「Nothing」と一致するもの

interview with DMA's - ele-king


DMA's
DMA's

Infectious / ホステス

Rock

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 DMA'sを本当にオアシスの後継だと考えるひとはいるだろうか? もちろんひとつの売り文句にすぎないが、そうした喧伝が彼らに翼をつけるとも思われない。われわれはべつに次のオアシスを求めているわけではなく、ただそこで90年代のUKインディを思わせる音が素朴に素直に鳴っていることを喜び、また、オーストラリアのバンドであるという出自が、洒落っ気と愛嬌を伴った「いなたさ」としてうまく読み替えられていることに大いに反応しているのだ。

 素朴さの価値はいまそれほどまでに高い。そして、コートニー・バーネットの存在によってにわかに熱いまなざしを向けられているオーストラリアは、その金脈であるかのように幻想されている。彼女は先日グラミー賞「最優秀新人賞」にノミネートされたが、むしろその事実よりも、ロンドンでのゲリラ・ライヴの様子のほうが、この現象をうまく伝えているといえるだろう。みな、ロックを継ぎ得るヒーローではなくて、ふと聴こえてきた素朴さ、その清新な力に足を止めているのだ。

 それに加えて、昨年作『カレンツ』の絶賛ムードで存在感を増したテーム・インパラもオーストラリア熱を支える。系譜としては彼らに近いサイケ・バンド、ガンズにジェザベルズ、あるいはシドニーのインディ・ポッパー、アレックス・ザ・アストロノート、もう少しヴィンテージ感のあるオーシャン・アレイなどなど、ロックはどこに残っているのかと「発掘」が止まらない。

 しかしてDMA'sは? 彼らもまた、素直で少し懐かしい音を聴かせてくれる。ただし、アークティック・モンキーズ以降のロックであることがわかる。かつ、90年代のUKインディだけではなく、同時期のUSインディの感覚もうっすらと漂う。「オルタナ」という名のまま古びていった音を、彼らはいまの感性のまま無邪気に楽しんでいる。

 また、キウイ・ポップの牙城にして、USインディとかの地のロックとの紐帯である〈フライング・ナン〉とも関わりが深いようだ。一貫してガレージ―で素朴なスタイルによって強固なレーベル・カラーを築き愛されてきた彼らの縁戚に、このようにフレッシュなバンドが生まれていることは、現在のバブル状況に関係なく、そもそものシーンの層の厚さを証明しているといえるだろう。

 よって、DMA'sについてはもう、聴くだけだ。彼らが楽しむようにわれわれも楽しめばいい。ただ、ロックというジャンルの可能性について割合にクールな視点を持っているところは現代ふうというべきである。けっしてレイドバック志向なわけではない。コートニー・バーネットがそうであるように、彼らはとても自然にその音を呼吸していて、それがなにより気持ちよいと感じる。もし「大型」新人と呼ぶのなら、そのような点をこそ大型と表現したい。

■DMA's / ディー・エム・エーズ
オーストラリアはシドニー出身の3ピース。トミー・オーデル(Vo)、ジョニー・トゥック(Gt)、マット・メイソン(SW, Gt,Vo)によって2012年に結成。地元の小レーベル〈I Oh You〉からのシングル・リリースなどを経て〈Infectious〉と契約。2015年11月、日本独自EPをリリースし、その直後初来日している。2016年2月、デビュー・アルバム『ヒルズ・エンド(Hills End)』を発表。

シドニーではオーストラリアのヒップホップがとても人気だよ。あとはEDMみたいなエレクトロニック・ミュージックとかね。(ジョニー・トゥック)

みなさんは何歳なんですか?

マット・メイソン:平均26ってとこかな。俺は25歳、ジョニーが26歳で、ここにはいないトミー(・オーデル)が27歳だから。

楽器やバンドをはじめるきっかけになったアルバムやアーティストを教えてください。

マット:俺は13歳のときにソニック・ユースを聴いたのがきっかけでギターを弾きはじめた。友だちのバンドに巻き込まれて、みんなと同じ音楽を聴くようになった。

ジョニー・トゥック:若いころはそこまで音楽が好きじゃなかったんだけど、学校で楽器ひとつをクラリネットとベースの二択からを強制的に選ばせられて、自分はベースを弾くようになった。クラリネットでもよかったかもね(笑)。それでベースをやるようになったら、お父さんがジョニー・ミッチェルの曲を教えてくれて、それを聴いてすごくインスパイアされた。

シドニーではどんな音楽に人気がありますか? またUKとアメリカを比べるとしたらどちらの影響が強いですか?

マット:オーストラリアはイングランドの子どもみたいなものだけど、アメリカの影響のほうが最近は強いと思う。

ジョニー:シドニーではオーストラリアのヒップホップがとても人気だよ。あとはEDMみたいなエレクトロニック・ミュージックとかね。でもヒップホップのMCがオーストラリアなまりでラップしてると、ちょっと笑っちゃうよね(笑)。アメリカでもイギリスなまりでもなくて、オーストラリアなまりで歌うひとも一部にはいるよ。俺たちが好きなポール・ケリーもそうだし、最近出てきたコートニー・バネットなんかも彼にすごく影響を受けているねと思う。あと、ハードコア・メタルが人気で、他の街のメルボルンにはメルボルンのシーンがあったりする。

オーストラリアのインディ系レーベルで1年以上続いているってすごいことだよ。(マット・メイソン)

〈アイ・オー・ユー(I Oh You)〉というレーベルについて教えてください。とくにロック専門レーベルというわけではないですよね。シドニーでどのような役割を担っているのでしょうか?

マット:最初はレーベルもマネージャーもいない状態でやっていたんだけど、あるときビデオをとってネットにアップしたら、マネージャーやブッキング・エージェントみたいなひとたちから、連絡が舞い込んでくるようになった。その流れでいまのマネージャーが決まって、彼が〈アイ・オー・ユー〉を教えてくれたんだよね。大きなレーベルじゃないし、所属アーティストもそんなにいないんだけど、オーストラリアのインディ系レーベルで1年以上続いているってすごいことだよ。すごくヘヴィーなバンドや、俺たちに似ているバンド、女の子のポップ・シンガーとも最近契約したよ。音楽的には幅広いし、運営の仕方もすごくうまいからオーストラリアですごく大きな存在になると言われているし、俺たちも彼ならそうなれると思っているよ。

ニュージーランドについても教えてください。〈フライング・ナン(Flyng Nun)〉やサーフ・シティといったバンドがいて、彼らにはオリジナリティがありますが、同時に90年代の音楽を参照することもあります。ニュージーランドのシーンは馴染み深いものですか?

ジョニー:よく行き来はするよ。実際にいまのライヴ・バンドのギタリストはポップ・ストレンジっていう〈フライング・ナン〉と契約しているバンドのメンバーなんだよね。だから好きなバンドも多いけど、いろんな音楽を聴いているから、とくにニュージーランドのシーンから影響を受けているわけではないかな。

新しい音楽はどのようにして知りますか? 

マット:友だちから教えてもらうことは多いよ。〈アイ・オー・ユー〉のヨハン(Johann Ponniah)がいろいろおすすめしてくれるんだ。あとスポティファイはいいよね。それからいまはライヴ・サーキットにもよく出ているんだけど、知らないバンドのライヴが見られるから、新しい音楽を知るきっかけになっている。

自分たちが楽しめる曲を書いていたらそうなっただけ。だから、昔の音楽に似ているものをやろうとは思ったことはないね。(マット・メイソン)

いまの音楽と比べると、90年代や80年代の方に好きなバンドは多いですか?

マット:たしかに普段聴く音楽は昔のバンドが多いけど、その理由は自分でもよくわからない。でもだからといって、いまの音楽がよくないとは言いたくないし、いいバンドもたくさん出てきているけど、全体的なテイストは時代とともに変わってしまって、自分たちは昔の方が好きなんだと思う。

よく80年代や90年代のバンドと比較されることが多いと思いますが、あなたたちはそういった音楽を参照している意識がありますか? また〈ファクトリー〉や〈クリエイション〉といったレーベルに興味がありますか?

マット:90年代の音楽はよく聴くんだけど、ものすごく影響を受けたわけでもなくて、自分たちが楽しめる曲を書いていたらそうなっただけ。だから、昔の音楽に似ているものをやろうとは思ったことはないね。それからトミーはイギリスの音楽を聴くんだけど、曲を作る俺たちはそこまで聴くわけでもない。

エレクトロニック・ミュージック、たとえばダンス・ミュージックといった他のスタイルにも興味がありますか? 

マット:バンドをはじめたときは生ドラムじゃなかったから、ドラムマシーンを使っていたんだけど、いまはリアムっていうものすごくいいドラマーがいるから必要ない。でも将来的にはまた使う可能性もあると思う。自分たちが新しいシンセを買えば、セカンドではそれを使うし、個人的にヒップホップのビートを作ったりもしているから、エレクトロニック・ミュージックの要素を取り入れる可能性はいまでも十分にあるよ。トミーはダンス・ミュージックのファンでいろいろ聴いているしね。

アルバムの構成はどのように考えたのでしょうか?

マット:本当にシンプルに全体のバランスを考えただけだよ。ビリヤードの玉を三角に並べるときって隣に同じ玉がこないように揃えるけど、そんな感じでラウドな曲と静かな曲が続かないように意識した。

ジョニー:あと全体のダイナミズムは考えたよね。

マット:ストーリー・ラインがあるわけでもないし、曲の流れを決めていたくらいで、そこまで考えて構成したわけでもない。でもEPで作った流れをこのアルバムでも続けたいとは思った。

世の中を変えるような可能性があった頃からやっているひとたちにとっては、そんなこと意味がないように見えるかもしれないけど、いまやっていることにだってちゃんと意味があるんじゃないかな。(マット・メイソン)

「DMA」とはどのような意味を持つ名前なのでしょうか?

マット:初期のバンド名の省略で、とくに意味はないよ(笑)。自分たちの音楽を表すシンボルみたいなものなんだけど、みんなどんな意味があるのか勘ぐるんだよね。オランダのラジオ局へ行ったときは20個くらい意味の候補があって、ここでは言えないような名前の省略形を考えついたひともいた(笑)。そういうのもおもしろいけど、実際には何の意味もないんだよね。

ロックという音楽はいまでも多くのバンドを生んでいますが、音楽的なポテンシャルやその可能性は出尽くしたと思うことはありませんか?

マット:新しく出てきて一気に世の中を変えてしまうような音楽が生まれるという点に関しては、ロックはポテンシャルを失っていると感じることはあるけれども、もう既にあるジャンルで自分が好きなことをやることはできるし、それを楽しむことも可能だと思うよ。世の中を変えるような可能性があった頃からやっているひとたちにとっては、そんなこと意味がないように見えるかもしれないけど、いまやっていることにだってちゃんと意味があるんじゃないかな。

みなさんにとってロックバンドがどのような価値を持ったものなのか教えてください。

マット:ロックバンドをやるってことは、やっていることを楽しむってことだよ。自分たちにとってはね。

女の子は本当にピンクが好きなのか - ele-king

女の子は本当に〈ピンク〉が好きなのか?

国を越えてこれほど多くの女児がピンク色を好むのは、いったいどういうわけなのでしょう。 二女の母としての素朴な疑問からはじまる、〈ピンク〉の歴史と現代女児カルチャーの考察。 玩具からアニメまで、ドメスティックな現象から海外シーンまで。
女の子が、そして男の子が、のびのびと自分を認められる社会のために──。

“ギーク母さん"こと『萌える日本文学』(幻冬舎)や『ギークマム―21世紀のママと家族のための実験、工作、冒険アイデア』(共訳、オライリージャパン)などの著者、堀越英美がウォッチする現代女児カルチャー事情。

欧米ではこうしたピンク攻勢に警鐘を鳴らす声も大きく活発な議論がかわされています。 本書では「ピンク・グローバリゼーション」現象を取り巻く議論をふまえ、近年社会現象となったアニメ作品や、欧米を中心に模索されているさまざまな玩具に顕著な女児たちの価値観の変遷を分析、そしてピンク色まみれの女児たちが自立した大人となる道を模索します。

もっともピンク色に溢れているように見える女児向けコンテンツの世界から、いまその窮屈さをはねのけるいきいきとしたアイディアが芽吹きはじめているようです。

目次

イントロダクション

第一章 ピンクと女子の歴史
ピンク=女子はフランス発/きらびやかな男性たち/子供服における男女の区別/
黒を追放してピンクを手にせよ/五〇年代アメリカとピンク/
厭戦カラーとしてのピンク/ウーマンリブの登場/日本におけるピンク

第ニ章 ピンクへの反抗
女子向けSTEM玩具の登場/ピンクに反逆する女児たち/ピンク・スティンクス/
政治問題としてのピンク・グローバリゼーション/ジェンダーと玩具/
ファッションドールが女の子に教えること

第三章 リケジョ化するファッションドール
バービー売上不振の理由/〈プロジェクトMC2 〉とギークシック/
イギリス生まれのSTEMドール〈ロッティー〉/セクシーすぎない女子アクションフィギュア/
多様化するドール界/男の子だってバービーで遊びたい! /技術があれば女の子も戦える

第四章 ピンクカラーの罠 日本女性の社会進出が遅れる理由
〝女らしい職業〟と現実とのギャップ/ピンクカラーの罠/
なぜ女の子はピンクカラーに向かうのか/改善されない日本/ピンクは母性と献身の色/
「プリンセス」は「キャリア」ではない/「かぐや姫」を守るためにできること

第五章 イケピンクとダサピンク、あるいは「ウチ」と「私」
ピンクへの拒否感/ダサピンク現象/主体としての一人称「ウチ」/
性的客体化が女子に与える害/主体としてのイケピンク

第六章 ピンク・フォー・ボーイズ
ピンクの好きな男子たち/「カワイイ」と男子/男の子への抑圧/
中年男性も「カワイイ」世界へ/『妖怪ウォッチ』と『アナ雪』が切り開く時代/
新しいディズニープリンセス

あとがき

IO - ele-king

イメージがリアルを追いつめる “CHECK MY LEDGE”

 2015年の東京のアンダーグラウンドを騒がせたビッグ・ハイプのひとつは、間違いなくKANDYTOWNだった。世田谷区南西部のベッドタウンを拠点とするこのクルーは、ランダムにドロップするヴィデオやミックステープ、さらにはストリート限定のフィジカルCDを通じて、東京の山の手エリア特有の、アーバンで洗練された空気を緻密に演出してみせた。トラックメイク、ラップとともに、映像制作やモデルまでこなす総勢15人。北区王子や川崎南部など、東京の郊外エリアからハードコアなバックグラウンドのトラップ・ミュージックが隆盛する中、「KANDYTOWN」という架空の街のコンセプトと、メロウなサンプリング・アートによって構築される90’Sサウンドは異彩を放っていた。じゅうにぶんに盛り上がったハイプと、おそらくは水面下でくすぶるジェラス混じりの反感。デビューの舞台としては申しぶんない好奇心が渦巻く中、KANDYTOWNの中心人物であるIOのファースト・ソロ・アルバム『SOUL LONG』はリリースされた。

 結論から言おう。IOは見事にハイプの内実を埋めた。彼はこの30年来の日本のヒップホップの伝統の正統な後継者だ。そして同時に『SOUL LONG』は、ジャンルの壁を超え、CEROやSUCHMOSなど、ヒップホップ以降のソウルやファンク、ジャズの咀嚼を通じてシティ・ポップスを現代的に更新/拡張しようとする、新世代のインディ・バンドたちの隣に置かれるべきレコードでもある。つまり、日本の若い世代による、アメリカ音楽のコンテンポラリーでフレッシュな再解釈。そこには、これまでの日本のヒップホップのエッセンスの継承だけでなく、それ以前から東京の文化エリートが綿々とつむぎ続けてきた、外国音楽の真摯な翻訳の伝統が息づいている。豪華プロデューサーたちの集結をうけて、巷では「日本版Illmatic」との言葉も飛び交っているみたいだけれど、『SOUL LONG』は20年前の黄金期ニューヨーク・ラップの焼き直しなんかじゃない。これは、噴出するリアルに対抗しようとする、想像力を武器にしたスタイルの美学だ。

                   *

 ルー・コートニーの“SINCE I LAID EYES ON YOU”の流麗なコーラスをバックに亡き親友の肉声をサンプルする”CHECK MY LEDGE”から期待を裏切らない。腰を落ち着けたIOのラップはどこまでもスムース。いわゆるトラップ以降の、フロウの独創性とフレーズの面白さで勝負する最近の流行とはまるで真逆だ。フロウを壊さぬようになめらかなライミングをキープし、ヴァースの終わりには狙いすましたパンチラインをキックしてみせる。それ以降も、なかばクリシェ的なセルフ・ボースティングやワン・ナイト・スタンド的な色恋沙汰、警察の職務質問をかわすきわどいシーンまで、あくまで一線を越えないクールさだ。

 世代を超えた精鋭プロデューサーたちによるトラックもそれぞれの個性を際立たせながら統一感を失わない。新世代の筆頭、ビート・アルバム『OMBS』で世界水準のビート・メイカーであることを証明したSIMI LABのOMSBによる“HERE I AM”、そしてDOWN NORTH CAMPの若きキーマン、KID FRESINOがビート・メイクとリミックスでの客演をこなす“TAP FOUR”が、とにかく素晴らしい。NEETZが笠井紀美子の楽曲をサンプルして90年代生まれのIOが歌う“PLAY LIKE 80’S”も、いまの東京のバブリーで、どこか殺伐とした空気をうまく切り取っている。KANDYTOWNの面々をゲストに迎えた“119MEASURES”ではスリリングに、BCDMGのJASHWONによる“CITY NEVER SLEEP”では叙情的に、それぞれ対照的にストリングスを使いわけるバランスも新鮮だ。
 クライマックスの終盤、ライムスターのMummy-Dによる完全に90’Sマナーの“PLUSH SAFE HE THINK”ではジャン・ミシェル・バスキアをさらりと引用し、生歌の日本語フックに挑戦した疾走感溢れる追悼タイトル・トラック、“SOUL LONG”はKING OF DIGGIN’、御大MUROプロデュース。いまや太平洋を越えた現象である、90年代の黄金期ニューヨーク・ヒップホップ再評価の流れに呼応して、どれもトラップ的なアプローチとは一線を画す、メロウな90’Sサウンドだ。とくにMummy-DとMUROのベテランならではのプロデュース・ワークは、フレッシュでありながらオーセンティック、というアルバム全体の印象を決定づけている。リリックには故DEV LARGEの名もさらりと飛び出すけれど、彼が存命中ならきっとこの豪華布陣に名を連ねていたに違いない、なんてことも思わずにはいられない。

 日米の90’Sリヴァイバラーの中でのIOの個性は、間違いなくそのメロウネスにある。それはけしてサンプリングを基調としたサウンドのムードだけのことではない。スムースなラップというのはたいてい歌に接近するものだけれど、IOはあくまでクラシカルなラップによって、ソウルフルなフィーリングを表現する。たとえば、ビースト・コーストの震源であるニューヨークのPRO ERAとその中心人物JOEY BADA$$には、サウンドにもリリックにもハードコアなヒップホップ・マナーが顕著にみてとれるし、そもそも長らく90’Sヒップホップの文法に呪縛されてきた日本のシーンで、真の意味での90’Sリバイバルを決定づけたFla$hBackSの洗練されたサウンドにさえ、そのフロウやビート・マナーには言語化以前の鋭い反抗のアティチュードが感じられる。それに対してIOは、あくまで優雅でドライなスタンスを崩さない。葛藤や苛立ちの棘、強い叙情を完璧なまでにコントロールして、ひたすらソフィスティケートされたドラマを演出してみせる。

 ラップというのはえてしてリアルを追求するものだけれど、ここにあるのは逆に、イメージを駆使してリアルを塗り替えようとする想像力だ。KANDYTOWNのミックスやヴィデオにはアメリカのソウルだけでなく、山下達郎の“甘く危険な香り”など、日本産のシティ・ポップスが印象的に登場する。そのことを踏まえれば、口にしてはいけないことを口にしない、この禁欲的な美学は、かなり確信犯的に選びとられている。東京郊外でリアリティ・ラップが盛り上がり、地上波ではフリースタイル・バトルの泥くさい熱気が溢れる中、サウンドの感触と言葉選びによって演出されるこのクールネスは、そのスムースな見た目とは裏腹に、とても野心的なものだ。郊外のトラップ・ミュージックがVICE JAPANのショート・ドキュメンタリーをきっかけに注目を浴びたのとあえて対比させるなら、IOとKANDYTOWNのバックボーンには明確に、映画的な感性がある。

 シティ・ポップス的な想像力を媒介とした、ヒップホップ以降のソウルやジャズ、ファンクのメロウネスの再構築。その音楽的な方向性は、足取りはまったく真逆だけれど、現在の日本のインディ・ロックともリンクする。それは、たとえばCEROがディアンジェロやロバート・グラスパーを経由して最新作『OBSCURE RIDE』で完成させたサウンドや、KANDYTOWNの一員である呂布も客演するSUCHMOSのデビュー盤『THE BAY』とも、切れ目なくつながっている。事実、CEROの“SUMMER SOUL”の12インチのリミックスを担当したのはOMSBだし、STILLICHIMIYAの田我流とカイザーソゼ、5lackの生バンドとのセッションなど、最近のアンダーグラウンド・シーンはバンドサウンドとの実験的融合に舵を切りつつある。
 ただ、こうした交錯現象は、いわゆるクロスオーヴァーとは少しおもむきが違う。本作には昨年急逝したKANDYTOWNの創設者、YUSHIが残したラップやビートがいくつか使われているけれど、彼はかつて、現在のOKAMOTO’Sの前身バンドのフロントマンをつとめていた。つまり、異なった音楽的バックグラウンドを持つ者たちが異種交流し、ハイブリッド的になにか生み出しているというよりは、もともと共通の音楽的素養を持つ者たちが、アウトプットとしてそれぞれ異なる表現方法を選ぶことで、自然にジャンルの壁を超えた交錯が生まれているとみるべきだ。これはディアンジェロやグラスパーの登場を背景とする、90年代以降のヒップホップを軸にしたソウルやジャズの更新なしにはありえなかったことだ。

 少し大げさな話になってしまうけれど、文句なしに去年のベスト・アルバムだったケンドリック・ラマーの『TO PIMP A BUTTERFLY』は、ヒップホップの人脈と若手のジャズ・プレイヤーの人脈が実際の血縁関係も含むクランとしてつながり、その制作を支えていた。サウンド面でのリーダーだったテレス・マーティンにいたってはア・トライブ・コールド・クエストとの出会いがきっかけでジャズの魅力に没頭していったというから、ようはヒップホップ以降の世代にとって、マシンのビートと生楽器による演奏というのはとくに大仰に線が引かれるものじゃない。J・ディラ以降の身体的なズレを反映させたマシン・ビートはすでにクリス・デイヴなど、ディアンジェロやグラスパーのサウンドを支えるドラム・プレイヤーによって、再帰的なプレイ・スタイルに昇華されてさえいるのだ。もちろん『SOUL LONG』そのものは、オーソドックスなヒップホップの方法論で制作されているけれど、そのスタイルがメロウネスを結節点にシティ・ポップスとの共振の萌芽をみせていることは、今後のシーンの動向を占ううえでも非常に重要だ。

 このアルバムのリリースされた2月14日は、KANDYTOWNとっては肉親同然の幼馴染みだった、故YUSHIの一周忌にあたる。作品に昇華するにはいまだ生々しいだろうその傷も、YUSHIの遺した謎の言葉を「ソー・ロング(さよなら)」と読ませるタイトル、詩的なリリックやアートワークを通じて、あくまでも寡黙に、コンセプチュアルに表現される。KANDYTOWN名義のミックステープ『KOLD TAPE』では、サックスをフィーチャーしたバンドサウンド、大橋純子の“キャシーの噂”といった昭和歌謡、JAY-Zやディアンジェロなどの90’Sクラシックをひょうひょうとビートジャックする、自由奔放な実験が繰り広げられていた。『SOUL LONG』のストイックなサウンドとワード・チョイスはおそらく、確固たるスタイルの美学に従って構築されている。

 KANDYTOWNのベースにシティ・ポップス的な洗練の美学がある、というのは、けして表面的な直感だけにとどまらない。1980年代に誕生したシティ・ポップスという日本独自のジャンルを牽引した大瀧詠一や山下達郎といったミュージシャンは、アメリカから遠く離れた島国で、本来は借りものであるソウルやドゥーワップ、ロックンロールなどの海外音楽のエッセンスを抽出し、綿密な計算にもとづいて、なかばフィクショナルに都市的な洗練を演出しようとしていた。それは同時に、直前の学生運動の熱狂、そしてその運動に同期したフォーク・ミュージックの情念や直接的なポリティカル・メッセージから意識的/無意識的に距離をとり、自分たちの新たなリアリティを創造する試みでもあった。

 海外音楽をヒントにした新たなリアリティの創出、というその伝統の遺伝子は、90年代来の日本のヒップホップのルーツにも、もちろん強く刻印されている。そもそもヒップホップのサウンドは、ジャズやソウル、ファンクの偉大な遺産を切り刻み、自分勝手なフレッシュさで再構築するという不遜な哲学にもとづいているけれど、参照先の音楽的遺産がもとより輸入文化である日本では、その情熱はいよいよレコードというフェティッシュなモノへのネクロフィリック(屍体性愛的)なものにならざるをえない。掘りおこした黒いヴァイナルに封印された異国の音楽の屍骸をむさぼり、その音の魔力を血肉化して、自分たちの新たなリアリティの発明を試みる若者たち。そのとても豊かで、どこか屈折した光景は、日本のヒップホップにとっての、愛すべき原風景でもある。

 おそらく、リアリティ・ラップの台頭をうけて最近よく口にされる、裕福なフィクションの時代が終わり、より切実なリアルの時代が始まった、という一見わかりやすいストーリーそのものが、ひとつの罠なのだ。なぜならヒップホップの母胎となった1970年代のニューヨークのゲットーは、警察も立ち入れない、ギャングによる熾烈な内戦状態にあった。いくら経済格差が拡大しているとはいえ、数字上の治安状態としてそこまでの荒廃を経験してはいないはずの日本から、生々しいラップ・ミュージックが生まれる理由は、なし崩しに下降線をたどる自分たちの社会の現実に、ゲットーという虚構=フィクションの補助線を引くことによって、初めて理解される。いかなる切実なリアリティも、リアルにフィクションを足すことなしには存在できない。客観的に現実を切り取ろうとするドキュメンタリーさえ、作り手の主観なしにはけして成立しないように、ここには、リアルとフィクションをめぐる、根源的な秘密がある。

 そして、ヒップホップにおいてそのリアルとフィクションの配合の秘密は、誰もが知るひとつの言葉で表現される。つまり、スタイル、と。いみじくも「スタイル・ウォーズ」という言葉に端的に表れている通り、ヒップホップにとってスタイルとは、けして表層的な飾りではない。明確な意志で選びとられたスタイルこそが、リアルに拮抗するリアリティを創りだし、やがてリアルそのものを変えていく。東京の地下のクラブで、物静かなベッドタウンで醸成された異国由来の夢は、いまその狭い空間から溢れ出し、震災後の東京の真っ暗な路上を覆おうとしている。このロマンティックなドラマは、リアルから逃避するのではなく、リアルをなぞるのでもなく、リアルに牙をむいているのだ。

 KANDYTWONのホームである世田谷区喜多見は閑静な住宅街だ。そこから大規模な再開発によってバブリーな賑わいをみせる二子玉川を抜けて、さらに多摩川を下流にそって橋を渡ると、東京近郊のリアリティ・ラップの雄、BAD HOPを擁する川崎市がある。デ・ラ・ソウルやパブリック・エネミーら、ロングアイランド郊外のサバービア・ヒップホップに対し、インナーシティのプロジェクトから突きつけられたのが、Nasのハードコア・ラップだった。KANDYTOWNが提示するのは、むしろ東京の山の手エリアの音楽的な歴史の蓄積の豊さだ。そこには、ニューヨークと東京の地政学的なズレを背景とした転倒がある。音楽の力学は、都市の力学の反映でもあるのだ。音とイメージはからみあい、ほどけ、予想もしない仕方で連鎖する。

 そして2015年のもうひとつのビッグ・ハイプは、また別な架空の街をつくりあげたYENTOWNのクルーだった。トラップをドラッギーかつフレッシュなスタイルに昇華した彼らの本格的な活動も、今年は期待されている。それにシーンは違うけれど、SUCHMOSのフロントマンであるYONCEのインタヴューなんて、茅ヶ崎のフッドへの愛着やあけっぴろげな上昇志向、社会に中指を立ててみせる挑発的な態度などなど、完璧にヒップホップ的なストリート・マナーで笑ってしまうほどだ。2016年の東京は大きく動くだろう。自由な想像力が、Googleの無味乾燥なマップを上書きし、街を塗り替えていく。異なるスタイルと異なるリアリティがせめぎあう、その衝突のなかで、10年代のリアルは生まれようとしている。時代を語るヒマがあったら想像力を語れ、この音の強靭な美学はそう告げている。

New Order - ele-king

 ニュー・オーダーの3rdシングル「シンギュラリティ」の新PVも注目です。これは、まだ壁によって東西に分断されていた時代のベルリンのアンダーグラウンドの様子を編集したもの。まずは見て下さい。

 すごいでしょ。まさに無法地帯、いかに当時の西ベルリンがアナーキーな情況にあったのか……。これは、ファクトリー・レーベルのベルリン支部代表、マーク・リーダー(マンチェスター出身)が脚本を書いて制作されたドキュメンタリー映画『B Movie: Lust & Sound in West Berlin』をエディットしたもの。
 ちなみに、マーク・リーダーはやがてMFSを立ち上げてジャーマン・トランスの人気レーベルにまで大きくしますが、そのレーベルからは1996年に電気グルーヴの「虹」の12インチが出ています。

Massive Attack, Young Fathers - Voodoo In My Blood - ele-king

 すでにご存じの方も多いかと思いますが、マッシヴ・アタックの新作PV、格好良すぎです。昨年『ホワイト・メン・アー・ブラック・メン・トゥー』が前作『デッド』に続いて高評価された、エンジンバラの3人組ヤング・ファーザーズをフィーチャーした新曲のPVですが、なんといまもっともエロティックかつデンジャラスな女優、ロザムンド・パイクが出演!!!! 
 これは2016年のベストPVでしょうな。ロザムンド・パイクの演技を見れるだけでも素晴らしい……

Andrew Weatherall - ele-king

 音楽を聴き続けている者として、ひとつの好奇心、興味、関心のあり方として自分と同年齢の者がどのような表現の変遷、作家活動を辿るのだろうか、というのがある。ぼくより年下の人にもぜひ意識することをオススメしたい。自分と同じ歳で共感できるミュージシャンを探すことである。自分が25歳のときに、同じく25歳のあいつはこんな音楽を作って、35歳のときはこんな音楽を作ったと。そういうふうに聴いていると、なにかと考えさせられることがある。ときには励みにもなる。
 ぼくと同じ歳のミュージシャンというと、──ミュージシャンというよりDJだが──、デリック・メイとジェフ・ミルズがいる。この人たちは、しかしこう言ってはナンだが〝ハイパー〟なので、じつはそれほど同年齢意識を持っているわけではない。日本では菊地成孔がまったく同じ歳で、辿ってきた音楽体験が違いすぎるのだけれど、やはり、わかるところはすごくわかることがある。彼の近著『レクイエムの名手』がまさにそうだった。
 アンドリュー・ウェザオールもぼくと同じ歳である。今年で53歳という、立派な中年だ。そしていま〝中年〟であること、それはぼくがウェザオールに抱く関心のひとつとしてある。
 そもそも、アシッド・ハウス/テクノを直撃した世代の多くは、いま中年期に差し掛かっている。現役でがんばっているDJの多くも中年になってきた。この中年期は、ひとの人生においてじつにむずかしい。以下、エドワード・W・サイードの文章を引用する。

 中年期という年頃は、より明快に定義された二つの時期や事柄の間に挟まれたものの常として、かくべつ有益なものとはみられてこなかった。もはや将来を嘱望された青年でもなく、かといって敬われる老人でもない。不惑を過ぎてなお反抗的な若者ぶってもしばしば愚かしく、いっぽうで早くから老いた重鎮のようにみなされてしまうと、おぞましい尊大さや制度そのもものの厳格さを背負うことになりかねない。(中略)中年期は不確実性と、ある種の喪失性、身体的な弱さ、心気症、不安とノスタルジーの時期である。大多数の人びとにとって初めて死を意識するようになる時期でもある。
 いずれにしても、いま述べたことは経験にもとづいた現実の一部である。(中略)しかし誰であれ実際に中年にさしかかった者にとって、喜ぶよりは考えさせることのほうが多い。過去を繰り返すことなく(いっぽう悲しくもありがちないように)過去を裏切ることも避けながら、そこから学びつつあらためて来し方行く末を思い、猪突猛進してきたそれまでのエネルギーを新たな現実に合わせて修正しなければならないからである。あらゆる決まり文句が示唆するとおり、野暮ったく退屈な、色褪せた状態にもそれなりの真実はある。そしてそれが中年というものなのだ。

エドワード・W・サイード『サイード音楽評論』二木麻里訳

 なんの反論もない。思春期はたしかに人生においてむずかしい季節だが、中年期もすごくむずかしいのである。そのむずかしい季節をアンドリュー・ウェザオールは試行錯誤しながら生きている。ぼくと同じようにだ。
 そのアンドリュー・ウェザオール、彼こそはアシッド・ハウスにイングランドのゴシック趣味を注いだ張本人、彼こそは誰もがスニーカーを履いていた時代にラバーソウルを履いてDJをしていた男、彼こそは誰もが太陽を歌った時代に雨と霧を愛した人物である。近年流行っているゴシック/インダストリルの美学なんぞは、90年代の愛(バレアリック)の季節から表現し続けている。凡庸なDJがそんなことをすればただの異端児だが、ウェザオールという男は、その手の掟破りを最高に格好良く思わせてしまうのだ。彼の才能は、迎合しないその非凡なセンス、それをやってしまう思い切りの良さ、きわめて英国的な目利きにある。
 ロッターズ・ゴルフ・クラブとは彼のレーベル名であるが、この「ゴルフ・クラブ」という言葉を持ってくるところがいかにも彼らしい。ゴルフ・ファッションの元となったラウンジ・スーツは、19世紀つまりヴィクトリア朝時代の後期に流行っている。それはその時代のアウトドア・ファッションである。また最近の彼は顎ひげを生やし、ワークシャツを着ている。これも19世紀から20世紀初頭にかけての英国のスタイルだが、こうした服装からも読み取れることは、彼が〝現在〟に対して深い疑問を抱いているということだ。
 ファンションの問題もあるだろう。近年のウェザオールには見習うべきところがある。もしぼくが40代〜50代をターゲットにするファッション誌の編集者だったら、間違いなくこの男を特集するだろう。多少やり過ぎのところはあるが、もっともむずかしい中年期の身だしなみを彼になりに表現しているからだ。
 とはいえ、完璧な人間などいやしない。ウェザオールは、いまから12年前、中年期を目前としながらロカビリーを取り入れたことがある。41歳において過度に若者ぶったのだが、この気持ちもわかる。この年頃にありがちな、俺はまだいけるんだという、最後のあがきなのだ。そういう意味でウェザオールの作品からは、人生を生きるひとりの人間としての迷いや恐れといったものを感じるし、今作が7年ぶりになったのは、やはりこの歳のむずかしさがあったのだろう。誰もがいつでも時代に乗れるわけではない。  

 俺たちは川に蹴りを入れている
 流れを止めようとして
 無理そうな気がしてきたんだ
 俺が願うほうには流れていきそうにない
 “Kick In The River”

 先日書いたYuri Shulginのレヴューからも続く話だが、アンドリュー・ウェザオールがアシッド・ハウスのなかに注いだゴシック(リヴァイヴァル)運動は、ヴィクトリア朝時代の産業革命への抵抗の表れだった。いま起きている現実の変化こそ悪夢にほかならない。19世紀のテクノロジーの革新による変化をうながす原動力は資本主義だったが、それは現代にも通じる話であり、ゴシックという名の警鐘がいままさに打ち鳴らされていることはここ数年の音楽シーンをみればよくわかる。ゴシックの作家たちが150年前の最新テクノロジーを有効利用したように、彼らもデジタルを使いながらデジタル化社会を批判する。
 しかし、アンドリュー・ウェザオールという、その知性と趣味の良さ、アティチュードによって、長きにわたってDJカルチャーのトレンドに多大なる影響を与えてきた人物の最新ソロ作品は、ハウスでもテクノでも、トリップホップでもない。場末のライヴハウスで10人の客を相手に演奏する、誤解を恐れずに言えばうだつのあがらないバンドのようだ。強烈なまでにくみしたいと願うダンス・ミュージックのスタイルがいまの彼にはないのかもしれない。これもまた一考に値することだが、泉智のレヴューのように長くなってしまったので、先を急ごう。
 場末のライヴハウスで10人相手にするようなバンドは、ある意味では自由である。世間からのプレッシャーもなければ、自らを追い詰めるようなオブセッションもない。過去を美化するノスタルジーもない。曲が出来て、歌詞が書ければ、楽曲は生まれる。『コンヴェナンザ』は、いまのアンドリュー・ウェザオールの気持ちをもってして生まれた誠実な作品である。「野暮ったく退屈な、色褪せた状態にもそれなりの真実はある」とサイードが言うように、ここには若さゆえの勢い、老境ゆえの悟りにはない真実がある。

 どうかこの手紙を許して欲しい
 難破した魂が綴ったんだ
 残骸の専門家 砕けた石のなかで失われた名前
 どんな祈りも僕を救えなかった
 もう一度亡霊を呼び出そう
“Ghosts Again”

SUSUMU YOKOTA - ele-king

 昨年のもっとも悲しいニュースのひとつに、横田進の死があった。彼の早すぎる死は、世界中のDJにもリツイートされたが、それはいかに彼が国際的に評価の高いプロデューサーであったのかを証明した。
 さて、ときの経つのは早く、3月で1周忌となるわけだが、横田進が90年代に長く在籍していたサブライム・レーベルから、ススムヨコタ名義としてはデビュー・アルバムとなる1994年の『Acid Mt.Fuji』が復刻リリースされる。当時日本に上陸したサマー・オブ・ラヴを真っ向から捉えた作品で、時代のドキュメントでもある。
 オリジナルマスターからハイレゾに対応したリマスターを施したのに加えて、ボ ーナス・ディスク(CD アルバム限定)では、過去 CD シン グルのみに収録された3曲に、7インチ限定曲、完全未発表曲、さらに1994年6月のライヴ音源も収録。500枚限定生産なので、欲しい人はお早めに。発売日は3月23日。
 
 また、彼が名声を決定づけた3作、『1998』『1999』『ゼロ』の3枚のアルバムもボーナストラック付きでデジタル配信される。
 詳しくは、こちらをどうぞ。https://www.musicmine.asia/yokota/index.html

Ed Motta - ele-king

 2013年の『AOR』は、タイトルそのものズバリのAORアルバムだったエヂ・モッタ。スティーリー・ダンやボビー・コールドウェルなどから、日本の山下達郎や吉田美奈子までこよなく愛するエヂらしさが表れたアルバムで、近年はライト・メロウ~シティ・ポップスといったサウンドが好評を博す日本ではとくに評判が高かった。デヴィッド・T・ウォーカーとの共演も話題を呼んだ。1980年代後半にブラジルからデビューして以来、長いキャリアを誇るシンガー・ソングライターで、初期のファンクやブギー・ソウル(彼の叔父はあのブラジリアン・ファンクマスターのチン・マイア)から、1990年代後半はジャズ、ソウル、ファンク、レゲエから、R&B、ヒップホップ、ハウス、ディスコといったクラブ・サウンドを融合した作品をリリースし、世界的に活躍するようになった。一方、彼はかなりのレコード・コレクターでもあり、さまざまな分野の音楽を愛好する中で、とくにジャズのコレクションも充実している。そうした嗜好が表れた2002年の『ドゥイツァ(Dwitza)』は、ジャズやフュージョンに傾倒したアルバムだった。エヂはヴォーカルのほかに鍵盤奏者としても優れた才能を持ち、ここでのフェンダー・ローズやシンセを組み合わせたコズミックなプレイは素晴らしかった。そして、サンバをはじめとしたブラジル音楽とジャズ/フュージョンが結び付いたスタイルは、往年のアジムスやアイアートなどに通じていたと言えよう。

 『AOR』と『ドゥイツァ』はそれぞれ方向性が異なるもので、リスナーにとっても好みが分かれるところだろう。ただ、どちらもエヂが好きなタイプの音楽であり、そうした2つの世界を1枚のCDの収めたのが新作『パーペチュアル・ゲートウェイズ』だ。ここではわかりやすく、アルバムのA面にあたるのが「ソウル・ゲート」、B面が「ジャズ・ゲート」と色分けされている。とは言っても、「ソウル・ゲート」は『AOR』の二番煎じ的な印象が拭えず、それよりも「ジャズ・ゲート」の出来がいいという印象が個人的には強い。ひさびさにエヂが本格的なジャズに挑戦したアルバムではないだろうか。「ソウル・ゲート」の最後を飾る“ヘリテージ・デジャ・ヴ”にしても、いわゆるフュージョン・ソウル的な作品で、ジャズ・サイドへのうまい橋渡しとなっている。プロデュースを行うのはグレゴリー・ポーターの師匠格にあたり、アルバム『リキッド・スピリット』のプロデュースも手掛けていたカマウ・ケニヤッタ。そして、彼のつてでパトリース・ラッシェン、ヒューバート・ロウズ、グレッグ・フィリンゲインズ、チャールズ・オーウェンスといった往年の名手から、伝説的プレイヤーのセシル・マクビーの息子まで、という非常に豪華なラインナップだ。

 シリアスな佇まいの“ジ・オウナー”は、1960年代のモード・ジャズ~新主流派といった流れを彷彿とさせる作品。ウェイン・ショーターのブルーノートでの『スピーク・ノー・イーヴル』、『ジュジュ』あたりの演奏が思い浮かぶ。それに続く“ア・タウン・イン・フレームズ”は激しいリズム・セクションを持つアフロ・ジャズで、こちらはマッコイ・タイナー的だ。若いジャズ・ファンには、カマシ・ワシントンの『ザ・エピック』に繋がるようなスピリチュアルな世界、というとわかり易いかもしれない。オーウェンスによるコルトレーン調のテナー・サックスがフィーチャーされたモーダルな“オーヴァーブラウン・オーヴァーウェイト”も含め、これらは本作のディープ・サイドを象徴する楽曲群だろう。バップ調の“アイ・リメンバー・ジュリー”でのエヂのヴォーカルは、ヴォーカリーズの始祖であるエディ・ジェファーソンを彷彿とさせるもので、彼がいかにジャズ・ヴォーカルを研究しているかが伺える。また、『AOR』がいろいろな録音データをまとめて作ったのに対し、『パーペチュアル・ゲートウェイズ』はロサンゼルスのスタジオで一発録音という、昔ながらのジャズ・レコーディングのスタイルに則った。「ジャズ・ゲート」における緊密な空気は、やはりこうしたレコーディング・スタイルでないと生まれてこないものだろう。

HIROSHI WATANABE『MULTIVERSE』 - ele-king

 〈トランスマット〉からのリリースを控え、ヒロシ・ワタナベが今週末から日本全国ツアーを開始する。無茶苦茶気合いが入っていると思われるので、この機会にぜひ彼のDJを体験して欲しい。〈コンパクト〉のKaitoだけが彼のスタイルではない。彼の新作のように、エモーショナルなところも彼の魅力のひとつであり、その音楽は、きっとあなたを悪夢から覚ましてくれるでしょう。
 なお、アルバムも4月20日に発売が決定しました。

Matmos - ele-king

 どうして洗濯機なのだろう……マトモスの新作を聴きながら、そのことばかりを考えてしまう。ワールプール社製の洗濯機が発する音だけで構築された本作『アルティメット・ケアII』は、現代のライフスタイルと音楽との関係性をコンセプチュアルにユーモラスに問う彼ららしい作品だと言えるし、生活音で作り上げられたハーバートの『アラウンド・ザ・ハウス』(02)を思い出すまでもなく、モダンなミュージック・コンクレート――もしくは「コンセプトロニカ」――としては正統なあり様のように感じられる。ただ逆に言えば、コンセプトのみにおいては強烈な真新しさを感じなかったのは正直なところで、ドリュー・ダニエルのソロ・プロジェクトであるザ・ソフト・ピンク・トゥルースの近作における、社会学的なアプローチが続いたコンセプトのほうがキャッチーなようにはじめは思えた。だが、意地の悪いインテリジェンスをつねに武器としてきたマトモスの功績を思い返すほど、冒頭の問いに立ち返るのである。そこにはきっと何か理由があるはずだ。どうして洗濯機なのだろう……。

 その回答のヒントは、38分12秒にわたるアルバムが1曲のみで構成されていることにあるように思う。たとえば「注水」「洗い」「すすぎ」「脱水」といった行程によって分割する曲構成もあり得たはずだ。が、そうならなかったのは、その38分12秒――もちろんそれは1回の洗濯にかかる時間である――にひとつのストーリーを見出しているからだろう。汚れた服を入れ、ボタンを押したらあとは放っておかれる機械の架空の物語がここでは繰り広げられる。
 興味深いのは、全体としてブレイクコアやIDMといったマトモスの「節」は炸裂しながらも、得意の優雅でポップなハウス的展開がほとんど見当たらないところだ。冒頭、ダイヤルを回して洗濯の水が注がれれば徐々にパーカッシヴなビートが入ってくるのだが、なにせBPMが140近くある。せわしなく機械は動き、そしてノイズがギリギリと雄叫びを上げる……それは比喩ではない。本当に機械が上げる悲鳴のように聞こえるのだ。やがてもう一度水音が聞こえればビートは消え、ダーク・アンビエント/ドローン的展開になだれ込んでいくのだが、その幻影的な音像の隙間から抽象的だがとても物悲しげなメロディが漏れてくる。それはこの秘密めいた音楽的冒険のなかの、もっともエモーショナルでメランコリックな瞬間だ。そしてそのまま、中盤は陶酔的な時間が引き延ばされ続け、25分あたりの完全にビートレスの瞬間はほとんど官能的ですらある。

 この物悲しさを、僕はマトモスの音楽のなかにずっと忘れていたことにそのとき気づかされた。テレパシーを主題にした前作『ザ・マリアージュ・オブ・トゥルー・マインズ』の突飛さもあったし、何より彼らの作品には素っ頓狂で黒い笑いがつねに滾っているからだ。だが、その隙間では声にならない悲鳴もつねに上げられていたのではないか。
 「アルティメット・ケア」、すなわち「究極の世話」とは何と皮肉めいた名称だろう。洗濯という必要不可欠な、しかし取るに足らない日々の家事において毎度上げられる機械の悲鳴。それが「究極」だろうと何だろうと人間は気にも留めないし、そうした煩雑なルーティンのなかで少しずつ心を削っていく。だがマトモスが言うには、想像力を働かせれば、そこでも音楽は鳴らされているのである。もし本作のことをインダストリアル・テクノと呼ぶのであれば、それは空虚な労働の横で鳴らされている機械音が生み出すエモーションと物語がでっち上げられているからだろう。だとすれば、これはミューザックが姿を変えて全世界的なBGMとなった現代の資本主義社会に対する、愉快で哀しい抵抗にも思えてくる。

 終盤10分はほとんど冗談のような打撃音の応酬が繰り広げられる。ファンキーだと言ってもいい。何も聞かされていなければ、これが洗濯の音なんて誰も思わないだろう……と僕はほくそ笑みつつ、ビートに合わせて頭を振る。洗濯の完了を告げるブザーが鳴れば我に返るが……次回の洗濯はいつもよりも楽しめるかもしれない。

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