「Nothing」と一致するもの

interview with Mark Pritchard - ele-king


グローバル・コミュニケーションのアルバムが好きだったらあれと似たようなムードの曲が2曲くらいあるのはたしかだ。リロードの作品を彷彿させるというのもわかる。初期の頃の作品に思い入れがある人が、今作に共感できるというのもなんとなくわかる。でも、それは今作の一面でしかない。


Mark Pritchard
Uner The Sun

WARP/ビート

ElectronicaAmbientTechnoFolkExperimental

Amazon

 ぼくたちがコーンウォールを目指して車を走らせたのは、1993年の初夏だった。どこまでも続く英国の田舎の景色は、日常的に渋谷や新宿を行き来している人間からすれば、異世界だ。緩やかな丘陵地帯と羊たちの群れ、こじんまりとした村、古い家々……ぼくたちは、エイフェックス・ツインやブラック・ドッグやグローバル・コミュニケーションの背後にあるのはこの風景なのだと悟った。最新のテクノロジーを使ってクラブ・カルチャーにコミットしながら、彼らはときに、巧妙に都会を避けていた。彼らは、荒涼たる都会の音楽=デトロイト・テクノに影響を受けながら、田園描写も忘れないのだ。
 マーク・プリチャードは、1990年代初頭に登場したUKテクノ勢の主要メンバーのひとりだ。リロード/グローバル・コミュニケーションというプロジェクト名の作品によって、彼の名は知られた。その音楽は、アンビエントでありエレクトロニカだった。『アンビエント・ワークス』に匹敵する作品を1枚選べと問われたら、グローバル・コミュニケーションの『76:14』を挙げる人は多いだろう。なぜなら『76:14』こそ、『アンビエント・ワークス』のドリーミーな音響を最大限に拡張した作品だったと言えるからだ。

 90年代半ば以降のプリチャードは、『76:14』の甘い夢の世界をもういちど繰り返すことはなかった。むしろ逆だ。詳述をはぶくが、いくつもの名義を使い分けて、彼は都会的なクラブ・ダンス・ミュージックばかりを作り続けている。ジェダイ・ナイト名義でエレクトロ作品を出したときは、当時はけっこうな衝撃が走ったものだったが、そんな昔話などダブステップやフットワークにアプローチしている近年のプリチャードを聴いている人には、どうでもいいことだろう。

 彼のソロ・アルバム『Uner The Sun』をリロード/グローバル・コミュニケーション時代に近いというのは、厳密に言えば間違いだけれど、大局的にはそう喩えるのも悪くはない。現在はオーストラリアに住んでいるプリチャードだが、『Uner The Sun』からは英国の田園風景が見えてくる。あのときの、初夏のサマーセット州の美しい黄昏が蘇る。
 トム・ヨークにビビオ、70年代に活躍したベテランのフォーク歌手リンダ・パークスも参加。こういうなかに、ラッパーのビーンズとの共作を入れるところが「らしい」と言えば「らしい」のだが、それでもこのアルバムは英国的な叙情性に満ちている。まさに老成円熟したUKテクノを代表する1枚だろう。



あの辺の音のほとんどはメロトロンで出しているんだ。フルートの音は昔から好きで、フルートやクラリネットのほかに、生チェロやフレンチ・ホルンの音も使っている。そういうのの多くがメロトロンから出した音を重ねている。たしかに牧歌的な雰囲気があるよね。イギリスの田舎特有の雰囲気がね。

とにかくあなたはこのおよそ25年間、作り続けてきた、いろいろな名前を使って、いろいろなスタイルにアプローチしました。そういうなかにあって、今回初めて本名でアルバムを出すということはどのような意味があるのですか? 

マーク・プリチャード:理由はいくつかあったんだ。何年もの間、いろいろな名前を使ってきたのはたしかで、それは、余計な先入観なく純粋に音楽だけ聞いてもらいたいから、という理由があった。ただ、やり続けていくなかで、混乱を招くことになったというのもあったし、いまの時代、ひとつの名義でキャリアを築くだけでも大変だというのに、毎回違う名前で作品を出すというのは、音楽を出す上で取り上げられ難くなったし、売り込みもし難い。あと、これだけずっと音楽を作ってきたわけだから、ぼくが作ったものにしても、人と作ったものにしても、ぼくが違う名義でやってることを多くの人は知っている。だったら、いっそシンプルに自分の名前で出したらいいんじゃないかって思った。そしてアートワークやアルバム名を使って、その作品の世界観を伝えればいいってね。
 それと、違うスタイルの音楽をより頻繁に出せるようになればいいという期待もあった。というのも、例えばAfrica HiTechを例にあげると、あのプロジェクトに数年は専念しなければいけないわけで、その途中でアンビエント・ミュージックを出したいと思ったら、別の名前で出さなきゃいけなくなるし、ヒップホップな作品にしても別名義で出すわけで、別のプロジェクトを同時進行しようとすると、混乱を招く恐れがある。だったら、全部自分名義で出すことで、より幅の広いスタイルの作品を続けて出すことができるんじゃないかって思った。それが一番の理由。
 というのも、常にいろいろな音楽を並行して作っているわけで、3年あるいは6ヶ月決まったスタイルのものばかりを決めて作っているわけじゃない。(それぞれ別名義で出すことで)そういう様々な音楽の出し方が難しくなっていた。例えば、今回の作品もかなり前からずっと出したいと思っていた。だったら名前を統一することで、もったたくさんの音楽を世に出せるんじゃないかと思ったんだ。ぼくはクラブ・ミュージックはもちろん、いろいろなスタイルのものを作るけど、アンビエントな曲だったり、サントラだったり、ダンスホール・トラックを作ることだってあるかもしれないわけだ。うまくできればいいと思っている。

ある意味アートワークも象徴的に思いましたが、あれはあなたのアイデアですか?

MP:いや。ここ3作のEPに続き、今回のアートワークもJonathan Zawadaが手がけてくれたんだけど、そのEPのとき時に彼には言ったんだ。「ぼくの好みをわかっているよね。これまでの作品とは違ったものにしたい」とだけ伝え、「自分が好きなようにやってくれればいい」とね。結果として彼は凄くいいものを作ってくれた。
 で、今作を作ることになったとき、制作に取り掛かった2年ほど前から、彼にできた曲を送っていたから、彼も作品が形になっていく過程をわかっていた。そしてまた「音楽を聴いて、感じたままに作って欲しいとだけ言った。その結果できたのがあれだ。アルバム同様かなり長い期間を経て完成したものでもある。いくつかの画像を作ってくれて、手直しも加えたりして、最終的にはその中から4、5枚使うことになった。そこから彼が別の仕事をやっていて、その後さらに作業をしてくれて、あのジャケットができた。
 制作に入ってから1年くらい経った頃だった。あの砂を海の絵を見てすぐに「これだ!」と思った。他にもジャケットの候補はあった。大きな岩が宙に浮いているのもそうだった。でも、あの砂と海のを見た時に「すべてを結びつける」「ジャケットで決まりだ」と思った。彼はすべての曲にそれぞれ1枚の絵を用意してくれたんだけど、彼には感じたままにやってもらいたかった。ぼくが音楽を作るときと同じように。外からの影響を受けることなくね。このアルバムは、他の人の意見を聞くことなく、自分がやりたいように作りたいと思った。彼にも同じ自由を与えたかった。
 彼から聞いていたのは、デザイナーとして依頼を受けるとき、「なんでも好きにやってくれていいから」と言われるんだけど、実は前にやった作品と同じようなものを作って欲しいと思っている。2年前にやった作品を気に入ってから、ってね。でも、アーティストだったら常に新しいことをやりたいと思うだろう。だからぼくは「彼を信頼しているし、気も合う、作品との向き合い方も近いものを感じる」と思って、彼に完全な自由を与えた。そしたら、信じられないくらい素晴らしいものを作ってくれた。嬉しいよ。つい2、3日前に、完成したアナログ盤を手に持ったんだけど、出来栄えにはこれ以上ないくらい満足している。アートワークが素晴らしいおかげで、アルバム自体も作品として一体感が増したと思っている。彼は“Sad Alron”のヴィデオも手がけてくれたんだ。あとプレス用の写真も。ぼくの上半身を3Dスキャンして、いろんなデザインを施してくれた。それもだけど、彼が次に何をやってくれるのか、予想できないから、毎回見るのが楽しみでしょうがない。

繰り返しますが、とにかくあなたはこのおよそ25年間、作り続けています。ぼくは幸運にも、あなたの〈Evolution〉レーベルやリロード名義の最初のアルバム、そしてチャプターハウスのリミックス・アルバムやグローバル・コミュニケーションの『76:14』、あるいはジェダイ・ナイト名義のエレクトロをリアルタイムで聴いてきた世代です(だから現在、いい歳です)。そういう耳で聴くと、今回のアルバムはリロード名義の作品や『76:14』のモード、つまり、初期のあなたの作風がミックスされているようにも思いました。それは意識されましたか?

MP:作品を作る上で、過去を振り返るのは好きじゃないから、そういうつもりはなかった。もちろん、過去の作品のいくつかは聞き返すこともあるし、嫌いになったわけじゃない。常に前に進みたいと思っているだけ。今回は、「クラブ・ミュージックではない作品を作りたい」という意識が一番大きかった。当初のアイディアは、もっと前衛的で実験的なものだった。でも、制作にかけた2年間で、どの曲を収録するか、新たな曲を書き下ろしたり、昔に書いたものに手を加えたりして、作品のバランスが変わっていった。仕上がりには満足している。もっとダークで実験的で風変わりな作品になる代わりに、様々な感情のバランスのとれたものになったと思う。
 アルバムを聴けば、例えばグローバル・コミュニケーションのアルバムが好きだったらあれと似たようなムードの曲が2曲くらいあるのはたしかだ。でも、あれと同じことをやろうとしたわけじゃない。今回アルバムのサウンド面で目指したのは、明るすぎない、今風ではない、前面に押し出すようなサウンドではなく、人を引き込む奥行きのあるものを作りたかった。アルバムのよりダークな曲は、君の言うリロードの作品を彷彿させるというのもわかる。でも、使用している楽器が違う。まあ、自分で客観的に語るのはなかなか難しいんだけどね。
 とはいえ、初期の頃の作品に思い入れがある人が、今作に共感できるというのもなんとなくわかる。しかしそれは今作の一面でしかなく、アルバムとしてはもっと幅広い。ビビオが参加している曲は、ビーチ・ボーイズ風のヴォーカルを使ったサイケデリックでありながらエレクトロニック、といった、初期とは全く違う作風の曲もある。なかにはライブラリーっぽい雰囲気の曲もある。これまでぼくがやってきたすべての音楽を彷彿させるヒントがある一方で、新しいテイストも含まれている」

Africa HiTechではグライムやジューク、Jedi Knightsではエレクトロ、 N.Y. Connectionではハウス、Secret Ingredientsではガラージ、Chaos & Julia Setではドラムンベース、Troublemanではラテンやブロークンビーツなどなど、あなたは常に名義を変えてスタイルも変えてきました。しかし、今回のアルバムでは特定のスタイルを主題としなかった。逆にいえば、現在あなたを夢中にさせるような新しい動きがないののでしょうか? たとえばいまはクラブ・ミュージックが停滞している時期だと感じますか?

MP:現状に対する反動ということはない。この手の音楽は、これまでずっとクラブ・ミュージックを作る傍らでずっと作っていたからね。今作の1/3は、2009年~2010年頃に書いたアイディアが元になっている。というのも、1日、ないしは半日か数時間掛けて、曲の素描を手掛けて、それを寝かせておいて、また引っ張り出して、さらに手を加える、ということをいつもやっている。だから、2009年~2011年頃にアルバムの1/3ができた。まさにAfrica HiTechをやっていた頃だ。
 それよりも古くに書いたものだってある。“Ems”は2005年に書いたんじゃないかな。ビーンズとの曲なんかは12~3年前にやったものだ。作曲もレコーディングも。そこに、新しい曲も加えていった。前から絶対に入れたいと思っていた曲があって、入れてもいいかもと思っていた曲もあって、入れるのをやめた曲もあって、新しく加えた曲もあった。今回出すにあたって、2年間引きこもって、集中して、新しく曲を書きおろすと同時に、全ての音源をミックスした。長いあいだ寝かせてあった曲も、あらためてミックスすることで、アルバムを通してのサウンドというのができた。10年前にミックスしていたら、その曲だけ違うサウンドになっていただろう。そうやって2年掛けて仕上げた
 そのあいだも、クラブ・ミュージックは書いていた。現在のクラブ・ミュージックが個人的にすごく夢中になれるかと言ったら嘘かもしれない。それでも、いいものはある。いいクラブ・ミュージックも聴こえてくる。いまのクラブ・ミュージックに嫌気がさして今作を作ったわけじゃない。それだったらむしろクラブ・ミュージックを作る動機になるだろう。「面白いものがないから、自分で作っちゃえ」って。この数年も、いいものはあった。自分ではやらないけど、4つ打ちのものとかで面白いものを聴いたし、フットワークからも面白いものがまだ出ているし、ドラムンベースやグライム、それからダブステップにしても、オリジナルの人たちがダブステップの良さを失わずにいいものを作っている。いいものは現在でもあるよ。

プログレッシヴ・ロックと括られるものであなたが好きなバンドがいたら教えて下さい。

MP:コレクターというほどではないけど、プログレッシヴ・ロックは聴くよ。フォークやサイケが好きだけど、ロックも聴くし、いろんな音楽を聴く。プログレッシヴ・ロックに関しては、レコードを集めるほどハマったことはないけど、たまに特定のものを探すことはある。フォークやサイケデリック・ミュージックの方が夢中で聴いた。イギリスのバンドやヨーロッパもので聴いたものはあるけど、すぐに名前が思い浮かばないな。

『76:14』がそうであったように、あなたは曲そのもののインパクトを重視するあまり、曲名すら放棄することもありました。しかし、今回はすべておいて意味があるように思います。1曲目の曲名を“?”にしたのはなぜでしょうか?

MP:あのタイトルの由来を説明すると、ヨーロッパをツアーした際、ロンドンの友人の家に泊めてもらっていたんだ。彼のスタジオにね。ちょうど彼がHo Hum Recordsというレーベルを始めようとしていたんで、もし良かったら泊めて貰ったお礼に君のレーベルのために1曲作るよと申し出て、1日で曲を作った。彼にもエンジニアで手伝ってもらった。その日がツアーのオフ日で、体調を酷く崩していたんだ。大風邪をひいてしまってね。それでもやらなきゃと思って、咳止め薬を飲んで、作業をした。頭が朦朧とする中で気付いたら曲ができていて、何てタイトルをつけたらいいのかわからず、ただ「?/Mark Pritchard」と書いたんだ。それを数人の人に送って、Malaに送ったら、DJセットで掛けてくれて、ダブプレートも作ってくれた。そうやって時間が経って、「もうこのままタイトルにすればいい」と思ったんだよ。
 アートワークを手がけてくれたJonathanにも話をしたら、「?」自体、インパクトのある記号だから、「そのままがいいね」ということになった。曲名に関しては、真っ先に思いつくこともあれば、何かをきっかけに思いつくこともあるし、単なる言葉あそびのこともある。「変えた方がいいな」と思うこともあれば、「このままで行こう」と思うこともある。この曲に関しても、”?”のままでいいと思ったし、インパクトのある曲だから、ぴったりだと思ったんだよね。

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初めて日本に行ったのがたしか90年代半ば頃だったと思うんだけど、何に驚いたかというと、イギリス西部の何もないど田舎で育った者がいきなり渋谷みたいな場所に行くと、それまで自分が知っていた世界とは圧倒的に真逆の場所だった。人の多さやネオンや高い建物に囲まれた喧騒に圧倒されながらも、不思議とストレスを感じることはなかった。









Mark Pritchard

Uner The Sun


WARP/ビート

ElectronicaAmbientTechnoFolkExperimental



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歌があり、詩があります。このアルバムには音のコンセプトだけではないが意味や主題があると思うのですが、そのことについてお話しいただけますでしょうか?

MP:アルバムを通してコンセプトがあるわけではなく、言葉に関しては、フィーチャーしたアーティストにすべて一任した。ぼくの方からガイドラインを出すことはなく、曲を聴いて、彼らが感じたままにやって欲しかった。ビビオの場合、トラックを送ったら彼の方からいくつかヴァースやサビのアイディアを返してくれて、それに対して「最高だ。そのまま続けて」とぼくから返した。とくにハーモニーを聴いたときはすごく気に入って「もう思い切りなんでもやってくれ」と言ったよ。トム・ヨークにしても「感じたまま好きにやってくれていい」とだけ伝えた。リンダにしても、ビーンズにしても。だから、言葉に関しては彼らがすべて貢献してくれたんだよ。

“Beautiful People”から“You Wash My Soul ”、“Cycles Of 9”にいたる展開が素晴らしいと思ったんですが、安らぎのようなものがあるというか、全体的にゆっくりとした時間が流れていて、とくに中盤にはその心地よさを感じます。このような感じ方は、あなたが意図したところでしょうか?

MP:アルバムはさまざまな感情のあいだを行き来するものにしたかったのと、ヴォーカルが入った曲を全体に散りばめたかった。曲順を決めるのは非常に重要であり、非常に難しい工程だ。パートナーのローナや友だちにも何パターンか曲順を提案してもらったりした。当然自分でもやってみた。アルバムをどう始めたいかはわかっていたし、ヴォーカル・トラックを散りばめたかったのもわかっていた。人を飽きさせないようにと、前半にばかりヴォーカル曲を集めことはしたくなかった。むしろ、驚きや、様々な展開を持った作品にしたかった。
 1曲目の”?”はパワフルかつムーディーだ。で、おそらくアルバムで一番明るい曲がビビオの曲で、それ以外2曲目に持ってくるのは無理だった。1曲目のヘヴィーさからすくい上げられなきゃいけないと思ったから。そのあとにダーク目の曲があって、そこから美しく、穏やかな中盤になる。ぼくとしては、同じような感情、ムードを続けざまに並べるのは違うと思った。”Beautiful People”は美しい中にもの悲しさがあって、”Cycles Of 9”はややポジティヴで、”Where Do They Go, The Butterflies”もそう、そうやって変化を持たせたかった。そこからよりダークで不気味な感じへと後半展開していく。そして最後にまたそこから抜け出す、という。
 悲しいものばかり続けざまに並べると、印象も薄れてしまう。変化をつけることが必要だ。曲順には凄く時間をかけたよ。曲間の間もね。何度も変更したし。最後の曲(Under The Sun)なんて、冒頭4曲のどこかに入るとずっと思っていた。でも、あえて最後に持ってきたことで最高の締めくくりになった。パートナーからの助言は大きかった。彼女はラジオDJで、クラブDJでもある。自分だと近すぎて見えないものが、他の人に渡すことで見えてくる。人に渡すことで、自分だったら絶対に並べなかった曲同士を並べたりする。ローナなんかは余計な先入観もなく、曲を聴いて感じた印象をもとに判断するんだ。人に曲順のアドヴァイスをもらうことを、アルバムを作る人には是非勧めるよ。とくにラジオDJはいいよ。

“You Wash My Soul ”についてですが、ひょっとしてギター・サウンドを試みたのははじめて?

MP:え~っと…………、そうかもね(笑)。ギター・サウンドを断片的に使うことはこれまでも何度かあったと思う。でも、アコースティック・ギターの音に、他の楽器を重ねた構成は初めてだろう。若い頃にギターをやってて、いまもギターを持っているから、曲のなかで少し弾いたりしたことはこれまでもある。でも今回は友人にアコースティック・ギターを弾いてもらった。ぼくよりも上手いからね。ぼくよりいいギターを持ってて、録音するのにいいマイクも持ってたから。Skypeを介してセッションをしたんだ。画面の向こうで彼がいろいろなことを試してくれて、「なんとなくこんな感じで」っていうのが決まったら、彼の方で録音して、それを送ってくれて、そこにぼくが他の要素を加えて、それをリンダに送った。ここまでストレートなアコースティック・ギターの音源をトラックで使ったのは初めてだね。

アナログシンセサイザーを多用したということですが、全体的に温かい印象を受けますし、とくにいくつかの曲(“Sad Alron”や“Cycles Of 9”など)で見られるフルートのような音色は全体に牧歌的な雰囲気を与えていると思いますが、その牧歌性のようなものはどのくらい意識して作られたのでしょうか? 

MP:あの辺の音のほとんどはメロトロンで出しているんだ。いい感じのローファイで懐かしい感じの音の質感が気に入っていて、曲を書く段階から使っている。フルートの音は昔から好きで、フルートやクラリネットのほかに、生チェロやフレンチ・ホルンの音も“Cycles Of 9”では使っている。そういうのの多くがメロトロンから出した音を重ねている。この曲はたしかに牧歌的な雰囲気があるよね。イギリスの田舎特有の雰囲気がね。
 他にも、トラディショナルなフォーク(つまり民謡的ということでしょうか)のメロディを指摘された。サウンドに影響されてそういうメロディになったのだろう。”Sad Alron”も、シンセだけど、フルートっぽい音に仕上がっていて、メロディがフォークっぽい。なぜそうなったのかはわからないけど、ぼく自身、フォークもトラディショナル・フォーク・ミュージックも大好きだ。珍しいトラディショナルならではのコード(和音)も昔から好きなんだ。エイフェックス・ツインやプラッドやBalil、初期のThe Black Dogの音楽からも聴き取れる。彼らには、彼らの影響元があったんだと思うけど。無意識に出てくるものだと思う。

“Cycles Of 9”など魔法めいた曲名ですが、サマーセットというケルティックな土地柄との関わりはありますか?

MP:サマーセット以外にもデヴォンとコーンウォールに住んだことがあって、オーストラリアに来てもう11年になるけど、イギリスのあの地域が恋しいと思うことはたしかにある。オーストラリアにも似た場所はほんの少しあるけど、基本的にはまったく違う環境だから、あの辺のことを思い浮かべることもある。ニュージーランドにはデヴォンと雰囲気が似た場所があるんだ。ああいう場所で育ったということが関係しているのはあると思う。
 Jonathan のアートワークにも、何点かあの辺を思い出せせてくれたものがあった。例えばなかに浮いた岩のとかね。おそらくもっとSFっぽいイメージで、(イギリスの田園とは)全く関連性はないんだと思うけど、ああいう岩石を見ると、コーンウォールやデヴォンやサマーセットの辺りを思い出す。だから、あのアートワークを見たときは嬉しかったよ。「つながってる」と思ったね。

マザー・グースの子守唄は、人によるでしょうけど、イギリス人にとってどんな空想をかきたてられるものなのでしょうか?

MP:子供の頃によく聴いた思い出がある。アルバムで唯一使っているサンプルなんだけど、聴いたのは結構前なんだ。何度か使ってみたんだけど、形にすることができなかった。で、数年前にまた試みたら、あの曲ができた。あれを聴いてぼくがまず思い浮かぶのは、昔のディズニー作品なんだよね。ものすごく初期のディズニー作品の音楽が好きなんだ。どこか不穏な響きがあるのと、音の質感が好きなんだ。声もわざとピッチを上げているらしい。前に読んだんだけど、録音の時にテープの回転速度を落としたり、早めて、歌を録音してから、普通の速さに戻した。だから、不気味で異世界っぽさがあった。昔からそれが好きだった。
 あの曲でぼくがやろうとしたのもそれだ。ジュリー・アンドリュースの声にもそういう雰囲気がある。歌詞にしても、すごくインパクトがあるよね。そこに描かれている世界観も好きなんだ。しかも、オリジナルは18世紀に書かれたんだよ。あの歌の成り立ちを調べてみたんだ。18世紀中期に書かれて初版が世に出た。アルバムのタイトル曲でもあるんだけど、最初はタイトルにするのを躊躇したんだ。Under The Sun(太陽の下)というと、みんな「天気のいいオーストラリアに移住してさぞかし日光を浴びる生活を満喫している」という内容だと勘違いしてしまうんじゃないかと恐れたんだ。実際はこの2年間完全に夜行性の生活を送っていて、太陽なんて見てない。極たまに早朝家に帰る時に見るくらいだ。でも、あの引用があったお陰でアルバムがまとまったと思う。あの世界観が好きで、アルバムのタイトルにした。アルバムを聞いてくれれば、その意図もみんなわかってくれるだろうと思った。アートワークにしても、ジャケットの絵柄を最初に見た時に、すべてが腑に落ちた。Jonathan にしても、ぼくにしても、作品を作る時は、全てを作品の中で語るのではなく、受取手が想像力を膨らませられるよう、ヒントをいくつか仄めかしつつ、曖昧なままにしたかった。自由に解釈してもらいたい。

日本はあなたが思っているほど良い国ではないないのですが、あなたは日本のどんなところがそんな好きなんですか?

MP:初めて日本に行ったのがたしか90年代半ば頃だったと思うんだけど、何に驚いたかというと、イギリス西部の何もないど田舎で育った者がいきなり渋谷みたいな場所に行くと、それまで自分が知っていた世界とは圧倒的に真逆の場所だった。人の多さやネオンや高い建物に囲まれた喧騒に圧倒されながらも、不思議とストレスを感じることはなかった。慣れ親しんだ穏やかな田舎からいきなり、情報過多の喧騒に放り込まれたら、普通だったらストレスを感じでもおかしくないのに、日本ではそう感じたことがない。全てのものが正しく機能していて、落ち着いているという印象を受けた。
 そこから、何度か日本を訪れていくなかで、いろいろなことに気づくわけで、まず気づいたのが、人を敬う文化だ。忙しいなかにも、他人への思いやりや気配りを感じる。お辞儀の習慣もいいと思った。日本に行くのは大好きだよ。他では見たことがないものを見ることができる。音楽的な部分でも、日本の人からは音楽への強い愛を感じる。幅広い音楽に興味を持ち、一度好きになったものはとことん掘り下げる。そういうところも好きだね。フットワークの時だって、日本人のクルーまでが一緒に踊りたいと言ってくれたんだ。踊りを覚えたいってね。他の国ではあまり体験しないことさ。日本の音楽ファンの情熱が好きだ。もちろん世界中に音楽はファンはいるけど、日本のファンはとことん突き詰めて、勉強する。そういうところが好きだ。食べ物も好きだし。Taico Clubで行った時に、日本の田舎も少し見る機会があったんだけど、最高だった。1日しか滞在できなかったけど、本当は1週間くらいいたかった。
 日本の芸術にも興味がある。日本の伝統音楽についてもっと知りたいんだ。次に日本に行ったときは、歌舞伎や能の音楽にも興味があって、YouTubeで舞台見ているんだけど、日本に行ったら本物を見たいと思っている。そうやって日本に行くときは、ライヴ以外にも、4、5日オフをとってレコード屋に行ったり、ギャラリーに行ったり探索するのを楽しみにしている。もちろん、日本のオーディエンスの前で演奏するのも大好きだ。東京でのライヴはいい思い出のものばかりだ。一度、クラブ・ミュージック以外の曲のDJセットをやったことがあるんだけど、オーディエンスはみんな床に座って、目を閉じて最後まで聴き入ってくれた。立って人と話したりすることなく、音楽の世界に没頭してくれて、ぼくの意図を完璧に理解してくれた。そこまでしてくれる観客って多くはいないんだよね。
 最後に日本でプレイしたのはたしかエレクトラグライドだったと思うけど、スティーヴ(・ホワイト/Africa HiTechの相棒)もいて、その時もジャングルをかけたり、フットワークの曲を差し込んだりすると、いちいち観客が盛り上がってくれてね。そこまでコアな選曲とまでは言わないけど、ある程度の年齢でなければ知らない曲だったりもするわけで。スティーヴと曲をかけながら、珍しい曲をかけても、みんな反応してくれて、イギリスでかけても、そこまでの反応は得られないかもしれないっていう(笑)だから、いつも日本に行くのを楽しみにしているんだ。


John Grant
Pale Green Ghosts

Bella Union

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John Grant
Grey Tickles, Black Pressure

Bella Union / ホステス

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田亀源五郎
弟の夫(1)

双葉社

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Anne Ishiiほか
The Passion of Gengoroh Tagame

Bruno Gmuender

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 このふたりの出会いを想像したのは、最近のことではない。

 セクシュアル・マイノリティの愛と闘いの歴史を描いたジョン・グラント“グレイシャー”のヴィデオが発表されたのが2014年の頭のことだった。その映像に圧倒された僕はそのままの勢いで文章を書いたのだけれど、少しばかり考えて、LGBTというタームに念のため注釈を入れておいた。いま同じような主旨で何か書くのならば、注釈の必要はまったくないだろう。この2年で状況は大きく変わった。そしてまた、その間の年――2015年に、世界で、この国で起こったことをあらためてここに書く必要もないだろう。テレビをつければ、LGBTイシューについて当事者や著名人、コメンテーター、そして政治家が議論を交わすシーンも珍しくなくなった。世界は変わり続けている。時代は前に進んでいる、のだろう。

 だが、歌はどこにある? 物語はどこにあるのだろう?

 “グレイシャー”からしばらく経ったころ、田亀源五郎がはじめて一般誌にマンガの連載をするというニュースにゲイ・コミュニティはどよめいた。過激にエロティックで、強烈にクールなゲイ・アート作品やコミックを描きつづけ、日本のゲイ・カルチャー・シーンを支えてきたばかりか海外からも高く評価される「ゲイ・エロティック・アーティスト」が――つまり、ゲイたちが生きるための欲望を肯定しつづけてきた作家が、その外に向けてどのような作品を描くのだろうか、と。その作品、『弟の夫』は何よりも作品の力、親しみやすさによってあっという間に話題になり、2015年になる頃にはゲイ・コミュニティに限らない、広い世間に知られることとなった。

 僕はゲイ・サウナをバックに歌うジョン・グラントの髭面を見ながら、『弟の夫』に登場する「弟の夫」であるマイクの髭面のことを考えた。自身のセックスやドラッグの問題、愛と苦悩を赤裸々に綴るグラントの歌と、「平等な結婚」も含めた新しい時代の家族のあり方をこの国のなかで探る『弟の夫』は違う地点に立ってはいるが、だけどどうしても別のものとは思えなかった。グラントの歌が使われたアンドリュー・ヘイの映画『ウィークエンド』でその辺のゲイ青年たちの恋が描かれていたように、アイラ・サックス『人生は小説よりも奇なり』でなんてことのない老ゲイ・カップルの日々が描かれていたように、両者の表現には現代の都市に生きる個人としての同性愛者がいて、そこには彼らの愛や人生、その物語が瑞々しく立ち上がっているからだ。

 その日、田亀氏は抱える連載の締め切りを仕上げ、ジョン・グラントはセクシーなバリトン・ヴォイスを披露したステージを終えて、対面することとなった。話題はゲイ・カルチャーをテーマにしながらセックス表現、オーディエンスとの関係、カミングアウト、政治と表現の関係、家族の問題にまで及び……いや、実際にご覧いただくのがいいだろう。間違いなく現代のゲイ・カルチャーを代表するふたりの対話は、田亀氏が分厚い本を取り出すところからはじまった。


ゲイ・ヒストリーを描いたMV「グレイシャー」

田亀源五郎:まず自己紹介します。私は漫画家で、これはあなたにプレゼントです。気に入るかわからないのですが……(とワールド・リリースの作品集『The Passion of Gengoroh Tagame』を手渡す)。というのは、非常にハードコアなゲイ・ポルノ・コミックなんです。

ジョン・グラント(以下JG):これは素晴らしいですね。アリガトウゴザイマス。

田亀:どういたしまして。

(ジョンに)こちらは日本のとても有名なゲイ・コミック・アーティストの田亀源五郎さんです。

JG:ファンタスティック!

貴重な機会なので、今日はおふたりにゲイ・カルチャーの現在というテーマでお話をうかがいたいと思っています。
ではさっそく質問なのですが、まずは2014年に発表された“グレイシャー”(“氷河”)のヴィデオについて訊きたいと思います。あのヴィデオには僕自身ゲイだということもあり非常に感動したのですが、どのようにできた作品なのでしょうか?

John Grant - Glacier

JG:友人の(映像作家である)ジョナサン・カウエットから「作りたい」と連絡があって、母と子の関係を描いた『ターネーション』(註)という彼の作品が好きだったから、基本好きにやってもらおうと思って任せました。ヴィデオがどんな内容かは知らなかったんですが、すごいものが出来上がったんです。僕も大好きな作品ですね。

(註)『ターネーション』:ジョナサン・カウエットによる自身と母の姿を描いたドキュメンタリー映画。ゲイであるカウエットと精神を病んだ母との葛藤や複雑な愛の形が描かれ、サンダンス映画祭で高く評価された。

田亀:あのヴィデオはゲイ・ヒストリーを描いた内容になっていますが、そのアイデア自体はディレクターのほうから来たものなんですか?

JG:僕と彼の趣向はすごく似ているところがあったので、ヴィデオを許可したんです。ゲイ・カルチャーといっても本当にさまざまな側面がありますが、そのなかの何を重要視するのか、何を求めるのかが非常に近かったんでしょうね。そういったものの幅広さでも共通していました。いろいろな側面があるゲイ・カルチャーを代表するものをフィーチャーしなければならないって想いがあったので、よく耳にするようなステレオタイプなものばかりにはしたくありませんでした。だから彼のヴィジョンではあったのですが、僕も同じ考えでしたね。
(『The Passion of Gengoroh Tagame』の中身が気になり過ぎてビニールを破り始める)……開けてもいいですか?

田亀:どうぞ、どうぞ。

JG:サインしてください!

田亀:もちろん。私もジョンさんのCDにサインをいただけますか?

せっかくなので改めてご紹介すると、田亀源五郎さんは日本のゲイ・アート・シーンを30年以上支えてこられた方で。たとえばこれは海外のアンソロジー本なんですが(と海外リリースのゲイ・アート作品集『HAIR』を出す)、日本を代表するアーティストとして田亀さんの作品が載っています。

JG:ワオ! これもあなたの作品ですか? 素晴らしいですね。

『弟の夫』はもっぱらヘテロの若い男性が読む雑誌に掲載されているんです。そういう読者層に向けて、ゲイ・イシューをどうやって提供するかがテーマでした。 (田亀源五郎)

そして“グレイシャー”のヴィデオが出た同じ年に、はじめて(ゲイ雑誌ではない)一般誌で「ヘテロセクシュアル向けゲイ・コミック」をスタートされたんです。それがこの『弟の夫』という作品なのですが……(『弟の夫』を見せる)。

JG:クール!

だからおふたりとものファンである僕なんかは、「繋がった!」と思ってしまって。

田亀:いま話が出たので少し説明すると、『弟の夫』はもっぱらヘテロの若い男性が読む雑誌に掲載されているんです。そういう読者層に向けて、ゲイ・イシューをどうやって提供するかがテーマでした。日本はゲイがあまりアウトしていない状況なので、知人にリアルにゲイがいるっていうヘテロのひとってそうそういないと思うんですね。

JG:素晴らしいですね。

田亀:私の場合ははじめにオーディエンスの層がある程度見えていたので、その人たちに伝えるのにはこうするのがベストだろう、という方法論でかなり厳密にやったんです。

JG:それはとても重要なことだと思います。届け方っていうのはすごく大事で、だって彼らは「知らない」ですからね! 教えてあげないと(笑)。 

同情ではなく共感を求めている曲なんです。(ジョン・グラント)

私も若い頃は世界から孤立しているような気持ちでした。だから世界に触れるために、絵を描いたんです。(田亀)

ジョン・グラントさん

John Grant/ジョン・グラント
元ザ・サーズのヴォーカリスト。バンド解散後にソロ活動を開始し、2010年に〈ベラ・ユニオン〉よりリリースされた1作め『クイーン・オブ・デンマーク』は英MOJO誌の年間ベスト・アルバムに選出された。2013年の2作め『ペール・グリーン・ゴースツ』はラフ・トレード・ショップス2013年年間ベスト・アルバム1位獲得、2014年には英詞を手がけたアウスゲイルのデビュー・アルバム『イン・ザ・サイレンス』が世界なヒットを記録し、ブリット・アワードにおいて「最優秀インターナショナル男性ソロ・ アーティスト」にもノミネートされた。2016年、3作め『グレイ・ティックルズ、ブラック・プレッシャー』(全英5位)を発表。


“グレイシャー”に関しては、ジョンさんの曲のなかでも特殊だと思ったんですよ。他の曲はご自身の内省を深く探求したものが多いですが、“グレイシャー”に関しては人称が「you」になっていて、聴き手にメッセージを届けるものになっていますよね。これはどういう想いでできた曲なのでしょうか。

JG:いろいろな状況や見方があるからひとに伝えるということは難しいのですが、僕はよくコニャックやバカルディみたいな蒸留酒に喩えるんですね。いろいろと余計なものは取っ払ってしまって、本質は何なのかという、その作業を僕はやったのだと思います。これを本当に伝えたいと思ったのは、すごく怒っている曲だけれど愛もそこにあるからなんです。同情ではなく共感を求めている曲なんですね。それを歌うことによって励ましたいという想いが基本的にあって、それはいま苦しんでいる若いゲイの子たちだけじゃなくて、表には見せないけれど昔の傷を引きずっているであろう年配のゲイのひとたちにも向けられています。世の中はゲイにとって少しずつ安全になりつつありますが、まだまだ多くの葛藤があり、それが精神的なダメージを生んでいるのが現状ですから。
 それからゲイではないひとたちにも向けられています。苦しみを氷河に喩えるのが素敵に思えましてね。氷河は風景をバラバラにしてしまうほど、とても力強い存在です。苦しみも同様に人間の心を完膚なきまでにバラバラにすることがある。でも、この恐ろしい状況を越えなければ、人間同士をつなぎとめる理解や同情は生まれない。僕はそれを伝えたかった。いまだって僕たちの多くは孤立感を抱えているでしょう。だから手を差し伸べてつながりを作る、ということについても歌っています。

田亀:それは私もわかります。私も若い頃は世界から孤立しているような気持ちでした。だから世界に触れるために、絵を描いたんです。

JG:ええ。隠れ場所から出てきて、僕はここに存在しているわけですからね。そういう表現です。


美しさと醜さ──ゲイのイメージのステレオタイプを超える

ではもうひとつ、ヴィデオの話をさせてください。“ディサポインティング”はかなりストレートなラヴ・ソングだと思うのですが、ヴィデオではゲイ・サウナを舞台にしていますよね。あれは悪戯心のようなものも含まれていますか?

John Grant - Disappointing feat. Tracey Thorn (Official Music Video)

JG:見せ方としてはあのヴィデオには遊び心もありますが、いろいろと深い意味も込められているんです。セックスというのは人間のとって重要なイシューのひとつですよね。加えて他の点にもあのヴィデオでは触れています。あそこではステレオタイプの美しいゲイが描かれているけれど、僕にとってゲイ・サウナというのは大抵悪い経験をしたところなんです。そこでHIVになったわけでもないんだけど……なったのはショウの前の楽屋でのことだから(笑)。ただ、危険なセックスをゲイ・サウナで経験したのも事実です。あのヴィデオには遊び心があったとしても、伝えたいものはけっこう重いものがあるんですよ。
 これはすごくパーソナルな曲で、パーソナルなヴィデオなんです。実際にはいまは恋人を見つけたらこんなところ(サウナ)にいる必要はないんだけれど、そこに行き着くまではゲイ・サウナで自分を厳しくジャッジしていました。見た目がいいかとか、身体がいいかとか、あそこにいる彼ぐらいモノが大きいかとか。僕にとっては厄介な場所だったんです。いいセックスもしたけれどね。ただ、あのヴィデオはそういった困難さをはらんだイシューを描いたものなんですよ。

田亀:ただ、私自身“ディサポインティング”のヴィデオはゲイ・ニュース・サイトで初めて見たんですね。するとゲイ・サウナのヴィデオだったんでちょっと目が点になったんですけど(笑)。それを自分がSNSでシェアしたときに気づいたのですが、ゲイの友人たちはそうした批評的な部分ではなくて、単純にメジャーなアーティストがゲイ・サウナを舞台にヴィデオを撮ったというセンセーショナルな部分、それからジョンさんがいま言ったようなステレオタイプな美しいゲイたちに対して「カッコいい!」というふうに食いついている部分があると感じるんですね。そうした受け止められ方と、自分の意図とのギャップみたいなものに対して悩みはないですか?

批評的な部分ではなくて、単純にメジャーなアーティストがゲイ・サウナを舞台にヴィデオを撮ったというセンセーショナルな部分、それからジョンさんがいま言ったようなステレオタイプな美しいゲイたちに対して「カッコいい!」というふうに食いついている部分があると感じるんですね。(田亀)

JG:いえ、僕にとっては自分の言いたいことを自分の言いたいように表現できたことが大事なんです。その先でどう受け取られるかっていうことは僕の問題ではないんですよ。理解されたいという想いはもちろんありましたが、伝えるべきことは伝えたと思っているので。ただ、いまお話を聞いているとラヴ・ストーリーだということ、男性の美しさや男性を性的対象として見るってことは案外伝わってるんだなあ、と思いました。僕はゲイ・サウナでああいう経験をして、あの曲で表現しているような考えに至ったけれど、同じ意見を持ったひとを必要としているわけではありません。いろいろな考え方があるでしょうしね。ゲイ・カルチャーにはオープン・リレーションシップ(註)がしばしば採用されているから、誰を相手にしてもいいってひともいるし、そうではなくて一対一の関係を望むひともいる。僕は地球上に70億人いるうちのひとりとしてのちょっとしたアングルを示しただけなんですよ。だから、どう捉えられるかは自由だと思います。

田亀:なるほど、よくわかりました。

(註)オープン・リレーションシップ:パートナー間で、恋愛関係や性的関係において必ずしも一対一の関係を取らないことに合意している状態。

すると、いまおっしゃったようなギャップについての悩みを田亀先生は抱かれることがあるということですか?

田亀:私の場合は音楽ではなくてマンガなので、ストーリーがはっきりしているんですね。そういう意味ではメッセージ性を含ませようと思えば、いくらでも明確に含ませることができるんです。小説のほうが詩なんかに比べると抽象性は低いだろうから、そういうような問題だと思うのだけれども。だからそういう意味では、自分が狙ったものとまったく違う受け止められ方をしてしまった場合は、ちょっと自分の技量不足とか作品の力不足を疑ってしまうところが、音楽に比べるとあるかもしれないですね。

JG:ああ、僕も理解しました。

僕にとっては自分の言いたいことを自分の言いたいように表現できたことが大事なんです。地球上に70億人いるうちのひとりとしてのちょっとしたアングルを示しただけなんですよ。(グラント)

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セックスと“対等な関係”をめぐる幻想

あともうひとつ、僕が“ディサポインティング”のヴィデオを見て思ったのはゲイ・カルチャーがクリーンになっていることへの反発心があるんじゃないかということだったのですが、そのあたりはどうですか。

JG:うーん、何がいいとか悪いとかを僕が言える立場ではないとは思うんです。たしかにサウナではドラッグの使用や危険なセックスもあるし、誰もそのことを指摘しなかったりする。コンドームなしにセックスをしたりね。だけど僕もそのことを批判はできなくて、なぜなら僕自身危険なセックスをたくさんしていたから(笑)。ただあのヴィデオではそうしたネガティヴな側面もたしかに打ち出していますね。それは、そうした危険でダークな側面も無視できないと思うからです。作りたかったのは純粋なラヴ・ソングなんだけど、そのためにはその陰にある醜い部分や現実も見せなければいけないと思いました。僕自身そんな危険なところに足を踏み込んだために本当の愛を見つける前にHIVになってしまったということもあるから、ゲイ・サウナという場所のそうした現実も打ち出したんです。
 もしあのヴィデオにネガティヴなステートメントがあるとすれば、個人的にこういう経験をしたということと、元クリスタル・メス中毒者で、不特定多数の相手とセックスを重ねHIVになってしまった友人が僕にはいるということです。だからみんなはどうしますか、という問いかけなんですよ。どうしろこうしろ、ああするべきだ、とはいっさい言いません。
 ただ、いまの若いひとたちのなかにはHIVなんかかからない、かかったとしても薬飲んだらだいじょうぶだと言って、好き放題にしても生き長らえられると思っているひとたちがいるみたいだから、それは良いことだとは思えないので、間違ったことは指摘したほうがいいですよね。いろいろな理由でセックスというものを使い果たしてしまった自分は、ここで親密な愛を求める歌を歌っています。つまり、セックスを連想させるサウナという場所において、別な意味での親密な人間の姿を描き出しているわけです。そういうコントラストが大きな曲だな、と思います。

なるほど。

JG:それからもうひとつ、僕はとても信心深い家族に育っているので、セックスというもの自体が僕にとっては難しいものだったんです。セックスなんて話に出すのも汚いもので、身体の問題ももちろんそうでした。そんな環境で育っただけに、言いたくても言えなかったことというのがあのヴィデオのなかにはけっこう詰まっているんですよ。

僕はとても信心深い家族に育っているので、セックスというもの自体が僕にとっては難しいものだったんです。そんな環境で育っただけに、言いたくても言えなかったことというのがあのヴィデオのなかにはけっこう詰まっているんですよ。(グラント)

いまのジョンさんのお話はすごくよくわかります。僕なんかはやっぱり、近年ゲイ・カルチャーがクリーンになり過ぎているのではないかと思うときがあるんですね。だからこそ、セックスやゲイ・カルチャーのダークな部分にも踏み込むジョンさんの表現に惹かれるんです。いま話したようなことを踏まえて、田亀先生がお考えのところはありますか?

田亀:ええと、さっきジョンも言っていたけれども、表現は表現者の数だけあって、その種類が多ければ多いほどいいと私は思っているので、私個人としては現在の風潮がどうこうというのはとくに考えないんですね。ただ、最近マリッジ・イコーリティ(平等な結婚)が世界的にすごく広がったことによって、ゲイに対してヘテロ・ノーマティヴ(註)の考え方が進んでいるのではないですか、あなたはどう思いますか、というような質問を海外のメディアから受けることが多くなりましたね。あと実際にそういった流れのなかでクィアが滅んでいくみたいな危惧を述べているひとはたしかにいますね。
 私は、トレンド的にいまこれが盛り上がっていまこれが下火になって、というようなことは世の中にあるかもしれないけれど、それがそんなに大きな問題だとは思っていないです。

(註)ヘテロ・ノーマティヴ:異性愛と異性愛の規範を普遍的なものだとする考え方。

JG:たしかに! でもそれは、ヘテロの世界の幻想なんですよ(笑)。

(一同笑)

JG:ヘテロの世界だってそううまくいってないんじゃないでしょうかね。ヘテロのひとたちはゲイのひとたちを受け入れた振りをしながら、ゲイっていうのは一対一の関係を守ってうまくやってるんだなと思いたいんですよ。だからそういう(クリーンな)表現になるんでしょうね。ゲイ・サウナがあってそこでHIVに感染して、っていうようなことには蓋をしたいんじゃないかなと。同性愛は間違いだ、地獄行きだって考え方がずっとあったわけですから。それに、僕たちゲイも薬やアルコールやセックスの問題は口に出さなかった部分もありますからね。だから明らかにされなかった部分もあるんだと思います。それを逆手に取られて、「ほら、ゲイは間違いだ!」って言われたくなかったんでしょうね。

田亀:そういう感じはやっぱりありますね。実際私も『弟の夫』に関しては、大人だけでなくハイ・ティーンやロウ・ティーンの子にも読んでほしい本ではあるから、セックスの要素はいっさい排除しているわけです。その分、私は30年間5000ページぐらいグチョグチョのゲイ・ポルノを描いてるんだけど(笑)。そこでバランスを取ってる。だけどこれ(『弟の夫』)だけ取り上げて見られると、そういう綺麗ごとみたいな部分はあるのかもしれない。やっぱりこれは一対一のつがいの話であって、どうしてもモノガミーの世界に根差したところからは逃れられていないから。

JG:ヘテロの世界ではこういったゲイ・ポルノは必要ないですからね(笑)! ヘテロの世界にも彼ら向けの本があるわけですから(笑)。僕はこちら(『弟の夫』)は入り口として本当に優れていると思います。ゲイの世界だってヘテロの世界と同じようにひとによって関係性はさまざまなんだということ、人間関係としてのゲイの姿がここには描かれているのだと思いますから。
 それにもうひとつこの本が重要だと思うのは、ヘテロのひとたちはゲイたちがどんなセックスをするのかで話が止まってしまっていて、その先にある人間関係や普通の生活の部分まで考えが及ばないだろうからなんですね。だからそこを描いたという意味では先を行ってると言えますよね。


田亀源五郎さん

田亀源五郎/たがめ・げんごろう
1964年生まれ。「ゲイ・エロティック・アーティスト」として86年より長きにわたってゲイ・カルチャー・シーンを支えつづける漫画家。86年よりゲイ雑誌にマンガ、イラストレーション、小説等を発表。2014年からは「月刊アクション」にて『弟の夫』の連載を開始、同作は第19回文化庁メディア芸術祭マンガ部門優秀賞を受賞した。コミックの単行本や画集の刊行のほかに『日本のゲイ・エロティック・アート vol.1 ゲイ雑誌創生期の作家たち』などの編著がある。代表作に『PRIDE』『君よ知るや南の獄』など。

ヘテロのひとがゲイというと必ずセックスに結びつけて考えてしまうことに対する指摘と、それは違うんだよということは『弟の夫』のなかで実際やっていて。(田亀)

まさにそういう作品なんですよ。

田亀:ヘテロのひとがゲイというと必ずセックスに結びつけて考えてしまうことに対する指摘と、それは違うんだよということはこのマンガのなかで実際やっていて。このお兄さん(『弟の夫』の主人公、弥一)の弟がゲイで、これ(「弟の夫」であるカナダ人のマイク)と結婚しているんですけれども。その弟はもう死んでいなくて、片割れだけが夫の国を訪ねて日本にやって来たという話です。兄の弥一は弟が男と結婚したということがなかなか受け入れられない。そんなある日、弟が男と結婚したときにイコールどっちが女役なんだろうということまで考えてしまっていたけれど、そう考えること自体おかしいんだと弥一は自覚するんです。だからヘテロの読者にもそこらへんを伝えたいなという仕組みにはなっていますね。

JG:それはとても重要なことですね。

それに、さっき田亀先生は綺麗ごとだとおっしゃってましたけど、マイクのシャワーシーンの胸毛の描写なんかは、ゲイ・カルチャーの出自に対するプライドが感じられるんですよね(『弟の夫』を開きながら)。

田亀:ははは。

JG:ええ。あなたの絵は本当に美しいですね。

田亀:ありがとうございます(笑)。


政治と表現の関係

ではもうひとつお訊きしたいのですが、おふたりの表現に何か共通点があるとすれば、それぞれ優れたストーリーテリングがあることだと思うんですよ。そして個人が描かれている。たとえばジョンさんの“ジーザス・ヘイト・ファゴッツ”(「イエスはカマ野郎を嫌ってる」)なんていうのは、アンチ・ゲイ・デモで掲げられるスローガンでもあるわけですよね。

JG:ええ、ええ。

そうした政治的なフレーズが、歌のなかではとてもパーソナルなストーリーとして語られている。そうした政治的なものとの距離の取り方、表現としてパーソナルであることについてどうお考えですか?

JG:政治的なトピックから完全に切り離すことはできないと僕は思っています。こうしてある程度パブリックな存在になってしまって人前でものを言っている以上は、活動家でこそないけれども、ある意味では活動家である部分も否めないんですよね。非常に難しいことだと思います。僕は政治的になりたいわけじゃないんですが、見方によってはもうすでに政治的なわけです。とくにいまの時代において、それは避けられません。何か言ったらそれがすべて広まってしまうわけですから、政治的なこととまったく無縁ですとは言えないと思います。ただそこで大切なのは、自分自身についての真実を語ることだと思うんです。僕の身の上話が面白いからではけっしてなく、いままで言えずにきたから言いたいということなんです。「出る杭は打たれる」って日本では言われるらしいですが、自分は目立たないように目立たないようにして生きてきたので、そのせいでいろいろなものの中毒になってしまったんですよ。そう考えると、本当の自分や自分の人生ときちんと向き合ってこなかったことへのツケが回ったんだと思うんです。少なくともこれが自分の真実だと思うことを、いい面も悪い面も含めてきちんと語っていくということこそが自分に嘘のない生き方であって、そうしているつもりなんです。

僕は政治的になりたいわけじゃないんですが、見方によってはもうすでに政治的なわけです。とくにいまの時代において、それは避けられません。そこで大切なのは、自分自身についての真実を語ることだと思うんです。(グラント)

なるほど……。田亀先生は政治と表現の関係についてどのようにお考えですか?

田亀:日本ではゲイがあまり見えていない状況で、そんななか私は18歳でカムアウトしてるんですね。そのときに感じたのは、私自身が政治的であることを望もうが望むまいが、ゲイをアウトすること自体が必然的に一種の政治性を持ってしまうということでした。

JG:その通りですね。

田亀:あとその時代に第一次ゲイ・ブームみたいな感じでゲイリブみたいなものが盛り上がったんですね。で、ゲイ・アクティビズムが盛り上がって、いろいろな運動をするひとが出てきて。私は情報として集めていたけれども、そのなかへ積極的に参加する気にはなれなかった。というのは、彼らとヴィジョンをあまり共有できそうになかったから。でも逆に自分のなかで続けていきたいことというのはあって、それは私の場合はゲイ向けのマンガを描き続けることだったんですね。だから私にとって重要なのは政治的な抽象論で何かを語ったりすることではなくて、ゲイがゲイのためにゲイを扱ったマンガをずっと描いて作品を残して、その姿を見せ続けること。それが私にとって最大のアクティヴィズムだなと捉えて、いままできていますね。それが最近ちょっと外側から注目されるようになってきて、もうちょっと戦略的になってはいるけど。基本的にはそういう感じです。

JG:それは本当に素敵ですね。

田亀:ありがとう(笑)。

政治的な抽象論で何かを語ったりすることではなくて、ゲイがゲイのためにゲイを扱ったマンガをずっと描いて作品を残して、その姿を見せ続けること。それが私にとって最大のアクティヴィズムだなと捉えて、いままできていますね。(田亀)

JG:すごく勇気のあることだと思います。

JG:同性愛についてはアメリカでは宗教的な問題がありますが、日本ではそうした要素はないのに、伝統的な価値観なのか、なにか階級的なものになっているような気もして。もしかしたら、そっちのほうが良くないようにも思えてきます。

田亀:ひとつ言えるのは、日本にはホモセクシュアルを罪と規定する宗教的な基盤というのはたしかにないんですよね。日本のゲイの子たちは、それに対する罪悪感というのはそんなに刷り込まれない。ただ、日本の社会が何をいちばん重要視するかというと、みんなといっしょだということ、波風を立てないということで。個性的であってはいけないっていうのが日本の価値観のベースなんですよ。そこがゲイ・イシューに関してはいちばん大きな障害になっていると思う。
 たとえばキリスト教みたいな、同性愛を罪として規定する宗教を刷り込まれてしまったひとが罪悪感に苦しむように、波風を立てないことこそが重要だと刷り込まれたひとは、自分が主張することで波風を立ててしまうことに対してものすごく罪悪感を覚える。これって日本のゲイの特徴なんですね。だから日本のゲイで親にカムアウトするときに悩むのは、そのせいで親がどれだけ悩むかとか、親が親戚からどう思われるかとか、第一にそういうことなんですよ。これはやっぱり日本社会の特徴的な面だとは思います。

日本の社会が何をいちばん重要視するかというと、みんなといっしょだということ、波風を立てないということで。そこがゲイ・イシューに関してはいちばん大きな障害になっていると思う。(田亀)

JG:周りのひとからどう見られるかという意味で、子どもがカミングアウトしたら日本人の両親は「不名誉」というふうに表現するのでしょうか。

田亀:いえ、同性愛が罪悪という規定はないから、「不名誉」みたいな言い方はあんまりないと思うんですね。名誉殺人があるとかそういう感じではないんですよ。ただ、うちの親なんかは私のことを「変な子」って言いますよね。で、この間おかしかったのは、私がこのマンガ(『弟の夫』)で日本の政府の賞(註)を獲ったんですが――

(註)2015年、同作が第19回文化庁メディア芸術祭マンガ部門優秀賞を受賞

JG:おめでとうございます!

田亀:ありがとう(笑)。で、そのときにうちの両親はすごく喜んで。はじめて息子のマンガをまともに読めたっていうのもあるんですけど。で、うちの父いわく、私が「変な子」に育ったのは「お父さんのせいよ!」と、いつも母は言うんですって。「変な子」っていうのはゲイのことだと思うんだけど。ただ、こういういいことがあったときだけは母は父のせいにはしないで、それ以外のときは父のせいにするんだって言うんです(笑)。

JG:はははは! 「私が正しかった!」って言いそうなお母さんですね(笑)!

(一同笑)

田亀:だから、「不名誉」とまではいかなくても、クィアという感じには考えるひとは多いと思いますね。

***

 話題はまだまだあったが、残念ながらそこで時間が尽きてしまった。ジョンは僕が持ってきた、毛むくじゃらの男たちのヌード・アートがたくさん載っている『HAIR』の表紙の写真を「これも手に入れないとね!」と撮影する。髭と胸毛と、セックスと愛についてのアートだ。

 それから熱いハグを交わすふたりの姿を見て、ゲイであること、ゲイとして生きることを正面から見つめながら表現に取り組むアーティスト同士のリスペクトがそこに生まれていると感じずにはいられなかった。ジョン・グラントのツアーは続き、田亀源五郎の連載は続いていく。時代が前に進むのならば、そこには必ず終わらない物語があるからだと……そんなことを確信させられる出会いの光景が、そこにはあった。

Konono N°1 - ele-king

 クラップ・クラップの『タイー・ベッバ』(2014年)の評価とともに、トロピカル・ベースという言葉も広まってきた。マーラの『マーラ・イン・キューバ』(2012年)あたりから、UKベース・ミュージックとグローカル・ミュージック(辺境音楽)の融合がクローズ・アップされ、そうしたところから名づけられた造語だ。そして、こうしたトロピカル・ベースはいまやUKだけでなく、世界各地から発信されている。たとえばアルゼンチンのデジタル・クンビアなど、トロピカル・ベース以前から民族音楽とダンス・ミュージックの融合は世界のいろいろな場所に存在していたが、2015年にリリースされた作品ではンボングワナ・スターの『フロム・キンシャサ』がとくにおもしろかった。スタッフ・ベンダ・ビリリというコンゴ共和国の音楽集団の中心メンバーが、レ・リタ・ミツコやトニー・アレンとも活動してきたフランスのDJ/プロデューサー/ドラマーのドクトール・Lと組んだユニットである。スタッフ・ベンダ・ビリリはコンゴのキンシャサで路上生活を営むボリオ障害者とストリート・チルドレンからなるバンドで、ベルギーのアクサク・マブールのヴァンサン・ケニスに見出され、その盟友マルク・オランデルが主宰する老舗〈クラムド・ディスク〉からアルバムをリリースしている。

 〈クラムド・ディスク〉には他にもコノノ・ナンバーワンというコンゴのグループがいて、こちらはアンゴラ国境付近のバゾンボ族の居住区域出身の音楽集団だ。マワング・ミンギエディを中心に1966年頃からストリートで活動し、アンプに繋いだリケンベ(親指ピアノでアフリカの地域ごとにカリンバ、ムビラ、サンザとも呼ばれる)や廃品を用いたパーカッションにシンガーやダンサーが絡むそのサウンドは、人力トランスとも評される。2004年に〈クラムド・ディスク〉から発表したファースト・アルバム『コンゴトロニクス』で世界的に注目され、ビョークとのコラボ、ハービー・ハンコックが企画したイマジン・プロジェクトへの参加、グラミー賞ワールド・ミュージック部門でのウィナー獲得など、さまざまな話題を提供してきた。『コンゴトロニクス』は〈クラムド・ディスク〉のシリーズに発展し、コンゴの5つの部族が集まったカサイ・オールスターズも生まれた。コノノとカサイが合体したコンゴトロニクス名義での活動、ディアフーフ、アニマル・コレクティヴ、フアナ・モリーナ、シャクルトン、アクサク・マブールなど世界中のインディ・ロック~エレクトロニック・アーティストが組んだロッカーズとのセッションなど、次々と刺激的な試みを行っている。マワング・ミンギエディは2009年にグループのリーダーの座を息子のアウグスティン・マクンティマ・マワングへ譲り、自身は隠居して2015年4月に亡くなったが、その直後に発表されたンボングワナ・スターの『フロム・キンシャサ』でも、コノノ・ナンバーワンは1曲に参加している。そして、今回発表する新作はポルトガルのバティーダとの共作である。

 バティーダはポルトガルのDJ/プロデューサー/ミュージシャンであるムピューラことペドロ・コケォンによるユニットだが、彼の出身地はアフリカ南西部のアンゴラ共和国で、そこにはクドゥロという特有のストリート・サウンドが存在する。アンゴラの民族音楽であるセンバはじめ、アフロビートなどアフリカ音楽、ズーク、カリプソ、ソカなどカリビアンと、欧米から輸入されたヒップホップ、グライム、テクノ、ハウス、ダンスホールなど各種クラブ・サウンドを融合したもので、デジタル・クンビア、レゲトン、バイレ・ファンキなどとの共通項も見出せる。ブルカ・ソン・システマの活躍などでクドゥロはヨーロッパにも広まっているが、バティーダもこのサウンドに基づいてUKの〈サウンドウェイ〉から2枚のアルバムを発表している。そんなコノノ・ナンバーワンとバティーダが本作の中で激突する。

 電化リケンベの歪んだ音色が独特のサイケデリック感覚を呼び起こし、アフリカ音楽ならではのポリリズムにデジタルなダンス・ビートを結びつけた“ンレレ・カルシムビコ”や“キンスムバ”。クラップ・クラップのような密林系トロピカル・ベースの“ヤムバディ・ママ”。シンプルなビートにヴォイスとハンド・クラップのみの構成ながら、とてつもなく強力なグルーヴを作り出す“ボム・ディア”。トランシーな中にもアフリカ音楽が持つ牧歌性や瞑想性も感じさせる“トコランダ”。アフリカン・ブルースとグライムが出会ったような“ンゾンジング・ファミリア”。歌と踊りと演奏が一体となってシャーマニックな空間を作り出す“クナ・アメリカ”。ほとんどトライバルなビートのみで表情豊かなサウンドを作り出す“ウム・ンゾンジング”。ストリート・サウンド育ちの両者ならではの熱気が込められ、サウンドの中に没頭できるこのトランシーなエレクトリック・アフロ・アルバムは、クラップ・クラップの『タイー・ベッバ』やンボングワナ・スターの『フロム・キンシャサ』に続き、民族音楽とクラブ・サウンドが理想的な形で結び付いた新たなスタンダードとなるのではないだろうか。

Haruna Suzuki - ele-king

Best 10 songs from Sublime Frequencies (including related ones)
崇高なる周波数(とその周辺)から10曲

R.I.P. 冨田勲 - ele-king

 冨田勲先生(と見ず知らずの方なのに「先生」とすることをお許し頂きたい。しかし、「先生」としか呼びようがないのだ)の音楽は、ある世代以降の日本人における「無意識の記憶」のようになっている部分があるように思える。

 たとえば、あの有名な『月の光』『展覧会の絵』『火の鳥』『惑星』を初めとする歴史的なシンセサイザー・アルバムは、「電子音楽」の大衆化における日本人の無意識だったといえるし、『ジャングル大帝』『リボンの騎士』『どろろ』などの60年代の虫プロダクション制作の手塚治虫原作のTVアニメや『キャプテンウルトラ』や『マイティジャック』などの特撮ドラマは、ある世代の「幼年期」の記憶だし、『新・平家物語』(1971)などのNHK制作の大河ドラマ、『新日本紀行』、『きょうの料理』のテーマ曲などは、ある時代の「お茶の間」の記憶であった。もしくは冨田先生から松武秀樹氏、そしてYMO(以降)へという影響力。つまり、1960年代以降を生きてきた「戦後」日本人は、なんらかのカタチで冨田先生の音楽(とその影響力)を耳にしていたはずなのだ。

 その意味で、冨田勲先生はシンセサイザーによるイノベイティヴな作品を生み出した革新的な音楽家であると同時に、夢と希望を分け隔てなく与えた「戦後日本」を象徴する偉大な大衆音楽家でもあった。その楽曲の多くはTVのむこうの側の映像とともにあった。そして、その音楽・楽曲は、われわれ日本人の「平和な時間」の記憶と、幸福に重なりあってもいる。

 今年はデヴィッド・ボウイが、ピエール・ブーレーズが、グレン・フライが、モーリス・ホワイトが、ジョージ・マーティンが、キース・エマーソンが、ニコラウス・アーノンクールが、プリンスが相次いで現世を去った。この偉大な音楽家たちがいない「世界」など、本当に私たちが生きてきた「あの世界」なのだろうか。この「世界」は、いつのまにか別の並行世界へと移行してしまったのだろうか、そんな想いにとらわれていた矢先、驚くべきことに、そこに冨田勲先生の名まで加わってしまった。呆然とするなというほうが無理というものだ。2016年はなんという年なのだろう。

 正直にいえば「デヴィッド・ボウイの死」と同じくらいに、いや、それ以上に、「冨田勲の死」という事実は、私の乏しい言語回路にはストックされておらず、その訃報を目にしたときも、いやいまも、思考は止まっている。どうすればいいのかわからない。何をいうべきかわからない。あえていえば「冨田勲の死」というものほど現実感のない死もない。いや、もしかしたら、ご本人がもっとも現実感がないかもしれない。冨田勲先生は、すくなくとも120歳くらいまでは、元気に最先端のテクノロジーと音楽の可能性を信じて創作活動をされているものと思い込んでいた。とはいえ死はいつも、いつでも唐突だ。そして、死は、私たちの現実認識よりも、ほんの少し先に訪れる。となれば現世を生きるものの慎みとして、その死を静かに受け入れるしかない。それはわかる。辛く、悲しいことではあるが。

 私個人の経験でいえば冨田勲先生の楽曲こそ、上記の偉大なる音楽家たちの中でもっとも最初に聴いた音楽だった。世界中のテクノ・ゴッドから愛される、あれらシンセサイザー・アルバムではない。自分は1971年生まれだから冨田先生の作品に直撃された世代の先輩方より、やや下の年齢になるので、それら名盤をギリギリ、リアルタイムでは聴いていない。

 では何か? といえば、忘れもしない小学校一年生のとき、夕方に再放送されていた『リボンの騎士』のテーマ曲であった。当時、巨大ロボットアニメに夢中な少年が、なぜ『リボンの騎士』を観たのか? といえば不思議といえば不思議だが、その理由としては冨田先生の筆によるテーマ曲の存在が大きかった。私はあの曲が好きだった。あのオープニングの鐘の音からはじまるあのビッグバンド・ジャズの構造をポップなライト・クラシックに置き換えたような瀟洒な楽曲は、夕方のほの暗いムードから、一気に西欧世界へと連れていってくれるような、なんともいえぬ夢のような感覚を与えてくれた。それは幼少期の幸福で、官能的な記憶でもある。

 いま、同曲を聴いてみると、そのシンコペーションするメロディは、とてもわかりやすく、かつ、まったく下品ではないという、いわゆる「幼年もの」としては、ほとんど完璧に等しい楽曲である。さらにその楽曲の運動は、手塚アニメの上品な砂糖菓子のような絵柄と完璧にシンクロしており、アニメーション音楽としても完璧だ。『ジャングル大帝』もそうだが、虫プロ制作の手塚アニメ特有の「品の良さ」は、冨田勲先生の音楽の功績がとても大きいように思える。さらにいえば、このシンコペーションするメロディは、「あ」「い」「う」と一音のリズム感に乏しい日本語と言語に、弾むようなリズムを乗せていく手法として、たとえば細野晴臣から小沢健二、さらには小室哲哉から中田ヤスタカにまで至る日本の大衆音楽の基本形のようにも思えてならない。むろん、当時の私は、ただメロディにウキウキしていただけであるが。しかし、この「ウキウキ」感覚こそ、音楽の「希望」の正体ではないか。冨田勲は「希望」の音楽家なのだ。

 近年では初音ミクを起用した壮大な「イーハトーヴ交響曲」を作曲し、本年11月に公演予定であった「ドクター・コッペリウス」もまたミクを歌姫とする交響曲であったという。新しいテクノロジーへの好奇心と信頼と飽くなき挑戦。常識にとらわれない自由な創作。そして何より冨田先生はつねに(そしてたぶん、現世での使命をいったんは止めたいまも)、未来への希望と可能性に対して、一点の曇りもなかったと思う。その視線の先に見えていたものを「希望」というのは簡単だが、そこにこそ氏の人生観の本質があったのだと思うと、その意味はとても重い。だからこそ、そんな先生の突然の訃報を前にすると残されたわれわれはどうすればいいのかと途方に暮れてしまうのだが、しかし、遺されていった楽曲は膨大であり、しかも、私たちは、それらが可能性の宝庫であることも知っている。あらゆる偉大な芸術家がそうであるように、私たちは、この偉大な作曲家のすべてを知っているわけではない。ゆえに氏の作品はいまだ生きているし、それは永遠でもある。そう、それは夜明けのように永遠なのだ。

 日本には、「冨田勲」という音楽とテクノロジーの可能性と、その未来を信じた「希望」の音楽家がいた。こんなに嬉しいことはない。この事実こそが、私たちの「希望」である。いまはそう信じたい。冨田先生、私たちに「希望」をありがとうございました。

Anohni - ele-king

 これまでアントニー・アンド・ザ・ジョンソンズ名義などで発表されたアントニー・ヘガティの楽曲は、ギター、ベース、ドラムスを中心とする伝統的なバンド編成であっても不思議な音響性があった。いわばヴェルヴェット・アンダーグラウンド的な空間的な楽器配置を継承するものだと思うのだが、そこにあってアントニーのヴォーカルは浮遊していた。浮遊する非=中心的な存在? それが、アントニー・ヘガティのヴォーカルの魅力のように思える。どこにも属していない感覚とでもいうべきか。

 その声は、まるで黄泉の国への旅立ちのように衣装を纏ってもいるようにも聴こえた。この衣装こそが、ジョンソンズのサウンドであったのはいうまでもないが、私はその点においてこそアントニーの音楽が「ロック」の末裔にあると確信している。「ロック」とは「死」へと至る「生」を着飾る衣装=モードの音楽だ。資本主義という死の市場を生きる芸術? しかし「死」への過程はひとつではない。生が複数の層によって成り立っているように、「死」の過程もまた複数的といえる。ゆえに複数の衣装(モード)を身に纏う必然性があるのだ。

 「電子音楽」(もしくはパフォーマティヴに未知の音色を探求するという意味で60年代以降の「実験」音楽も加えてもいいだろう)は、ロック史における、衣装(モード)のひとつである。電子音楽(もしくは実験音楽)と「ロック」のマリアージュは多種多様だ。ざっと思い出すだけでも、ピエール・アンリとスプーキー・トゥーズ、ジョン・レノンとオノ・ヨーコ、ロジャー・ウォーターズとロン・ギーシン、トニー・コンラッドとファウスト、ブライアン・イーノとデヴィッド・ボウイ、坂本龍一とデヴィッド・シルヴィアンのコラボレーションなど枚挙に暇がない。テクノからエイフェックス・ツインとフィリップ・グラスのコラボレーションを加えてもよい。さらにはラ・モンテ・ヤングとジョン・ケイルの関係、ザッパにおけるエドガー・ヴァレーズからの影響、シュトックハウゼンに師事したホルガー・シューカイのサウンド、ソニック・ユースの現代音楽への好奇心、レディオヘッドの『キッドA』化などを思い出してみてもよいだろう。

 なぜ、これほどに「ロック」は電子音楽や実験音楽を希求するのだろうか。電気楽器による音響の拡張を嗜好する「ロック」と、音響の拡張を志向/思考する「電子音楽」の相性の良さが原因ともいえるだろうし、電子音楽特有の音の抽象性が、「ロック」がもたらす知覚とイメージの拡張に大きな力を発揮しやすいということもあるだろう。いずれにせよ、未知の音色の導入は、それは20世紀後半の「ロック」という商業音楽における、新たな崇高性(のイメージ)を獲得するためのモードであったと思う。そう、「ロック」は常に新しいモード=衣装を刹那に求めるのだ。窃盗の魅惑? それこそまさに「ロック」の魅力ではないか。

 そして、アントニー・ヘガティあらためアノーニによる本アルバムもまた電子音楽の現代的なモードを纏っている傑作である。歌詞は、これまで以上にポリティカルだが、ワンオートリックス・ポイント・ネヴァーとハドソン・モホークという現代の二大エレクトロニック・ミュージックのプロデューサーを迎えることで、絶望の中の祈りのようなサウンドを実現しているのだ。いまさら、この二人の経歴について書き連ねる必要はないだろうが、これは先に書いたような「ロック」と電子音楽のマリアージュの歴史に、新たな痕跡を残す作品であることは断言できる。

 もっともアントニーとワンオートリックス・ポイント・ネヴァーの録音は本作が最初ではない。2010年にワンオートリックス・ポイント・ネヴァーが〈エディションズ・メゴ〉よりリリースした『リターナル』からシングルカットされた「リターナル」において、二人は共作している。同曲にアントニーがヴォーカルをつけて歌唱しているのである。むろん、6年の月日が流れた本作は、“リターナル”とは比べ物にならないほどの独創的な構造とテクスチャーを獲得している。“リターナル”のヴォーカル・ヴァージョンは、ピアノを主体とするトラックであったが、本作は、より複雑なエレクトロニック・サウンドに仕上がっていたのだ。また、ポップな享楽性(いわば死への快楽的な希求か?)の獲得には、ハドソン・モホークの存在と楽曲が重要であるのはいうまでもない。

 壮大なパイプオルガンのような電子音からはじまる1曲め“ドローン・ボム・ミー”は、アントニーとモホークの共作曲で、崇高なエレクトロニック・サウンドが展開する。まるで死と恐怖に満ちた現代世界への享楽的な哀歌のように響いてくる楽曲だ。2曲め“4ディグリーズ”は、アノーニ、OPN、モホークらの共作。強靭な打撃音とアノーニの絶望を称えた声が重なり、まさに「エレクトロニック・オペラ」とでも称したいほどの唯一無二の楽曲である。

 さらには胸締め付けるようなオルガン・コードが堪らない5曲め“アイ・ドント・ラブ・エニモア”から、6曲め“オバマ”、7曲め“ヴァイオレント・メン”と続くアノーニとOPNとの共作は圧巻だ。アノーニのヴォーカルとOPN的なシンセ・アンビエント・サウンド(とビート・プログラミング)が現代の受難曲のように響く。6曲め“オバマ“のアウトロで聴かれる悲痛なピアノ。7曲めのチリチリと乾いた音から溢れ出るような哀しみ……。続く8曲め“ホワイ・ディド・ユー・セパレート・ミー・フロム・ジ・アース?”はモホークとの共作で、まるで天に昇るような解放感のあるトラックに仕上がっている。全曲までとの対比が見事な構成だ。

 個人的にはOPNとの共作にして、アルバム・タイトル曲である10曲め“ヘルプレスネス”にもっとも惹かれた。シンセ・アンビエント/ストリングスに、これまで以上に強い息吹を感じるようなアノーニの歌声がレイヤーされ、この世のものとは思えない天国的な音楽的サウンド・スケープが展開されているのだ。

 それにしても、本作におけるアノーニの声は、かつてのように浮遊していない。猛烈なサウンドの情報という現実の中で格闘しているようである。その格闘を、過酷な現実への「祈り」から、新しい「崇高性」を獲得するための「闘争」と言いかえてもいいだろう。このような視点(聴点)でアルバムを聴いていくと、本作は、電子音楽とロックの邂逅における「現代の崇高なバロック・ミュージック」といいたい気分にすらなってくる。だが、バロックは地域と歴史を越境する雑多な音楽の交錯点でもあることを忘れてはならない。

 晩年のピエール・シェフェールは、自らが生み出したミュージック・コンクレートを「ドレミの外では何もできない」と完全に否定し、「新しい音楽を作る希望を捨てよ」とまで言い放った。そして、それでも残っている音楽が「バロック音楽」と断言する。さらにシェフェールは「西欧音楽で最も崇高とみなされてきたバロック音楽」とまで語り、そして「バロックとはイタリアや中世の音楽のよせ集めから作られた」とも述べていた。よせ集めから生まれる崇高さと新しさ? まさに「ロック」だ。そして、本作には、そのような崇高と猥雑と新しさに満ちた21世紀のバロッキニズムが横溢しているのである(バ/ロック・ミュージック?)。

 その意味で、OPNとハドソン・モホークが、アントニー=アノーニとコラボレーションを行ったことは、ロック史において重要な意味を持つと思う。たとえば『ロウ』にブライアン・イーノの参加したことに匹敵するような。いうまでもないが『ロウ』(とくにB面)にもまたバロック的な電子音楽(ロック)である。バロックへの希求。ロックの死、死と生。死の旅路を飾る衣装としての音楽=ロック……ゆえにボウイの死後に本作がリリースされたことは、偶然にせよ偶然を超えた偶然に思えてならない。

 黒い星から絶望へ? まさに「世界」が死と恐怖の激動の波に晒されている2016年に世に出るべくして出たアルバムといえよう。そして何よりエレクトロニックのモードを纏いつつも、本作はポップ・ミュージックとしての聴きやすさもあるのだ。電子音と声と和声とノイズによる21世紀のポップ・ミュージック。美しいピアノで終わるモホークとの最終曲“マロウ”を聴き終えたとき、あなたは、現代世界への本当の怒り、そして絶望の果てにある透明な世界を垣間見るだろう。途轍もない傑作が生まれてしまった。

interview with ANOHNI - ele-king


ANOHNI
Hopelessness

Secretly Canadian / ホステス

ElectronicExperimentalPops

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 「わたしは魔女です」──彼女はそう繰り返してきた。男たちの暴力的な歴史に築かれた世界の異端者として。ラディカルな主張を隠すことはなかったし、どんなときもアウトサイダーの代表だという姿勢を崩すことはなかったから、この時代の曲がり角にポリティカル・レコードをリリースするということは筋が通った話である。だが、それでも……このあまりに華麗な変身に衝撃を受け、魅惑されずにはいられない。固く閉ざされていた扉がこじ開けられ、胸ぐらを掴まれ、彼女が戦闘する場所へと投げこまれる……そんな感じだ。耽美な管弦楽器の調べではなくエレクトロニックな重低音が烈しく鳴り響き、ノイズが飛び交い、そして彼女自身の声が怒りと憎悪に満ちている。華麗なハイ・アートはもうここにはない。ミューズとなるのは大野一雄ではなくナオミ・キャンベルであり、聖よりも俗を、慈悲よりも憤怒を手にしながら、巫女の装束を光沢のある夜の衣装に着替えてみせる。そしてはじめて、彼女の本当の名前を名乗る……アノーニだ。

 ハドソン・モホークとOPNことダニエル・ロパッティンという、現在のエレクトロニック・ミュージックの先鋭的なポジションに立つプロデューサーが起用されていることからも、彼女の並々ならぬ決意が窺えるだろう。まさにバトル・フィールドの先頭に立つような“4ディグリー”はハドモの“ウォーリアーズ”ないしはTNGHTを連想させるし、低音ヴォーカルが重々しく引き伸ばされ続ける“オバマ”や“ヴァイオレント・マン”はOPNの『ガーデン・オブ・デリート』と見事にシンクロしていると言えるだろう。ヒップホップとエレクトロニカとノイズと現代音楽とシンセ・ポップを調合しながら、それを遠慮なく撒き散らすような威勢のよさに満ちている。

 「私の上にドローン爆弾を落として」(“ドローン・ボム・ミー”)、「私は見たい この世界が煮える様を」(“4ディグリー”)、「死刑執行 それはアメリカン・ドリーム」(“エクセキューション”)、「オバマ あなたの顔から希望は消えてしまった」(“オバマ”)、「もし私があなたの弟を グアンタナモで拷問していたらごめんなさい」(“クライシス”)、「どこにも希望はない」(“ホープレスネス”)――魔女は呪詛を吐き続ける。戦争と環境破壊、虐殺、資本主義の暴力、そして「希望がないこと(ホープレスネス)」。ここでの音の高揚は地獄の業火に他ならず、彼女はその身を焼かれることを少しも恐れていない。彼女ははっきりとこの世界の異端者である……だが、「トランスジェンダーであることは自動的に魔女であることなのです」と発言していたことを反芻すれば、その禍々しい言葉はかくも暴力的な世界の鏡に他ならないことを思い知る。だからアノーニは、そんな世界こそがまったく新しい姿に生まれ変わることを迫るのである……彼女自身が、鮮やかな変身を体現しながら。

 ほとんど爆撃音のようなビートの応酬をかいくぐると、アルバムはもっともジェントルなピアノが聴ける“マロウ”へと辿りつく。だがそこでも彼女は、自分が暴力に加担する一部であることを忘れてはいない。深い歌声でなにかをなだめながら、自分自身も、そしてこれを聴く者も「ホープレスネス」の一部であるのだと告げている……それこそが、この狂おしいまでにパワフルな作品のエナジーになっているからである。

■ANOHNI / アノーニ
旧名アントニー・ヘガティ。2003年にルー・リードのバック・ヴォーカルに抜擢され、アルバムの録音にも参加、一躍注目を浴びる。アントニー・アンド・ザ・ジョンソンズ名義で2005年にリリースしたセカンド・アルバム『アイ・アム・ア・バード・ナウ』でマーキュリー・プライズを受賞、 MOJO誌の「アルバム・オブ・ザ・イヤー」にも選出された。09年にリリースしたサード・アルバム『クライング・ライト』では彼女が敬愛する日本の舞踏家、大野一雄の写真をアートワークに使用し話題となった。2011年には4thアルバム『スワンライツ』をリリース。ビョークをはじめ、ルーファス・ウェインライト、ブライアン・フェリーなどさまざまなアーティストとのコラボレーションも行っている。2015年に新曲“4 DEGREES”を公開、前作から約5年半ぶりとなる新作『ホープレスネス』を2016年5月にリリースする。

エレクトロニック・ミュージックは、素晴らしいエネルギー、喜びさえも人びとに与える。それを使って、真実を表現したかったんです。

少しさかのぼって訊かせてください。ライヴ盤『カット・ザ・ワールド』には非常にラディカルな内容のスピーチである“フューチャー・フェミニズム”(「神の女性化」を想像し、男性原理に支配された世界を糾弾する内容)が収録されていましたよね。あのライヴ盤自体、あのスピーチを世に出すという目的が大きかったのではないですか?

アノーニ:あのレコードでは、いままでに自分が聴いたことがないようなものを作りたかった。ポップ・ミュージシャンが10分(註:実際には7分半だが、じゅうぶんに長尺)のスピーチを含んだ作品をリリースするなんて、なかなかないでしょう? スピーチを挟むのは、自分のショウですでに探求していたことだったんだけど、それをCDに取り入れてみて、一体どうなるかを見てみたかった。気候や環境の緊張感とフェミニストの見解を繋ぎ合わせるという“フューチャー・フェミニズム”のアイデアは、2、3年前からずっと持っていたものだったから、それをライヴ・ショウやCDに取り入れてみたかったんです。

そして『ホープレスネス』は、ある部分で“フューチャー・フェミニズム”を引き継いでいると言えますか?

アノーニ:『ホープレスネス』はエレクトロニック・レコードで、私が持っていたアイデアは自分でも聴くのが楽しいポップ・レコードのような作品を作りたいということでした。これまでの私のシンフォニックな音楽作品とは違うものを、言ってしまえばダンス・ミュージックみたいなものを作りたかった。でも、音はダンス・ミュージックであっても、曲のなか、つまり歌詞はかなり政治的なものになっていて、まるでトロイの木馬のようになかに兵士が隠れているんです(笑)。それが新作のアイデア。コンテンポラリー・ライフとモダン・ワールドに関する内容で、とくにアメリカのポリシーにフォーカスが置かれている。アメリカのポリシーとはいえ、いまではそれが世界的な問題になっているけどね。

非常に政治的なテーマを持ったアルバムとなりましたし、その根本にあるものは「怒り」であると事前にアナウンスされていました。エレクトロニック・サウンドを選択したのは、そのようなテーマに適すると考えたからなのでしょうか?

アノーニ:もちろん。そうすることで、より真実を伝えたかったから。真実を伝えるという効果を、より強いものにしたかったんです。そこにエネルギーを使いたかった。ダンス・ミュージックにはエナジーがあるから、エレクトロニック・ミュージックを使ってそのエナジーを作り出したかったんです。エレクトロニック・ミュージックは、素晴らしいエネルギー、喜びさえも人びとに与える。それを使って、真実を表現したかった。その真実が苦いものであったとしても、喜びを通してそれを叫び、皆に伝えることもできると思ったんです。

ハドソン(・モホーク)と作業を初めてから、ポリティカル・エレクトロニック・レコードという方向に急進していったんです。

ハドソン・モホークとダニエル・ロパッティンを起用したのはどうしてでしょうか? 彼らのそれぞれどういったところを評価していますか?

アノーニ:ハドソンの音楽には、本当に惹き込まれます。彼の音楽はすごく喜びに満ちているんですよね。多くのミュージシャンが何かひとつの方向性に違ったものを混ぜ、そこからあちらこちらの方向に進んでいます。でもハドソンの場合は、さまざまなものが混ざりながらも、すべてはひとつの方向に進んでいるんです。彼の目的はひとつで、込められた感情は決して複雑ではなく、高揚感に統一されている。だからこそリスナーは、我を忘れるような喜びに心が躍るんです。それが複雑な歌詞をひとに届けるのに最適な方法だと思いました。ダークで重い緊張感がある歌詞を、魅力的で簡単に楽しめる音楽に乗せるのがベストだと思ったのです。歌詞の内容は高揚感のある音楽の真逆で、アメリカ政府やテロリズム、環境破壊、石油問題といったヘヴィーなもの。音楽と歌詞にはコントラストがあるんです。
 ダニエルは、さまざまなサウンドからエッセンスを抽出して、そのアイデアを組み立て、自分独特のサウンドを作り出してくれます。基となる要素とはまったく違うものを作り出すから、まるでマジシャンみたいなんです。私は、そこに知的さを感じますね。彼は音楽に対してすごくモダンな考え方を持っていて、サウンドの意味を考えます。その意味がどう変化しうるかを考え、それを自分で操作していく。もともとはダニエルと作業を始めたんだけど、さっき話したようなエレクトロニック・ミュージックのスタイルになっていったのは、ハドソンと作業をはじめ出してからでした。彼が書いた音楽に、私がメロディと歌詞を乗せて、そこからレコードの目的に合うよういろいろと手を加えていきました。ハドソンと作業を初めてから、ポリティカル・エレクトロニック・レコードという方向に急進していったんです。

トラックの制作について、ハドソン・モホークやダニエル・ロパッティンにどのようなリクエストをなさいましたか?

アノーニ:曲のほとんどが、ハドソンがまず曲を書いて送ってきてくれたんです。それに私がヴォーカルをのせて返して、それから、ダニエルといっしょに曲を整えていきました。バラバラに作業してメールし合うこともあれば、同じ部屋で作業することもありましたね。私自身も、レコードをミックスして聴き込むのにかなりの時間を費やしました。3年くらいかかりましたからね。待たなければいけないことも多かったし、考えなければいけない時間も多かった。曲の歌詞はかなり強烈だし、それが本当に自分の書きたいことか確信を得るのに時間がかかったんですよ。リリースする勇気がなかなか出なくて。それを長い時間考えなければならなかったんです。

なかなか勇気が出ないなか、リリースする覚悟ができたきっかけはあったのでしょうか?

アノーニ:人生はすごく短いでしょう? 本当に短いから、できるだけ強く関わりたいと思うようになったんです。どこまで自分が関与できるのか、それに関与することで、自分が何を感じるかを知りたかった。受け身ではいたいくないと思ったんです。世界は驚くべきスピードで変化しているし、私は生物多様性の未来を本当に心配しているし、それに自分が地球と深く繋がっていると心から感じる。だからこそ、地球を護りたいと思うようになったんです。

これまで私は自分のことについて歌ってきました。自分のなかの自分の世界、自分の人生についてね。でも今回は、かなり大きな、ショッキングとも言える一歩を踏み出したんです。

リリースしたことで何か実際に感じましたか?

アノーニ:いままで音楽的にやったことのないことだったから、やはり勇気が出たし、自信がつきました。いままでの私の音楽を聴いてきたひとたちはわかると思うけれど、これまで私は自分のことについて歌ってきました。自分のなかの自分の世界、自分の人生についてね。政治やランドスケープに触れたことは一度もなかった。でも今回は、かなり大きな、ショッキングとも言える一歩を踏み出したんです。歌詞の内容に驚く人も多いと思う。でも、このレコードで人びとの考えを変えたいとまでは私は思っていないんです。自分と似た考えと世界観を持つ人びとをサポートしたいだけで。何かに対して戦う勇気を彼らに与えるサウンドトラックを作りたかったんです。

また、アノーニ名義としてのはじめてのアルバムとなります。この新しい名前――本来の名前と言ったほうがいいと思いますが、ANOHNIとしてリリースすること自体があなたの世に対する意思表示だと言えるでしょうか?

アノーニ:そう。アノーニは私の本来の名前。プライベートで何年か使ってきた名前で、公の場で使うことはこれまでなかった。でもいま、もう少し「正直」である時期が来たんじゃないかと思って。自分のなかの真実を人びととシェアする時が来たんじゃないかと思ったんです。アノーニは私のスピリチュアル・ネームなんだけど、私はトランスジェンダーだから、自分のスピリチュアル・ネームを使うことによって、ひとがより自分の存在を理解することができるんじゃないかと思いました。人びとが私をもっとクリアに見ることができると思ったんですよ。もし私が男性の名前を使えば、それは欺きになってしまう。私はただ、正直でありたかったんです。

アノーニは私のスピリチュアル・ネームなんだけど、私はトランスジェンダーだから、自分のスピリチュアル・ネームを使うことによって、ひとがより自分の存在を理解することができるんじゃないかと思いました。

アノーニという名前を使うことで、何か変化はありましたか?

アノーニ:この名前を使うことで、よりいろいろなものをシェアできるようになります。たとえば私は普段怒りをあまりシェアしないし、音楽でそれを表現しようとすることはなかったんです。でも、このレコードでは確実に怒りが表現されている。それは私にとっては新しいことだし、同時にそれはすさまじいエネルギーを発するものでもあるんです。

ビートがアグレッシヴな箇所も多く、たしかに「怒り」を強く感じる瞬間も多いですが、しかし、わたしは聴いていると同時に非常に優雅さや優しさも感じます。この意見に対して、もしその理由を問われればどのように説明できますか? 

アノーニ:優雅さに通じるかはわからないけど、曲のなかではそれが反心理学によって表現されているものが多いから、それもあるのかも。曲のなかで「この恐ろしいことが起こってほしいと願っている」と歌っていても、もちろん本当に意味しているのはまったく違うこと。そう歌いながら、その出来事を批判しているんです。私が「アメリカの死刑実行制度について快く思っている」と歌っていればそれは、いまになっても死刑を実行しているこの国に住んでいることを残念に思う、というのが本音。このアルバムではそういった反心理学的な歌詞が多いから、その効果かもしれないですね。

この質問を作成した時点ではまだ歌詞を拝見できていないのですが、トランスジェンダーであることはこのアルバムのテーマのひとつと言えますか?

アノーニ:トランスジェンダーであることやトランスジェンダーの声だけに歌詞が置かれているわけではないですね。でも私自身がトランスジェンダーだから、歌詞はアメリカではアウトサイダーとされているトランスジェンダーとしての私の視点で常に書かれています。つまりトランスジェンダーに重点を置いているのではないけれど、トランスジェンダーから見た世界が表現されているのは事実。でも、それがトランスジェンダーすべての意見というわけではないんです。それはあくまでも私の世界観。私のゴールは、自分と同じような考えを持つ人をサポートすること。彼らに強い勇気を与え、背中を押したい。私にとって、女性の視点から何かを書くのは意識することではなくて自然なことなんです。

私のゴールは、自分と同じような考えを持つ人をサポートすること。彼らに強い勇気を与え、背中を押したい。私にとって、女性の視点から何かを書くのは意識することではなくて自然なことなんです。

この世の中で、トランスジェンダーの声や意見はまだまだ隠れていると思いますか?

アノーニ:トランスジェンダーに限らず、女性の意見、声というのはこの世界でまだまだ隠れていると思います。その女性の声のひとつが、トランスジェンダーの女性たちの声だと思うんです。それがもっと表に出て、人びとに受け入れられるようになるまで、この世界に希望はないと私は思います。女性の声というのが、世界を救うと私は思っているんです。私たち(女性たち)は、自分たちの力を取り戻さなければいけない。それを取り戻すために立ち上がるのは怖いかもしれないけど、それをやらなければこの世界に未来はないと思う。この世界には、女性からのガイダンスが必要なんです。女性の視点が必要。それがあってこそはじめて自然を守ることができるし、人間の尊厳を取り戻すことができる。
 男性政治家たちを見ればわかるけど、彼らは失敗ばかりしているでしょう? 彼らが操作してきたいまの世界を見てみると、この世を破滅させるのにじゅうぶんな武器が存在し、森、山、海がどんどん破壊されていますよね。伝統的に、家族やコミュニティを守ろうとするのが男性の役割で、彼らはそのために戦うための軍隊とチームを作る。いっぽう、女性の役割というのはすべてのチームの繋がりを考えること。女性は家庭のなかで子供のために平和を作ろうとします。すべての環境の繋がりを把握し、それを基に平和を作り出すのが女性なんです。男性は仕事をして自分の家族だけを守ろうとするけど、女性は家族を「作ろう」とする。いまの私たちに必要なのは、世界で家族を作ろうとする女性のスキル。そうしなければ、自分たちと自然の繋がりを見出すことができないんです。それどころか、私たちは自然を殺してしまいかねない。だからこそ女性のリーダーが必要だし、とくに年配の女性たちの知恵や見解が必要なんですよ。彼女たちの助けが必要だし、いっぽうで若い女性は強くあり、前に向かって進み、いまのシステムに対抗することに挑んでいく必要がある。男性が世界を破壊しようとしているわけではないのだけれど、単純に、彼らにできることと女性にできることが異なるんです。いまの世界に必要なのは、女性の力です。

女性で、実際いまそこまで考えているひとはどれくらいいるのでしょうね。

アノーニ:そうなんですよね。立ち向かうというのはすごく難しいと思う。でも、興味や関心をもっていなくても、気候や世界はどんどん変化し続けます。海も死にかけています。それなのに私たちは海からさらに多くのものを奪おうとしています。海が死んでしまっては、海のなかの生命体や魚はすべて消滅してしまう。そうなったら、いったい世界はどうなってしまうんでしょう。私はそういう未来が心配です。でも日本はすごく美しい国だと思うんですよ。自然とひととの繋がりが、他の国よりもきちんと考えられている国だと思います。日本には古い文化がまだ存在していて、さまざまな自然との美しい共存の仕方が受け継がれていると思います。

世界に希望がない(ホープレスネス)というのは事実ではないけれど、私たちが持っているフィーリング。でもそのフィーリングがあるということは、その対処法を見つけなければならないということなんです。

日本では昨年よりLGBTQの話題がちょっとブームのようになったこともあり、少しずつ一般的にも認知されるようになりました。ただ、わたしの見解としては、日本ではそこにカルチャーやアートがあまり追いついていないようにも思うんですね。あなたのマトモスとのコラボレーションなどを見ると、政治的な共闘がありつつも、やはり何よりも「アート」だと思うんです。LGBTQイシューに限った話ではないですが、「アート」が社会にできることがあるとすれば、どのようなことだとあなたは考えていますか?

アノーニ:私はすごく日本のアートに影響を受けているんだけど、とくに土方巽や大野一雄の舞踏にはすごくインスパイアされています。第二次世界対戦のあとにとくに浸透したアートで、すごく強烈なイメージを持っている。生きるための困難や美しさ、そして、何が美しいのかという考え方の変化が表現されているんですよね。原爆投下後の最悪な光景に目を向けなければならなかったから、あの強烈なイメージが生まれたんです。地獄のような光景。舞踏では、そういった苦しみが表現されました。そういうものを表現しようとする創造性には、ものすごいパワーが存在していると思う。それを理解し、ダンスや音楽で真実を伝えるというのは、すごく重要なコミュニケーション方法だと思います。

タイトル・トラックである“ホープレスネス”では自然と切り離されたことの悲しみが歌われていますよね。“ホープレスネス”とは非常に強い言葉ですが、これがアルバム・タイトルともなったのは、これこそがあなたの実感だということなのでしょうか?

アノーニ:日本ではどうなのかわからないけれど、アメリカやヨーロッパでは、地球の未来は明るくないと考えられているんです。世界に希望がない(ホープレスネス)というのは事実ではないけれど、私たちが持っているフィーリング。でもそのフィーリングがあるということは、その対処法を見つけなければならないということなんです。

COP21(国連気候変動枠組み条約(UNFCCC)第21回締約国会議)に合わせた“4 ディグリーズ”のパフォーマンスがとても話題になりました。何かあなたにとって嬉しく思えたリアクションはありましたら、教えてください。

アノーニ:みんなが音楽の中に自分自身の精神をそれぞれに感じることができていると思えたのが嬉しかったわね。

ANOHNI - 4 DEGREES

マーガレット・サッチャーも、女性ひとりが男性のルールのなかでリーダーになっただけ。でも、政治自体が女性から指揮されるようになれば世界は変わると思います。

オノ・ヨーコさんとのコラボレーションは、このアルバムに間接的に影響を与えていますか? というのは、彼女が敢えて自分を「魔女」と呼ぶタフな態度に、あなたは共感するところがあると思ったからなんですが。

アノーニ:彼女からの影響はあると思う。彼女は勇敢だし、自分の政治活動にすごく自信を持っているから。そして、アーティストとしてそれを自分の作品に反映させている部分にも共感します。それに、私も自分を魔女と呼んでいます。それは、女性のパワー、そして女性と地球の繋がりを意味します。そして女性と地球のコネクションというのは、ほとんどの男性が恐れていることでもあります。その力の偉大さを知っているから、それが起こらないようにコントロールしたがるんです。そして、そのパワーを盗もうとさえします。男性は、もっと女性に対して謙虚さを学ぶべき。それが、いま私たちが求めているものなんです。

“アイ・ドント・ラヴ・ユー・エニィモア”から“オバマ”へと流れが続くのでドキッとするのですが、この曲順は意図的なものですか?

アノーニ:そう(笑)。アメリカではいま、オバマに対する期待は薄れています。男性に解決できることではないと、みんなが気づきはじめているんです。変化を起こしたければ、男女ともに取り組みに関わらなければいけないんです。

ということは、あなたはヒラリーを支持しているのでしょうか?

アノーニ:もうわからないんですよね。もちろんサポートするべきなんだけど、同時に信用もできない。彼女をサポートすることは必要なんだと思うけど、リーダーひとりが女性であるという事実だけではじゅうぶんではないと思う。政治の世界で、女性の割合そのものが増えなければ意味がないんです。マーガレット・サッチャーも、女性ひとりが男性のルールのなかでリーダーになっただけ。でも、政治自体が女性から指揮されるようになれば世界は変わると思います。30%を越さなければ、リーダーが女性であってもすべては男性主体のままだと思いますね。

怒りはその中に存在する一部で、とくに強くなるために、そして真実を主張するためには怒りは必要なんです。自分たちの感情は、表に出さないことが多いでしょう? とくに世界という大きい規模の物事に対しては、それを受け入れるだけで、何もしないことが多いと思う。

あなたはこのアルバムを通じて、現在の世界における「理想」を探究しているように思えます。あなたにとって、理想的な社会とはどういったものだと言えるでしょうか?

アノーニ:今回のアルバムの内容は、現在の世界の危機について。だから、あまり理想社会については触れていないんです。夢の世界にはあまりフォーカスを置いていない。私にとってのパラダイスとは自然界です。何億年もかけて作り上げられた自然が自分にとっては理想の社会ですね。彼女(自然)が私たちとわかちあっている素晴らしい世界。動物、緑、海……彼女(自然)の人生そのものがパラダイスなんですよ。私はその一部だし、その一部であることが夢のよう。同時に、それは愛の世界でもあります。

わたしはこのアルバムに限らず、あなたの表現の底には怒りと、そのことを隠さない強さがあると考えています。あなたにとって怒りや悲しみは原動力だと言えますか?

アノーニ:どうでしょうね。それはわからないけれど、すべての感情がお互いを支え合っていると思います。今回のレコードは、自分の真実、そして世界に対する私の考え方を表現した結果。怒りはその中に存在する一部で、とくに強くなるために、そして真実を主張するためには怒りは必要なんです。自分たちの感情は、表に出さないことが多いでしょう? とくに世界という大きい規模の物事に対しては、それを受け入れるだけで、何もしないことが多いと思う。コントロールの力が大きいから、自分たちが小さいと感じてしまうんですよね。でも、真実を語るというのは大切なこと。みんなの行動が未来に影響するのだから。その行動がパワフルかどうかは関係なくて、すべての行動が影響するんです。だからこそ私たちは立ち向かい、努力しなければならない。私たちを取り巻く世界は、私たちの世界なのですから。

今日はありがとうございました。

アノーニ:こちらこそ。より多くの日本の女性たちが、このインタヴューを読んでくれますように。

interview with LUH - ele-king


Spiritual Songs for Lovers to Sing - LUH
Mute / トラフィック

Indie RockPunk

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 怒りなどというとあまりに陳腐だ。エラリー・ロバーツの怒っているようなヴォーカルには感情のありったけがある。能面がたったひとつの表情、あのなめらかな稜線の中に喜怒哀楽の無限のスケールを持つのだとすれば、エラリーのそれは千も万もの異なる表情をひとつひとつすべて具現化して結合させたような、異常な激しさと質量をともなった塊。タイタス・アンドロニカスやモデスト・マウスといったバンドを引き合いに出せばいくらかイメージしてもらえるだろうか? 声量の問題ではなしに、それは大きくて膨張的で、そして感動的だ。いや、なぜ感動するのかわからないほどに大きいというべきだろうか……。

 ラーというユニットのファースト・アルバムに注目が寄せられている。理由は音を聴いて納得してもらうよりほかないけれども、なんといってもウー・ライフのフロント・マンによる別プロジェクトであるということへの期待がある。2008年に結成され、わずか4年で解散したUKのロック・バンド、ウー・ライフは、なかなかかつてのような勢いや新しさを生むことの難しいロック・シーンにおいて、勢いや新しさではなく一個のバンドとしての替えがたい存在感によってまさに彗星のようなインパクトを残していった。

怒りや反抗という感情を減耗させることなく表現にかえ、人の心を揺さぶる。彼らについては覆面というテロリスト的な装いも特徴的だったが、「World Unite Lucifer Youth Foundation」というバンド名は連帯のテーマを掲げるものでもあった。フロントのエラリー・ロバ―ツはフガジからザ・KLFにジジェクまでを敬愛しているようだが、そこには彼個人がDCハードコアの政治性やKLFのポップ・フィールドを舞台にした対社会規模のパフォーマンスへの憧れ、共感、そして現行の世界に別の秩序を期待する気持ちを見てとることができるだろう。成熟した思考や表現であったとは言いにくいが、彼らの音には理屈を従わせてしまうほど心に訴える強さがあった。

 バンドを離れたエラリーがそうしたモチベーションを失うことはなかったようだ。以前の彼らを突き動かしたのは10代の若さだったかもしれないが、いまそのエネルギーはひとりになることでより鋭利なものになっている。解散後、彼女であるエボニー・ホールンとともにはじめたこのユニット、ラーのデビュー・アルバム『スピリチュアル・ソングス・フォー・ラヴァーズ・トゥ・シング』にはそのことがよく表れている。プロデューサーに2010年代のインダストリアルやダーク・アンビエントの盛り上がりをビョークの『ヴァルニキュラ』にまでつなげたハクサン・クロークを迎えているところは、ラーの印象をウー・ライフから断ち切り、また、彼らがただのポップ・ユニットではないということを示すに十分だ。クラムス・カジノがサンプリングされ、ヤング・サグやスワンズにインスパイアされたという本作は、そもそものロックやハードコア的なスタイルを逃れることなく、ヒップホップからインダストリアル、果てはEDM的な表現にまで及んでいるけれども、いろんなスタイルをミックスしたというよりは、エラリーが彼にとっての理想や目的に向かって驀進する勢いにさまざまなものが巻き込まれてしまっているという呈をみせている。

 ひとまず今回彼らがテーマとしているものは「神話」──個々の宗教をこえたところで、人の歴史や真理をあらわすもの、というようなニュアンスのようだ──だが、思い浮かべるのは混沌としての神話の世界だ。しかしどんなに激しくさまざまなものが渦巻いていても、エラリーというひととその声や叫びがわれわれの心にもたらすものにブレはない。タイトルでことさら表現しなくとも彼の怒りはいつも愛であったということにわたしたちはあらためて気づかされるだろう。

■LUH / ラー
ユニット名は「Lost Under Heaven」の頭文字に由来。エラリー・ロバーツ(Ellery Roberts)とエボニー・ホールン(Ebony Hoorn)による二人組。エラリー・ロバーツは、元ウー・ライフのフロント・マン。ウー・ライフ末期の2012年に出会い、アムステルダムでともに生活をはじめる。2014年より音楽、アート、写真、フィルムなどの作品を次々と発表、ヴィジュアル面は、主としてエボニー・ホールンが担当している。2016年5月、プロデューサーにザ・ハクサン・クロークを起用したデビュー・アルバム『スピリチュアル・ソングス・フォー・ラヴァーズ・トゥ・シング』をリリース。

ボビー(ハクサン・クローク)との最終的な制作段階で最初に決めたことは、音像的意味での攻撃性にはいっさいの制限をしないこと、要するにそれは、音による懲らしめのようなものだった。

“$ORO”に圧倒されました。エレリーさんの中でR&B、ヒップホップ、ハードコア、インダストリアル、ボディ・ミュージックみたいなものまでが現代風にまとめられていますね。異形のEDMとも呼べそうです。この曲の着想について、それから、もしハクサン・クロークからのアイディアやアドヴァイスなどがあったら教えてください。

エラリー:“$0R0”は、もともとは2013年夏のバンコクで、ピアノで作った曲なんだ。その旅の間にスラヴォイ・ジジェクの『終焉の時代に生きる(原題:Living in the End Times)』を読んでいて、『イーザス』(カニエ・ウェスト)も出たばかりだったから、ある意味、“$0R0”はその二つを融合させたもの。書きたかったのは略奪的な資本主義者——彼らの狂気じみたロジック上では大目に見られ、品格があるとされるようなキャラクターだった。アムステルダムに戻る間に僕がトラックを作ったんだけど、フィリップ・グラス的なオーケストレーションを組み込んで、時代を象徴するような、漆黒に浮かぶクラブ美学のような曲を目指したんだ。
 ボビー(ハクサン・クローク)との最終的な制作段階で最初に決めたことは、音像的意味での攻撃性にはいっさいの制限をしないこと、要するにそれは、音による懲らしめのようなものだった。思うに彼がやってくれたのは、音をいろいろ洗練させてくれたのと、それまではブラシで大きくペイントされたような作品に繊細さをもたらしてくれたことだった。

“ラメント”ではクラムス・カジノがサンプリングされていますね。クラムス・カジノへの共感があるのですか? 彼の音楽や存在をどう思いますか?

エラリー:僕らは彼の音楽のファンで、ここ数年何回かコラボレーションできないかトライしてるんだけどまだ実現できてないんだ。彼にはおもしろいアプローチ、それに美学があると思ってる。

デス・グリップスは、ハードコアとヒップホップに政治的なスタンスを重ねる点では、エレリーさんの影響や理想とされるものに近いのかもしれませんが、彼らの活動スタイルは近づきがたいまでに挑戦的ですよね。彼らを「ポップ」だと思いますか?

エラリー:デス・グリップスはものすごくパワフル、それに文化的な逸材揃いで興味深く、メインストリームにも明らかな影響を及ぼしていくようなとても実験的なものに向かっている。ザック・ヒルは詩のような人生を過ごしていて、10代の頃からずっと大ファン。MC Rideとはちょっとだけど意味のある話をして、彼らの作品から見える力や進路に最大限のリスペクトを感じたよ。

ヤング・サグ、それにスワンズの『エンジェルズ・オブ・ライト』。その二つの間の「揺らぎ」、僕らはそのどこかに存在している。

クラムス・カジノ、デス・グリップス、ハクサン・クローク……あなたがインスパイアされるアーティストは、一見あなたの音楽性と距離があるようにも見えます。まず、あなたはあなたの音楽と彼らをどのように比較していますか? そして、彼らも三者三様だと言えますが、彼らの音楽に共通するものは何だと思いますか?

エラリー:カルチャーが寄せ集めのようになって相当な消費をされている中で、影響というものは無数に存在する。この想像を超えるような状況でLUHが出てきたんだ。同様にインスパイアされたのはヤング・サグ、それにスワンズの『エンジェルズ・オブ・ライト』。その二つの間の「揺らぎ」、僕らはそのどこかに存在している。僕が考える(彼らと僕らの)共通点は、時代背景との関係性で、2016年現在のカルチャーを反映しているということ。レトロフェチではなく、つねに前進的。

コペンハーゲンのシーンにシンパシーはありませんか(アイス・エイジ、ラスト・フォー・ユースなど)? また、ロック・バンドというフォームはロック先進国であった英国においてはまだまだ強い発信力を持っており、やるべきこともあると思いますか?

エラリー:そうだね、とくにマーチング・チャーチには持ってかれたね。シーンに直接つながってはいないけど彼らのコミュニティのセンスには憧れているし、彼らが取り上げている旧約聖書、聖ニコラウスも僕が何年もやろうとはしたけどちゃんとできてないものなんだ。

エラリーさんはフガジからの影響とともにKLFからの影響についても語っておられますね。これはとても興味深いです。このふたつをつなぐものは何だと思いますか?
また、KLFの精神を現代流に受け継ぐとしたら、どんなことをするべきだと思いますか?

エラリー:The KLFの政治性と詩性は、僕たちの生きている極度に見世物じみたこの世の中ではありえないものではなく、はっきりとしたもの。その規模たるや、彼らが活動できていた頃は、いまでは考えられないくらい音楽業界も裕福で、百万枚も作るような楽しさで成功することができた。ぼくがいま知っているアーティストは誰もがやり手で、彼らの政治性がどんなに懐疑的、破壊的であろうと関係なく、資本家の報酬のためにせっせと働いている。すべてはみな沈みゆく船の中だよ。

ジョーゼフ・キャンベルからの影響について教えてもらえますか? 

エラリー:僕らはバックミンスター・フラーとともにジョーゼフ・キャンベルのことも、若者を導きつづけるような豊富な知恵を述べる年長者の感覚で、語ってきた。彼らの考えは適切で、少なくとも彼らの世界と同じく僕らの世界でもそうなんだ。ジョーゼフ・キャンベルの荒地と旅の対話:至上の幸福に従うこと、それは私の人生の考え方に対する根源的な思いだ。

語ることのできるものすべてが神話。その理解を怠り、集中するための時間を欠けさせてしまっているから、僕らのポピュラー・カルチャーは浅くて文化的に不毛な方向へと向いてしまっているんだ。

現在のポップ・ミュージックには神話としての機能が残っていると思いますか?

エラリー:語ることのできるものすべてが神話であって、それは誇張されミステリアスなかたちで文書化されている。その理解を怠り、集中するための時間を欠けさせてしまっているから、僕らのポピュラー・カルチャーは浅くて文化的に不毛な方向へと向いてしまっているんだ。

今作のタイトル『スピリチュアル・ソングス・フォー・ラヴァーズ・トゥ・シング』の中の「スピリチュアル」とは、どういう意味合い、ニュアンスを持っているのでしょうか?

エラリー:僕の理解では、「spiritual」という言葉は、人間の潜在能力、それに物質世界との関係性というアイデアと一致している。経験した中では、科学的合理主義をはるかに超えた生命、その深淵さに気づいたことかな。

今作の“主人公”は誰ですか? 「I」や「We」とはあなたたち以外にどんな人のことでしょうか?

エラリー:思うに僕らのこの小さい星全体には、普遍的と感じられるものが一定数あって、もしかしたらこの星のどの街にも僕のストーリーや願望、感情をわかってくれようとする子が一人はいるかもしれない。それから、典型的な恋人たちの奔放さや、僕たちが出会った瞬間、僕とエボニーが作った独自の世界も……。LUHは僕たちが描いてきたものの一つの印なんだ。

思うに僕らのこの小さい星全体には、普遍的と感じられるものが一定数あって、もしかしたらこの星のどの街にも僕のストーリーや願望、感情をわかってくれようとする子が一人はいるかもしれない。

今回のアルバムでは録音のされ方自体にも何かコンセプトや意味があるように見えます。オセア島という場所について、またそこで集団生活を営んだ意図について教えてください。

エラリー:ボビーが、オセアは完璧に外界とは遮断したかたちで作業ができると提案してくれたんだ。僕とエボニーはそれまでにこのアルバムをいろんなデモから18ヶ月以上かけて練り上げてきていたから、それを仕上げるためにはさらに相当なエネルギーを費やして、すべての楽器やヴォーカルを2週間の強烈なセッションでレコーディングし直した。統一したアイデンティティを生み出しながら、幅広いレンジを持った野心溢れる作品になった。

ラヴ・ソングと呼ばれるものの中であなたが素晴らしいと思っているものを教えてください。

Stay With Me Till Dawn - Judy Tzuke

Never Let Go - Tom Waits

願わくば僕は年老いるまでには、友川カズキやカマロン・デ・ラ・イスラのように誇らしく放浪の身となって生きていきたい。

歌(歌唱/ヴォーカル・スタイル)という点で尊敬する存在、またはおもしろいと感じるひとは誰ですか?

エラリー:願わくば僕は年老いるまでには、友川カズキやカマロン・デ・ラ・イスラのように誇らしく放浪の身となって生きていきたい。生々しく素直な声が素晴らしいと思う。

あなたがたは自分たちの作品がパーソナルなレベルではなく、社会にとって何か作用を及ぼすものであってほしいと思うのでしょうか?
 そうだとすれば、このあと歌っていくべきテーマはどんなものであると考えますか?

エラリー:個人的なことは政治的というけど、僕は社会から生まれてきたから、その(社会の)病の数々も僕自身のもの。僕が書こうと目指してるのは自己変革への欲求を持った、それはすなわち社会変化への力につながるような曲。しかし、その(自己変革までの)旅は各々の個人がするものであって、リーダーとか崇拝対象となるような人物などは過去の危険な障害物でしかない。

いまあなた方から見て興味深い活動をしている存在について、ジャンルにこだわらず教えてください。

エラリー:
Anohni!
Dilly Dally!
Show Me The Body!
Jerusalem in My Heart…!
Ynobe Nrooh!

栗原康 - ele-king

 つい先日リリースされたばかりのビヨンセの新作を聴いていたら、「ベッキー」という単語が耳に飛び込んできて、年明けにこの国を騒がせたスキャンダルのことを思い出してしまった。件の騒動を性差別の観点から捉え、社会的な問題として報じたのは英『ガーディアン』紙だったけれど、恋愛の話題と社会の話題とがきれいに分断されてしまうこの国において、最近の彼女の振る舞いはどう受け止められるのだろうか。
 新作『レモネード』においてビヨンセは、男性社会への憤りと白人社会への怒りとを同時に露わにし、海の向こうで大旋風を巻き起こしている。彼女の新作が面白いのは、「素敵な髪のベッキーに電話したらいいじゃない」と夫であるジェイ・Zの不倫について言及した "Sorry" のような楽曲と、白人警官による黒人への暴力行為に対する異議およびブラック・ライヴズ・マターへの共感を示した "Formation" のような楽曲とが、同じ一つの流れの中に同居しているところだ。このことが示しているのは、恋愛や夫婦の問題も、政治や社会の問題も、それぞれが別個に切り離された全く無関係の独立物なのではなく、どちらも同じ地平の上に横たわっている ものなのだということである。
 それらに共通しているのは、端的に言って、わかりあうということの難しさだ。それは恋愛においては無論のこと、社会的な問題においても要因の一つとなっているように思われる。例えば、いわゆる体制側を擁護するつもりは毛頭ないけれど、白人警官が無抵抗の黒人を容赦なく射殺してしまう心理の一つに、「何をしでかすかわからない」という恐怖があるのではないだろうか。

 ここに紹介する栗原康は、新進気鋭のアナキズム研究者である。もうご存じの方も多いかもしれないが、2013年末に『大杉栄伝――永遠のアナキズム』(夜光社)を出版してからの彼の活躍は目覚ましい。とりわけ昨年は彼にとって飛躍の一年で、2月には『学生に賃金を』(新評論)を、4月には『はたらかないで、たらふく食べたい』(タバブックス)を、8月には『現代暴力論』(角川新書)を立て続けに刊行している。まさに飛ぶ鳥を落とす勢いだ。それらに続いて刊行されたのが、彼にとって6冊目の著作となる本書、『村に火をつけ、白痴になれ――伊藤野枝伝』(岩波書店)である。
 副題からもわかるように、本書は伊藤野枝という大正時代を駆け抜けた女性アナキストの伝記である。本書では、あるときは貞操を巡って、あるときは堕胎を巡って、またあるときは廃娼を巡って、その度に世間一般の道徳に囚われることなく各々のテーマが孕んでいる根本的な問題をあぶり出し、結婚という「奴隷根性」によって支えられた制度そのものを否定して、最終的には憲兵によって虐殺されてしまう一人の女性の生涯が、様々なエピソードを通して描き出されている(当時内務大臣だった後藤新平や、来日していた哲学者バートランド・ラッセルとの興味深い逸話もある)。
 こう書くと重くて堅苦しい本のように思われるかもしれないが、本書は決してとっつきにくい類の本ではない。例えば、一つ一つのエピソードに「チキショウ」だとか「かわいそうに」だとか「かましたれ」といった著者自身の心緒を表す言葉が挿入されており、その様はまるでスポーツ観戦をしているファンさながらだ。そのような著者の素直な感情表現が、読む者を深く伊藤野枝という一人の女性の人生へと引き込んでいく。
本書では様々な問題が提起されているけれども、その最大の見所は、野枝の恋愛論を「わからない」という観点から捉え返すくだりである。

 愛するふたりは、けっしてひとつになれやしない。どんなに好きでもとめあい、抱きあってセックスをしても、ふたりはぜったいにひとつになれやしない。なぜかというと、ふたりはまったくの別人であるからだ。そんなことをいったら、身もふたもないかもしれないが、いいかえれば、それは異なる個性をもったかけがえのない存在だということでもある。はじめから、相手がどこによろこびをおぼえるのかなんてわからない。自分の感性とはちがうのだ。でも、だからこそ、ひとは心身ともにめいっぱいふれあって、相手にたいしてやさしくしようとおもう。愛するひとに、もっと気持ちよくなってもらいたい。わからない、わからない、でも、でも、と。 〔本書124頁〕

 相手のことがわからないというのは恐怖である。相手のことがわからないがゆえに人は、恋人という契約の締結や、結婚という制度による保障や、家庭という集団の形成に逃げ込んでしまう。そして知らず知らずのうちに、自ら進んで集団の構成員としての役割を果たすようになってしまう。妻だからこうしなければならない、夫だからこうしなければならない、という風に(「警官だからこうしなければならない」というのもそのヴァリエイションの一つだろう)。著者はそれを「奴隷根性」と呼ぶ。それはまさしく資本家と労働者の関係であり、人が人ではなくモノとして扱われるような関係である、と。
 確かに、人と人とは決してわかりあえないのだろう。でも、だからと言って誰かと誰かが「主人と奴隷」のような関係に陥ってしまうのでは、そのどちらも、そしてそれを見ている方も息苦しくなるだけである。ではどうしたらいいのか。見返りや対価を前提とした人間関係とは異なる、有償性に基づかないような人と人との繋がりを作っていくしかない。本書には、そのためのヒントがたくさん散りばめられている。

 もちろん、伊藤野枝とビヨンセとは違う。野枝は今風に言えばビッチだし、ビヨンセはどちらかと言えば優等生だ。けれど彼女たちはどちらも、わかりあうということの困難を抱えながら、恋愛の問題にも社会の問題にも、全力で向き合っている。そういう意味で本書は、ビヨンセの新作に強く胸を打たれた人にこそ、ぜひ手に取ってもらいたい一冊である。


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