「Nothing」と一致するもの

The Birthday × THA BLUE HERB - ele-king

 さる8月24日恵比寿リキッドルームにて、The Birthday×THA BLUE HERBのライヴが開催された。リキッドルーム12周年を祝うスペシャルイベント、もちろんソールドアウトだ。
 この日は奇しくもTHA BLUE HERBの2015年12月30日リキッドルームでのワンマンの模様を収めたDVD『ラッパーの一分』のリリース日でもあった。偶然なのだが、リキッドルームでのTHA BLUE HERBのライヴは、この12月30日以来。年末足を運べなかった身としては、おのずとテンションが高まるというものだ。対バンはThe Birthday。90年代後半、ミッシェルとブルー・ハーブを並行して聴いていた身の上としては、この並びが既にミラクルである。
 この夜、先陣を切ったのはTHA BLUE HERB。
「2月から今も毎週ずっとライヴをやっているんだけど、例えば深夜のクラブと、この日(12月30日)のリキッドルームくらいの時間のライブハウスでは、攻め方も違うし、お客も違う。それ以外にフェスも入ってくるからね。それだってヒップホップのフィーリングがわかる人たちのフェスと、まったく違うフィーリングのフェスがある。真っ昼間と真夜中でも、室内と室外でも違う。それが毎週金土とか、常に待ったなしに来る。その都度MCもどんどん変化していくし、曲順もちょっと変えるだけで全然世界が変わる。だから一夜一夜がすごい大事な仕事だよね。12月30日のリキッドルームに関して言えば、チケットがソールドアウト、『IN THE NAME OF HIPHOP』リリース・ツアーのワンマン・ファイナル……いろんな条件が重ならないと商品にはならないし、そういう意味では、この夜のライヴは作品にするにはマッチしていた。ただライヴ自体に関しては今の方が良くなっている部分もあるよ」
 これは、『ラッパーの一分』のリリース・インタヴューのILL-BOSSTINOの言葉だ。ナマで12月30日のライヴを観ていない以上比べようもないし、もちろん比べる必要はないのだが、それでも8ヵ月ぶりのリキッドルームでのこのライヴは、ここでILL-BOSSTINOが言う意味を実感できる精度の高いものだった。
 70分のタイトな構成で(「ラッパーの一分」はフル尺ノーカットで2時間40分)、後半の「The Birthday」の名をMCの随所に織り込みながら、THA BLUE HERBならではの言葉をフロアに残していく。言うまでもなくTHA BLUE HERBは生半可なグループではないし百戦錬磨だ。フロアからも絶え間なく「ボス!」という熱い声が上がる(「そりゃそうでしょ」と思うだろうか? はっきり言ってどアウェイである)。そのフロアで印象的だったのは、絶対多数のThe Birthdayを観に来たであろうオーディエンス(皆The BirthdayのTシャツを着ているのだ)が身体を揺らしながら、リリックに聴き入っている様子だった。

自信がない奴ほど争う。 あらそう 横目で見ながら続けるマラソン“I PAY BACK”

 ILL-BOSSTINOはライヴ中のMCで「一言でも耳に残ればいい」というようなことを言っていたのだが、筆者に残ったのはHIMUKIのビートによる、このリリックだった。緊張感が張りつめたフロア、ILL-BOSSTINOの言葉に必要な沈黙が厳かに守られている。それを乱すものはフロアにはいない。音楽にルールなどない。だが、真のミュージック・ジャンキーにはミュージック・ジャンキーのマナーがある。さすがにTHA BLUE HERBとThe Birthdayクラスのライヴともなると、ジャンルやスタイルの違いなど意味を持たない。そんな当たり前のことを改めて思わされた。

                *****

 そして、The Birthday。黒づくめの4人組。首にバンダナを巻いたチバユウスケが、ノーブルなドーベルマンのような雰囲気でステージに入ってくる。クハラカズユキの超硬質なドラム、弦楽器と言うより打楽器のようなヒライハルキのベース。そして、前作『I’M JUST A DOG』から加入し、最新作『BLOOD AND LOVE CIRCUS』でいよいよ本領を発揮した感のあるフジイケンジのギターと、フロントマン・チバユウスケのボーカル&セミアコが渾然一体の轟音となってフロアを沸かせる。もっと言えば、沸かせるなんてものではない。オーディエンスそのものが、The Birthdayの鳴らす「音」のひとつの形のようだ。先ほどのフロアで守られていた沈黙が嘘のように、フロアの隅々まで身体を揺らすオーディエンスが雷の轟のようだった。

とんでもない歌が 鳴り響く予感がする
そんな朝が来て俺

冬の景色が それだけで何か好きでさ
クリスマスはさ どことなく 血の匂いがするから “くそったれの世界”

 Coool!!!
 ILL-BOSSTINOがMCまで含めフロアに数多の言葉を残したのに比べ、チバユウスケはほとんど何もしゃべらない。

 チバ「まだ雨降ってた?」
 客「降ってなーい」
 チバ「最近雨に祟られててさ。でも、雨降らなかったらお米も育たないからね」

 正確ではないかもしれない。だが、でも確かにこんな感じの「なんだそれ?(苦笑)」というMCがわずかに挟まれる程度。ミッシェルのほうが云々といった感傷を許さない(それは、もっともロックから離れたジジイの物言いだろう)美意識に貫かれた狂気、チバユウスケのリリシズム、そしてのたうつリズム……ライヴを構成するのは極めて純粋な音楽、クソドープなリアルロックンロール。最後まで一度もフロアの高揚は日和り揺らぐことなく、The Birthdayのライヴは幕を閉じた。
 もちろんどっちがどうではないが、リキッドルームの12周年アニヴァーサリー(誕生12年を祝うイベント)となれば、The Birthdayが立役者であるのは然るべきというものだろう。
 それにしても、アンコールでThe BirthdayをバックにILL-BOSSTINOがラップしている景色は最高だった。

Jake Bugg - ele-king

 EU離脱を決める国民投票で、英国の若者たちの約75%が残留に票を投じたことは世界中で報道された。貧しい北部の労働者階級が離脱に、豊かな南部のミドルクラスが残留に多く票を投じていたことも話題になった。
 つまり、こういうことだな。と世界の人々は考えた。
 下層のバカな中高年が、ありもしない「英国の栄光」みたいなものにすがって、右翼のプロパガンダに騙されて排外主義に走ってしまったのだ。だが、彼らの愚行の最大の被害者は若者たちである。バカな大人たちが若者たちの未来を奪ったのだ。と。

 しかし、英国ではその後、もう一つのファクトも明るみに出ている。
 全国における18歳から24歳の若者の投票率はわずか36%だった。「投票に行った若者たち」の約75%が残留に票を投じたのは事実だが、それは36%のうちの75%に過ぎない(つまり、若者全体の26%が残留派という計算になる)。

 18歳から24歳までの英国の若者たちの64%は、投票にさえ行かなかった。
 北部の貧しい地域では、若年層の投票率が特に低かったこともわかっている。

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 わたしがジェイク・バグを初めて見たのは、2011年、BBC「News Night」のカルチャー・レビューで彼が歌ったときだった。最近アーカイヴを見ていてわかったのだが、それは識者たちが「ロンドン暴動とユース・カルチャー」についてディベートした回だった。
 評論家や学者の議論が終わった後で、まるでうちの近所にいるティーンの一人のような少年がギターを抱えて出てきて、妙に醒めた目つきで弾き語りを始めた。「公営住宅地のボブ・ディランだ」と思った。

 ロンドン暴動の特集なら、どうしてラッパーを出さなかったのだろう。とも思う。
 が、その疑問を解決するのが、昨年発表されて話題を呼んだカナダの大学教授の研究結果で、それによれば、いまやロック(インディー含む)やレゲエはソーシャル・エリートの聴く音楽になり果て、下層民の御用達ミュージックはラップやカントリーになっているという。
 なるほど。公営住宅地にディランが出てくるわけだ。

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 今年6月リリースのジェイクの3枚目『On My One』は、すこぶる評判が悪かった。あまりにも鮮烈だったファースト、賛否両論だったセカンドの後で、満を持して発表したセルフ・プロデュースの3作目だ。期待は大きかった。が、はずれ感も大きかった。
 「がんばり過ぎた。ラップに挑戦したのはレコード会社の干渉があったからではないか」と『NME』は評し、「『On My One』は、若い青年が暗闇の中で必死で自分のアイデンティティを掴もうとしているような印象で、近年の音楽界で最も不可解な楽曲のセレクション」と『ピッチフォーク』は首をひねった。「愛すべき曲もあるが、いくつかの曲は聴いているほうが恥ずかしくなる」と、本物のワーキングクラス・ヒーローとジェイクを讃え続けてきた左派紙『ガーディアン』も手厳しい。
 各方面からこきおろされている“Ain’t No Rhyme”ではジェイクがラップをやってみた。“Bitter Salt”はボン・ジョヴィで、“Gimme the Love”はカサビアンじゃないかと言われた。“Never Wanna Dance”に至っては、マーヴィン・ゲイのしょぼい田舎のコミュニティセンター・ヴァージョンとまで茶化された。
 正直、わたしも一聴したときには感心しなかった。が、6月17日に発売されたこのアルバムの聴こえ方が、23日のEU離脱投票を経た1週間後にはまったく変わっていた。

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 いまやミドルクラストンベリーと呼ばれるようになったグラストンベリー・フェスティヴァルで、ドラマ俳優夫婦の息子が率いるThe 1975というバンドが、「大人たちが俺たちから未来を奪った」と発言し、貧民街のガキにはとても手の届かない金額のチケットを買って集まった若者たちを沸かせた。
 彼らは英国の若者の代弁者だと新聞に書かれていた。
 わずか26%の声を代表する者がどうして代弁者と表現されうるのか、メディアの偏向はいつだってローカルな真実を黒く塗り潰す。

 むしろ投票に行かなかった者たちこそが英国の若者のマジョリティーであり、その声を代弁するアーティストこそが時代のサウンドを奏でられるのだ。本当はそれができる若きポップスターが何人もいるべきなのに、たった一人しかいないということが、階級が絶望的なほど固定化した現代の英国を象徴している。

 英語圏で暮らす人なら一日に何度も口にしているだろう言葉「On My Own」は、「自分で」「たった一人で」という意味だ。
 英国で最も失業率の高い地域の一つである北部の町、ノッティンガムの方言では、それが「On My One」になるという。

僕はただの貧しい少年
ノッティンガム出身の
夢は持っていた
だけどこの世界では 消えてしまった 消えてしまった
僕はたった一人で こんなにも孤独
“On My One”

 ブレグジット後の英国の若者の歌を一曲あげろと言われたら、わたしは迷うことなくこのアルバムのタイトル曲を選ぶ。


追記:余談になるが、モリッシーは長い沈黙のあとで、ブレグジットについてこう語った。「BBCが離脱票を投じた人々を執拗に侮辱したのは衝撃だった。彼らは離脱派をレイシストで酔っ払いで無責任だと責め、裁いて、有罪にした。その一方で、BBCが残留派の決断を問題視した報道は僕は見なかった」。彼ならこう言うだろうと思っていた。アーティストは風紀委員じゃないということを知っている人の言葉だ。

Kyle Hall & Jay Daniel - ele-king

 ともに90年代生まれのデトロイトの新世代アーティスト、カイル・ホールジェイ・ダニエルが来日する。神戸(9月23日)と東京(9月24日)をまわる今回のツアーは、ふたりがデトロイトで主催しているレギュラー・パーティー「FUNDAMENTALS」の名を冠しておこなわれる。

 カイル・ホールは昨年末に、LP3枚組のセカンド・アルバム『From Joy』を自身のレーベル〈Wild Oats〉よりリリース(今年の春には国内流通盤CDも発売)。また、ジェイ・ダニエルは近々待望のファースト・アルバムをリリースする予定とのこと。

 なお、ツアー用のイラストは、カイル・ホール『From Joy』やByron The Aquariusの12インチ「Gone Today Here Tomorrow」のアートワークを担当したMichio Jamesが手掛けている。

■ KYLE HALL (Wild Oats / from Detroit)

■ JAY DANIEL (Watusi High / Wild Oats / from Detroit)

テロルの伝説──桐山襲烈伝 - ele-king

 桐山襲とは一度出会っていた、もちろん本の上でのことだ。
 私は学生時代、といってもカープがこの前リーグ優勝したときくらいだから四半世紀も前、時代区分でいうと90年代ころ、世の中のすべての雑誌を読んでいた――というのはいいすぎにしても、目につく雑誌に片っ端から目を通していた。囲碁、将棋はもとより鉄道、航空、釣り雑誌で陸海空を制覇し、農業の専門誌も、農法や農薬などわからないし必要ないが目をとおさずにいられない。むろんすべて立ち読みである。金のない学生が数百円とはいえ膨大な量の雑誌を買いこむわけにはいかない。地方都市だったので大宅壮一文庫はなかったが、あればおそらく住みこんでいただろう。とはいえ情報がほしいのではない。ことばや写真や図版が書物のかたちをとることの不思議さと、それにふれることでできる空間に、いま思えば魅了されていたのはレコードと変わらない。当時私は世界の広がりとはレコードと書物が生み出す空間の乗数だと思っていたのでページを捲る指先にも力が入ろうというものだ。あまりの力の入りように用紙がコート系だと指先を切ることもしばしば。流血さえいとわなかったのである。
 音楽誌、ファッション誌、カルチャー誌、マンガ誌のたぐいはもちろん、文芸誌も例外ではなかった。五誌ばかり押さえればことたりるし、月初発売なので月があらたまった感じがするのも儀式めいていていい。この数ヶ月、本媒体にはご無沙汰だったのは、紙の世界の仕事がたてこんでいたからだが、そのあいだもたゆまず読んだ。読むのは習慣なのである。つらい仕事を終えて、床に就き読書灯の下ですごす2時間ばかりが日々の唯一の愉しみ。拙文は同衾した本たちの感想文である。夏休みあけの課題提出にまにあったかは心許ないが。
 話が逸れた。くりかえすが、桐山襲の名前を目にするのははじめてではなかった。陣野俊史による桐山の評伝とも批評ともいえる『テロルの伝説 桐山襲烈伝』(河出書房新社)を手にしたときに情景がフラッシュバックした。棒きれのような絵が載った表紙、もしやあれではあるまいかと古書を詰めた段ボールを漁ると捨てずにとってあった。『文藝』1992年夏号、私はこの雑誌を買ったのは、毎月の少ない自由になる金から吟味に吟味をかさねたうえで購入する媒体を決めたなかのその月の一冊だったのである。巻頭は久間十義で「ヤポニカ・タペストリー」が四〇〇枚と表紙に謳っている。私はここでいうのもはずかしいが、久間十義を久生十蘭ととりちがえていた。久生十蘭の未発表原稿でも発見したのか、それはけったいなと思ったのだ。買ってから気づいた、吟味していたはずなのにまぬけである。とはいえ、買ったからには読まないのももったいない。久間氏の名誉のために書くが「ヤポニカ・タペストリー」はなかなかに興味深い小説だった。私は出口王仁三郎とはあさからぬ縁がある。それを述べはじめると本論にたどりつかないので稿をあらためるのが、その次に載っていたのが桐山襲の「未葬の時」だったのである。ただし表紙に載せた表題の上には【遺作】とある。
 私は桐山襲の死をもって彼と巡り会った。
 ここで若い読者のために、桐山襲はどのような作家だったか、陣野が下敷きにしたという講談社文芸文庫の年譜をもとに要約すると、桐山襲は1949年7月、東京は杉並区阿佐谷に生まれ、杉並第一小学校五年時に母を病気で亡くすも、日大付属第二中~高と歩むなかで、高校生になると仲間と同人誌を発行し小説を書いてもいる。早稲田大学第一文学哲学科に入ったのは1968年、「あの68年」と強調することがまたしても若い読者を遠ざけないかとのおそれは抱きつつも、言下に全共闘世代といってスルーできない思想の細分化と対立と混沌は72年の浅間山荘事件であらわになるが、政治の季節のただなかで桐山は解放派系の運動に加わりつつ、カントを読み大江健三郎を読み高橋和巳を読み、沖縄を旅した。まだ日本に帰る前の沖縄、やがて日本に帰ったのは正しかったのか悩むことになる沖縄――南の島へのこだわりが桐山に巣くっていたのはデビュー作「パルチザン伝説」であきらかになる。パルチザンとは銃をとって叫ぶ民衆によるレジスタンス運動を指すが、桐山がこの小説を文藝賞に投稿したのは勤め人の暮らしも板についた1982年、と知った私はこのような小説が80年代の世に生まれたことにめまいをおぼえた。テクノポップとニューウェイヴと消費礼讃の時代とのキャッチコピーをいただきがちな80年代に桐山の「政治」小説は世に出たのである。おない年の村上春樹は同年、「1973年のピンボール」で政治の季節の終わりを綴ることで専業作家として身を立て、年下のサヨクである島田雅彦が頭角をあらわしはじめていた。私たちはそこに、文学の営みの「遅さ」をみるべきか、それともことばの発酵にかかる時間の重さを読むだろうか。というよりそれは時代にあらがう表現がもたらす居心地のわるさなのだろうか。
 桐山は「パルチザン伝説」を長い二通の手紙を中心に構成する、書簡体小説である。兄と弟のふたりがいて、1982年4月の日づけのある「第一の手紙」とその二月後の「第二の手紙」ともに弟がしたためている。彼らはともにある政治的な事件が原因で、兄は決意した啞者に、弟は爆発で身体の一部を欠損した不具者になった。弟が彼らをそうさせた顛末を綴るなかに、父の来歴が出来し、ふたつの爆破事件がかさなりあう。「パルチザン伝説」はきわめて政治的な現実の出来事を意識的な方法で構築した野心的な作品だったが、ことはそう簡単には運ばない。文藝賞では選にもれた。選考委員は江藤淳、野間宏、島尾敏雄、小島信夫の四者だったが、彼らの選評をもとに、桐山のデビュー作は世に問う前に小説につけた評価のみがひとり歩きしたのである。いわく、「恐るべき題材に強烈に迫っている」――野間宏の惹句めいた文言が小島信夫の選評の「実名である天皇」とあいまってイメージは肥大化し、無名作家の手になる読めない小説への読者の想像をたくましくさせた。賞には落ちたが編集は桐山を気にかけていた。翌年桐山は第二作「風のクロニクル」を「文藝」の編集者に手渡すも、一作目と二作目どちらでデビューしたいかと問われ、思い入れの深い前者を希望する。新人賞への応募作をときをおいて掲載するのは異例だが、「パルチザン伝説」は世に出たのもつかのま、「週刊新潮」の「おっかなビックリ落選させた『天皇暗殺』を扱った小説の『発表』」とのタイトルの「風流夢譚」事件へ世相を(ミス)リードしようとする記事により、版元は右翼の街宣を受けた。ゴシップ・メディアの常套句であるスキャンダリズムとポピュリズムにより桐山襲が終生格闘しつづけることになる桐山のパブリック・イメージはことのきすでにできあがっていたが、読まないひとたちの無責任な関心がその肥大化に拍車をかけたとはいえまいか。あるいは無関心か。なにせ、ときは80年代なのである。と書きながら私は仮にそれが2010年代であっても、作品をめぐる状況は変わらなかったのではないかと思いもする。表面的には活発な議論がおこなわれているようでありながら、その一歩外には深い無関心とその陰画である憎悪が渦巻いている――
 この本はそのような状況をときほぐそうとする。陣野俊史は桐山襲の人生よりも小説を問題にしている。作品が生のすべてを物語ることの確信があるから、小説の梗概をていねいに述べ、ふみこんだ解題をおこなっている(なので未読の方でもずんずん読み進められる)。「パルチザン伝説」にはじまり「スターバト・マーテル」「風のクロニクル」「亜熱帯の涙」「都市叙景断章」から冒頭の「未葬の時」にいたる十数作の小説と評論とインタヴューを丹念に追いながら、連合赤軍、東アジア反日武装戦線、ひめゆりの塔事件、永山則夫の文藝家協会入会問題といった題材の歴史的背景にあたり、そこに潜む意外なほど現在的な問題を指摘することで、陣野は桐山を70年代に、全共闘世代に、過去に置き去りにしない。古川日出男や目取真俊、佐藤泰志といった作家たちとの系譜をつなぐ視点は現代文学のすぐれた読み手としての陣野の真骨頂でもあるだろう。その読みはまた、桐山襲という作家の政治性のウラの抒情をもうかびあがらせる。
 本文に引用した発言で桐山は政治と文学を明確に線引きした旨述べている。政治は多数の者がかかわる現実の運動であり作品をつくることとはまったく異なる行為であり、小説は現実を変えない。と同時に、桐山は文学においては、詩的言語と物語形式に引き裂かれつづけきた。というよりあえてどちらか一方を選ばなかった。桐山はインタヴューでそのあり方をポール・ヴァレリーがアストゥアリスのあの『グアテマラ伝説集』を指していった「物語=詩=夢」になぞらえている。散文性と詩情と現実を異化する虚構性の全部を抜け目なく高度に折衷するのは、私なんかは欲張りじゃありませんかといいたくなるが、桐山襲は意に介さない。書簡体をはじめ、作中作、人称の変化、時制の錯綜、叙述形式の混在、政治問題の積極的な援用も、いま考えるとリアルとフィクションの接着面を探るための実験だったともいえなくはない。そもそも、小島信夫が桐山の小説に反応したのも、「パルチザン伝説」を文藝賞に応募した年に、とりあえずの完成をみた『別れる理由』の、とくに第三部のあやうさ――ということばを私はいい意味で使っている――を念頭に置いた老婆心でなかったとはいいきれない。ところが桐山の意識的な方法は等閑視されないまでも政治性のウラに隠れてしまった。しかもそれは桐山の資質――というのはまことにヤッカイ――である抒情に覆われている。そうして「物語=詩=夢」は桐山のなかで、等式のように水平に整合的に展開していくというより作品ごとに配合を変え、生理という名の身体性にゆらぎながら積み重なっている。私は桐山襲の筆名の読みが「かさね」であることに、まるで推理小説のトリックがもっとも目につきやすい場所に最初から置かれていたような気さえするのだが、この本がなければそのようなことはおよびもつかなかった。
 島に本書をもって帰ってよかった。ティダがカンカンのときはまいくのはフリムンべえよ、という制止をふりきって私はこの本を浜ぎわのアダンの木の下で読んでいる。アーマの忠告どおり浜にはだれもいない。熟れたアダンの甘い匂いが上からふりかかる。月のない初夏の夜はこの浜一帯がアマンで覆い尽くされたことだろう。生家にほど近いこの浜は沖縄が復帰した年にいまの天皇が皇太子だったころ訪れた縁でプリンス・ビーチと呼ばれている。当時はこのあたりがこの国の南端だった。皇太子が沖縄をはじめて訪れたのはその3年後の海洋博である。そのときおこったひめゆりの塔事件は、先の天皇の生前退位報道にからむ特別報道番組でもほんの数秒だがテレビに映っていた。桐山はこの事件を「聖なる夜 聖なる穴」にあつかっている。それだけでなく、デビュー作に沖縄をとりあげて以降、「ほぼすべての小説に「南島」が登場する桐山作品の底流には(中略)「国家」にも「民族」にも回収されない、「不定の位置」を保っている」(p203)沖縄への傾斜があった。つまり異化作用であり、それを俯瞰するだけならポスト・コロニアリズムだが、桐山は南からのまなざしに寄り添うことに腐心しながら小説では一貫して形式を呼び寄せるきっかけとして南島を夢想しつづけた。中島敦の希求したものとも土方久功の野趣ともちがう桐山襲の南へのまなざしは陣野俊史のいう、南米はおろか世界にも類例のすくない「海洋型マジック・リアリズム」に実を結んだからこそ、いまなお不定の小説として歴史上の位置はさだまらない。むろん問題は南島だけではない。桐山襲の射程は表現の自由にせよ集団のとる行動原理にせよ、ある時代に特有のものではない。おそらくそこには80年代というソリの合わない時代のなかでくりかえし70年代を考える相克が働いている。いまが最高だと転がっていく人間は無意識にせよそのようなものをうちかかえていやしまいか。
 桐山が没した90年代初頭、世の中はデタッチメントの波にのまれていた。キャンバスにタテカンはのこっていたが、バリストは儀式でしかなかった。大教室で熱心にノートをとる、ちょっとかわいい子におちかづきになろうとノートを借りたら、トロ字混じりで遠い目になってしまうようなこともなくなっていった。女の子は授業で見かけなくなった。いやちがった、私のほうが授業に出なくなったのだった。あの娘はどうしただろう――というような、喪失を噛みしめるうちに口のなかに甘さが広がるようなところも桐山の作品にはなくはない。他者、とくに女性の描き方にはある種の典型から抜け切れてもいない。何人かの批評家はそれを指摘し、陣野俊史も「物語=詩=夢」の等式からその限界をみとめているようにも読める。
 私は遺作「未葬の時」を「文藝」で読んだとき、追悼文を寄せた笹山久三や竹田青嗣がいうほどの政治性は感じられず、図書館で『都市叙景断章』を手にとったはずだが、残念ながらほとんど憶えていない。読みさしで終わってしまった理由に陣野俊史の解題を読んで思いあたった。アイラーのくだりである。私はアルバート・アイラーがフリージャズが破壊一辺倒で聴かれるのに抵抗があった。なんとなれば、アイラーの猥雑さも陽気さも太さも細さも置き去りになってしまう。もちろんそれは小説の設定のひとつにすぎない。私は若かったといえばそれまでだが、『都市叙景断章』の基調である「この都市に私の記憶はない」という視点を深く考えるまでにいたらなかった。若松孝二が永山則夫の足跡をたどった風景論としての映画『略称・連続射殺魔』(1975年)をはじめて観たのはもうすこしあとだ。数年経ち、阪神大震災と地下鉄サリン事件の年にテロリストはパラソルをさしはじめた。私はチョコレートじゃあるまいしと毒づいたきり、その手のものを遠ざけ、永遠に新作を発表することのなくなった桐山襲を思い出すこともすくなくなった。私はもったいなかった。詩と物語形式のつばぜりあいがデビュー時の抒情から後年のドライな感性へ移行していく課程も、「パルチザン伝説」騒動の直後、主人公が南の島へ放逐したと宣言する「亡命地にて」を書く傍ら、東京で役所勤めを淡々とこなしていたという桐山のユーモアさえ感じさせる実践(テロル)もみすごしていた。そもそも、桐山の小説における政治とは、私は彼のことばをくりかえすが、現実をさししめさないことでその背後の力線を暴くものなのではないか。
 私たちはおそらくたいがいのことを誤解し誤解したまま生きるところにこのような労作が書かれる理由がある。本書は巻末に未刊行の短編「プレセンテ」も所収している。
 準備は整った。この本で桐山襲とはじめて出会うあなたはラッキーである。(了)


DJ Shadow - ele-king

 DJシャドウが彼のデビュー作『Endtroducing.....』(1996年)を出した頃には「トリップ・ホップ」であるとか「アブストラクト・ヒップホップ」といった言葉がふわふわとその周りを取り巻いていた。あれから20年くらい経って今年、新作『The Mountein will Fall』(メルト・ユアセルフ・ダウンがやはり今年に出した『Last Evenings on Earth』とジャケットが妙に“同じ”)を出したシャドウの音は果たして何と呼ばれるのか、正味のところはよく判らない。その場限りでも(キーワードさえ憶えていられれば)誰に訊かなくても情報に辿り着けてしまう世のなかになり、「ジャンル」というのはもはや「好きな音楽は何ですか」「えっと、ロックとか」などといったやる気のない会話の取っ掛かりでしか無いのかもしれない。

 『Endtroducing.....』前後に〈Mo’ Wax〉で発表された彼の音を初めて耳にした時の、何というか鼻づまりが一気に抜けたときのような感覚はいまだに自分のなかにある。透明度の低いガラス戸を1枚隔てた向こう側で得体の知れない音が鳴っているのに気づいてしまった経験、とでも言ったらいいのか、ラジオのチューニングが合ったり合わなかったりするじれったさに似た磁力がそこにはあり、「ラップ……ねぇ、でも何言ってんのか判んないからまあいいか」程度の認識しかなかった自分の耳に「(これも)ヒップホップだけど」と届いたシャドウの音は「ヒップホップ=ラップ(ヤングな不良の与太話)」という自分の認識を解説抜きに打ち砕いてくれた。そういった経験を無くして20年の間、常にその名前が自分の意識に残り続けることは(とりわけ情報と作品の触りだけが濁流のように流れていく現在では)もう無理だろう、と思っている。

 デビュー作が必要以上に「マスターピース」だの「金字塔」だのという言葉を冠して流通してしまっている事態の不自由さは、シャドウのセカンド・アルバム『The Private Press』以降のアルバムよりも時折ふと届けられる(DJとしての)ミックス音源がの方が遥かに伸び伸びと音を鳴らしている辺りからも窺えたし、彼自身もそんなことをインタヴューで言及していたように思いますが今作『The Mountein will Fall』からは何故かふと、そこから逃れたかのような音が断続的に聞こえてくる。

 しかし(個人的な知り合いであればまだしも)聴き手にとっては作り手のそんな「オレとの闘い」は本来どうでもいいものであるし、そのときに聴いた音の何かに引っ掛かるかどうか、が全てではありますが、あらためて過去から現在までの音源を通して聴いてみれば、自分が毎回シャドウに引っ掛けられるのは「声」の使い方で、この人はいつも一体どっから持ってきたんだか(ナレーションなのかテレビドラマの台詞なんだかドラムの教則ヴィデオなんだか)由来不明な「非音楽的な声」をここぞというポイントで「音楽」に嵌め込んでしまうのですがそれが一番のフック、と言うことが判る。これは「歌(要はヴォーカル)が無い音楽は売れない」といった類いのわかったようなわからんような見識(まあ処世術、とでも言いますか)とは相当ずれた地点で組み上げられた音楽なのである。

 正直に白状すれば、往年のファンとしてはデビュー作で聴かせてくれたあの音の感触が嬉しい、と言うことでもあるのですが、ただそれはそんな「固定客」に向けたサービスでは全くなくて、今年このアルバムで初めてシャドウの音楽に触れる誰かのためにこんな感じでチューンナップしてみたけど、どう? ということなのだろうと思う。最初の頃から聴いていた人間にとっては「またコレか……(悪くないけど)」程度であるかも知れないものも、別の誰かにとっては「うわ何だコレ」になり得ることを知っている音楽家にとって「必要なのは、常に新しい聴き手(耳)」という正解に辿り着くための方法はひとつでは無いからだ。

 そして初めてDJシャドウを知った幸運な誰かがこの国の何処かにいるとすれば、ひとつ遡って2012年に出たベスト盤『Reconstructed』を聴いてみるのもいいかもしれない。このアルバムで初収録された『Listen Feat. Terry Reid』は映像も含めてちょっと物凄い。


BADBADNOTGOOD - ele-king

 トボけた顔して、最先端の音楽をやってのける、アノ4人組がまた日本にやってくる。しかも、今回はWWW Xでの単独公演だ。アノ4人組とは、もちろんバッドバッドノットグッドのこと。どこか憎みきれない、不思議なバンドである。
 8月にサマー・ソニック2016の出演のために来日したばかりの彼らであるが、単独来日公演は2014年以来の約2年ぶりだ。最新作『Ⅳ』は今のところ彼らの最高傑作であるし(これが更新される可能性は大いにある)、前回の単独公演ではまだ正式に参加していなかったリーランド・ウッティの存在は、今回の公演においての重要なポイントになるだろう。実際にサマー・ソニックのステージでは、彼のアグレッシヴなプレイが炸裂していたようで、これには期待せざるをえない。
 もっとも、バッドバッドノットグッドのメンバーでアグレッシヴなプレイをするのは、なにも彼だけではない。言ってしまえば、全員アグレッシヴそのものである。音源を聴くだけでも、彼らの勢いのあるプレイを感じることが出来るが、ライヴにおいては繊細さを犠牲にしてまでも、勢いに乗り続けるような演奏を繰り広げる。『Ⅲ』を出した頃には、まだその勢いが空回りしているような印象も否めなかったが、ここ最近のライヴ映像をチェックしてみると、荒々しさはそのままに勢いに乗り続けることを体得したことがよくわかる。おそらく、数多くのライヴをこなしてきたからだとか、リーランドの加入によってバランスが取れたからだとか、諸々の理由があるのだろうけど、そんなことはどうでもいいと思ってしまうほどの、勢いが感じられる。あえて言ってしまうならば、ライヴにおいての彼らはより「ロック」なのである。

バルセロナで開催されたソナー・フェスティバル2016でのBBNG。


 また、今回の来日公演の発表に合わせて、「スピーキング・ジェントリー」のミュージック・ビデオが公開された。この映像は、日本のクリエイティヴ・スタジオ「オッドジョブ」が制作しており、シンセ・サウンドとドラム、ベースのフレーズの絡み方がたまらなく気持ちいい楽曲に、爽やかサイケなアニメーションが手がけられている。

BADBADNOTGOOD - Speaking Gently (OFFICIAL VIDEO)


 今回の公演において気がかりなことは、彼らの演奏を爆音で聴けるのか、ということである。アレックス・ソウィンスキーのドラムと、チェスター・ハンセンのベースが生み出す走り気味のグルーヴを、全身で感じたいのだ。マット・タヴァレスのシンセと、リーランド・ウッティのサックスの音で頭をクラクラさせたいのだ。
 彼らの音を体感出来るのは、11月18日。まだ2ヶ月先ではあるが、爆音を期待しながら、時が来るのを待とう。(菅澤捷太郎)

あの素晴らしき七年 - ele-king

 人生に必要なものはなんだと思う? エトガル・ケレットを読んだぼくならまずはこう答える。ユーモア、遊び心、人生がどんなに深刻で、悲劇的な窮地に陥ろうとも、いや、だからこそ忘れてならないもの。多少の茶化しが入るぐらいがいい。ぼくも最近、自分がわりと深刻な事態になったのだけれど、これはもう笑うしかないでしょと思えると、気持ちが楽になった。ま、こじつけだけど。

 さて、ぼくたち音楽ライターは、よくよく暗喩として「ゲットー」ないしは「ディアスポラ」という言葉を使う。泉智のレヴューのなかにどれだけ「ゲットー」が出てくるのか数えたことはないけれど、本書は史実としての「ゲットー」(つまり、ホロコースト、貧民街ではなく強制収容所を意味する)を生き抜いて、言葉本来の意味でのディアスポラ(つまり、離散したユダヤ人を意味する)を両親に持つ、イスラエルはテルアビブ生まれの作家、エトガル・ケレットによる自伝的エッセイ集だ(原書は2015年刊行、本書は2016年刊行)。
 子供が生まれ、父が死ぬまでの7年間の記録の断片集で、36篇のショート・ストーリーのなかには様々な象徴的な事柄がさり気なく見え隠れする。そのひとつ。ユダヤ人であること、中東に生きること、それもイスラエルで暮らすこと──ケレットはいわゆる“政治的な作家”ではないと思うけれど、ここに描かれている彼の何気ない日常は、ぼくの無知がもたらすイスラエルへの先入観を相対化する。当たり前の話だが、イスラエルという国とそこで暮らす庶民は分けて考えるべきであり、さらに当たり前の話だが、イスラエル人の生き方にもいろいろある(本書のあとがきによれば、ガザ侵攻のときにケレット夫妻は亡くなったパレスチナの子どもへの哀悼の意を示したことで、自国民からバッシングされ脅迫まで受けてたそうだ。国外では反ユダヤ主義と出会い、イスラエルという国への嫌悪とも直面し、国内でもケレットは、愛国的な人びとからの反感を買うことも少なくない)。
 つまりユダヤ人として今日イスラエルに生きることは、たとえばの話だが、日常的にテロリズムに遭い、自分たちを憎む存在について意識しながら、自分の人生があとどのくらいなのかに思いを巡らすこと。あるいは、いまだにドイツ語を聞いただけでも神経質になってしまい、たとえ浴室に雨漏りがあったとしても近々自分たちを破壊したいと思っている国=イランから核ミサイルが飛んでくるらしいから直すこともないだろうと考えてみたりすること……
 このような説明を書くと、いかにも重たい話のように思われるかもしれないが、まあ、実際に重たい。ただ、ケレットはそれをいかにも重くは描かないのだ。エスニック・ジョークもあり、まあとにかく、本来であればとても笑えない状況における笑いがある。完結した笑いではない。一篇一篇、読後に考えさせられる。翻訳の文体、ときにすっとぼけた文章も魅力的で、ぼくのいい加減な印象論で言わせてもらえば、これは中東のヴォネガットだ(『スローターハウス5』を思い出さずにはいられなかったです)。テロリストの攻撃があった最中に子供が誕生して、本書の最後はミサイルが投下された日の、笑えない状況下における家族の微笑みで終わる。日常化した不可避的な暴力に対して笑いで応えているというか、本書のキャッチコピーに「強靱なユーモア」という言葉があるが、まったくその通りだと思った。
 
 では最後に、強靱なユーモアの“強靱さ”がいかなる思考に裏打ちされているのか、その例をひとつ紹介しよう。作者の幼少期に、幼子を寝付かせようと父が話したベッドタイム・ストーリーが実は何かを教えようとしていた、という一篇がある。戦争を生き延びた父がイタリアの闇社会に救われたという実話に基づいた、酔っぱらいと売春婦の話だが、それら父のベッドタイム・ストーリーが真に伝えんとしたことを、ケレットはこう解釈している。

 「どんなに見込の低そうな場所でなにかいいものを見つけんとする、ほとんど狂おしいまでの人間の渇望についての何か。現実を美化してしまうのではなく、醜さにもっとよい光を当ててその傷だらけのイボや皺のひとつひとつに至るまでの愛情や思いやりを抱かせるような、そういう角度を探すのをあきらめない、ということについての何か」

 芸術に役目があるとしたら、間違いなく、この「何か」は重要なひとつだろう。本書を教えてくれた松村正人に感謝したい。ぼくはいまもう一冊の翻訳書、『突然ノックの音が』を読んでいる。
 

Pan Sonic - ele-king

 パンソニックの「新作」がリリースされた。チェルノブイリ事故以降に初めて建設されたフィンランドの原子力発電所を巡るドキュメンタリー映画『リターン・オブ・ジ・アトム(Atomin Paluu)』のサウンドトラックである。監督はパンソニックのふたりとも交流のあるミカ・ターニラとユッシ・エロール。
 その内容からして現代文明社会への警告ともいえるドキュメンタリー映画だろうが、ここ日本でも(エンターテインメント映画であっても)『シン・ゴジラ』や『君の名は。』など、「3.11以降の表現」を模索した作品が相次いで公開されているので、ぜひとも公開を期待したいところである。

 パンソニックのオリジナル・アルバムとしても、2010年のラスト・アルバム『グラヴィトニ』から、じつに6年ぶりのリリースとなる(お馴染み〈ブラスト・ファースト〉から)。もっとも制作自体は2005年からスタートしていたらしく、工事中の原子力発電所でミカ・ヴァイニオとイルポ・ヴァイサネンがフィールド・レコーディングした音素材をベースにしつつ、昨年2015年にミカ・ヴァイニオが単独で最終編集作業をおこなったという。
 このタイムラグは諸般の事情で映画の制作と公開が遅れていたことも原因だったらしい。その結果として、ラスト・アルバム「以降」の新作であり、同時に、ラスト・アルバム「以前」から制作が始められていた未発表アルバムという、いささか複雑な成立過程の作品となったのだろう(ちなみに本サウンドトラックは2016年「フィンランド・アカデミー賞」の音楽部門受賞作品である。このようなエクスペリメンタルな作風の音楽が、国民的な映画賞において受賞をしたというのは素晴らしいことに思える)。

 だが、私としては、本作を彼らの「2016年新作」と称しても、まったく差し支えないと思っている。音響の質感が『グラヴィトニ』以前の脳内に直接アジャストするようなバキバキとしたサウンドから、「霞んだ音色のダークな質感」へと変化を遂げていたからだ。これは1曲め“パート1”のイントロの音響的質感からして明白である。
 むろん、その「変化」は、映画のテーマ性を反映してのことかもしれないし、工事中の原子力発電所で録音した音素材の質感ゆえの変化かもしれない。また、ミカのソロ作品『キロ』(2013年)のダークなサウンドに近い印象でもあり、ミカ・ヴァイニオ単独作業の影響かもしれない。だが、2曲め“パート2”や3曲め“パート3”など、あのヘビー&メタリックなビートも炸裂するのだから、まぎれもなく「パンソニックの音」なのだ。
 となれば、5曲め“パート5”以降のアルバム中盤で展開される霞んだ質感のドローンと不穏な環境音の交錯などは、2010年代以降のインダストリアル/テクノなどの「先端音楽」へのパンソニックからの応答といえなくもない。同時に4曲め“パート4”の冒頭など、どこか武満徹の「秋庭歌一具」を思わせるタイムレスな響きの持続も生成されてもいた(たしかミカは武満ファンでもあったはず)。
 聴覚にアディクションする強烈なノイズから空気を震わすような淡く不穏な音響へ。そう、本作においてパンソニックは音響と空間のあいだに、これまでにない「空気」を生成している。そして、その空気は、工事中の原子力発電所から採取された音素材がベースになっている。となれば、本作特有の「不穏さ」は、やはり原子力発電という制御不能な「力」への畏怖なのではないか?

 「力への畏怖としての電子音楽」。このダークなサウンドは、「われわれ」への警告なのかもしれない。3曲め“パート3”冒頭に鳴り響く、あの暗い雷鳴のように……。さまざまな領域から「資本主義の終わり」を感じつつある現在だからこそ、深く聴くべき問題作といえよう。

DJ Shadow - ele-king

 1996年に〈Mo' Wax〉からリリースされたDJシャドウのファースト・アルバム『Endtroducing.....』は、既存の音源のみで構築されたサンプリング・ミュージックの金字塔として、いまなおポップ・ミュージックの歴史に燦々と輝いている。
 同作は来る11月19日をもってリリース20周年を迎えるが、このたび、それを記念したリミックス盤の企画が進行中であることが明らかになった。DJシャドウは9月12日に放送された「トークハウス・ミュージック・ポッドキャスト」の最新回でクラムス・カシーノと対話をおこなっているが、そこで『Endtroducing.....』のリミックス・アルバムの計画について言及している。リリースの日程やトラック・リストなどはまだ明らかにされていないが、リミキサーとしてクラムス・カシーノやハドソン・モホークが参加しているとのことである。

 ちなみにDJシャドウは、去る7月27日にロンドンのエレクトリック・ブリクストンにておこなわれたライヴで、自身のクラシック "Midnight In A Perfect World" のハドソン・モホークによる未発表リミックスを披露している。その音源が計画中のリミックス・アルバムに収録されることになるのかどうか、注目である。

ファンが撮影した映像


YG - ele-king

 『Still Brazy』を一聴して去来したのは、失っていた記憶を呼び戻される感覚だった。YGがこのアルバムで奏でるのは、「赤い」ファンクだ。

 90年代中盤、Gファンクが僕たちに見せてくれたファンタジーの記憶。それはニューヨーク産のそれに比べ、風景の印象を強く刻むようなPVの効果もあったのかもしれない。灼熱の太陽。ローライダーの群れ。フッドで夜な夜なおこなわれるハウス・パーティ。ゆっくりとクルーズする深夜のアスファルトに残る、昼間の熱量の痕跡。このアルバムは、それらの記憶を呼び覚ます。一層骨太になったそのサウンドの輪郭は、Gファンクのニュー・エラ(新時代)の到来を示唆しているのだろうか。

 思えばファースト・アルバム『My Krazy Life』以降のYGは、BlancoやDB Tha Generalとコラボした『California Livin』(ANARCHYをフィーチャーした“Drivin Like Im Loco (Japan-BKK Remix)”も収録!)でも、往年のGファンク・サウンドに対する明らかなオマージュとも言えるサウンドを聴かせくれていた。それは90年代のGファンク・エラにドップリと浸かっていた者たちの「W」の字のハンドサインを誘発するような、見事なネタとグルーヴに支配されていた。

 先行シングル“Twist My Fingaz”を貫く、むせ返るようなGファンクイズム。冒頭のブリブリのベースラインに、サイン波によるピロピロ音のメロディー、そしてヴォコーダーと、Gファンクを象徴するサウンドが大集結。そして全体のムードを決定付けるのは、ピアノによるテンション・コードと、フックの背後で薄く鳴るシンセがもたらす緊張感だ。そのフックは8小節のフレーズ2種類(ひとつはマルコム・マクラーレンのクラシック“Buffalo Gals”から引用)が連続する展開となっており、気付けば自然と口ずさみつつ、裏拍に合いの手を入れてしまうこと必至だ。

 ビーフ騒動もあったDJ MustardからDJ Swishに制作のメイン・パートナーをスイッチしたこともあり、全体のトーンとしては派手さを抑えたプロダクションの本アルバムは、これまでのGファンクを総括するような顔付きを見せつつも、それとの差異をも提示し、アップデートを図る。たとえばリル・ウェインを迎えた“I Got A Question”やドレイクを迎えた“Why You Always Hatin?”、“Still Brazy”に見られる、トラップの影響下にあるハットの打ち方。ソフト・シンセによる、モジュレーションの動きのあるシンセ・サウンド。そして冒頭を飾る2曲“Don't Come To LA”と“Who Shot Me?”で目立つのは、これまでスヌープ、ウォーレン・G、コラプトらとの仕事を通してGファンクを支えつつ更新してきたテラス・マーティンが持ち込んだと思しき、琴のような弦楽器的なサウンド。この琴による、モノフォニーの、少し震えるようなサウンドが象徴するのは、YGが置かれたある種の精神状態ではないだろうか。

 ビルボード・チャート初登場2位を記録した前作の成功を受け、彼の立場や環境は大きく変わったはずだ。つまり、Bloodsの一員としてのギャングスタ・ライフから、成功を収めたアーティストへ。そして“Who Shot Me?”で4小節のメランコリーなコード進行とともに描かれているのは、彼自身を襲った銃撃事件のドキュメンタリーである。ハイファイなウエストコースト・サウンドに「突如」導入されるブレイクビーツの、周りのサウンドと噛みあわないある種「凶暴」な響きは、彼を襲った事件の「突然さ」や、彼の世界の見え方を「暴力的」に変えてしまった経験と共鳴する。事件以降、彼の世界への対峙の仕方は一変した。

 このセカンド・アルバムのスタジオ・ワークの最中に銃撃を受けたYGは、病院で治療後、翌日にはスタジオに戻ったという。彼はインタヴューに応えて言う。「ちょっとした出来事だった。ケツを撃たれたけど、問題ない」、「誰が撃ったかはどうでもいい」、「俺を殺るのは簡単じゃない(I’m hard to kill)」と。自らを襲う凶弾をも、逆に自身のタフネスを誇示する契機としてしまう腹のくくり方。彼を形作るギャングスタ・ラッパーのアイデンティティが、そのような選択肢を唯一の現実解たらしめているのだろうか。しかしその姿勢に、1995年に、頭部に2発、股間に2発、腕に1発の銃弾を浴びながらも、テレビカメラに向かって中指を立てた男、かつての2パックの姿を重ねてしまうのは筆者だけではないはずだ。

 1994年9月13日にリリースされたノトーリアスB.I.G.のファースト・アルバム『Ready To Die』。セカンド・シングル“Big Poppa”のB面収録の“Who Shot Ya?”で、ビギーは自分が曲中で撃った相手に「お前はゆっくりと穏やかに死ぬ/俺の顔を覚えておけ/間違いのないように/警官に伝えるときにな」と語りかけた。そしてそれから2年後、2パックは再び銃撃に遭い、あえなく凶弾に倒れる。彼は、その場に駆け付けた警官に、誰に撃たれたのかと問われると「ファック・ユー」と返答したと言われている。そして1996年9月13日、彼は25年の生涯を終える。

 YGは「誰が俺を撃った?」と叫び「俺は馬鹿みたいだ/仲間が俺をハメたのか?」と仲間を疑い、その他の可能性を次々と列挙してゆく。しかし結局犯人はわからず、悪夢で夜も眠れないと歌う。そして撃たれた原因は、彼が成功で手に入れた巨額の富のせいであるが、「カルマが犯人を捕える」ことになるし、「神は俺のために何か別のプランを持っているのだ」と結論付ける。

 しかしもはや誰も信じることのできなくなってしまった彼の独歩の足跡を、モノフォニックな琴の音階が、なぞるように、追ってゆく。

 この銃撃事件によってYGが得たものとは、一体何だったのか。それは本当に、自分以外は誰も信じられないという教訓なのだろうか。アルバムを締めくくる、最後の3曲に、解釈のヒントはあった。“FDT (Fuck Donald Trump)”ではNipsey Hussleとともにドナルド・トランプを批判し、“Blacks & Browns”ではSadboy Lokoとともにそれぞれアフロアメリカンとチカーノの立場からレイシズムの現況をライムする。そしてラストを飾る“Police Get Away Wit Murder”ではタイトル通り、警官の暴力を糾弾している。これらの楽曲を通して、彼らの置かれた政治的立場、社会的立場について問題提起をおこなう彼は、銃撃事件以前とは異なる視座を獲得しているように見える。以前のようなモノフォニックな独白だけでなく、より多様なテーマに対し、いわばポリフォニックな議論の口火を切るように。

 “Police Get Away Wit Murder”の終盤、YGのヴォイスはどこか遠くから語りかけるようなエフェクトを纏う。聴衆に演説するように、彼は警官に射殺された人々の名前と場所を挙げてゆく。ロバート・グラスパーが、ケンドリック・ラマーの“Dying of Thirst”のカヴァーで、自身の息子とその友人に、犠牲者の名前を読み上げさせたように。グラスパーはインタヴューで、ある種の「タイムスタンプ」として、彼らの名前を記録しておきたかったのだと言及している。

 自身の銃撃事件の帰結として、彼の周囲への疑念が膨れ上がり、そのことに疲弊したことが、彼の視点をフッドから引き剥がし、アメリカ社会全体に向けさせたのではないか。それは結局、彼が生きる世界のシビアさを、より明確に指し示すだけだったかもしれない。しかしそれは同時に、死者の叫びを自身のそれに重ね、タイムスタンプとして作品に刻印するような想像力を誘引したのではないか。

 このアルバム『Still Brazy』を飾るジャケット。赤いバックグラウンドに、赤いストライプのシャツ。これはもちろんBloodsをレペゼンする赤だ。しかし同時に、YGが「突然の出来事だった(it just happened out of the BLUE)」と振り返る銃撃事件以来、陰鬱な気分に沈み込む(in the BLUE funk)自らに三行半を突きつける、決意としての「赤」でもある。ファンクに刻印される、決然とした赤いタイムスタンプ。

 そして、ジャケットの中央に佇むのはYGのバストアップのショット。しかしその頭部がブレているのは何故か。それは、周囲を警戒し見回しているからではないか。誰に背後から撃たれるか分からない世界で、彼はライムする。アルバム最後のラインは、囁くようにこう締めくくられる。

「犠牲者のリストは続いてゆく/皆は不思議がる/俺が何故 後ろを気にしながら生きているのかを」

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