね。もうこれはやめてひとつにしようとか。

すごく感じるのは、そういうクールさがありながらも、反復できない一回性みたいなものを求めるような熱さがグッとくるんですよね。それってやっぱり、お互いの性質があってこそ出てきたものなんですかね。

桃野:作っている歌詞は、少なくとも僕のなかではけっこう違う感覚があります。

トーフビーツさんのアルバム『ファースト・アルバム』は、ライヴとかパーティーを録っているていで1曲目がはじまるんですけど、その最後に「音楽最高」ってかけ声が入るんですよ。それって言わなくてもわかってるはずのことなのに、なんか、入れなきゃいけないんです。そこに切実さがあって。それから、いまという時は、いまこの一回だけ、みたいな切なさも。
で、Hocoriの場合、音楽そのものへの礼賛とか言及はないんですけど、愛においては一回しかない何かを求めるしつこさみたいなものも感じる(笑)。

その場その場の面白さっていうのがビデオに染み出ていますよ。 (関根)

せっかくだったら他の曲もおうかがいしましょう。やっぱり頭の“God Vibration”は強烈な曲だなと思うんですけど、ミュージック・ビデオも非常に強烈じゃないですか(笑)。それこそミニマルの極地というか、すごくいいですよね。あのアイディアを作っているのはやっぱり関根さんなんですか?

関根:基本はそうです。あのビデオはSLEEPERS FILMで作りました。もちろん、桃野くんとも話しながらではありましたけど、「踊り撮りだよね」という話になって(笑)。いいのがいいなって思っていて。

やっぱり熱くなりきらないミニマル感みたいなのは関根さんなんだろうなと思うんですけど、対してダンサーさんのフィジカル性たるや。

関根:最高ですね。「こういう踊りをしてください」とか指定はしていないので。

じゃあ、もっとアッパーな感じになるかもしれなかった?

関根:なるかもしれなかった(笑)。

桃野:めっちゃ踊れるひとだったかもしれないし。

彼のセンスも凄かったんですね。

関根:いや、彼のセンスが相当凄くて。

桃野:用意したのは白いワイシャツだけだったもんね。

関根:そうそう(笑)。その場その場の面白さっていうのがビデオに染み出ていますよ。

God Vibration / Hocori

そういうことなんでしょうね。舞台は、ただ駐車場の回る機械だけなわけじゃないですか? 非常にシンプルというか、ストリート感があると言えばあるんですけど、どこでもないような。で、何周かして終わるという、典雅なオルゴールかのようなドリーミーさ。あれには本当に脱帽というか素晴らしいなと思ったんですけど。

桃野:脱帽(笑)。オルゴールはありますね。

ヴィンセント・ムーンって、そういうどこにでもないストリート感ってものがあるのかなって思ったんですけど、関根さんは影響を受けていらっしゃると言われてますね。

関根:ヴィンセント・ムーンというひとはストリートでライヴを撮るひとなので、今回の映像で直接は関係ないとは思うんですけど、その感覚というか、その場で起こる音楽的な喜びとか、そういうものを感じたいっていう態度に僕は感動したんです。だから僕の作るビデオも一貫してそういうようなものを期待しているというか。エディットでなんとかするわけではなくて。

あれって、そのまま一発で?

関根:そうです。

だからちょっと息が切れているんですね。

関根:そうです(笑)。最初はあそこの隣で撮っていたんですよ。それで、こっちは回るからこっちでもやってみようって。

じゃあまさにライヴ感のなかから偶然にして必然的に出てきた。

関根:ある程度はみんなで考えていたけど、その先はよくわからないところを楽しもうっていうような。

そういうところに態度が凝縮されているんじゃないかと思います。

恋愛においても、なんでもそうだと思うんですけど、みんな変態性というのは頭のなかにあると思っていて。 (桃野)

関根さんご自身はブログだったかに、“Alien”が僕ら、ということを説明する上で象徴的なんじゃないかというようなことを書かれていたんですけど、私はこの曲がすごく好きで。ウーリッツァーのリフがすごくいいなっていう。

関根:この曲はまずウーリッツァーのリフができて、それで808の音を組んで、じゃあお願いしますって投げて(笑)。

桃野:そうですね。それでメロを。

あのメロはわりとつけてそのままですか。

関根:そうですね。抜き差しとかもたくさんありつつ。

桃野:僕はパンパンに入れちゃうんですよ。自分でも一息でいけないぞっていうくらい字を詰めちゃうんで。

へぇ。出来上がったものからすると意外ですけど。

関根:そこから間引いていって。ホントに不思議なのは、詰め込まれていた言葉を僕が勝手に間引くんですけど、それでも成り立つんですよ。

桃野:そうそう。

関根:それが本当にすごいんですよ。

桃野:そういう意味ではそうかもしれないです。僕、けっこう歌詞をバーっと書いてますけど、必要なのは一行くらいなんです。そこで説明できるんだけど、その余分なところが楽しいというか。

でも本当に言葉も歌も強いじゃないですか? ヴォーカリゼーションも。それがなかったらある種成立してないものでもあるでしょうし。この曲にはこうことばをつけなきゃ、とかってありました?

桃野:うーん、そうですね。

って言われるとそうでもないんですね。

桃野:基本的に僕のイメージでは、アダルトとかアーバンとか、そういうキーワードのなかで作ろうと思った歌詞だったので、その意味ではちょっとナンパな男というか、キザで普段言わないことばを探しましたね。で、それが究極までいくと、“Alien”──エイリアンなんて日常のなかで絶対に出てこないですよね。だからそういう表現をしようと。

もうひとつ感じたのが、わりと生々しい男女の感触があるなというか。セカイ系と呼ばれるものの後、ちょっと古臭くなってしまった男女観……。「君と僕」って言ったところで、その「君」がほとんど自分の延長でしかなかったりとか、なにかと自己完結して引きこもる感じが主流だったと思うんですよね。そうじゃなくて、もっと未知なところにいる女のひと、異性、そういうものを感じさせる表現って、いまはけっこう珍しいのかなって気がしました。
そこは、このミニアルバムがラヴ・ソングとして成り立っているかなり大きい部分かなと思うんですけど。そういったところのセクシュアリティというか、出てくる異性、恋愛の形、そこはどうですか?

桃野:僕の思う恋愛だったりとか経験だったりとか、そういうものだと思いますよね。

月9感だったりとか。

桃野:ああいう、もともと憧れていた恋愛像とかもあるじゃないですか? 最初は喧嘩しているのにだんだんと惹かれ合っていくみたいな。お互い相手がいるのに、なんか惹かれ合っていく感じとか。もともとトレンディ・ドラマの憧れみたいなものもあるから、いざ自分がそういう年齢になったときに、意外と不条理なものも多かったりとか。あと、生々しいものも多かったりするんで。そこで嘘をつきたくないなというところがあるから、リアルだけどちょっと音楽でしかできないようなトリップをすることは考えましたね。

このミニアルバムで歌われているキャラクターとか特徴があるとすればどういったところでしょう? その辺りは客観的に見ている部分があるのではないかなと思うんですが。

関根:やっぱり妄想的なというか、変態的だよね(笑)。

存在しない彼女とかヴァーチャル・アイドルだったりとか、そういうことじゃないんですか?

桃野:まぁそうですよね。僕のなかでは恋愛においても、なんでもそうだと思うんですけど、みんな変態性というのは頭のなかにあると思っていて。で、そういうのを吐き出す場として音楽があって、そういう恋愛という題材があるなと思いますな。

いまは、すべてが並列になり過ぎていて、何に関しても知識自体がさほど意味がなくなっているし。(中略)何かをやろうと思っても、それがやれるってこともわかっちゃっているのが多少あるので、もうちょっと自然に音楽と付き合えているような気がしますね。 (関根)

あと、若手の中ではちょっと大人でいらっしゃるなというか。そこはおふたりが30代というところもあるのかなって。それは20代と30代の音楽環境の差というか、リスナー能力とかも変わるわけじゃないですか? 昔の音楽好きだった同級生が、大人になったらぜんぜん聴いてないみたいな。20代と30代での音楽環境の変化って何かあったりします?

関根:それは本当に変わってますよね。この10年であらゆることが変わった気がする。

桃野:20代の方が闘争心というか、競っている感じがありますよね。音楽を聴くにしても、他のバンドを聴くにしても「先を越されたのか!?」って勝手に思っちゃったりとか。

関根:あと、当時はまだ信じられる先があったような気がしますね。いまは、すべてが並列になり過ぎていて、何に関しても知識自体がさほど意味がなくなっているし。昔は知っていることとかが優位性に繋がっていたんだけど、いまはべつにそこまで……。知っているやつがどこかにいるってことも知っちゃったし。何かをやろうと思っても、それがやれるってこともわかっちゃっているのが多少あるので、いまはもうちょっと自然に音楽と付き合えているような気がしますね。

それって年齢によるものですか? それともiTunes的なものがひと並びにしてしまった話なのか。

関根:うーん、どうなんだろう。この10年で音楽との付き合い方は過激に変わったんじゃないんですかね。僕自身もやっぱり音楽を昔から買っていたけど、買うとしてもデータが増えてますよね。フィジカルで買うものは自分が好きなものしかなくなった気がします。

アップル・ミュージックを前にすると、音楽が聴くものというよりも参照するものに情報の密度を落としているような気もしてきますよね。そういうなかで、だからこそ、アルバムを作ることの意味が解体されているようにも思います。
このミニアルバムは6曲で完成している感じがするんですけれども、今後は、これをアルバムにしていくんですよね?

関根:完成してほっとしたというか。

旧来の音楽産業的な考え方で言えば、ここから先にアルバムがあるんだろうな。それを一体どうやって作っていくんだろうなっていう疑問があるわけなんですけれども。

関根:音楽はいくらでも作れるんですけどね(笑)。

桃野:そうなんですよね。

曲数が溜まればアルバムはできるってことなんですかね。

桃野:できるし、要はお互いに経験を積めば、曲ってものは作れるときに作れると思うんですよ。だからそういう意味での焦りはあんまりないですね。

関根:自然に楽しんで1曲1曲を作っていった結果なので。むしろ全部シングル的な感覚で作っていったというような。

要はお互いに経験を積めば、曲ってものは作れるときに作れると思うんですよ。だからそういう意味での焦りはあんまりないですね。 (桃野)

だとすると、むしろいまの音楽の状況に合っているんじゃないですか?

関根:そうかもしれないです。いまの状況だからやっていることなのかもしれないですね。

ジャケットの意味もぜんぜんちがいますよね。ブックレットもなくて、曲単位で無限に音が存在していて、そのなかで1曲ずつが存在している意味は、いまだから余計に感じられるというのもある気がするんですよ。そういう意味では理想的にワガママなユニットでもあるかもしれませんね。

桃野:このふたりの間では設定みたいなものはありますけど。でも基本的にはこれが納得いかないものだったら、世に出ていなかったと思いますし。

そうすると音楽産業にとっては寒い時代だけど、音楽にとっては豊かで贅沢な時代なのかもしれないですよね。

桃野:本当にそうだと思います。

ゴミがめっちゃ輝いているときもありますから。プライドのようにがっつりしたものが滑稽に見えるときというか。 (桃野)

ところで、Hocoriっていう名前は何なんですか?

桃野:これは僕が付けたいなと思っていたワードなんです。ダストの「ホコリ」と、プライドの「ホコリ」と、両方の意味が音楽にはあるなって思っていて──自分にとって大事でもそれを聴かないひともいるわけで。かといって、死ぬほど好きなひともいるわけで。そういうことっておもしろいことだと思うんですよね。そんなことで明暗が分かれるわけじゃないけど。それを聴くことで判断するっていうところの面白さもあるし。
あと、最近、「日本の誇り」っていうような言葉も耳によく入ってくるので、僕らが「ホコリ」って付けることによって皮肉っぽく感じられるところもあるかもしれないなと。いろんな角度で捉えられることばだなと思って。

ゴミのように輝くもの、みたいな逆説とか。

桃野:それもありますよね。ゴミがめっちゃ輝いているときもありますから。プライドのようにがっつりしたものが滑稽に見えるときというか。だから、「ホコリ」っていうのは、何でもないことばだけど、なんかみんなが勝手に想像して意味を付けるものかなって。

そこにもスタンスが表れていそうですね。音としてはどっちかといえばリッチな音質を目指されているのかなって思うんですけれど──そういうガラクタみたいなローファイ感というのはいたずらに追求されていませんよね。

関根:ただ、ローファイな取り組み方は大事だと思っているので、きれいにトリートメントしすぎないようにしているというか。とはいえリッチに作りたいと思っているので、贅沢な悩みなんですけどね。そこはすごく意識していて、作り過ぎていないけどローファイでもないみたいな。そういうところはつねにあります。それはどっちかというと僕の好みなのかもしれないですけど。

やっぱりそういう面において関根さんも変態なんだと思いますけどね(笑)。

関根:ふたりの変態(笑)。

桃野:どんなグループだよ(笑)。

ローファイな取り組み方は大事だと思っているので、きれいにトリートメントしすぎないようにしているというか。とはいえリッチに作りたいと思っているので、贅沢な悩みなんですけどね。 (関根)

違いますって(笑)。でも、見えないところで、へんなこだわりみたいなものによってすごく彫刻されてトリートメントされている音なんだろうなということを随所に感じますね。聴けば聴くほど感じられる……何度聴くのにも耐えるような。

関根:そうしたいとはいつも思っているので。説明が多くても過剰になるし、編集が多くても過剰になるので、何度も聴けなくなるなと思って。そこはけっこう大事にしたいところですよね。

ある意味、消費感バリバリじゃないですか。ジャケがネオンだし。でもローファイなものへのリスペクトがあると。アナログは出すんでしたっけ?

桃野:アナログ出しそうですか?

出るものかと(笑)。JET SETさんとかに並んでいそう。

関根:サウンド的にはぜんぜん遜色なく作ってると思うので。クラブでも流れてほしいし。お茶の間でも流れてほしいし。それに耐えられるものなんじゃないかとは思っているんですけど。

ほんとに楽しみですよ、次とか、アルバムも。……といいながら、未来は不確定で、できればできたところで出すと。

桃野:未来は常に自由っていう(笑)。フリーダム。

でも、このミニアルバムは夏に出すっていうような狙いはあったんですか?

桃野:それはちょっとあったね。夏に出したいなとか、「トレンディ」みたいなワードのイメージとかで。

トレンディって言えば、夏もそうですけど、冬のトレンディもありますよ。

桃野:クリスマスとかね。

いまはみんなシラけているから、「クリスマスなんて……」みたいなところがあるじゃないですか。

桃野:そうなんですよ。実際にそうやって冷めた目で言っているひとも、いざやってみると楽しいじゃないですか? そういうのはありますよね。なんか斜に構えてるけど。

では、懐かしいほどわくわくするクリスマスのアルバム、楽しみにしていますね!

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