「Nothing」と一致するもの

Klara Lewis - ele-king

 彼女の名はクララ・ルイス。1993年生まれ。あのワイヤーのグラハム・ルイスを父とする若きサウンドアーティストである。2014年に〈エディションズ・メゴ〉からファースト・アルバム『Ett』をリリースし、同年、ペダー・マナーフェルトの自主レーベルからEP『Msuic』も発表した。2作とも融解した映画のサウンドトラックのような雰囲気を漂わし、いわば強烈な物語性というより、あらゆる記憶が溶け合った音響空間がじつに魅惑的な作品であった。明晰なグリッドから感覚的な曖昧へ。
 
 そう、彼女の音には、魅力的な「曖昧さ」があるのだ。感覚的な何か、といってもいい。グリッド状の支配から揺らぐ音へ。彼女のドローンは、リズムは、ノイズは、われわれの時間軸を揺らす。アンビエントにしてはビートがあるが、かといってリズムに支配されているわけでもない。環境音と環境音が編集され、それらは明確なリズムを作るまえに、変化を遂げていく。そう、いくつもの音の輪郭線が重なり、どんどん曖昧になるように。しかし、だからこそ音楽の存在感はいっそう強まるのだ。静寂のなか、遠くに聴こえる鼓動のように。もしくは闇夜の響く、微かな物音のように。そのサウンドを一聴し、父であるグラハム・ルイスとブルース・ギルバートによるドームのようだという方もいるだろう。たしかに。だが、ここには新世代ならではの音響感覚が横溢している。それは何か。ひとことでいえば音の「細やかさ」である。デジタル以降の微細なエディット感覚とでもいうべきか。幽玄にして微細。グリッドの格子状の時間支配から自由に逃れていくような繊細な感覚。いや、逃げ去っていく自由、とでもいうべきか。

 そのクララ・ルイス、2年ぶりの新作が〈エディションズ・メゴ〉からリリースされた。アルバム名は『トゥ』。あの傑作EP『Msuic』を経由したこの新作において、彼女は彼女の独創的なサウンドをより突き詰めている。断言しよう。これはかなりの傑作だ。〈エディションズ・メゴ〉傘下の〈スペクトラム・スプールス〉からリリースされたセカンド・ウーマン『セカンド・ウーマン』(こちらもポスト・マーク・フェルな超傑作!)、イヴ・ドゥ・メイの新譜、そして本体〈エディションズ・メゴ〉かクリスチャン・フェネスとジム・オルークのデュオ盤、ピタ『ゲット・イン』、コー『ミュージック・ヴォル』などなど本年大充実の〈エディションズ・メゴ〉界隈にあって、現在、もっとも注目すべき新世代のアルバムではないかと思う。ダークな不穏な物語性で補完されていったテン年代初頭的なインダストリアル/テクノも、快楽的なアンビエント/ドローンも、同時代的なポスト・インターネットも、クララ・ルイスの「明るくはないが暗くもない」浮遊する音響/時間感覚によって、(いったん)乗り越えられたのではないか、という大袈裟な断言も思わずしたくなるほどだ。じっさい、本作のサウンドテンマテリアルの選別は、これまで以上に厳選されている。環境音や音響のエディットにはまったく迷いがない。彼女が捕まえた音たちの存在感は、前作を軽く超えている。同時にすべてが曖昧になっていく感覚もやはり健在である。環境音、ノイズ、リズムのなどのサウンド・マテリアルは、反復と非反復の中で、暗闇の中の蝋燭の光のようにユラユラと揺らいでいくのだ。

 時間を逆行するような持続音とガソゴソとしたサウンドが、やがて霧の中の叫びのようなノイズに行きつく1曲め“ビュウ”から作品世界に惹きこまれてしまう。続く2曲め“ツウィスト”の乾いた鉄のような音の響き。そこに重なるドローンとリズムの細やかさ。タイトル曲である3曲め“トゥ”のインダストリーでありながら、過剰なダークさに行き着く手前で浮遊するようなコンポジションの見事さ。深海の中で聴く鼓動のようなリズムが響く4曲め“エルス”と5曲め“ウォント”の柔らかさ。霧のようなダーク・アンビエントが折り重なり、そこにシネマティックなヴォイスたちがレイヤーされ、かつて観た映画の記憶と溶け合うような6曲め“ビーミング”の幽玄さ。7曲め“ワンス”の朝霧のような清冽さ。鼓動のような4つ打ちのビートと淡い持続音が鳴り響く8曲め“トライ”と、さらに明確なビートが鳴り響くラスト9曲め“アス”の乾いた明るさ(とくに、アス”には一瞬、事故のような演出が仕組まれているので注目してほしい)。全9曲、全編にわたって融解した映画の音響に身を浸すような感覚がジワジワと展開していくのだ。曖昧で、幽玄で、細やかで、唐突で、慎ましく、しかし大胆に浮遊する淡い音空間。

 これだけ充実のアルバムながら、総収録時間は40分に満たない。昨今のアルバムにしては短い収録時間である。しかし聴いている間も、聴き終わった後も、時間感覚が揺らぎ、40分弱というクロノス時間が無化するような感覚が持続していくのだ。環境音とソフトなノイズが誘発する睡眠と覚醒のあいだ? われわれはこのアルバムを聴きはじめると、クララ・ルイスの作り出す時間の中を連れて行かれるのだ。まるでルイス・キャロルの小説のように、である……。そう、奇妙な夢の中へ……。

DUBKASM - ele-king

 ダブカズムのストライダとディジステップは、ブリストルを拠点に90年代からダブ/レゲエのシーンで活動してきた。世代的にはスミス&マイティの後輩、ピンチやペヴァラリストの先輩である。ストライダはセレクターとしてクラブやラジオで活躍。相棒のディジステップは楽曲のプロダクションを行うだけではなく、音楽学校で教鞭も握っているという。
 グッド・バランスなコンビネーションは、ダブステップ世代のプロデューサーたちにも影響を与え、その交流からも数々の名曲が生まれた。ストライダの海賊ラジオを聴いてルーツについて学んだブリストルの若手チーム、ゴーゴン・サウンドのEPを、ダブカズムがまるまる再構築した『ザ・ヴァージョンズ』や、ふたりが生み出したアンセム“ヴィクトリー!”のマーラによるリミックスは、シーンにおける近年の名作だ。
 ブリストルが素晴らしい音楽が生み続けるのは、もちろんそのユニークな環境も理由のひとつだろうけど、彼らのような、世代やスタイルを超えていけるセンスと姿勢を持ったミュージシャンたちによるところも大きい。今回お届けするインタヴューは、ブリストルにおけるダブ/レゲエやダブステップ黎明期の貴重な証言であるだけではなく、音楽と人との関わり方を再考させる言葉で溢れている。
 2016年の2月、ダブカズムのふたりは初の日本ツアーを行い、“ヴィクトリー!”は合唱を巻き起こした。以下の取材は、ツアーも終盤に差し掛かった相模原公演でのリハーサルをぬって行われた。

Dubkasm /ダブカズム
DJ StrydaとDigistepによるイギリス、ブリストルを拠点に活動するレゲエ/ダブのユニット。15才の頃に地元ブリストルで体験したJah Shakaのセッションで人生を変えられ、サウンドシステム文化に没入していく。以降、20年以上に渡りトラック制作/ライヴ&DJ/ラジオ番組などでシーンに関わり続けている。そのトラックはJah Shaka、Aba Shanti-Iらのセッションでも常連で、昨年リリースの「Victory」はここ日本でもアンセムと化している。09年に発表したアルバム『Tranform I』は高い評価を受け、全編を地元の盟友ダブステッパーたちがリミックスしたアルバムも大きな話題となった。最近ではMalaやPinch、Gorgon Soundらとの交流も盛んで、ダブをキーとした幅広いシーンから厚い信頼を獲得している。2016年2月、待望の初来日を果たした。


Photo Credit: Naoki E-jima

1993年に事件が起こる。レコード屋へ行ったら、壁にジャー・シャカのイベント告知のポスターが貼ってあって、そりゃ行くしかないと思って会場に直行した。あれが人生初のサウンドシステム体験で、いま自分たちがやっていることの素地となっているのは間違いない。

■:初来日、おめでとうございます。まずは簡単に自己紹介をお願いします。

ディジステップ(Digistep以下、D):僕はディジステップで、隣のストラライダと一緒にダブカズムというユニットをやっている。人生のほとんどを音楽のプロデュースに捧げてきた。それが今回の来日に繋がったんだから、すごく誇りに思うよ。

ストライダ(Stryda以下、S):俺はストライダって名前で、ダブカズムのふたりのうちひとりを担当。もうひとりはベン(ディジステップ)。いままで訪れたことがない国の知らない街で、自分の音楽をやれて、とてもエキサイティングだ。

■:現在、ふたりともイングランドのブリストルを拠点に活動されています。どんなきっかけで音楽を作るようになったんですか? 以前のインタヴューで、ジャー・シャカのギグから大きな影響を受けたとおしゃっていました。

S:たしかにあの夜は自分たちのインスピレーションになったのは間違いない。OK、時系列をもっとさかのぼってみよう。俺とベンの出会いはお互いが生まれる前だ。妊婦のママさんクラブみたいなのがあったんだけど、そこで俺たちの母親が妊娠中に出会っているんだよ。それでお互いが生まれてから数日で顔を合わせていたらしい(笑)。だから文字通り、俺たちは生まれたときから友だちなんだよね。それで後ほど、偶然にも同じ音楽を好きになって、90年代には一緒に地元ブリストルのレコード屋巡りをしていた。ベンは特にダブのLPを集めるのに夢中になっていて、俺はどっちかっていうと、ダブの7インチと12インチにハマってた。で、1993年に事件が起こる。レコード屋へ行ったら、壁にジャー・シャカのイベント告知のポスターが貼ってあって、そりゃ行くしかないと思って会場に直行した。あれが人生初のサウンドシステム体験で、いま自分たちがやっていることの素地となっているのは間違いない。

■:93年というと、ジャングルやドラムンベースも当時のイングランドで大きなムーヴメントになっていたと思います。ダブやレゲエと並行して、それらのシーンにも興味はありましたか?

S:もちろん。あの時代をブリストルで過ごせたっていうのはラッキーだったね。街の規模が大きいわけじゃないから、周りには異なる音楽のスペシャリストたちがたくさんいて、いろいろ学べた。それに91年にマッシブ・アタックが『ブルー・ラインズ』を出して大きな存在になったときに、地元からあんな音楽が出てきてすごく興奮していたんだ。
 ジャングルに出会ったときもよく覚えてるよ。ブリストルにも海賊ラジオがあって、特定の時間、特定の場所で電波をチューニングすれば、スピーカーから聴いたこともないアンダーグラウンド・ミュージックが流れてきていた。俺のお気に入りはルーツ系の番組だったけど、ラガの番組やジャングル、レイヴ系のものまであったからチェックしていた。もちろん、全部の番組がブリストルのDJによるものだ。ベン、やっぱあの環境は良かったよな?

D:間違いない。僕の場合はジャングルも聴いていたけど、もっと折衷的な音楽の聴き方をしていたね。もちろんダブはいつも自分のパッションの源だけど、幼いころから親父の故郷のブラジルの音楽にも慣れ親しんできた。ボサノヴァ、サンバ、ショリーニョ、ムジカ・ポプラール・ブラジレイラとかね。それと同時に音楽の技術的な側面にも興味があった。8歳ときに両親がヤマハのシンセサイザーDX11を買ってくれて、独学でプログラミングを勉強したよ。マニュアルには日本語も書いてあったのが印象的だったね(笑)。

■:当時、シンセサイザーを弾くことは一般的だったんですか?

D:必ずしもそうじゃなくて、ハイテクなものだって見なされていた。だから、自分をクリエイティヴな方向に導いてくれた両親には感謝しきれないね。ダブカズムの初期の曲にはDX11で作られたものもある。シンセをやっていたせいもあって、実験的な電子音楽も当時から聴いていて、エイフェックス・ツインももちろん通ったし、ザ・フューチャー・サウンド・オブ・ロンドンやオーブが大好きだった。そこで得た経験は、いまもプロダクションに欠かせないね。当時からテープレコーダーをタンスの上に乗せて録音してたよ(笑)。昔からダブも制作していて、作った曲をストライダに聴かせてフィードバックを貰うことも、そのときからの習慣だね。

■:お互いずっとご近所に住んでいたんですか?

S:いや、そんなわけでもないよ。学校もいつも同じだったわけじゃないし、お互い違った友人付き合いもあったけど、週末はほぼ一緒に音楽をやっていたって感じだ。

D:一緒に休日を過ごしたりね(笑)。

S:そうそう(笑)。ベンが言ったように、彼はかなり初期の頃からベーシックなダブ・トラックを作っていたんだけど、僕はそれを聴かせてもらっていた。まだ当時は曲を聴かせ合うフォーマットはカセットで、ウォークマンで歩きながらよく聴いていたな(笑)。もちろん会ったときに口頭で感想を伝えたりもしたけど、たまに手紙で意見を言ったりもした。「このベースがヤバい!」とかそんなことだったけどね(笑)。

D:スネイル・メール(注:ハガキなどの時間がかかる伝達手段)でそんなことを言っていた時代もあったね(笑)。

■:僕は若手のミュージシャンにインタヴューをすることが多いのですが、彼らの多くはスマホを使って、曲のやりとりは大体ネットを経由して行っています。少なくとも手紙を使って音楽のやり取りしたことがある人には会ったことがありません(笑)。当時はいまほどコンピュータも普及していたわけではなかったと思いますが、そのような環境を振り返ってみてどう思いますか?

S:まぁ、オールド・スタイルだったよね(笑)。90年代はコンピュータを取り入れたりはしていなかったから、プロダクションにそれなりの時間を要したけど、その分感じられる成果も大きかった。いまはテクノロジーが進歩して、プロダクションそのものだけではなくて、いま言ったように、それを取り巻く環境も大きく変わったのは事実だ。でも当時俺たちがやっていたことには、「効率の良さ」の一点には収まりきらないものがあると思うんだ。カセットに曲を焼いて、ラベルを貼って、誰かに送ること。それからサウンドシステムのイベントで、素晴らしいシンガーに実際に会って、デモテープを交換して、次のセッションに繋げること。時間はかかるけど、そうやって音楽だけじゃなくて、友だちのサークルもできていったわけだ。予想外の出会いも多かった気がするし、そうしてできた繋がりって長続きするもんなんだよ。

D: 90年代のエディット作業っていまとは比べものにならないくらい面倒なものだった。いまは音源がソフトになっているけど、前はひとつひとつのハード音源の使い方を覚えるところからはじめきゃいかなかったからね。一個一個の機材をつなげて、それに対応するMIDIのコントロール・ナンバーとパラメーターを割り振って……。それからいまみたいに、機材の動作を完璧にコントロールすることができなかったから、良い意味では偶然性が生まれたし、生のダブ・ミックスの醍醐味も大きかった。まぁ、逆に言えば機材の動作を記録するのが難しいってことなんだけどね。でもいまは、オートメーション機能を使えば、エフェクトのノブの細かい動きでさえも完璧に再現できて、操作がかなり簡略化されている。というか、昔の経験があったから簡単に見えるんだろうね。90年代にハードに慣れ親しんだことによって、いまみたいなデジタル機材が多い環境でも、機材の動きを把握できていることは間違いないし、コンピュータを併用しつつ、いかに偶発的なことをするかという姿勢も身に付いたのは間違いない。いまでもハードを使ってライヴ・ミックスができる環境は整えてあるからね。

■:さきほどおっしゃったブリストル・シーンの良い意味での狭さは、現在にも引き継がれていて、カーン&ニークといった若い世代のプロデューサーたちとも交流する機会が多いと思います。「デジタル・ネイティヴ」とも呼ばれる世代と話していてギャップを感じることはありませんか?

D:テクノロジーの面で言えば、ギャップを感じることは多々あるよ。僕はシーケンサーにアタリのSTeを使っているんだけど、これには文字通りシーケンサー機能しかついていないから、外部の音源と繋げる必要がある。でもいまって、シーケンサーとソフト・シンセが一緒になっているのが当たり前でしょ? だからそれについて説明すると驚かれたりするね(笑)。

S:でも次世代と繋がるのはかなり面白いよ。俺たちだって、ルーツのシーンでは若手だったけど、成長して先輩格のプレイヤーたちと交流や、彼らのリミックスの作業を通して、知識を増やしていったわけだ。そういう立場にいまの自分たちがいればいいんだけど(笑)。

D:真のミュージシャンやプロデューサーになるためには、常に新しいことに心を開いていなきゃいけない。それまでの経験の有無に限らずにね。じゃなきゃ、音楽的にも人間的にもフレッシュでいることなんてできないよね。だから若い世代にも謙虚に接するべきだと思う。

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大量のダブプレートを用いたマーラのプレイや、ポークスのMCを見ていて、完全にピンときたよ。「これは自分たちが携わってきたサウンドシステム・カルチャーの一部だ」ってね。

■:僕がダブカズムを知ったきっかけは、ダブステップのプロデューサーたちも参加していたリミックス・シリーズ、『Transform I – Remixed』でした。2000年代初期にダブステップが出てきたとき、あなたたちはどのように反応したのでしょうか?

S:たしか2004年から2009年の間、ベンはまだブラジルに住んでいたんだよな。俺はブリストルにいたから、ダブステップが現れた瞬間をしっかり目撃することができた。もともとプロデューサーのピンチとは友だちだったんだけど、彼に誘われてイベントによく行っていたよ。あれは彼のイベント、サブローデッドだったかな。とにかく小さいハコだったんだけど、マーラとサージェント・ポークスも出ていて、禁煙法が施工される前だったからクサを吸っているやつも多かった。そんなダークな空間で、大量のダブプレートを用いたマーラのプレイや、ポークスのMCを見ていて、完全にピンときたよ。「これは自分たちが携わってきたサウンドシステム・カルチャーの一部だ」ってね。ダブステップのサウンドは多様だから、レゲエと音楽的にまったく同じだとは言わないけど、文化的な意味ではレゲエ、そしてジャングルやドラムンベースの延長線上にあるのは間違いない。DJがいてMCがいて……、このスタイルはジャマイカに端を発するものだからね。それに、新しい音楽が生まれて、そこに若いやつらが踊りに来るのは、とても健全なことに思えた。
 2007年にはピンチといっしょにティーチングス・イン・ダブというイベントを同じハコでやるようにもなった。あれはブリストルのシーンにとってかなり重要なことだったと思う。あの当時はダブステップ目当てにクラブへ行く人が多かったんだけど、俺たちのイベントは2階構造になっていて、上の階はダブステップのフロアで、下ではレゲエのルーツサウンドが流れていた。多分あの試みは初めてだったんじゃないかな。サウンドシステム・カルチャーという括りのなかで、ダブステップのルーツを提示したわけだ。その現場に来ていたのが、カーンとニークだったりしたんだよね。


ティーチズ・イン・ダブのフライヤー。同クラブの別フロアではピンチ主催のイベント、サブローデッドが行われていた。

よく若い世代から、「ダブのBPMって何ですか?」って訊かれるんだけど、そんなものないよ(笑)。

D:音楽的には、低音を強調する点においてはレゲエやルーツに共通するよね。あえて違う部分を言えば、ダブステップのプロデューサーはテンポに縛られ過ぎているように思える。よく若い世代から、「ダブのBPMって何ですか?」って聞かれるんだけど、そんなものないよ(笑)。僕はブリストルにあるdBsミュージックという学校で音楽テクノロジーを教えていて、学生の多くはダブステップ的なアプローチをしてくるんだけど、彼らはジャンルのルーツであるダブに強い関心を示すんだ。僕はデジタル技術だけには収まらない方法、例えばミックスに外部の機材を使ったりするダブの手法を教えると、パソコンに慣れ親しんでいる学生たちでも、それを貪欲に吸収しようとする。ライヴだけではなくて、制作の現場でも次世代との繋がりできるのは嬉しいね。なかには「ダブプレートってどこでどうやったら切れるんですか?」って質問をしにくる学生もいて、デジタル時代のなかでもダブの手法は残ることは可能だって実感した。

S:90年代のブリストルにおけるジャングル・シーンについて補足すれば、ジャングルにダブやレゲエの影響を見ることはできたけど、その逆はほとんどなかったと思う。さっき言ったようなティーチングス・イン・ダブみたいなイベントもなかったからね。当時は各シーンがいまよりも分離していて、その状況を変えようという意味でも、俺たちはそれとは逆のベクトルへ進んで積極的に異なるものをミックスしようとしたわけだ。

■:いまよりもシーンに隔たりがあったのは驚きでした。では、ダブステップが現れる前は、おふたりはレゲエやダブのイベントにだけ出演していたんですか?

S:最初の頃はベンといっしょにプレイすることはあんまりなかったんだよね。ベンは勉強のためにロンドンに住んでいたし、そのあとにはブラジルにしばらく引っ越していたからさ。だからふたりで頻繁にツアーをするようになったのは、2009年以降なんだ。だから2000年代の最初の頃は、俺はストライダ名義でダブのセッションに出ることが多かったよ。それから当時はブレイクビーツのシーンもあったりして、そういうイベントでプレイしていた。

■:最初にふたりでやったライヴを覚えていますか?

D:初めてのショーは、僕の通っていた大学でのライヴだったよね? 98年頃のことだ。ストライダはその頃、僕に会いにロンドンによく来ていてね。会場は大学の学生バーだった。誰もダブのセッションがはじまるなんて予想していなかったな(笑)。シンセやサイレン装置をバーのテーブルの上に設置して、サムはテープを準備していた。

S:そうそう(笑)。それでロンドンから帰ってきてから、俺はそのライヴの録音をブリストルの海賊ラジオで流したんだ(笑)。それを聴いたヤツからは「お前はロンドンを完全に自分たちのモノにしてるな!」って言われたくらい、その録音はヴァイブスを捉えていた。たぶん、あれが学生バーでのライヴだったってことは気づかれなかったんじゃないかな(笑)。

■:そのときはいまと全く同じスタイルでライヴをやっていたんですか?

S:俺は曲を流してベンがサックスを吹いていたから、いまとあんまり変わらないよ。

D:その時もさっき話したヤマハのDXを使っていたね。


大学で行われたライヴのフライヤー。当時はダブチャズム名義で活動していた。本人たちのフェイスブック・ページより。

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(海賊ラジオは)イリーガルな行為だから、アンテナやレコードを常に隠していなきゃいけないし、おまけに放送場所も変えなきゃいけない。でもそこまでして、アンダーグラウンドな音楽が流れるプラットフォームを作る価値はあったね。

■:DJに合わせてサックスを吹くというアイディアはどう生まれたのでしょうか?

S:俺はもともとストライダとして、レゲエのセレクターをやっていたから、マイクを使うことには慣れていた。厳密なミックスをするわけではないから自分のことはDJとは呼べないかな(笑)。このスタイルでライヴをするのは、かなり自然な成り行きだった。
ベンはサックスだけじゃなくて、ギターを入れたり、エフェクトを使ったり、当時からいろいろやっていたよ。でもライヴでそのスタイルになったのは、かなり自然なものだった。それから俺たちの名前がダブカズムなように、ダブ、つまり7インチで言うならB面のヴォーカルが入っていない曲にフォーカスをしているから、ベンがメロディを作る余地があることも大きいかもしれないな。

■:ディジステップさんは自身のプレイにおいて、即興性をどのように表現していますか?

D:メインのメロディを別にすれば、すべて即興だね。僕は昔から耳コピを通して音楽を習得してきた。幼い頃はお母さんが弾くピアノを聴いて、メロディを作る練習をしていてね。だから流れている曲のキーに対して、自分で要素を付け足すのは早いうちから習慣化されているんだ。いまでもその延長線上でサムとセッションをしている。

S:90年代にロンドンの伝説的なダブ・セッション、ブリクストン・レックに出たことがあってね。そのオペレーターであるアバ・シャンティアイ(Aba Shanti-I)のセットにベンはサックスで参加していた。ものすごく凶暴なサウンドシステムであるにも関わらず、ベンはちゃんとキーを拾ってプレイできていたんだよ(笑)。ハードなダブに合わせてスウィートに吹けるのが、彼の素晴らしいところだと思う。

D:シャンティアイのバンドでもプレイすることがあったんだけど、ものすごい体験だったよ。正しいフィーリングで吹くにはどうするのか、どう即興するのか、プレイ中何を聴くべきなのか、とても勉強になった。レゲエのプレイではかなり具体的なイントネーションが求められるからね。

■:ストライダさんは地元のブリストルをベースにしたラジオ番組『サファラーズ・チョイス・ショー』でも活躍されています。

S:『サファラーズ・チョイス・ショー』は1996年に、ラガFMっていうところから放送を開始して、それからパッションFM、サブFMに移動して、いまはオンラインで聴ける。ブリストルという街でラジオを長く続けるにはどうすればいいのかって考えながら続けているよ。

■:海賊ラジオもやっていたということは、放送に必要なアンテナなども持っていたんですか?

S:もちろん! あれはエキサイティングな体験だったよ(笑)。イリーガルな行為だから、アンテナやレコードを常に隠していなきゃいけないからさ。おまけに放送場所も変えなきゃいけない。でもそこまでして、アンダーグラウンドな音楽が流れるプラットフォームを作る価値はあったね。そのリスナーがカーンだったりして、彼はダブやレゲエについて勉強になったと言っていた。次の世代に音楽を伝える役割も果たしていたわけだ。いまでは世界規模で配信ができるわけだけど、ローカルにおいても海賊ラジオの存在は重要だと思う。でも『サファラーズ・チョイス・ショー』がオンラインで聴けるようになって、俺のリスナーが増えたことは間違いないし、それはすごいことだ。ブリストルと世界が繋がったってことでもあるからね。

■:2013年にリリースされた“ヴィクトリー!”は、今回の来日公演でもオーディエンスの合唱が起きていたように、大きなヒットとなりました。2015年にはマーラによるリミックスも話題になりましたが、どのような経緯で彼のリミックスを出すことになったんですか?

S:ベルギーでショーをしたときに、マーラと偶然出くわしたことがあってね。同じユーロ・スターに乗っていた。俺たちダブカズムはベルギーへ向かっていて、彼は自宅のあるブリュッセルに帰る途中だった(笑)。その前にもクラブで話したことがあったんだけど、そのときは音が大きかったらちゃんと話すことができなかったから、初めて真剣にいろいろ話すことができたんだ。それですごく共感してね。俺もマーラも子供がいるから、音楽の話もしたけど、主に子育てについて語り合っていたよ(笑)。そういう友人関係からスタートして、いっしょにセッションをするようになった。“ヴィクトリー!”のリミックスを誰かに依頼しようと考えていたんだけど、マーラは理想的な人物だった。レゲエのバックグラウンドもあるし、俺は個人的に彼をダブステステップのジャー・シャカだと思っている。それでリミックスを依頼した。マーラがリミックスするのはすごくレアだから、上手くいかないかもって思ったりもしたんだけど、依頼していたら1年後に曲がフルで送られてきて、嬉しかったね。マーラに限らず、リミックスで再解釈されるっていうのは面白い体験なんだけどさ。彼のレーベル〈ディープ・メディ〉のファミリーたちともパーティで知り合えて、とてもエキサイティングな関係だよ。

Victory - Dubkasm (Mala Remix)

■:それでは最後に、日本のオーディエンスにコメントをお願いします。

D:日本の文化や出会ったものにすごく愛着を感じている。訪れた場所と、そこで活動するミュージシャンたちも素晴らしくて尊敬しているよ。これなでいろんな場所を回ってきたけれど、日本はそのなかでもかなりユニークだね。自分たちのツアーに関わってくれた人々、とくにBS0のクルーに感謝したい。こんなマジカル・キングダムに呼んでくれてありがとう(笑)。

S:好きな音楽を追っている人々の姿は、いつも俺にインスピレーションを与えてくれる。俺たちはブリストルで育ったから、あの街で起きていることはいたって自然なことなんだけど、日本に来てみたら、俺たちの活動やブリストルのシーンはすごく固有なんだって気づかされた。自分たちのやってきたことを、こういう形で共有することができて大変嬉しいね。『おでんくん』から日本の家族まで、体験した文化すべてが素晴らしかった(笑)。これから先、何年もこの体験を思い出すことになると思う。ありがとう!

取材協力:BS0

KANDYTOWN - ele-king

 1,2,3,4、5,6……、いったい何人いやがるんだ!? 世田谷の喜多見を拠点に結成されたヒップホップ・クルー、キャンディタウン。16名の大所帯。ラッパー、DJ、ビートメイカー、フィルムディレクターいろいろ担当が分かれている。今年に入ってアルバム『Soul Long』を発表したIO(https://www.ele-king.net/interviews/004976/)もメンバーのひとり。
 キャンディタウンは、20年ぶりのブーム(?)と言われるヒップホップ・シーンに登場した、最高にクールな注目株。彼らはついにメジャーのワーナーと契約した。
 キャンディタウンの良さは、まずはスタイリッシュであること。内面を掘り下げるのでもなければ、格差社会を背景にもしていない。とにかく、音楽で格好付けてるヤツら。それがゆえに反発もあるだろうし、しかしそれがゆえに共感もあるのだ。さて、いったいどんなアルバムになのだろうか……(リリース日などの情報は、彼らのホームページで発表されることになっている)
 紙エレキングのVOL.18では、アルバムにも関わり、クルーとは保育園/小学校からの仲であるオカモトレイジ(OKAMOTO'S)と気鋭のライター、泉智によるキャンディタウンをめぐる対談があるので、そちらもどうぞお楽しみに!


【LIVE/EVENT INFORMATION】
イベント名:新宿LOFT 40TH ANNIVERSARY FES「東京STREET 2016」
日程:2016年7月29日(金)
時間:OPEN 18:00 / START 19:00 / CLOSE 5:00
会場:東京都 新宿LOFT
出演者:ATOM ON SPHERE / BAD HOP / Creepy Nuts(R-指定&DJ松永)/ FINAL FRASH / KANDYTOWN /
smorgas / THE冠 / 電波少女 / 餓鬼レンジャー / ラッパ我リヤ / and more

https://kandytownlife.com/

【KANDYTOWN プロフィール】
東京の街を生きる幼馴染たち、総勢16名のヒップホップ・クルー。
2014年 free mixtape「KOLD TAPE」
2015年 street album「BLAKK MOTEL」「Kruise」
2016年 ワーナーミュージック・ジャパンより1stアルバムをリリース予定。


Various Artists - ele-king

 わたしたちはどこから来たのだろう? アメリカの音楽家たちが繰り返し実践してきたその問いが、いまこそ切実な問題として立ちあがっている。オバマの8年間でアメリカはもっとも二分したとも言われているが、なにもオバマの政治のせいだけではないだろう。オーランドーで発生した最悪の銃乱射事件がすぐに政治的な議論にスライドしているように、非常事態はいま目の前にあって、だがそれすらも分断された立場からのステートメントとして利用される。わたしたちはどこから来たのだろう……理念はどこにあるのだろう。ケンドリック・ラマーとビヨンセはアフリカを向き、ボブ・ディランはフランク・シナトラの時代の「スタンダード」をさらに探究する。そしてインディ・ロックのコミュニティはここで、60年代の西海岸との繋がりを思い出そうとする。

 2009年に発表されたエイズ・チャリティを目的とする『ダーク・ワズ・ザ・ナイト』は当時のUSインディ・ロック・シーンの充実を示したランドマーク的なコンピレーションだったが、本作はその続編であり、そしてザ・グレイトフル・デッドのトリビュート・アルバムである。キュレーターは引き続きザ・ナショナルのサウンド面を担当するアーロンとブライスのデスナー兄弟だ。完成までにおよそ4年の時間がかけられたという本作は、全59曲、CDにして5枚組、全部通して聴けば6時間近くかかるという正真正銘のエピックだ。ザ・ウォー・オン・ドラッグスからはじまるように基本的には現在のインディ・ロック・シーンを中心としており、ザ・フレーミング・リップスやボニー“プリンス”ビリー、ウィルコ、ビル・キャラハンといったベテランからジム・ジェイムス(マイ・モーニング・ジャケット)、ジャスティン・ヴァーノン(ボン・イヴェール)、グリズリー・ベアといった中堅どころ、コートニー・バーネットやパフューム・ジーニアス、リアル・エステイト、アンノウン・モータル・オーケストラなどなどイキのいい新世代が参加している。だがそれだけでなく、現在のトレンドのひとつでもあるクラシック勢としてはyミュージックはアノーニとやっているし、タル・ナショナルのようにアフロ・ポップもあればラテンもジャズもパンクもあり、なんとティム・ヘッカーまでいる。いずれにせよ書き切れないのでラインアップはHPを参照していただきたいが、いまもUS(インディ・ロック・)シーンに音楽的な充実があるのだと証明するような気迫が感じられる。

 HPには、これは「隠された宝」なのだと説明されている。隠された……僕は『ダーク・ワズ・ザ・ナイト』のアメリカーナ解釈のほかにもボブ・ディランのトリビュート・アルバムにしてトッド・ヘインズの映画『アイム・ノット・ゼア』のサウンドトラックでもあるコンピレーションを連想したが、しかしディランのような絶対的な存在と比べるとたしかにデッドはどこかで忘れられかけた存在だったのかもしれない。歴史的にカウンター・カルチャーはたしかに瓦解したし、そんななかでも熱心な信奉者が多く存在するがゆえにこそ、一時はアンクールなものとしてみなされることもあったろう。その意味では本作では批評性もありつつ、同時にデッドに対する――まず何よりもその音楽に対しての――素朴な愛と尊敬がある。僕などは聴いていて単純に「こんなに名曲揃いだったんだな」とあらためて感心したし、基調はレイドバックしたロック・サウンドなのでいまの気分ともフィットする。ブルーグラス・シンガーの大物、ブルース・ホーンビィとジャスティン・ヴァーノンのデュエットはほとんどボン・イヴェールを聴いている感覚に近いし、ティム・ヘッカーはほとんどオリジナル曲のようで笑えてくる。59曲というボリュームも逆に言えばどこから聴いてもいいし、自分でプレイリストとして編集できるということでもあり、まさに聴き手に能動的な発見を促すものとなっている。

 だから大前提として音楽的な批評と挑戦が本コンピレーションの目的だが、それでもなぜザ・グレイトフル・デッドなのかは一考の余地があるだろう。サイケデリック・カルチャーのアイコンとして手放しで礼賛しているようではないし、なにせ60アーティストも参加しているのだからそれぞれで思想や政治的立場は異なるはずだ。だが、それでも……聴いているとヒッピー・カルチャーの匂い、ないしはLSDの幻覚をどこかで錯覚するような気分になってくる。たとえばピッチフォークは、ミュージック・コンクレートの要素やカウンター・カルチャーの再考という面から21世紀初頭のフリー・フォークとの連続性を指摘している。社会からの逸脱、コミューン、ドラッグとジャム・セッション、スピリチュアリズム……その60年代の夢が、本当に過去のものになったのかを本作は問いかける。参加したアーティスト自身に、そして聴き手に。そして『ダーク・ワズ・ザ・ナイト』がそうであったように、このコンピレーション自体がいまのアメリカにおけるひとつの緩やかなコミュニティとして存在しているのだ。立場も出自も異なる者たちが、それでも集える「夢」はまだ存在するのか、と。ゆえに非常にアメリカ的なイシューが内包されたものではあるが、日本の片隅で聴いていてもその「夢」を想像させる力が宿っている。

 デッドのメンバーであるボブ・ウィアーはウィルコとザ・ナショナルといった本作を代表する人気バンドとライヴ・テイクで共演しており、そこでは頬が思わず緩んでしまいそうな大らかな演奏が繰り広げられる。過酷な時代からただ逃避するためのサイケデリアではなく、いま一度同じ場所に集まるためのロック・ミュージック、その遺産がそこでは鳴らされている……そして愛が。現代のインディ・ロックの理想主義はなにもバーニー・サンダースの集会にのみあるわけではない……音楽のなかにこそあるのだと、この豊かな6時間からは伝わってくる。

〈WWW X〉とは? - ele-king

 渋谷スペイン坂のあたりをよく行き来している人ならすでにおや、と思っているかもしれないが、インディ・ロックからエクスペリメンタルなエレクトロニック・ミュージックまで、角度のついたイベントを多数発信してきたライヴハウス〈WWW〉が、2号店をオープンする。こけら落としはceroのワンマンから。国内の優れたアーティストたちの名の間には、フローティング・ポインツからザキール・フセインまで顔をのぞかせる個性的なラインナップ。神聖かまってちゃんにはじまり、2010年以降の音楽の「いま」をとらえつづけてきた同所の、次の展開に期待が集まる。

HOBOBRAZIL(bonobo) - ele-king

最近の家聞き10選

 S.L.A.C.K.の音楽に出会ったのは、震災が起きた2011年。僕は受験に失敗して浪人していた。当時、僕は何かできることはないかと思い、いろいろ試してみたが、ボランティアとして福島に行っても、自分の無力を痛感するだけだったし、熱心にニュースをチェックしても、気分が落ちるだけで、変哲のない日常が溶け落ちていくのを目の当たりにしながら、鬱屈としていた。そんなとき、S.L.A.C.K.は僕を惹きつけ、救いあげてくれたように思う。それから僕は彼に心酔してしまい、今までその仕事を追いかけてきた。

 S.L.A.C.K.の音楽は第一に、音として素晴らしい。そして本人も、歌詞よりも音として聴いてほしいと複数のインタビューで答えている。だから、本当ならまず音について書くべきだろう。しかし、S.L.A.C.K.の魅力は単純な音の世界にはとどまらない。彼の歌詞やスタイルの中には、現代を生き抜くためのヒントや哲学が散りばめられているのだ。今回からの数回は、S.L.A.C.K.と5lack(現在はこちらの名義)を、僕がどうやって楽しんできたのかを様々な面から紹介していくが、第一回目はまず、S.L.A.C.K.の歌詞の世界を見て、どのような思想があり、僕が何に共感したのかをとりあげてみたい。(以下、歌詞は全て筆者の書きとりによるものなので、間違っていたらごめんなさい)


 出し抜けにこう言おう。S.L.A.C.K.の特異性は、徹底的な「緩さ」にある。S.L.A.C.K.はいままで聴いてきたどの日本語ラップとも異なり、ワルであることや、社会派であることを売りにはしておらず、なんでもない日々、言ってしまえば僕とあまり変わりのない普通の日常について、等身大でラップしていた。この音楽は文脈依存的になりがちな日本語ラップのコンテクストから、音の面でも、リリックの面でも、完全に切断されていたのだ。

 ファースト・アルバム『My Space』を聴いてみよう。ラップの中でS.L.A.C.K.は「普通の生活して楽しくできればいいと思うんだよ」と繰り返し、「スタバのスタッフの娘に恋をしたり」、「車でドンキまで散歩したり」、音楽を作ったり、SK8したり、夜中に友達とクラブに出かけたりといった、都会の普通の日常を全て肯定的に歌い上げている。世の中のしくみに「くそみてえだ」と唾を吐きかけつつも、「ネガティブは確かにstupidだろ?」と問いかけ、くだらないもの全てを嘲るようにして、口癖である「適当」を言い放つ。何もかも新しく感じ、こんな人がでてきたのかと思った。何よりも、この「緩さ」が自分の生活や気持ちにぴったりフィットしたのだ。

 この「緩さ」はなんだろう。ただのだらしない意味での緩さでないことは確かだ。S.L.A.C.K.は押し付けらがちなこの島の「現実」を、自分のものとしてブリコラージュし、生を肯定的に楽しもうとしている。少し長くなるが、今度はPSG「いいんじゃない」のS.L.A.C.K.のヴァースとフックを引用しよう。

 How many people? 少しはいるのかな? 今のその現状に満足してる奴 / Repeatする昔話はもう嫌 / 「なんでもいいけど、それでいいんじゃね?」なんて / きっとプラスに思ってたら未来は / 荒んだ闇 でたようなlineが / あいつのネガティヴに巻き込まれるな お前はお前さほらもっと上もっと上(元へ元へ) / 冴えない不安は慣れないだけさmy men / ぼーっとすればまたあったかくなるなんて / すました顔して自然でいればまた 時は知らぬ間 流れて離れ / AプランBプランいろいろあるけど思いついたなら行動 怖がらず行けよ / 明日の命はあるようで無いよ いつ死んでも後悔は無いと言えたなら


  クソみてえだけどそれでいいんじゃね それで それで
よくわかんないけど別にいんじゃね なんて 流して話
/うざったい都合忘れな なんとかなるってTo the top クソみてえだなんてすましていれば 先へ 先へ

 そう。ここにあるのは徹底的な緩さからくるタフネスだ。確かに現実を見渡せばクソなことはたくさんある。しかし、そんな周りのネガティヴなものに巻き込まれている暇はない。「うざったい都合」は忘れて、自分なりのトップを目指して、「先へ先へ」と進んでいく。

 なるほど確かに、この「緩さ」は日常を肯定的に生きていくタフネスをもたらすことがわかった。しかし、まだこれだけでは、S.L.A.C.K.の「緩さ」が「どこから来ているのか?」はわからない。だからもう一度、「そのタフな「緩さ」は何に由来するのか?」と、問わねばならない。

 その際にヒントになるのは、S.L.A.C.K.のラップ・スタイルだろう。脱力感とダウナーな調子に満ちた、「緩い」、彼のラップから受けとれるのは、表面的にはポジティヴな歌詞の内容とは対極的なネガティヴィティだ。S.L.A.C.K.はポジティヴではない。少なくとも、能天気なバカが不安を抱かないという意味でのポジティヴでは。むしろ、よれたビートに乗るS.L.A.C.K.のラップは、オフビートでリズムを刻み、不安定によれたまま転がり続けていく。

 このネガティヴな調子に乗って聴いていくと、S.L.A.C.K.の歌詞に通底するテーマが見えてくる。その一つが「死」だ。矢継ぎ早にいくつか引用する。

 いつも想う / 死ぬ前にきっと、もっと行けたなんて想うんじゃないか / 毎晩泣くようなネガティヴ 辛いLove / 笑ってるのも悪くないはず (S.L.A.C.K.『我時想う愛』「いつも想う」)

 「本番」ってただのかっこつけじゃなく死が訪れることを理解してるか?(5lack 『情』「気がつけばステージの上」)

 Move your body それすらもできなくなるのかな? / こんなとこで迷ってる暇はもうとうにない(BudaMunk『The Corner』「But I know」)

 また、先に引用した「いいんじゃない」でも、「明日の命はあるようでないよ / いつ死んでも後悔はないと言えたなら」とラップしている。そう、S.L.A.C.K.の「緩さ」はこの「死」のネガティヴィティの「ネガ」としてある。限りないように見える普通の日常もいつかは必ず溶け落ち、終わりがきて、ひとは死ぬ。この変哲のない日々には限界があるのだ。だったらその現実の中で、やれることをやっていくしかないし、ネガディヴでいても時間の無駄だ。もし今の現状に満足がいかず、「くそみてえだ」と、気持ちが落ちても、「すました顔して自然でいればまた」、時間が解決してくれるだろう。どうせ死ぬのなら、いま絶望していても仕方がないし、「こんなとこで迷ってる暇はもうとうにない」。僕らは「いつ死んでも後悔はないと言え」るように生きていくべきなのだ。

 これこそ、ネガティヴィティの先にある本物のポジティヴィティであり、諦めの諦めであり、絶望そのものの絶望であり、どんなに曲げられても決して折れることはない「緩いタフネス」なのだ。ここからさらに、S.L.A.C.K.の「適当」にある二面性、「緩さ」と混在する「真面目さ」が見えてくるが、その話は次回に譲ろう。

 “S.L.A.C.K.”、「緩さ」を意味する名を持つこのラッパーは、コインの裏表のように、彼が肯定的に歌い上げる普通の日常の裏側に、その日常の終わりを告げる死が待っていることを理解している。その上で、それでもなお、そしてだからこそ、この「くそみてえ」な現実の中で、緩く、タフに生き延びようと、自分に似た誰かにメッセージを飛ばしている。そこに愛以外の何があるだろうか。

 2011年3月13日、あの震災の2日後という驚異的な早さで配信されたこの曲のリリックで締めくくりとしたい。

We need love / But this is way / これがreal マジありえねえ / Yo 明日はMonday 命あるだけありがてぇ

  What's good 眠るハニーの隣 / 夢でみたよな現実 サイレンがなり / 押し寄せる津波 押し寄せる現実 / 夜が来るたびまた振り返る経験 / なあマジ、くらうな、もう無理か / よく考えな、こんな毎日のはずさ / 鎖が外れたら不安がおとずれた / 目の前かすれ、またLoveが溢れだす / I want wxxd beer もうどうにもならないような日 / 死ぬ前の感覚に、つかの間の涙 / Yellow Power気づきな、魂うずきだす / なあまだまだイケるぜMen / ネガティヴに奪われるなよ、お前のlife / お前のプランの続きを見してみ、何はともあれお前は生きている / 今一人なら、時間あるから / 普段しないこと考えてみな /あ、笑えてきた 先があるから / 人間としての本能割る腹 / 赤の他人も気付きな / 忘れてるなら彼女にキスしな / 終わりじゃない、これからが始まり / 愛すべき家族、仲間、日本の血 (「But This is Way」)

追悼・蜷川幸雄(後編) - ele-king

 前半では、おもに、蜷川幸雄さんと歌手としてのわたしについて書いた。後編では、女優として、蜷川さんの現場に立ったときの、思い出と感じたことを書こうと思う。そしてその後のことも。

  蜷川さんが、チェーホフの「三人姉妹」の、三女イリーナの役を、とオファーをしてくれたときは、天にも昇る気持ちであった。まさか、というか。メインキャ ストだったし、わたしにも、京子やアイドルの方のような華があるのかと、恐る恐るだが思えたし。そのときは、まだ緊張というものはなかった。劇場は今はなきセゾン劇場で、小劇場で演劇をやっていたわたしには、大きく感じた。それくらいのキャパの劇場は、歌手としてなら、幾らもあったが、マイクを使わない、 というのは全く違う。そして、ふと思った。
 蜷川さんは、大きな賭けをなさったんだ、と。わたしを大きな舞台で使う、という(経験でいうと、子役のときに新橋演舞場で出たことがあっただけであった)。しっかり応えなければ、と心で深く思った。
 だが、結論から言えば、うまくできなかったのだ。リアリティーを追求すれば、後ろまで、きっちり通るでかい声が出ない。でかい声を出せば、リアリティーに欠ける。よくある葛藤である。
 しかし、蜷川さんは、決してわたしに
「もっと大きな声で」と注意はしなかった。それどころか、当時、蜷川さんが『鳩よ!』で連載していた対談の連載に、わたしを呼んでくれて、そこでわたしの演技を
「本来の演劇の文法からははずれているけど、僕はあなたの演技を、全面的に肯定しているよ」
とまで言ってくださった。本当に嬉しかった。
 と、いうのも、やはり、現場に入ると緊張感が半端なかったからだ。リアリティーを優先してしまって、大きな声が出ないことも、自覚していたし。

  蜷川さんに、わたしは、一度も怒鳴られることはなかった。わたしが信頼している舞台演出家のうちの別のおひとかたも、怖いとか怒鳴るとかで有名だが、おふたかたとも、怒らないでくれたのは、わたしが無駄に緊張して萎縮し、のびのび演技ができなくなってしまうから、という理由もあるのでは、と思っている。必ずしも、愛され、かわれてる役者ほど、怒鳴られるとは、限らないと思う。
 ちなみに、信じている演出家を具体的に誰、というのではなく、こうしてぼかすことも、人間としての蜷川さんから影響を受けたことなのだ。「インタビュアーに、また一緒に仕事をしたいと思う役者をあげてください、といわれても 僕は答えないことにしている。そこに入ってない役者さんは嫌な想いをするだろうから」とおっしゃっていたのが印象的で、そういう細やかな配慮を、わたしもしなくちゃな、と人間として尊敬し、学んだからだ。

 舞台稽古の初日のことである。わたしは、ベテランの役者さんたちと顔を合わせたことだけで、プレッシャーを感じ、顔合わせが終わってから何気なくリハーサルのすみで壁に向かって、しゃがんでいた(わたしは、気をぬくと、よくしゃがむ癖があった)。蜷川さんは、わたしのところにきてくれて、寝釈迦のように横になった。そして、個人的に話をしてくれた。お芝居の稽古に入ると、それまでと違い、わたしに対して敬語じゃなくなって、それも、よそよそしくなくて、嬉しかった。そして、
「僕はね、戸川さんに、緊張して怖がっちゃうのでなく、逆に、このリハーサルスタジオに来るのが楽しみになってもらいたいんだよね」笑顔の寝釈迦の状態で、そう言ってくれて、わたしはすごく、リラックスできた気がした。

 しかし稽古が始まると、勿論、そういう訳にはいかなかった。なにしろ蜷川幸雄の現場である。

 蜷川さんは、セットの模型を触りながら、
「こうして こうして」
 と、カーテンだらけのセットのカーテンがどれもフワーッと内側に向かって風に揺らいでいる説明をキャストとスタッフにした。まるで、少年のように、わくわくしながら、という感じであった。本当に、本当に、お芝居を作るのが楽しくてしかたない、という風に。アイディアを語っているときの蜷川さんは、目がキラキラしていた。それから、一番後ろの暖炉のセットの上のほうに、誰かはよくわからないくらいのあまり目立たない程度の大きさの、三人の姉妹の亡くなったお父さまのモノクロ写真を立派な額に入れて飾っておくのだが、それが新劇の父、スタニスラフスキーの肖像写真なんだ、過去の人だからね! といたずらそうにニコニコと嬉しそうに言った。
 そして、よりいっそう目を輝かせて、蜷川さんは言った。
「セゾン劇場には、舞台と客席の間に、防火シャッターがあるんだ。」
 長女役の有馬稲子さんの、この劇の、最後のセリフ
「100年後、きっとこういうことで苦しむ人はいない世界になっているはず、そう信じましょう!」といったふうなセリフのあと、いや、100年経っても現代の世の中はこのお芝居と変わっていやしない、この話は古典ではなく現代にも通じる、この三人姉妹が抱いた100年後への希望は打ち砕かれるのだ、という現実の残酷さを表現する為に、すごい音を立てる防火シャッターを降ろしてピシャン! と閉めたいんだ、と、いう。
「だけど、今のところ、目的が防火以外には使えない、というんだよ、頑固だよなー、俺はそこをなんとかするつもりなんだよ!」と続けた。そんな情熱的な蜷川さんを見るのは、皆、好きだったと思う。

 お芝居は、全部で四幕あった。最初のシーンは、わたしが演じる三女イリーナの、今の日本でいう誕生日のような日に、次々と人がお祝いにやってくる、という設定になっていて、それが登場人物紹介、にもなっていたのだと、わたしでなくても解釈できたことだろう。
 ひとしきり登場人物の紹介シーンが終わると、わたしは 、わたしの叔父のような、椅子に座っているひとの、膝にもたれてセリフを言った。およそ100年くらい前の、貴族の娘が、労働に対して、夢を抱くセリフだ。このセリフは、学校以外、ほとんど家から出ることの許されなかった若い頃の自分にそっくり重ねることができる、大好きなセリフだった。叔父さんのひざにもたれて、うっとりと夢を語るわたしに、蜷川さんは、それならいっそ、ステージぎりぎり前まで、叔父さんの手をとって、走って連れてきて座らせてイリーナも座って、セリフ言って! と、蜷川さんが言うのでそうしたら、うっとりと語ったそのセリフが、すごく強調される形になった。セリフが、より立ったのだった。それはかなり度胸のいることだったが、その経験から、その後わたしは、すごく勇気が鍛えられて、「三人姉妹」内でも、他の演劇でも、大胆に演技ができるようになった。
 ところで、わたしの演技だが、わたしにはプランがあった。どんどん、いろいろな経験をして、四幕には大人に成長するイリーナを、演技の質を変えることで、それを表現したい、と思ったのだ。だから、一幕での演技は、大根というか、学芸会のそれ、のような感じに、あえて演った。通る声はしっかり出ていたはずだが、明るいだけの世間知らずの役に、一幕は徹したから、だからますます地もそんな薄っぺらいのではと、ベテランの共演者の方々は、不安に思われたことだろう。

 しかし、蜷川さんは、じっくり見てくれていた。我慢強く見てくれていた。二幕、三幕、四幕、と演技の種類を大人にしていくのを、見ていてくれた。その証拠に、日にちが経ち、四幕まで一通りリハーサルをやったわたしたちに、じゃ、一幕をもう一度、と言って演らせたとき、わたしの演技がケロヨン芝居(子供用の演技を、わたしはこう呼んでいる。ただし、ケロヨン芝居をさせてもらったのは、この一幕のときと、自分で演出して見せてくれと言われた一人芝居の一部だけだと思う)に急に戻ってしまったから、誰かが、やりにくいというようなことを言った。そのとき、蜷川さんは、
「戸川さんは、幕ごとに、演技の質を変えてるからね、許してね」
 と、その人に言ってくれた。
 わかってくれてるんだ! と感激したのを、はっきり憶えている。
 他にもある。三幕で、近所で火事があって、なにしろ貴族の屋敷だから、一階を、家を焼かれた人たちの、避難場所のようにする、という設定の、二階のわたしたちのシーンで、初めてそこを演ったとき、
「もうだめ、もうだめよ!」
 と、わたしの、イリーナの、おさえていたものが、噴出して、崩れていくところで、少し下を向いてカッと見開いたわたしの目から、ぼたぼたーっと涙が、椅子に座っている膝に落ちた。わたしは本来、 涙が出にくい体質なのだ。幼い頃、泣くことを嫌う厳しい父に、泣くと泣きやむまでひっぱたかれた、という教育のせいもあった。だが、そのシーンになると、気持ちが入ってぼとぼと涙がとまらず、さらに、頭がおかしくなってしまった風になって、それまでは「モスクワに行きたい」と言っていたのに、実際はそこのセリフが「モスクワになんて行けないわ!」で、わたしは、そのセリフをゲラゲラ笑いながら吐き捨てるように言った。そのときは、激しい絶望感に襲われ、夢なんか見ていた自らを嘲笑したくなるほど興奮を抑えられない、という意識だったのを憶えている。

 わたしは、しかし、慣れが怖かったから、このシーンはあまり、稽古をしたくないのだけども、と、実はこっそり思いもした。すると、蜷川さんは、皆の前で
「僕はね、このシーンはあまり稽古したくないんだ。慣れて欲しくないから」と、言った。

 思ってることが、まるで同じ、と思うことが、このことを含め、恐れ多いが、沢山あったから、ある意味充実した稽古だったが、わたしの神経は、かなりボロボロだった。
 精神がおかしくなってしまう演技だったのだから。
 新劇のエリートであった次女役の、佐藤オリエさんが、まるで違うタイプのわたしに、実のお姉さんのように、やさしく
「私、あなたのお芝居本当に大好きなんだけど、今のままじゃ、身体を壊してしまうわ、気をつけて。自分を大事にしてあげてね」
 と、涙を浮かべてまで、言ってくれた。有馬さんもそうだった。
 わたしは実生活では二人姉妹の長女だったが、そのときは
「ありがとう、お姉さん!!」
 と、二人もやさしい姉に恵まれた妹になった実感がわいてしまい、胸と目頭が熱く熱くなった。

 話が、わたしの役者として、になってしまっているが、お許しいただきたい。追悼文に相応しくもっと蜷川さんの話を、と思われる方が多いかもしれないが、蜷川さんの現場は、そういう、自分との戦いであったということを記しておきたいのだ。蜷川さんに怒鳴られない、というのは、それほど熾烈に自分を追い込まなければならないことだったのではと今、思い返すからだ。

 さらに、最後のほう、わたしの婚約者が決闘で撃たれて死んだ、ときかされたシーンで、わたしは役に入り過ぎ、本当に一瞬、失神してしまったのだ。有馬さんとオリエさんに抱きかかえられて、床には倒れないで済んだけれど、気がついたとき、「わたしは誰。ここはどこ」の状態だった。蜷川さんは、演劇だから、なにもそこまで、と、どっかいっちゃっても、必ず帰ってきて、と言った。でも、本当に笑顔だった。
 そのシーンは、かなり最後のほうで、有馬さん、オリエさん、わたし、で前へ出て、有馬さんの、100年後に希望を託すセリフで劇は終わるのだが、ある日、セゾン劇場の親会社の巨大企業、×武の、株主の方の奥様方だったと思うが、五人ほどが見学に来ていて、×武社員さんの方もその奥様方を前のほうに椅子を並べて、奥様方と一緒に観ていた。
 蜷川さんは、有馬さんの最後のセリフが終わると、すごいことを言った。ほぼ、奥様方と×武の社員さんの方に向かって、
「×武に良心があるなら、ここで防火シャッターが降りる!」と、大きな声で言ったのだ。
 残念ながら、本番ではとうとう防火シャッターを降ろすことは叶わなかったが。
 しかしわたしは、あのときの蜷川さんは、結構な年齢でも、反逆児だったんだと思った。自分の演出の為なら、大企業に牙をむく反逆児なのだ、と。
 あの、ナイフの青年に、伝えたい。蜷川さんは、アングラの魂の火を消したわけではなかったのだ、と。

 わたし自身、いまアングラ(とは、70年代の言葉のような気がする)、というより、まあほとんど同じ意味なのだけど、略さずアンダーグラウンド、に身を置いているのだろうなと思うが、アンダーグラウンドに身を置いているという重みや誇りみたいなものは、蜷川さんのようには、これといって別にない。世代の違いかもしれないが。蜷川さんは、オーバーグラウンド、メジャーの世界に身を置いて、しかし重いアングラの魂も本当は持ち続けていたのではと思う。そして、ときおりその魂から、その決して消えない火をゴーッと吐いていた気がする。と、いうより蜷川さん自身が、ひとつの大きな炎ではなかったか、という想いだ。
 わたしのことを、よく他の共演者の方々に
「こういう人は、日本じゃあまり見ないけど、外国にはいるの! けっこういるんですよ?メジャーとマイナーの両方で活動してる人は」
 と弁護してくれていた。
 蜷川さんが、わたしに、ちょっと違った良いあたりをしてくれたのは、わたしは半分アングラ、と思ってくれたからではなかったのでは、と思うのだ。

 しかし、あるとき、わたしはあの涙をぼたぼたーっと流していたシーンを、あれは特には涙を流す、とか、頭がおかしくなったように、などとはト書きにあったわけではなかったし、一度だけ新劇のように演じてみようと思い、やってみた。声は気持ち良いほど大きく出た。涙は流れなかった。演劇然、としたものだった と思う。これで良いなら、精神的にまだラクだし、それに声は張れるし、どうなのだろう、蜷川さんの意見がききたい、と思った。わたしがその芝居を始めるや否や、蜷川さんは、ストップをかけて、バーッと説得をしてくれたけど、つまりは元に戻してくれ、という内容だった。
 帰り、わたしが着替えたあと、蜷川さんはわたしのところに来てくれて、戸川さんのあの演技が好きだから、どうかやめないで欲しい、と言ってくれてから、小声で、
「実はね、僕は、お客さんには悪いけど、客席の半分かそれ以上、客席に戸川さんの声が届かなくても、もういい、と思ってるんだ。それくらい、あの芝居を演って欲しいんだ」
 と言ってくれた。
 役者を怒鳴るときは、大抵、
「お前は、志しが低いんだよ!!」
 が口癖だった演出家が、半分かそれ以上、客席に声が届かなくてもいい、と言ってくれたのだ。狭い劇場のアングラなら、問題なかったろう。蜷川さんは、わたしに最終的にそれをやらせることにすれば、他の共演者の方々の演技の質とは食い違い、統制がとれなくなることも承知だったはずだ。わたしに関してだけは、 アングラの魂で接してくれたのかもしれない。

 ただ、わたしが蜷川さんの現場に呼ばれることは、もうないんだな、と思うこともあった。
 対談のとき、わたしの演技を褒めてくれた蜷川さんだったが、紙面上には載らなかったことで、インタビュアーの方が、蜷川さんに
「戸川さんとお仕事なさって、じゃあ、安心なさったんですね?」
 ときいたときだ。蜷川さんは、
「安心じゃないよー! こんな危ない人使うのは怖いよー。ショックで失神しちゃうんだぜ?!」
 と答えた。すごく笑いながらではあったけど、わたしが蜷川さんの立場だったら、確かに不安だったと思う。こりごりだったろう。しかも、声は通らないし、という問題もあったと思う。
 だから、わたしは、そのときこの「三人姉妹」を、蜷川さんとご一緒できる最初で最後の機会、と思い(失神しない程度に)誠心誠意頑張ろう、と思った。

 だけど、「三人姉妹」は、批評家の間で、失敗作のように書かれた、と蜷川さんのところの若い出演者の人からきいた。わたしに関しては、やはり、声が小さい、と書かれていたという。まあ、わたしのことは、むべなるかな、という感じであったが、蜷川さんには、やはり、申し訳なかった、と思った。その若い出演者の方は
「王女メディアのときは、ゲテモノ、って書かれたんだよ?! 批評家なんて、だから気にすることはないよ!」
 と言っていたが、「王女メディア」は、写真しか見たことがなかったが、化粧や衣装が前衛的だったわけだし、今回とは違う、と思った。出演者の声が小さい、というのは、演劇の基本中の基本のダメ出しだから、なんだか責任を感じたりもしたのだ。
 他に、尺が長い、という批判もあったそうだ。それに関しては、何も感じてはいない。
「ペールギュント」のとき、全体の尺が長くなり、途中休憩も挟むことになって、全体で4時間以上になったとき、蜷川さんも悩んだ、という。これは京子からきいたのだが、ジャニーズの、出演者の方々が、
「気にすることなんて何もないじゃないですか! 帰りたいやつは帰らせたらいいんですよ!!」と言ったという。
 だから、わたしも、尺に関しては、普通に、帰りたい人は帰ればよいのでは、とも思ったのだ。

  こうして、「三人姉妹」は千秋楽を終え、打ち上げでは、蜷川さんのおかげで、有馬さんやオリエさんだけでなく、ベテランの出演者の方々から、若い人たちまで、みなさん、わたしにすごく暖かかった。最高齢の90歳を超えてらしたとても厳しい雰囲気の浜村純さんまでが、やさしい言葉をかけてくださった。わたしにとって、忘れられない経験になった。

 その後、しばらくして、わたしは、アンダーグラウンドの世界で生きることになってから、小劇場の形で、シェークスピアの「真夏の夜の夢」のブロークン版を、蜷川さんが演出して、京子も出演したとき、これも京子からきいた話だが、ヘレナという、可憐な、かわいそうな乙女の役に、わたしを起用したい、と最初は思ったそうだ。
 京子は気の強い、ヘレナとは対照的な役であった。それを姉妹でやったら、おもしろいのでは、と思ったという。
 しかしやはり、現実の姉妹でバチバチさせるのは気がひける、と途中でやっぱりやめたんだってー、と京子が言ってくれた。
 ここにも蜷川さんの、繊細さを見てとることができると思う。わたしが思うに、あそこまで超がつくほど大胆な人が、ここまで繊細な意識を持つ、ということは、それはそれは大変なエネルギーが必要だったはずなのだ。普通、どちらかでも大変で、精神的にまいってしまうものだと思うのに。世界のニナガワと呼ばれた、グローバルな視野を持ちいろいろな国で認められている演出家が、ほんの、たった二人の姉妹の間のことに思慮深く慎重にあたる、それほど振り幅の大きな、感性とエネルギー。蜷川さんの偉大さは、そういうところにも裏打ちされていたのでは、と思うのだ。

 そして、小劇場の規模なら、わたしの演技の、リアリティー重視による声の小ささでも、成立する、と思ってくれたのかな、とわたしは、その話だけでも嬉しかった。
 そのお芝居にも、他のお芝居にも、蜷川さんは、お客として招待してくれた。行くと、いつも変わらず、気さくに、やさしく接してくれた。

 それから、蜷川さんが文化勲章を授与された記念のパーティに、わたしはまた招待していただいた。そのときは、現在のように怪我のあとで、後遺症で腰を痛め、3分もシルバーカーなしでは立っていられない身体に、わたしはなっていて、運動ができないので太ってしまっていたから、蜷川さんに会うのが恥ずかしかったけど、寿ぎの席だから、会場に向かった。当然、本当に沢山の有名な役者さんが来ていた。身体を悪くして、役者なんて、途方もないリハビリをもっとして治さなければできない状態のわたしのところにきてくれて、蜷川さんは、やっぱり、やさしい声をかけてくださった。有名な、テレビや映画でも、かなり見るメジャーな世界で現役バリバリの人たちの中で、わたしは何者か自分でもわからなくなってしまうほど浮いていたはずなのに、とまた感動した。何故、こんなに、と不思議ですらあった。

 そして、あの「サワコの朝」を見た。
「諦念プシガンガ」の話ではなかった。蜷川さんは「パンク蛹化の女」も、気に入ってくださっていて、僕も戸川さんみたいにパンク精神で、なんて語る70代の方は、蜷川さんをおいて他にいないだろう。

 曲が番組で紹介されたとき、CDが、娘さんの蜷川実花さんの、
『蛹化の女~蜷川実花セレクション』
のジャケットだったから、蜷川実花さんからの流れで、知っていただいたのかもしれない。だから、あらためて、蜷川実花さんにも、心からお礼を言いたい。

 それから、一昨年の
「冬眠する熊に、添い寝してごらん」
というお芝居でも、蜷川さんはわたしの曲を使ってくれた。

 だから、油断していたのだ。

 そして、突然訃報を受けた。
 大きな大きな喪失感であった。大きな大きな人が逝ったというだけでなく、わたしの中で、これからはひとりで歩いていかなきゃいけないんだぞ、という、大きな大きな意識が、いきなり生じた。それほどの支えが、蜷川さんによって与えられていたんだ、と初めて知った気がした。

 ご葬儀に、わたしにも勿論、参列したいという気持ちはすごくあった。が、わたしのような者は、マスコミの前に出ると必ず、あの人は今、という扱いで、テレビには出ないところで、ゴシップをとりあげる雑誌とかに、そういう内容でマイクとカメラを向けられるのだ。決して自意識過剰というわけでなく、今のある程度の年齢の方以下の歳の人は、それ誰? 知らない、と言うと思うのだが、事務所にそういう取材のオファーが実際今でもあるので、わたしはマスコミの方々のいるところには出れない。ましてや、怪我の後遺症でシルバーカーでとか、太ってしまってとか、なんだか不幸そうな見た目をしていると、ますます、そういう人たちをひきつけてしまう。
 だから、わたしはそれを避けたくて、ご葬儀の朝、マネージャーに頼んで青山葬儀場に弔電を打ってもらい、喪服を着て、薄化粧をして、ふくさに入れた香典袋と数珠を持参し、お昼ちょうどに始まるご葬儀に合わせ、タクシーで葬儀場の近くまで行き、降りて遠くからでも、一瞬だけでも、手を合わせることだけはしたいと思ったが、ガードマンの方々が厳しくどこにも止められなかったのでタクシーの中から、ご葬儀が行われてるほうに向かって手を合わせた。それから、郵便局に寄り、薄墨で弔問文を書いた手紙を添えて、蜷川さんの事務所に喪主の、蜷川さんの奥様宛に香典袋を現金書留で出した。そして帰ってきて、家のたたきで、用意しておいた粗塩を頭からパラバラとかけた。
 それで、参列したこととかえさせていただいた。
 だけど、実際に参列したわけではないので当然のごとく、蜷川さんが亡くなったという実感が、まだはっきりしなかった。
 後日、蜷川さんの事務所の方から、丁寧なお返事をいただいた。わたしの知り合いが、わたしが葬儀場の近くで手を合わせたことを伝えてくれていた。言っていただけたら、マスコミの目に触れないご用意をしましたのに、とのことだった。蜷川家の方々にも感謝の念がたえない。この場をお借りして、蜷川さんの関係者の皆さま方にお礼を申し上げたい。

 それから、参列した知人から、ご葬儀で純ちゃんの「蛹化の女」が流れていたよ、と知らせてもらった。わたしは、それをきいて、やっと自分も参列できたような気持ちになれた。蜷川さんは亡くなったんだ、という実感もやっとわいた。
 そして、蜷川さんは最期の最期まで、わたしの歌を使ってくれたんだ、という想いが、ぐうーっと込み上げて来て、今にも泣きそうになった。

 蜷川幸雄という、ひとつの大きな炎は、めらめらとときには太陽のように燃えて、いろいろな役者を照らし、輝かせた。同時に、その炎に焼かれそうになり、役者も燃え尽きないほどに燃え戦い、結果、多くの役者が成長した。
 だから、蜷川さんの、巨星らしさとは、太陽のそれだったのだと思う。
 そして、演出家・蜷川幸雄の生き方は、それ自体が長く、しかしそれでも凝縮された濃さの、ひとつのドラマティックなドラマ、演劇のようであった、とわたしは思うのだ。
 蜷川さんの激しさは、太陽のそれ、わたしはしばらく、太陽を失った闇の中から出られないだろう。それでも、蜷川さんに、今、役者ができない身体なら、歌ってください! と言われてる気がして、精一杯、今は歌を続けなければ! それがたとえ闇の中であっても、蜷川さんに分けていただいた炎をわたしもめらめらと燃やして、それが一番のわたしなりの供養なのでは、と思う。
 蜷川幸雄という巨星と出逢えたことで、わたしの人生は幸運でした。ありがとうございます!
合掌。

(文中一部敬称略)


戸川純 ライヴ情報

7/8 新宿ロフト(ワンマン)

Danny Brown - ele-king

 デトロイトといえば何よりも先ずテクノだが、もちろんそれだけではない。かの地はエミネムやJ・ディラを筆頭に、多くのヒップホップのタレントを送り出してきた土地でもある。ミックステープとして発表された2011年の『XXX』や2013年の『Old』が各方面から高く評価されたダニー・ブラウンもまた、デトロイト出身のMCである。
 風変わりなルックスと個性的なラップが特徴的なこの異端児(何しろデヴィッド・バーンを「レジェンド」と呼ぶ男である)は、これまでエル・Pやバスドライヴァー、バッドバッドノットグッドのアルバムに参加したり、つい最近ではアヴァランチーズの16年ぶりの新曲 "Frankie Sinatra" にMFドゥームとともに客演したりするなど、様々なコラボレーションをおこなってきた。
昨日、そのダニー・ブラウンがUKの名門レーベル〈Warp〉とサインを交わしたことが発表された。同時に、配信でリリースされたニュー・シングルのMVも公開されている。



 2012~13年頃から台頭してきたチャンス・ザ・ラッパーやミッキー・ブランコ、リーフといった新世代MCの存在や、近年勢いを増しているインターネット上のミックステープ文化は、いまのUSインディ・ヒップホップの盛り上がりを象徴しているが、今回の契約はそのようなシーンの充実に対する〈Warp〉なりの目配りと言っていいだろう。いつも少し遅いが、ポイントは外さない。それが〈Warp〉のやり方である。
 因みに、ダニー・ブラウンの2013年作『Old』にはラスティが参加しており、またラスティの2014年作『Green Language』にはダニー・ブラウンが参加していたので、今回の契約はおそらくラスティの仲介によるものなのではないかと思われる。
続報に注目である。

Skepta - ele-king

もうジャージを脱ぐ必要はない

 『コンニチワ』は、ロンドンから生まれたグライムというやり方で世界にチャレンジしたアルバムだ。
 メリディアン・クルー、ロール・ディープを経て、2006年に自身のクルー/レーベルである〈ボーイ・ベター・ノウ〉を創設し、これまでに同レーベルから『グレイテスト・ヒッツ』、『マイクロフォン・チャンピオン』そしてメジャー・レーベルから『ドゥーイン’イット・アゲイン』と、3枚のフル・アルバムをリリースしてきたスケプタ。しかし、近年彼の名前と「グライム」自体を世界的に知らしめたのは、2014年にリリースされたシングル「ザッツ・ノット・ミー」だ。 また、2015年にはモボ・アウォーズでカニエ・ウェストと共演、2016年の初めにはニューヨーク現代美術館モーマ PS1でのパフォーマンス、ドレイクが〈ボーイ・ベター・ノウ〉と契約するなど、海を超えアメリカ、そしてアートやファッション界からも注目を集めた。そんななか、2016年5月、1年の発売延期を経てようやくリリースされたのが、フル・アルバム『コンニチワ』だ。

 このアルバムには、ロンドンの不良らしく、反抗的で暴力的、そしてユーモアと力強いストリートのグライムがある。しかし、グライムをメインストリームでリリースするという一見に単純に見える行為は、それほど難しいことだったのだろうか?
 これまで、アンダーグラウンドのグライムをメインストリームに持ち込むことは、MCにとってひとつのチャレンジだった。ディジー・ラスカル やワイリーはメジャー・レーベルと契約しメインストリームに挑戦してきたが、キャリア的に成功したとは言い難い。その後、彼らは「パーティ・チューン」を出してヒットを狙い、ストリートの物語を捨てて「アメリカのセレブのように」気取らなければならなかった。ポップ・カルチャーにおける「グライムらしさ」はナイフ、ギャング、喧嘩のイメージを内包しており、それらは大衆向けには「脱臭」すべきものだったからだ。スケプタの『ドゥーイン’イット・アゲイン』も、いま聴き返せばダブステップの流行りに乗ったポップスのようである。

 しかし、今作ではスケプタはインディペンデントでの制作を貫き、いい意味で仲間とやりたいようにやっている。スポーツ量販店のJD スポーツで売られているような、ロンドン郊外の不良たちが着るジャージのセットアップ。それに身を包むスケプタは象徴的だ。

 Yeah, I used to wear Gucci
 I put it all in the bin cause that's not me
 確かに俺は昔はグッチ着てたけど
 それは俺らしくないからもうゴミ箱に捨てちゃったよ (Sekepta - That’s Not Me)

 リリックは粗さや怒りに満ちている。“クライム・リディム”では、警察やストリートのいざこざのストーリーをラップし、「It Ain’t Safe = 安全じゃない」というラインはスケプタの地元トッテナムのイメージと重なる。2011年に起こったイギリスの暴動がトッテナムからはじまったように、そこは「警察にとってすら安全じゃない」場所だ、と。

 リリックの外側にも注目すべきだ。リードトラックの“マン”のMVは、グライム黎明期から発売されているドキュメンタリーを手掛けてきた、リスキー・ローズ(Risky Roadz)が撮影。その荒削りな映像は2000年代のグライム・ビデオのスタイルを継承し、これまでのMCが「脱臭」してしまった要素を全て飲み込み、音は粗く、ギャングの「遊び」はヴィデオの隅々に浮かび上がっている。


Skepta - Man

 ミュージック・ヴィデオの内容も、彼の警察への反抗的な態度の表明である。“シャットダウン”のMVが撮影されたのは、スケプタの弟JMEの出演が警察によって中止されたイベントが開催される予定だったバービカン・センターであり、ショーディッチの駐車場では無許可でレイブを行った。このようなリリックの外側における、よりローカルな文脈でのアクションが、スケプタのアティチュードのリアルさを裏付けている。


Skepta - Shutdown

 『コンニチワ』が「ストリートらしさ」を失わなかったことには、彼ら自身のホーム〈ボーイ・ベター・ノウ〉からのリリースである点も関係しているだろう。メジャー・レーベルと契約せずともインディペンデントで莫大なセールスをあげる、それ自体が凄いことだ。それを支えるのは、同じくインディペンデントな海賊ラジオ、YouTubeチャンネル、グライムをプッシュしてきた無数の音楽メディアたちであり、そこでローカル・スターは日夜生まれていて、ノヴェリストやチップといった次世代のMCたちが今作の客演陣にはクレジットされている。

 サウンド面では、“ザッツ・ノット・ミー”ほど、クラシックなグライムのエッセンスを感じられなかった。USを意識した“ナンバー feat. ファレル・ウィリアムズ”にはリリックにもサウンドにもそれがない。また一貫したストーリーがアルバムになかったためか、どこかシングルの寄せ集めのような印象を抱いた。しかし、いくつかの曲にはシングル・カットにふさわしいパンチラインがある。
 彼はジャージを脱がずに、ジャージをクールに魅せた。初週全英チャート2位という功績によって、「自分たちのやり方でやればいい」と世界に証明したのだ。

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