「Nothing」と一致するもの

U.S. Girls - ele-king

 女性たちの怒りをいよいよ世が無視できなくなっているが、このムーヴメントより以前にメーガン・レミーはたしかに怒っていた。女性の労働の不遇に、ホワイトハウスに、戦争そのものに。しかし、その怒り方が彼女の場合……変だ。若い女が何かをすると「○○女子」といった安易なカテゴライズをすぐに与えられてしまうが、それを逆手に取るかのように「アメリカ女子」などという雑な自称をしていた彼女は、その名前を変えないままカナダに移住し、いまもアメリカの外からアメリカを糾弾している。はじめは冗談だったという。それはやがて批評的な意味を帯び、だがいまも半分は冗談のまま、「アメリカ女子」はおかしなプロテスト・ソングを歌っている。利発で奔放、そして徹底的に反抗的なUSガールズのウィアード・ポップは時代の追い風を受けていまこそ高みへと飛翔する。

 通算では6作め、名門〈4AD〉からは2作めとなる『イン・ア・ポエム・アンリミティッド』は、音楽的には近作のポップ志向を前進させたロジカルな発展形と言える。初期のローファイやアングラ性は影を潜め、ゴージャスなバンド・アンサンブルとリッチなソングライティングが堂々たる一枚だ。が、それでもどこかメジャー感がしないのは、様々なジャンルが脈絡なくミックスされているからだろう。何やらいかがわしく、どうにも奇天烈。映画にはジャンル映画という言い方があるが、同様に、USガールズの音楽性は様々なジャンルの音楽のクリシェを敢えて強調するようなやり方で取り入れたものだ。60年代のガールズ・グループ、グラム・ロック、ディスコ、シンセ・ポップ、ノイズ、ダブ、ジャズ……それらがランダムバトルのように次々に現れ襲いかかってくる。
 夫のマックス・ターンブルやトロントのミュージシャンであるシモーヌ・シュミットがソングライティングに貢献しており、メーガン自身は作曲のクレジットから外れているナンバーもある。その分なのか、メーガンは歌謡ショウのステージに立つシンガーよろしく艶やかに歌い上げる。素直に言ってチャーミングだし、セクシーだとも思う。それがかえって舞台装置めいた大仰さを醸しており、マックスが参加するジャズ・バンドであるザ・コズミック・レンジによるビッグ・バンド風のサウンドを背に彼女自身がギラギラと光沢を放つかのようだ。

 そうしたシアトリカルな意匠はサウンド面だけでなく歌詞のモチーフとも一体化。たとえばリヴァービーなパーカッションが響くオープニングのダブ・ナンバー“Velvet 4 Sale”はドメスティック・ヴァイオレンスなどの加害者に対する女からの復讐譚だそうだ。あるいは妖しげコーラスが彩る異形のファンク“Pearly Gates”は、危険なセックスを強要する男の姿を宗教的な権威と重ねながら告発している。ナマで入れたいがために「俺は外に出すのがすごく得意なんだ」と自慢する男のアホらしさから着想を得たそうだが、そうした語りの面白さは確実にこのアルバムの魅力だ。この突拍子もないユーモアこそがUSガールズの武器であり、それはここでさらに磨かれている。前作に続いて戦争の暴力を訴える“M.A.H.”はロネッツのようなイントロで始まったかと思えばチャカポコとコンガが楽しげに鳴り出すふざけたディスコ・ナンバーだが、それはオバマ前大統領に向けられたものである。「わたしは忘れない、なんで許さないといけないの?」──誰もがトランプに怒りをぶつけているときにオバマの外交面の失策を指摘しているのは彼女らしい怜悧さを示すものだが、それはこじれた男女のラヴ・ストーリーのように語られる。躁的な高揚感に満ちたリズムに合わせて中指を立てながら踊るレトロな映像を装ったヴィデオも、シュールでふざけていて、ひたすら痛快だ。


 
 アルバムは“Rosebud”の室内楽+R&B、“Incidental Boogie”のけばけばしいグラム、“Poem”のシンディ・ローパーかマドンナかと見紛うようなシンセ・ポップとコロコロと場面を変え、情熱的なジャズ・ロック・セッション“Time”の狂騒で幕を閉じる。アメリカのショウビズの遺産を引用しながらアメリカを皮肉るというのは最近ではファーザー・ジョン・ミスティの『ピュア・コメディ』を連想するが、ジョシュ・ティルマンのそれがペーソスを纏っていたことを思うと、メーガン・レミーの反骨はもっとタフでパワフル、それにひょうきんだ。この奇怪なプロテスト・ソング集は、それが「Girls=女子」によるものだからこれほどまでに生き生きと躍動しているのだろう……というのは情けない男の勝手な願望だ。メーガンはそんなもの歯牙にもかけずに勝手にやっている……このまま勝手にやってほしい。
 MeTooやTimesUpが強権的な佇まいを帯びてきつつある現在だからこそ、『イン・ア・ポエム・アンリミティッド』のユーモアは輝いている。ここには怒りも憎しみもある。が、それ以上にダンスと快楽がある。収まりのいい場所に1秒だってじっとしていられないとでも言うかのようなUSガールズのポップ・ソングは、新しい時代における自由を無根拠に予感させてくれる。

CV & JAB - ele-king

 2010年代の電子音楽において「シンセサイザーの復権」は大きな要素ではなかったか。例えばエメラルズ(そして解散後のメンバーのソロも含めて)、あるいは初期のワンオートリックス・ポイント・ネヴァー、もしくはインターネット上のヴェイパーウェイヴ、シンセウェイヴ(ある者は有名になり、ある者はいつしか消えていった/またどこかで別の名前で再生しているはずだ)。
 それらシンセサイザー音楽は、もう一方の流行であったドローンやフィールドレコーディング、ミュジーク・コンクレート風のサウンドフォームとミックスされることで、いわゆる「00年代的な電子音響」とは違った「10年代的な電子音楽」を形成し提示していったように思える。

 それらの音楽を単に「シンセ音楽のリバイバル」と片づけるにしては、2010年代の同時代的なムードが強かった。シンセ音楽はあくまでフォームとしてのみあった。大切なのは共通する時代のムードである。
 なかでも〈スペクトラム・スプールズ〉からアルバムをリリースしたことで知られる3人組フォーマ(Forma)は、「エメラルズ以降」ともいえる10年代的なシンセティックな音楽を展開するバンドで記憶に残る存在だ。彼らのサウンドは80年代音楽をベースにしてはいるが、同時代的な音の明晰さがあった。彼らは2年前の2016年にも老舗〈クランキー〉からサード・アルバム『Physicalist』をリリースしている。

 その〈クランキー〉から、シンフォニックなサウンドとドローンを交錯させるアルバムをリリースしてきた作曲家がクリスティーナ・ヴァントゥである。電子音楽家とオーセンティックな作曲家の両方の才能を持つ彼女もまた00年代末期~10年代的なロマンティックなアンビエント/ドローンを展開した重要な存在といえよう。クリスティーナ・ヴァントゥがリリースした『No. 1』『No. 2』『No. 3』はティム・ヘッカーの近作と並び、現代的ロマンティック・ドローン音楽を考えていくうえで重要なアルバムである。

 そして今回、〈シェルター・プレス〉からフォーマのシンセストであるジョン・オルソー・ベネット(John Also Bennett)とクリスティーナ・ヴァントゥのコラボレーション・アルバムがリリースされた(「CV & JAB」名義)。これは2010年代後半のムードを決定付けるアルバムではないかと思う。シンセ音楽とドローンとミュジーク・コンクレートとニューエイジな環境音楽の交錯がここにあるからだ。
 本作の録音過程はいささか特殊である。シンプルな描線と点による極めてミニマムでポップな絵画作品と、マテリアルな即物性を表象するオブジェ作品などで知られるカナダ人アーティスト、ジン・テイラー(現在はフランスを拠点に活動。1978年生まれ。https://www.zintaylor.com/)の90メートルに及ぶパノラマ壁画的アート作品の前で披露されたライヴ・パフォーマンスを録音しているアルバムなのだ。もともと2パフォーマンスの演奏だったようだが、アルバムでは10トラック(曲)にミックスされている。

 ちなみに演奏はシンセサイザーとヴィジュアル・インストゥルメンツ(!)をクリスティーナ・ヴァントゥ、シンセサイザー、ピアノ、フルートなどをジョン・オルソー・ベネットが担当している。録音は2017年5月6日で、ドイツ・ミュンスター「Westfälischer Kunstverein」のミュージアムで行われたという。ミックスはジョン・オルソー・ベネット、マスタリングはラシャド・ベッカー(D+M)だ。演奏の模様は、ジョン・オルソー・ベネットのサイトに写真が掲載されている。

 “Cactus With Vent”、“Hot Tub”、“Large Suess Plant”へと展開される音のつらなり、“Brick With Modern Form (B. Hepworth)”に突如現れるピアノの清流のような響きなど、どの曲もシルキーな電子音と柔らかい環境音やノイズが折り重なる極上のサウンドスケープを展開している。
 聴いていると時間が浮遊していくような感覚になる。どこか連続と非連続が交錯するように訪れる音響感覚には、日本的な「無」の感覚で、不意に雅楽を思い出しもした。それはオリエンタリズムというよりも、現在の西欧において、このような空虚/無に近いアンビエンスを求めているからではないかと想像してしまう。時間意識が変容しているのだろうか。
 特に微かな電子音が波長のように、ミニマムに、生成する“Nub With Three Wraps Of Fabric”から、ラストの曲“Fingers Of Thought”の光の粒子のように舞い散るピアノの音響に本作特有のミニマルな空虚感が象徴されているように思えた。

 このようなアンビエンスは、むろんジン・テイラーのミニマルな絵画作品への共振という側面もあるだろうが、2017年に〈シェルター・プレス〉からリリースされたレーベル主宰者の一人フェリシア・アトキンソンのアルバム『Hand In Hand』にも(音楽性はいっけん違えども)近い美意識/感覚に思えた。
 つまり西欧の教会的なアンビエンスと、どこか「日本的」(むろんカッコに括った上でだが)な「無/空虚」感覚こそ、昨年以降の〈シェルター・プレス〉、ひいてはアンビエント音楽のモードではないか、と。

 いずれにせよこのユニットがそれぞれの活動とは別の個性を確立していることには間違いない。それは2017年にブルックリンの教会で開催されたイベント「Ambient Church」での演奏動画を観ても感じられた。ちなみにこのイベントにはフェリシア・アトキンソンやスティーヴ・ハウスチャイルト、ジョン・エリットなども参加している。

 現在の電子音楽が希求する「無」の感覚。それが「10年代的なものから20年代的なもの」への変化の兆しともいるのかどうかは分からない。
 が、『ZIN TAYLOR ‘Thoughts Of A Dot As It Travels A Surfac』を聴いていると、アンビエント的な反復・持続「だけ」ではないにも関わらず、とても落ち着いた気分にもなる。この「変化するがスタティックな感覚」が、現在のアンビエント/アンビエンス感覚ということもまたひとつの事実に思えてならないのだ。

interview with yahyel - ele-king


yahyel - Human
ビート

SoulBass MusicLove What Survives

Amazon Tower HMV iTunes

 マウント・キンビーとの出会いが大きかったようだ。
  海外と日本とのあいだにある音楽的な乖離、それに対する苛立ち。そのギャップは何よりもまず音そのものによって乗り越えていくしかない、だからあくまでサウンドで勝負をかけること、そのために匿名的であること――1年前までのヤイエルを簡潔に言い表すなら、そうなるだろう。海外からは奇異なものと見なされ、逆にここ日本ではその音楽性ゆえに浮いてしまう。ヤイエルはその名のとおり宇宙人だった。そのような疎外感は本作でも1曲目冒頭の「I'm a stranger」という言い回しに表れている。しかし今回は少しばかり様子が違う。なんと言ってもタイトルが『Human』だ。宇宙人はいま、人間になろうとしているのだろうか。
  彼らのセカンド・アルバムを再生すると、まずはサウンド面での変化が耳に飛び込んでくる。もたつくように揺らぐリズム、ぶんぶんと唸りを上げるベース、研ぎ澄まされた音色/音響――それら鋭さを増した音の数々に耳を傾ければ、彼らが前回以上に貪欲にさまざまな種類の音楽を吸収してきたことがわかる。
  にもかかわらず、本作の核を成しているのはむしろ言葉のほうだ。実験的なサウンドのうえに乗る池貝峻のヴォーカルは、さまざまな葛藤や迷いを偽ることなく丁寧に歌い上げる。「私はよそ者」というフレーズで幕を開けたはずのこのアルバムは、そして、「愛する者たれ」というメッセージを放って幕を閉じる。自らが理解されない、あるいは周囲と異なっているという感覚それ自体はそれこそロマン主義の頃から脈々と続くものではあるけれど、彼らはそれを「愛」のレヴェルにまで運んでいく。
  最終曲“Lover”は、そのグランジのようなイントロからしてすでに他の曲と異なる趣を醸し出しているが、リリックはアルバム全体の流れを、とりわけ直前の“Pale”を踏まえた内容になっており、主人公は逡巡のループからの脱出を試みる。前へ進むためには選ばなければならない。選ぶためには捨てなければならない。だからこそ、そこで捨てずに選びとったもの、すなわち「生き残ったもの」を自信をもって愛さなければならない――それがヤイエルの呈示する「Human」の姿だ。
  この着想は、昨秋共演したマウント・キンビーとの交流のなかで芽生えたものだという。そういう意味でこのアルバムは、マウント・キンビー『Love What Survives』に対する最初の大きなリアクションと呼ぶこともできる。かつての宇宙人は「愛」を知り、いま人間になろうともがいている――逡巡に折り合いをつけたヤイエル第2章、その幕開けに盛大なる拍手を。


匿名性がうんぬんとか、音の部分でも海外の誰それに似てる/似てないとか、良い/悪いとか、ほんとうにどうでもいい部分だけが取り上げられちゃって、それがすごく苦しかったんですよ。

池貝さんはいわゆるふつうの仕事と並行して音楽活動をされていますが、音楽のほうは仕事ではないべつのものとしてやっている感覚でしょうか? あるいは、同じ仕事だけど質の違うものでしょうか?

池貝峻(以下、池貝):そこはそんなに考えたことはないかもしれないですね。逆に言えば僕はふつうの仕事も、そういうふうに(べつのものと)思ってやるのが嫌なんですよ。ただ、決定的に違うのは音楽は表現活動ですし、僕はそれがちゃんと支持を得て人に届くこと自体がすごく大事なことだと思っていて。仕事だとすごく客観的になりますよね。だから、社会のなかで個人が声を上げてそれを最大化させてもいいんだってこと自体がすごく意味があることなんじゃないかなと思いますし、むしろそれがなかったら意味がないし、それこそがやりたいことですね。結果的に仕事であるかないかは、二の次ではありますよね。

ふつうの仕事でも、クリエイティヴに頭を使わなければいけない場面はありますよね。

池貝:もちろんアイデアをひねることはあるんですけど、それは客商売なので。僕にとって音楽は客商売じゃないんです。というか客商売になったらつまらないなと思いますね。

聴いてくれる人たちのことを想定することはあまりない?

池貝:ないですね。僕は届く人を想定して書きたくないんです。そうやって客商売にしちゃうと、受け取り側の聴き方をこっちで定義しちゃうような気がして。それは僕らがやる仕事じゃないというか。でも、(聴いている人が)生きやすくなったらいいなと思って書くことはあります。僕は人間関係が希薄な状態がつらいんで。誰も本音で喋らなかったり、人が何かの都合で簡単に変わっていってしまったりとか、そういうことが嫌な人間なんですよね。だから自分の意思がちゃんと出せて、人間らしい生活を送れる世の中になったら良いなという思いはありますけど、でもべつに音楽でそれを変えてやろうとかは思ってないですね。

その話はまさに『Human』に繋がりますね。前回取材させていただいたときに強調していたのは、海外と日本との音楽的なギャップについてでした。だから『Flesh and Blood』ではあえて顔を伏せて音で勝負する、という形だったと思うのですが、今回の新作を作るうえでのいちばんの動機はなんだったのでしょう?

池貝:初作のときのフラストレイションはある意味では客観的だったかなとも思っていて。コンプレックスがある/ないって当たり前のことじゃないですか。まずそういう事実としてあることを客観的に提示することで、それを語らざるをえない状況にしたいと思っていたんですよ。たぶん「なんで誰もそれを話さないの?」みたいな視点でしたね。でも、僕らの顔を出すということはそれ自体がエゴだなと思っていたので、そういうことをせずにその問題だけを語るという状況になれば、その事実が変わるんじゃないかと思ったんですね。だからある種の怒りもあったと思います。
  ただ、アルバムを出したら逆に匿名性がうんぬんとか、音の部分でも海外の誰それに似てる/似てないとか、良い/悪いとか、ほんとうにどうでもいい部分だけが取り上げられちゃって、それがすごく苦しかったんですよ。自分とはまったく違うことが語られているような感じで。言いたいことは最初から何も変わっていなくて、僕の主観だったり僕が人間的な感覚を持っていることそれ自体がすごくユニヴァーサルな話だと思うんですよ。人種のステレオタイプとかコンプレックスとかそういうものを一回置いておいて、ふつうに人間的な感覚の部分に関して言えばどこの国だろうとそんなに変わらないと思うんですね。初作ではそういうユニヴァーサルな部分を出したかったし、それと同時に東京に生まれていまこの時代を生きている人の感覚はこうなんだよというところにフォーカスしたかったんです。
  でもそこまで行かなかった。それは僕らの実力不足ですね。単純に音が良くないから、そこまで訴えかけるものがないんだろうなと。僕らの音楽がほんとうに良いもので新しいもので「これしかない」と思ってもらえているんだったら、そもそもそういう話なんて出てこないですよね。だからその実力不足についての自責の念みたいなものがこの1年ずっとあって、そういう評価を受けるたびにちょっと傷ついていったというか。なので今回それにどうやって向き合うかとなったときに最初から決めていたのは、個人のことを話そうということでした。とにかく自分のことを突き詰められれば良いなと。そこに責任を持てて言い訳のないものを作ろうと思ったんですよね。だから『Human』には、ファーストを出して以降苦しかった時間のなかで、僕らがどういうふうにその人生と折り合いをつけてきたのかということが出ていますね。表現者としての立場を与えられて認知もされてきた自分たちの、当事者的なドキュメントみたいな側面が今回のアルバムにはすごくあるのかなと思っています。

孤独じゃないって状態はないと思うんですよ。だって最終的には自分しか自分の考えていることはわからないですし、他人と100%わかりあえるということはないですよね。連帯感みたいなものだって結局は自分の主観ですし。

リリックを1曲目の“Hypnosis”から順に追っていくと、物語のようになっていますよね。それがそのドキュメント性ということでしょうか?

池貝:そうだと思いますよ。そのときそのときの感情が出ているし、曲が進むごとにちょっとずつ選択していると思うんですよ。これを得たらこれを捨てないといけない、じゃあ何を選ぶのか、みたいな。そのなかで、「自分は一度こうやって逃げなきゃいけなかった」というような弱い部分も出ていると思うんですよね。前回のアルバムではつねにひとつの視点から怒っていたんですけど、今回は自分も含めて人間ってそもそも弱いものだし、結局この人の選択というのは自分の選択と表裏一体なんじゃないかという疑問も含めて、行ったり来たりしていると思います。その過程で何を見つけていくのかというのがちょっとずつ解き明かされていくというか、ようするにこの1年間の思考の流れがよく出ているなと思いますね。

1曲目“Hypnosis”は「I'm a stranger」から始まりますし、3曲め“Rude”の「あなたは正義で、私は愚かである」や、7曲目“Body”の「Who defies」などのフレーズから、このアルバムの主人公はすごく孤独に思えたんですが、池貝さんご自身は孤独ですか?

池貝:僕が孤独というより、結局みんな孤独なんですけど、そのなかでどう折り合いをつけるかなんじゃないですかね。孤独じゃないって状態はないと思うんですよ。だって最終的には自分しか自分の考えていることはわからないですし、他人と100%わかりあえるということはないですよね。連帯感みたいなものだって結局は自分の主観ですし。だから今回のアルバムは主語を「I」にしようと思って。前回のアルバムはけっこう「we」が多かったんです。というのも、そのときはすごく自信があったんですよね。さっきも言ったように、自分の感覚自体がファクトだと思っていて。

前提として他の人も感じているものだと思っていた?

池貝:はい。「みんな、わかってるでしょ?」みたいな感覚があったので、主語が「we」になっていた。でも初作を出してどうしようもない感覚を得た結果、そもそもみんながそう思っていることなんてありえないんだなと。事実があってもそれをごまかして生きていかないといけない人もいるし、それはそれで弱いと思う。結局みんなそれぞれの思想に従属するしかない。そこで「we」とか言っていてもしょうがないなと(笑)。ちゃんと「I」で語らないとなと思ったんですよ。

なるほど。僕は最初の「stranger」からカミュの『異邦人』を思い浮かべたんですよ。主人公は母親が死んでもなんとも思わなくて、最後は死刑になるんですが、周りから理解されないことを彼はとくに気にしていない。そういうじめじめした感じじゃない「理解されない私」みたいなニュアンスが、このアルバムにもあるのかなと。

池貝:それはあると思います。僕はけっこう人への期待値が高いんですけど、自分の感情は「どうでもよくね?」となっちゃうタイプの人で……いや、難しいのでわからないですね(笑)。

人への期待値が高いというのは、「これくらいはやってくれるだろう」とか「わかってくれるだろう」ということ?

池貝:なんですかね。みんなそれぞれ感覚があって、それに沿って生きていて、わかりあうことはできないけど、「あなたはあなたで意見があるでしょ?」という期待値がすごく高くて。「俺のことを理解できるわけがない」と思いつつ、「俺がどう思っているかが大事なわけじゃなくて、でも俺はこう思っている」というようなコミュニケイションを期待しがちなんですよね。みんな持っていると思っているんで(笑)。だからじめじめはしていないかもしれない。

篠田ミル(以下、篠田):前作と比べて池貝は、ポジティヴな意味で人への期待値を下げたと思うんですよ。さっきの「we」の話もそうなんですけど、自分の感覚が普遍的にみんなの感覚だと思っていたことに対して折り合いがついたというのは、つまり人への期待値の部分にも折り合いがついたということだと。傍から見ていて、池貝は自分の考えが相対的なひとつの考え方でしかないということに気づいたんだなと思ったんですよね。そのなかで「自分がどう思っているかも自分は自分で書くからいいよ」というスタンスになったんだなと思いますね。

前回は匿名性があったのに対し、今回はひとりの人間の思いに焦点が当てられていて、ある意味でポストモダンからモダンに回帰したという印象を抱いたんですが、どう思われますか?

篠田:逆だと思いますけどね。モダンって絶対的なイデオロギーだったり、何かしら「大きな物語」があったりして、それにみんなが誘導されているというものだから、それはガイ(池貝)の言う普遍的な価値観だったり「we」みたいなものがあるということだと思います。だとすると、セカンドのほうがみんなそれぞれに相対的な解があるという話になっているので、完全にポストモダンで、逆ですね。


[[SplitPage]]

捨てたからには選んだものを自分の意志で愛さないと、残ったものを愛していかないと前には進めないんだなとそのときに思ったんですよね。


yahyel - Human
ビート

SoulBass MusicLove What Survives

Amazon Tower HMV iTunes

サウンドに関して、今回は“Rude”や“Pale”、“Battles”の後半部分のようにリズムがもたつく曲が増えたと思うのですが、それはリリックの変化ともリンクしているのでしょうか?

池貝:どちらかと言うと今回は表現にフォーカスしていこうと思ったんですね。前回のときは、日本のすごくドメスティックな状況に、ふつうに海外のオンタイムな音楽を持ってこられるかどうかということ自体がある種のメッセージみたいになっていて、「やれないわけないじゃん」という思いがあったんですけど、今回はとにかく自分たちが言いたいこと、自分たちの正解を探そうというプロセスで音を選んでいますね。もちろん、あとから分析したら「あのときはあれを聴いていたな」とかいくらでも理由はつけられると思うんですけど、基本的に今回の制作では言いたいことにフォーカスしています。

今回はベースがぶんぶん鳴る曲も増えたように思います。“Polytheism”や“Body”、“Iron”とか。

池貝:そうですね。去年1年間はたしかにしんどかったんですけど、ヤイエルとしてはかなり濃密な時間を過ごしていたし、われわれが5人でやるとどうなるのか、やりたいことはなんなのか、われわれの色味はなんなのか、みたいなところをひとつひとつ5人で共有してきたので、映像も含めてそれがすごく強固になった、その過程でそういう音選びがされたということだと思います。

篠田:ベースとか音選びに関して言えば、やっぱりライヴから還元された部分がすごく大きくて。以前からライヴではわりと暴力性みたいなものが5人の共通認識としてあったにもかかわらず、『Flesh and Blood』にはそこがあまり落とし込められていなかった。そのとき聴いていたものの影響だとは思うんですけど、僕たちのなかでもインディR&B的なサウンドとベース・ミュージックとのあいだで揺らぎがあったと思うんです。自分たちがどこにいるのかわかっていなかったというか。それがライヴからの還元が入ることによって、R&B的なメロウやスムースみたいなものから離れていって、自分たちのアイデンティティがわかってきたということもあって。そういうライヴでやってきたような暴力性をいかに閉じ込めるかというところでの選択として、ベースがああいう音になったというのはありますね。

“Iron”は曲のなかで壊れていく感じがあって、もしかしたらこのアルバムのなかでいちばんの肝なんじゃないかと思いました。

篠田:それはほんとうにおっしゃる通りで、“Iron”は制作の初期段階でできた曲なんですよ。あの曲がわりと指標になっていて。


去年の夏にシングルとして出した曲ですよね。10月にマウント・キンビーとやったときにはもうアルバムはでき上がっていたんですか?

篠田:ほぼほぼでき上がっていました。

池貝:でもまだぜんぶはでき上がってなかったですね。最後の曲(“Lover”)はマウント・キンビーとのライヴのあとに書きましたよ。その曲にはマウント・キンビーのメンバーと話していたことがすごく反映されていますね。

最後の曲(“Lover”)はグランジっぽい感じで始まって他とは雰囲気も違いますし、9曲目の“Pale”と「ループ」という言葉で繋がっていて、9曲目では「戻れない」「諦めろ」だったのが、10曲目ではそこから脱出しようとしています。アルバムの最後にこの曲を持ってきたのには特別な意図があったのですか?

池貝:いや、“Pale”までやった時点で「そういうことか」と気づいたところがあって、結局逃れられないのって捨てていないからだと思ったんですよ。“Pale”はそういう曲なんです。取捨選択をしない状態ではループからは逃れられないというか。それで、先に進むためにはどうするのかという曲が“Lover”なんです。べつに愛情がどうこうみたいな話じゃないんですよ。単純に、残ったものを愛するしかない。マウント・キンビーの前回のアルバムは『Love What Survives』でしたよね。それとまさに同じことで、捨てたからには選んだものを自分の意志で愛さないと、残ったものを愛していかないと前には進めないんだなとそのときに思ったんですよね。
  マウント・キンビーとライヴをして、最後にメンバーと話したんです。「東京ってこういう街で」とか、ヨーロッパに対するコンプレックスとか、そもそも誰も本音を話したがらないからブレイクスルーがないとか、いまの「海外から来たものはなんでもいい」みたいな状況とか、日本人の海外の人たちへの丁寧な感じというのは見栄でもあり「ストレンジャー」としてのおもてなしみたいなものなんだ、というような話をして。「俺は、そういうこと自体がコミュニケイションを遮断しているから嫌で嫌でしょうがなくて、そこが制作の肝になっている」という話をしたら、カイ(・カンポス)が「それは俺らもわかっているけど、そもそも俺らは何もできないじゃん。でも俺らも同じような表現者としての壁があるし、イギリスから来たイギリスの音楽みたいなものへのステレオタイプもあるし。みんな出自みたいなものは持っていて、それを変えられないということは同じだし、折り合いをつけなきゃいけないときが来ると思うよ」と言って。僕はそれですごく納得したんですよね。
  この1年間オーディエンスに対するアティテュードの部分ですごく混乱していて、われわれに居場所を与えてくれている人たちのことがすごくありがたかった反面、彼らは俺らのことを話していないという感覚もあったので、どうしたらいいかわかんなくなっていたんです。だから、ステージに立つ側にいる人が同じような感覚を持って表現していたこと自体が僕にとってすごく救いだった。僕らはマウント・キンビーのことが好きで聴いていましたし、最初のアルバムの制作時には影響を受けていたと思うんですけど、じっさいに会ってみて、音だけで勝負できる媚びないアーティストってそういう部分をちゃんと掘っているんだなと思いましたし、自分のアウトプットに自信があるのはそれがちゃんとリンクしているからなのかなと。それで、自分たちも当事者としての責任と覚悟を持たないといけない、それはある意味では自分がいちばん大事にしているものを捨てなきゃいけないということだし、そのことにちゃんと自覚的になったうえで最期は自分の選択を信じないといけない、と思ったんですよね。だから最後の曲が“Lover”になったんだと思います。


しょせん音楽なので、それが表現としてあるということ自体がたいせつなことであって、音楽で影響を与えられるみたいなことっていまとなってはすごくくだらないと思うんですよね。

ではそこで捨てたものとはなんでしょう?

池貝:ちょっとまだわかんないんですけど、もしかしたら人を変えられるということ自体を諦めたのかもしれないですね。しょせん音楽なので、それが表現としてあるということ自体がたいせつなことであって、音楽で影響を与えられるみたいなことっていまとなってはすごくくだらないと思うんですよね。ちゃんと自分のことを言うことのほうが大事だと思いますし、コンプレックスみたいなものに対していつまでも怒っていてもしょうがないし、自分たちがちゃんとストイックになって良いものを作って、その先で開かれる扉みたいなものを見たいと思うんですよね。

アルバムを締めくくる「Be a lover」という言葉は、自分自身に対して言っているところもある?

池貝:自分自身に向けてでしかないと思います。自分ですよ(笑)。でもこれはちゃんとして行動の選択だと思っていて。

訳詞だと「愛せ」と動詞になっていますが、直訳すると「愛する者であれ」という感じですよね。愛する「人」であれ、というところがおもしろいと思いました。

池貝:ほんとうにそうだと思います。選択と行動をとる人間でありたいと思うので。

じつは編集長からひとつ質問を預かってきているんですよ。いまの時代ほど「かっこいいことはなんてかっこ悪いんだろう」(早川義夫)と思いませんか?

池貝:ははは。そうなんですよね。ほんとうにそうだと思います。ますます正直な人が損をする世の中ですよね。

それはたしかに感じますね。

池貝:このアルバムで人間って首尾一貫していないし、何かを選択しないといけないという結論を出しておいてなんなんですけど、僕は首尾一貫している人のほうがぜんぜん好きなんですよ。移ろっていく人って僕はなんかつらくなっちゃうんですね。だから苦しいわけで、そういう一貫したかっこいい人がいる時代もあったような気がするんですけど、僕らはもうそういう感覚のなかに生きられない。情報量が多すぎるし、個人的には言い訳が多すぎると思う。だからまさにおっしゃる通りで、結局かっこいいことがかっこ悪くなっちゃうんですよね。ファクトを言っちゃうとかっこ悪いみたいな(笑)。

篠田:難しいね。

ダサく見えちゃうということ?

池貝:言い訳がなくなるのが怖いんじゃないんですかね。でもそれも含めて「自分はそう思う」ということを選択していかなきゃ僕は無理だったんで、自己肯定も必要だとは思うんですよね。それがいかに宗教らしくなろうとも、自分が考え抜いて出した結論を愛するということしかできないんじゃないかなと。かっこ悪くなっちゃうというのもわかりますけど、それを捨てるというのもひとつの結論なんじゃないかと思います。でもすごくわかります(笑)。

首尾一貫している人のほうが好きというのはおもしろいですね。たぶん一般的には「不完全でダメだよね、だから人間って素敵だよね」みたいなことを言う人のほうが多いと思うんです。

池貝:僕はその弊害もあると思っているんですよ。「不完全であることが良いこと」みたいにフォーマットになってきちゃっているけど、それってあらかじめ定義されていることになりますよね。人間の自然な姿の結果があって、それが不完全だから魅力だよねという話ならわかりますけど、そこを目指すということの弊害はあると思いますね。

篠田:そうだね。不完全だから魅力的なんじゃなくて、完全にしようと目指しているんだけど結果的に不完全になってしまう、だからこそようやく魅力的になるんだという気がします。池貝も横で見ていてそういう感じがあるというか、俺は一貫しているんだよねって振りをしているんですけど、そんなことないし、『Human』にはそれが表れてしまっているところがおもしろいと思うんですよね。

Submotion Orchestra - ele-king

 サブモーション・オーケストラの新作『カイツ』を手に取ったとき、そのジャケットのアートワークが醸し出す雰囲気から、シネマティック・オーケストラの『マ・フルール』(2007年)をふと思い起こした。『マ・フルール』のジャケットは美術家のマヤ・ハヤックが撮影した風景写真で、アナログ盤にはほかにも10数枚のレコード・サイズの写真が同封され、音楽とアートワークでひとつの作品として成立するものだった。作品内容もそれ以前のジャズ色の濃い重厚で壮大なものから、フォークトロニカやアンビエント寄りの穏やかで美しいものへと変化し、ストリングスに象徴されるオーガニックなテイストも印象的だった。シネマティックの転機となった作品で、彼らの最高傑作に推す人も多い。『カイツ』の方はフィルムのコマ送りのように分割された多数の写真を用い、収録曲それぞれに一枚ずつの写真が割り振られている。その中の“ブランチズ”に添えられた写真は、構図や色合いなど『マ・フルール』のジャケットにかなり近いイメージで、そんなところからもシネマティックのこの作品を想起したのかもしれない。『カイツ』の写真はサブモーション・オーケストラのメンバーがそれぞれ撮影したものだそうだ。松原裕海氏のライナーノートより、ドラマーでバンド内ではプロデュースやアレンジの役割も担うトミー・エヴァンスの言葉を引用すると、「(前のアルバム『カラー・セオリー』からの)過去2年間で、新しい人生や家族の死など、個人的に重要な出来事が私たち全員に起こりました。その出来事を創造的なインスピレーションとするために、私たち7人はそれぞれインスタントカメラを購入し、その出来事が表わすテーマに基づいて36枚の写真を撮り切り、全部で252枚の写真から10枚の写真を選び、このアルバムの各10曲のインスピレーションとして使用しました。それぞれのトラックと写真の組み合わせは、異なる出来事を、テーマや感情を探求しています。全てが正直で、妥当で、その多くが非常にパーソナルなんです」とのこと。楽曲タイトルも“アローン”“トンネル”“ナイト”など象徴的だったり、曖昧なイメージを喚起するものが多く、それと対になる写真はそのイメージに基づく抽象的な風景だったりする。

 2010年のデビュー以来、ダブステップ・バンドとして確固たる地位を築いてきたサブモーション・オーケストラだが、3作目の『アリウム』(2014年)あたりからはダブステップという言葉に限定されない多様な音楽性を持つバンドへ進化している。そして、マッシヴ・アタックやポーティスヘッドから、ジェイムズ・ブレイクに至るUKのダウナーなソウル・ミュージックの系譜を引き継ぐと共に、シネマティック・オーケストラに比類する広大で奥行きのあるサウンドスケープを持つバンドへと成長していった。『アリウム』ではそれまでになかったようなポップなアプローチが表われ、続く『カラー・セオリー』(2016年)ではリード・シンガーのルビー・ウッド以外に男性シンガー陣を招くなど、より幅広い作風を取り入れている。『カラー・セオリー』については、バンドの中心的存在のドム・ハワードによるプロデュースのほか、外部プロデューサーとのコラボ曲もあり、全体的にはプログラミングによるエレクトリックな側面が目立ったアルバムでもあった。それから2年ぶりの『カイツ』は、『カラー・セオリー』とは違ってゲストなどが入らず、久しぶりにバンドの原点に立ち返ったものと言えるだろう。レーベルも『アリウム』と『カラー・セオリー』をリリースした〈ニンジャ・チューン〉傘下の〈カウンター〉を離れ、自主レーベルからの作品となっている。冒頭の“プリズム”や“ヴァリエーションズ”、それから“ブランチズ”や“ユース”などを聴いてもわかるように、『カイツ』は今までになくストリングスがフィーチャーされたアルバムで、それとエコーやリヴァーヴなどエフェクトを有機的に結びつけている。また、音と音の隙間が緻密で、非常に綿密で丁寧に作り上げられている。こうした緻密さがサウンドスケープとなり、写真と結びついたアルバム・コンセプトを体現する。シネマティック・オーケストラとサブモーション・オーケストラとの共通性は、こうした視覚的な音作りにある。優しく夜の眠りに包み込まれるようなバラードの“ナイト”は、途中からディープなダブステップへとスライドする、サブモーション・オーケストラらしさが表われたナンバー。この曲や“オウン”と、ルビーの美しい声を生かしたバラード系のナンバーも印象に残るが、これらでのサイモン・ベッドーのトランペットは、まるでチェット・ベイカーのようでもある。そして、彼のホーン・アレンジメントが秀逸なアルバムでもある。表題曲の“カイツ”ではダブ特有のエコー効果を生かしたホーン・アレンジで、それとストリングスの絡みが素晴らしい。冒頭で述べた、シネマティック・オーケストラの『マ・フルール』と共通する味わいを感じさせる楽曲と言えるだろう。そして、ヴォーカル、ピアノ、ストリングス、ホーンなど全ての音のパーツが最良のバランスで配された“ユース”。こうした音のパーツを下で支えるドラムとベースも研ぎ澄まされており、“トンネル”や“ブリッジ”のようなダブステップ寄りの作品では深遠なプロダクションを見せる。そして、エコーの効いた音の毛布に包まれるような“アローン”でアルバムは締めくくられる。シネマティック・オーケストラにとっての『マ・フルール』がそうだったように、『カイツ』はサブモーション・オーケストラがまたひとつ覚醒し、さらなる高みに到達した姿を見せてくれるアルバムとなった。


Oneohtrix Point Never - ele-king

 昨年は映画『Good Time』の劇伴坂本龍一のリミックスを手がけ、最近ではデヴィッド・バーンの新作に参加したことでも話題となったOPNが、5月にNYで開催されるライヴのトレイラー映像を公開しました。これ、新曲ですよね。しかもチェンバロ? 曲調もバロック風です。この急転回はいったい何を意味するのでしょう。そういう趣向のライヴなのか、それとも……。

ONEOHTRIX POINT NEVER
5月にニューヨークで行われる大規模コンサートの
トレーラー映像を新曲と共に公開!

昨年、映画『グッド・タイム』でカンヌ映画祭最優秀サウンドトラック賞を受賞したことも記憶に新しいワンオートリックス・ポイント・ネヴァーが、【Red Bull Music Festival New York】の一環として5月22日と24日にニューヨークで行われる最新ライブ「MYRIAD」のトレーラー映像を公開した。ダニエル・ロパティン(ワンオートリックス・ポイント・ネヴァー)自らディレクションを行い、その唯一無二の世界観が垣間見られる2分間の映像には、ワンオートリックス・ポイント・ネヴァー名義の新曲も使用されている。

Oneohtrix Point Never - MYRIAD
https://opn.lnk.to/MyriadNYC

Video by Daniel Swan and David Rudnick
Directed by Oneohtrix Point Never
Animation by Daniel Swan
Produced by Eliza Ryan
Videography by Jay Sansone
Additional Animation by Nate Boyce
Thrash Rat™ and KINGRAT™ characters by Nate Boyce and Oneohtrix Point Never
Engravings by Francois Desprez, from Les Songes Drolatiques de Pantagruel (1565)
Additional Typography by David Rudnick

本公演が開催されるパークアベニュー・アーモリー(Park Avenue Armory)は、以前は米軍の軍事施設だった場所で、ライブが行われるウェイド・トンプソン・ドリル・ホール(Wade Thompson Drill Hall)は航空機の格納庫のような巨大なスペースである。当日にはスペシャルゲストやコラボレーターも登場し、ここでしか体験することのできない特別なライブ・パフォーマンスが披露されるという。

ワンオートリックス・ポイント・ネヴァー|Oneohtrix Point Never

前衛的な実験音楽から現代音楽、アート、映画の世界にもその名を轟かせ、2017年にはカンヌ映画祭にて最優秀サウンドトラック賞を受賞した現代を代表する革新的音楽家の一人。『Replica』(2011)、『R Plus Seven』(2013)、『Garden of Delete』(2015)と立て続けにその年を代表する作品を世に送り出してきただけでなく、ブライアン・イーノも参加したデヴィッド・バーン最新作『American Utopia』にプロデューサーの一人として名を連ね、FKAツイッグスやギー・ポップ、アノーニらともコラボレート。その他ナイン・インチ・ネイルズや坂本龍一のリミックスも手がけている。さらにソフィア・コッポラ監督映画『ブリングリング』やジョシュ&ベニー・サフディ監督映画『グッド・タイム』で音楽を手がけ、『グッド・タイム』ではカンヌ・サウンドトラック賞を受賞した。


label: Warp Records / Beat Records
artist: Oneohtrix Point Never
title: Good Time Original Motion Picture Soundtrack

cat no.: BRC-558
release date: 2017/08/11 FRI ON SALE
国内盤CD:ボーナストラック追加収録/解説書封入
定価:¥2,200+税

【ご購入はこちら】
beatink: https://www.beatink.com/products/detail.php?product_id=4002
amazon: https://amzn.asia/6kMFQnV
iTunes Store: https://apple.co/2rMT8JI


label: Warp Records / Beat Records
artist: Oneohtrix Point Never
title: Good Time... Raw

cat no.: BRC-561
release date: 2017/11/03 FRI ON SALE
国内限定盤CD:ジョシュ・サフディによるライナーノーツ
ワンオートリックス・ポイント・ネヴァーとジョシュ・サフディによるスペシャル対談封入
定価:¥2,000+税

【ご購入はこちら】
beatink: https://www.beatink.com/products/detail.php?product_id=9186
amazon: https://amzn.asia/gxW5H63
tower records: https://tower.jp/item/4619899/Good-Time----Raw
hmv: https://www.hmv.co.jp/artist_Oneohtrix-Point-Never_000000000424647/item_Good-Time-Raw_8282459

Shuttle358 - ele-king

 エレクトロニカ/電子音響以降のアンビエント・ミュージックに「物語」は希薄だ。いや、「コンセプト」すらない。音の生成があるのみだ。むろん変化はある。生成/変化だ。しかしその変化はミニマルでなければならないし、音響のトーンはスタティックでなければならない。意味ではなく、音。その空白と音響のバランスの追求。空虚という存在ほど、人間社会への強い問いかけもないだろう。その意味でエレクトロニカ以降のアンビエントは反転した存在論的なサイケデリック音楽といえなくもない。

 テイラー・デュプリーが主宰する〈12k〉がリリースするアンビエント作品を聴いていると、ふと「写真」のようだと思うときがある。むろん彼が優れたフォトグラファーで、その作品がアートワークに使われているからそう感じるのかもしれない。しかしそれは具体的なイメージというより記憶に一瞬だけ残っている光景/感覚に近い。記憶の音楽としてのアンビエントとでもいうべきか。物語性は希薄だが人間の繊細な感覚は封じ込めている。記憶。瞬間。反復。生成。
 シャトル358の新作『Field』を聴いたときも、そのような感覚を持ったものだ(ああ、〈12k〉の音だと思った。それも00年代初頭の頃の……)。しかし人の記憶に「棘」があるように、その音もまた単に優しいだけではない。彼の音に美しい「棘」がある。これが重要だ。新しい彼の音は意外なほどに「硬い」。

 シャトル358は、本名をダン・エイブラムスという。 彼は90年代末期から活動を始めたエレクトロニカ・アーティストだ。1999年に〈12k〉から『Optimal.lp』、00年に『Frame』、02年に『Understanding Wildlife』、04年に『Chessa』を継続的にリリースし、そのクリック&グリッチ・アンビエントな作風から初期〈12k〉を代表するアーティストと目されてもいた。また、ダン・エイブラムス名義では01年に〈ミル・プラトー〉から『Stream』という優れたグリッチ・ミニマルな作品をリリースしている。これもなかなかの名盤だ。
 だが、04年の『Chessa』をリリース後、アルバム・リリースは2015年の復活作『Can You Prove I Was Born』まで9年間ほど途絶えることになる(14年に50部限定のシングル「CYPIWB.12"Lmtd」を〈12k〉からひっそりと出してはいるが)。この04年から15年までのあいだ、クリック&グリッチなエレクトロニカはアンビエント/ドローンへとその潮流を変えていった。グリッチがアンビエント化したのだ。それは時代の変化でもあったし、どこか寂しくもあった。まだまだ00年代初頭のエレクトロニカのミニマリズムには可能性があると思っていたから。
 それゆえ『Can You Prove I Was Born』における「復活」は自分にとって、とても大きかった。ゼロ年代エレクトロニカの失われたピースが埋まったような気がした。じじつ『Can You Prove I Was Born』はオーガニックな響きのグリッチ・エレクトロニカ/アンビエントであり、多いに満足したのである。

 と、ここまで書いてきて前言を翻すようだがシャトル358の音楽のルーツはアンビエント・ミュージックではなく、ミニマル・テクノであろう。そう、先に書いたようにドローン・ミュージックでは「ない」点が重要なのだ。
 彼の音楽にアンビエント的なアンビエンスを感じられるのは、ミニマル・テクノを基礎としつつも、さまざまな音響(グリッチや環境音など)によって、その基礎となっている「テクノ」が多層的に存在する感覚があるからではないかと思う。とはいえ〈12k〉主宰のテイラー・デュプリーもミニマル・テクノ出身であることを考慮すると90年代/グリッチ以降のエレクトロニカ・アンビエントは、そもそも、ミニマル・テクノの一変形だったといえないか(そう考えみると今のテイラー・デュプリーのドローン音楽にも別の光が当てられるはず)。

 シャトル358の新作『Field』もそうだ。ドローン・タイプのアンビエントではなく、さまざまなサウンド・エレメントがミックスされることでアンビエンスな音楽/音響を獲得するクリック&グリッチなアンビエント/エレクトロニカであったのだ。
 アルバム冒頭の“Star”ではテクノの微かな名残のようなキックのような音が分断されるように鳴り、そこに何かを擦るような音、微かなノイズなどがレイヤーされる。加えて変調されたようなシンセのパッドや環境音も鳴る。その音のトーンとざわめきに耳が奪われる。
 続く“Caudex”ではミニマルなベースに、柔らかいシンセとミニマムなノイズや環境音が折り重なり、覚醒と陶酔と睡眠を同時に引き起こす。以降、アルバムはシンセの透明な音とオーガニックな響きのサウンド、デジタルなサウンドと環境音のレイヤーが交錯しつつ、一定のスタティックなトーンで展開していく。
 中でも特筆すべきはタイトル・トラックの“Field”だろう。ミニマルな電子音のループに、オーガニックな音の粒がレイヤーされ、光の反射のような電子音が鳴る。比較的短いトラックだがグリッチ・アンビエントの最高峰ともいえる出来栄えだった。
 また、アンビエント/ドローン的な音響からクリッキーで微細なノイズや環境音が精密にレイヤーされ、オーガニックなムードで音響空間を拡張していく“Sea”、“Dilate”、“Waves”、“Divide”というアルバム後半の流れを決定付ける曲でもあった。

 本作『Field』を聴くと00年代初頭のミニマルで、クリッキーで、グリッチなエレクトロニカ/電子音響の継承を強く感じた。まるで00年代頭の〈ミル・プラトー〉のアルバムのようである。これはむろん懐古ではない。あの時代のエレクトロニカ/電子音響(の方法論)は、決して古びることのない質感と情報量を持っていることの証明ではないか。ここにあるのは、大袈裟な「物語性」ではなく、サウンドの質量/質感を追及するソフト・ノイズな音楽である。何より大切なのは「音」そのものだ。それは空白のミニマル・サイケデリックともいえる音かもしれない。
 そんなシャトル358の新作『Field』は、増殖する「意味」の中で、ある種の電子音楽が再び飽和しつつある今の時代だからこそ聴かれるべき音ではないかと思う。こういった空白のような音楽が、耳には必要なのだ。

interview with Chris Carter - ele-king

 未来なんてわからないものだ。当人たちも驚いているように、昨年のTG再発における反響は、1979年の時点では到底考えられないことだった。しかしながらTGサウンドは、40年という歳月を生き抜いたばかりか、さらにまた評価を高め、新しいリスナーを増やしている。制度的なアートやお決まりのロックンロールを冒涜した彼らがわりと真面目に尊敬されているという近年の傾向には、もちろん少々アイロニカルな気持ちも付きものではあるが。

TGはどこかに帰属することの観念から得られるいかなる快適さを感じさせるような音楽ではなかった。
──ドリュー・ダニエル


Chris Carter
Chemistry Lessons Volume One

Mute/トラフィック

ElectronicExperimental

Amazon Tower disk union

 そう、快適な場所などまやかしだといわんばかりだ。そして、ことに311以降の、政治的に、そして経済的に、あるいは環境的にと、あらゆる場面に「死」が偏在する現代を生きるぼくたちにとって、TGはもはや故郷である。その伝説のプロジェクトにおけるエンジン技師がクリス・カーターだった。彼の手作りの機材/音響装置によってTGは自分たちのサウンドをモノにしているのだから。

広く知られているように、TG解散後、クリス・カーターは元TGの同僚であり妻でもあるコージー・ファニ・トゥッティとのプロジェクト、クリス&コージーとして長きにわたって活動した。近年は、カーター・トゥッティと名義を変えて作品を出している。このようにクリス・カーターは長年活動しながら、しかし滅多にソロ作品を出しておらず、この度〈ミュート〉からリリースされる『ケミストリー・レッスン・ヴォリューム・ワン』がソロとしては5枚目となる。

  念入りに作り込んでしまったがゆえの退屈さ、そして未完成であるがゆえの面白さ、というのはたしかにある。『ケミストリー・レッスン・ヴォリューム・ワン』に収録された25曲には、素っ気ない不完全さがある。画集にたとえるなら、書きかけの絵ばかりが並んでいるようだ。しかし描きかけの絵の面白さというのは確実にある。

あるいはこれはアイデアのスケッチ集なのだろう。通訳(および質問者)の坂本麻里子氏によれば、「科学者とか研究者、大学講師と話しているような気分」だったそうで、クリス・カーターのような冷静な人がいたからこそTGという倒錯が成立したのだ。実際、彼はぼくたちの先生であり、アルバムはさながら研究所の実験レポートである。

それは先週末にも誰かと話していたことなんだけどね、「TGの音楽はかなりの長寿ぶりを誇るものだ」、という。で、初期TGのマテリアルの多くには、ある種のタイムレスなサウンドが備わっているんだよね。それがなんなのかは、僕にもわからない。TGのメンバーの間ですら、そのサウンドがなにか? を突き止められなかったからね。あれは相当に「ある瞬間を捉えた」という類いのものだったのに、でもどういうわけか歳月の経過に耐えてきた。

あなたがソロ・アルバムを発表するのはものすごく久しぶりなことですよね。そしてあなたはこれだけ長いキャリアのなかでソロ作品というものをわずか4枚しか出していないですよね? 

CC:うん、そうだね。

最後のソロ・アルバムが1999年の『Small Moon』になるんですか?

CC:ああ。

ではこのソロ新作は18、19年ぶりという。

CC:(苦笑)そうなるね。(独り言をつぶやくように)長くかかったものだ……

とにかく、ここまでソロ作品が数少ないのはなぜでしょうか? それはあなたの気質なのでしょうか? あるいは、ひとりで作るよりも共同作業が好きだからでしょうか? それともコージー・ファニ・トゥッティとの共同作業があなたにとっては表現活動の基盤になっているからでしょうか?

CC:ただ単に、僕は実に多くの(ソロ以外の)プロジェクトに関わっている、ということなんだけれども。

(笑)なるほど。

CC:いや、本当にそうなんだよ! だから、前作ソロが出た17、18年くらい前を思い返せば、あれはTGが二度目に顔を合わせて再結成する前の話だったわけだよね? 僕たちはあの時点ではまだカーター/トゥッティとして活動していたし、でもそこからTGが再び結集することになって……本当に長い間、僕の人生は再び稼働したTGに乗っ取られてしまったんだ。で、そのTGとしての活動が終わったところで、続いて今度はクリス&コージーが、なんというかまた動き出したし、それに伴い僕たちもクリス&コージーとしてツアーをやりはじめることになってね。
そんなわけで僕としては、あれら様々な他のプロジェクトの合間に自分自身のソロ・レコード制作をはめ込もうとしていたんだ。それに、クリス&コージーの後にはカーター/トゥッティ/ヴォイドが続いたし、また僕たちはリミックスや映画向けの音楽も制作していたからね。
というわけで、うん、基本的にはそれらすべてをこなすのが僕の日常的な「仕事」になっていた、と。だから、(苦笑)自分個人のソロ作品をやるための時間が残らなかったんだね。要するに、しょっちゅう脇に置かれて後回しにされるサムシングというのか、よくある「時間がなくていまはやれない、後で」という、そういう物事のひとつになっていたんだよ。(苦笑)まあ……僕はゆっくりとしたペースでこれらのトラックすべてを構築し、楽曲のアイデアを掴みはじめていった、と。だからソロ・アルバム向けのマテリアルに関しては、他の色々なプロジェクトの合間の息抜きとしてやるもの、そういう風に僕は取り組んでいたんだね。

各種プロジェクトにソロと、あなたは常になにかしらの作品に取り組んでいるみたいですね。

CC:(自嘲気味な口調で苦笑まじりに)そうなんだよねぇ……自分にはいささか仕事中毒な面があると思う。

「ソロ作をやろう」と思い立って一定の期間に一気に作ったものではなく、長い間かかって集積してきた音源を集めたもの、一歩一歩進めながら作った作品ということですね。

CC:ああ、そうだったね。アルバムに収録したトラックの一部は、かなり以前に作ったものも含まれているし……本当に古いんだ。そうは言ったって、さすがにいまから17、18年前というほど古くはないんだけれども。その時点ではまだこの作品に取りかかってはいなかったし。だから、それらは6、7年前にやった音源なんだけど、それでもかなり古いよね。

ソロ新作がこうしてやっと完成したわけですが、正直、いまの気分はいかがですか。

CC:エキサイトしているよ! 本当に興奮しているんだ。というのも、実に長い間、これらの音源は誰の耳にも触れないままだったわけだからね。もちろんコージーは別で、彼女は聴いたことがあったけれども。僕たちふたりは自宅に、居間とキッチンの隣にスタジオ空間を設けているからね。で、ちょっと一息入れたいなというときには、僕はスタジオに入ってモジュラー・システム作りに取り組んでいた。だからコージーは僕がどんなことをやっていたのか耳にしていたし、この作品をちょっとでも聴いたことがあるのは自分以外には彼女だけ、そういう状態のままだったんだ。とても長い間、何年もの間ね。そんなわけで、この音源を〈ミュート〉に送るまで、僕はちょっとしたバブルのなかに包まれていたんだよ。で、それは……そうだな、奇妙な気分だった。というのも、ある面では自分としても、あれらの音源を手放したくない、と感じていたから。

(笑)そうなんですか。

CC:だから、自分はそれだけ楽曲に愛着を感じていた、ということだね。あれはおかしな感覚だった。で、〈ミュート〉の方はなんと言うか……送った当初は、彼らからそれほど大きな反応は返ってこなかったんだよ。まあ、実際僕としても、それほど期待していたわけではなかったし。だから、「試しに音源を送って、彼らが聴いてどう思うか意見を教えてもらおう」程度のものだったんだ。そうしないと、この作品を聴いたことがあるのはやっぱり自分だけ、ということになってしまうし、その状態がずっと長く続いてきたわけだからね。で、いまのこの時点ですら……だから、ジャーナリストたちもようやく試聴音源を聴けるようになったところで、作品に対する彼らからのフィードバックを受け取っているんだよ。この作品についての第三者の意見は、本当に長いこともらっていなかったことになるなぁ……ただ、うん、いまはかなりエキサイトさせられているんだ。本当にそうだ。

長い間ひとりで大事にしまっておいた何かを遂に解放した、と。

CC:ああ。「遂に」ね(苦笑)。

ピーター・クリストファーソンがおよそ7年前(2010年)に亡くなりましたが、そのことと今作にはどのような繋がりがありますか?

CC:そうだね、なんと言うか、このアルバムのレコーディングには彼が亡くなる以前から着手していた、みたいな。僕はすでにいくつかのアイデアに取り組んでいたところだったし、スリージー(ピーター・クリストファーソンのあだ名)ともこのヴォーカルのアイデア、人工的なヴォーカルを使うという思いつきについて話し合っていたんだよ。ところが、そうこうするうちに彼が亡くなってしまった、と。それでなにもかもいったんストップすることになったし、彼の死から1年近くそのままの状態になっていたんだ。それくらいショックが大きかったということだし、少なくとも1年の間は、どうしても僕にはこの作品に再び戻っていくことができなかった。けれども、これらの音源に取り組んでいた間も、かなりしょっちゅう自分の頭の隅に彼の存在を感じていたね。だから、「スリージーだったらどう思うだろう?」、「スリージーだったらどうするだろう?」という思いはよく浮かんだ。
ただまあ……しばらく作業を続けていくうちに、やがてこの作品もこれ独自のものになっていった、と。でも、そうだね、彼の突然の死によるショックで、この作品をかなり長い間中断することになった。それは間違いないよ。

坂本:あなたとコージーはまた、ピーター・クリストファーソンが世を去る前から構想していた『Desertshore/The Final Report』(2012)を彼の死後に完成させましたよね。非常にコンセプチュアルな作品でしたが、様々なヴォーカリスト=異なる声を使っているという意味で、本作となんらかの繫がり、あるいは交配はあったでしょうか?

CC:いいや、それはなかったね。『Desertshore/TFR』は完全に独立した世界を持つアルバムだったし、あの作品向けのマテリアルの多くにしても、亡くなる直前まで彼が取り組んでいたものだったわけで。彼はかなりの間あの作品の作業を続けていたし、僕たちがパートを付け足したり作業できるようにと音源ファイルをこちらに送ってきてくれてもいたんだ。で、あれ、あのプロジェクトに関しては──僕たちとしても、あれ以外の他のもろもろとはまったくの別物に留めておこうと努めたね。というのも、彼には『Desertshore/TFR』に対するヴィジョンのようなものがちゃんとあったし、あの作品向けに彼の求める独特なサウンドというものも存在したから。で、彼が亡くなったとき、彼の遺産管理人が彼の使っていたハード・ドライヴ群や機材の一部を僕たちに送ってきてくれてね。そうすることで、僕たちにあのプロジェクトを完成させることができるように、と。

なるほど。

CC:そんなわけで、あのアルバムというのはちょっとしたひとつの完結した作品というか、それ自体ですっかりまとまっているプロジェクトだったし、それを具現化するためにはやはり僕たちの側も、あの作品特有の手法を用いらなければならなかったんだよ。そうは言っても、あのプロジェクトに取り組んでいた間も僕は自分のアルバムの作業を少々続けてはいたんだ。そこそこな程度にね。というのも、あの『Desertshore/TFR』プロジェクトの作業には僕たちもかなりの時間を費やすことになったし、あの作品に取り組むこと、それ自体がかなりエモーショナルな経験だったから。

父から小型のテープレコーダーをもらったのは、僕がまだ10歳か11歳くらいの頃だったんじゃないかな? で、そのうちに僕はテープレコーダー2台を繋げる方法を見つけ出したし、小型のマイクロフォンも持っていたから、それらを使っておかしなノイズをいろいろと作っていくことができたんだ。

今回のアルバムの背後には、あなた自身のルーツが大きな要因としてあると聴いています。そして、制作中には60年代の電子音楽とトラッド・フォークをよく聴いていたそうですね?

CC:ああ。

で、トラディショナルなイギリス民謡というのは……(笑)あなたのイメージに合わなくて意外でもあったんですけれども、どうしてよく聴いていたんでしょうか? どこに惹かれるんでしょうか。

CC:(笑)いやぁ……まあ、僕はとにかく「良い曲」が好きなんだよ。だから良い曲は良い曲なのであって、(苦笑)別に誰が作った曲でも構わないじゃないか、と。その曲を歌っているのは誰か、あるいは演奏しているのは誰かというこだわりを越えたところで、純粋に曲の旋律に耳を傾けるのもたまには必要だよ。だからなんだよね、僕はアバの音楽ほぼすべて大好きだし、本当に……ポピュラー音楽が好きなんだ。本当にそう。けれども、60年代の電子音楽、たとえばレディオフォニック・ワークショップ(※英BBCが設立した電子音楽研究所。テレビとラジオ向けに効果音他の様々なエレクトロニック・サウンド/コンポジションを制作した)に関して奇妙だったのは……あのワークショップにはかなりの数の人間が関わっていたから(※50〜60年代にかけての期間だけでも9名ほどが参加)、ときにはこう、とてもへんてこなサウンド・デザインや実験的な音楽、サウンド・エフェクツ作品を作ることだってあれば、その一方でまた、実にメロディックで、ある意味……やたら楽しげな、風変わりな歌だのテレビ番組のテーマ音楽をやることもあった、という。

(笑)ええ。

CC:だから、彼らの振れ幅は驚くほど広かったということだし、そのレンジは完全に実験的なものから感傷的な音楽、子供番組向けの感傷的でメロディックな歌もの曲まで実に多岐にわたっていたんだ。で、僕が気に入っているのもその点だし……そうだね、実際のところ、彼らが僕のアルバムになにかしら影響を及ぼしているとしたら、きっとそこなんだろうね。というのも、僕は奇妙なサウンドに目が無いタイプだし、もしも素敵なメロディを備えたトラックが手元にあったとしたら、なんと言うかな、そこに奇妙なサウンドを盛り込むことで、そのトラックをちょっとばかり歪曲させるのが好きなんだ。で、思うに自分のそういう面はレディオフォニック・ワークショップに影響されたんじゃないか? と。

あなたが最初に夢中になったアーティスト/曲はなんだったでしょう? そして、あなたが最初に聴いた電子音楽はなんだったのでしょう?

CC:ああ、最初に夢中になった対象……うーん、それはまあ、どの時期にまで遡るか、にもよるよね? というのも、僕は『Dr.Who』(※1963年から放映が始まり現在も続くBBCの長寿人気SFドラマ。オリジナルのテーマ音楽はレディオフォニック・ワークショップのディーリア・ダービシャーが演奏した)を観て育ったクチだし──

(笑)ああ、なるほど。

CC:それはまさに、いま話に出たレディオフォニック・ワークショップだったわけだよね? だから、ここで話しているのは60年代初期ということであって……かなりメロディ度の高い、『Dr.Who』のテーマ音楽みたいなものもあったし、それと同時にあの番組のなかでは様々な奇妙なノイズも使われていた。それに、BBCが制作した子供向けの番組を聴いていても、そこで使用されていた音楽がレディオフォニック・ワークショップによるものだった、というケースは結構多かったしね。でもその一方で、夜になると今度は自分のトランジスタ・ラジオでトップ・テン番組、いわゆるヒット・チャート曲を聴いていたんだよ。やがて僕の好みはプログレッシヴ・ロックやクラウトロックにも発展していったわけで、うん、自分の好みはかなり多様なんじゃないかと思う。

坂本:あなたの世代はたいてい最初はロックやブルースから入っていると思いますが、あなたの場合はどうだったんですか? たとえばビートルズ、あるいはストーンズの影響の大きさは、あの頃育った英国ミュージシャンが必ずと言っていいほど口にしますよね。

CC:というか、僕は実のところビートルズよりもむしろビーチ・ボーイズの方に入れ込んでいたんだ。ビーチ・ボーイズが本当に大好きだったし、なんと言うか、そこからビートルズを発見していった、みたいな。ああ、それにザ・キンクスの大ファンでもあったね。だから、ちょっと妙な趣味なのかもしれない(苦笑)。

たしかに面白いですね。多くの場合はビートルズから入り、そこからビーチ・ボーイズの『ペット・サウンズ』を発見していく……という流れだと思いますが、あなたはその逆だった、と。

CC:そう、僕にとっては順路があべこべだったんだ。

どうしてあなたは電子音楽にのめり込んでいったのですか? 奇妙な、未来的なサウンドのどこに惹かれたのだと思いますか。

CC:んー……その面についての影響源としては、自分の父親も含めないといけないだろうね。というのも、彼はオーディオ・マニアだったし、ハイファイ機材を蒐集していて、とても高価なステレオ・システムをいろいろと持っていてね。すごく上等なスピーカーだとか。でも、そのなかにはテープ・レコーダーも2、3台混じっていて、父はかなり大型なテープ・レコーダーを所有していてね。それだけではなく小型のテープ・レコーダーも持っていたから、やがて父は小さい方の録音機を僕にくれることになったんだ。小さなリールが取り付けられた電池稼働式のテレコ、程度のものだったけれども。
父からあれをもらったのは、僕がまだ10歳か11歳くらいの頃だったんじゃないかな? で、そのうちに僕はテープ・レコーダー2台を繋げる方法を見つけ出したし、小型のマイクロフォンも持っていたから、それらを使っておかしなノイズをいろいろと作っていくことができたんだ。
だから、すべてはあの時期から来ているんだろうね。ティーンエイジャーの一歩手前の段階にいた自分が、父親の持っていた音響機材をあれこれ繋げていたあの時期──まあ、父が仕事に出て行った後にこっそりやっていたんだろうけども。というのも、(苦笑)あれらの機材を僕がいじったり繋げるのを父が許可してくれたとは思えないし……。

(笑)。

CC:(笑)ただまあ、そうだね、ほんと、すべてはあの経験から来ているんだと思う。子供時代の自分には音響/録音機材に触れる手段があった、という。それはあの当時としてはかなり変わっていたんじゃないかな。

お話を聞いていると、あなたは早いうちからただ音楽を聴いて楽しむだけではなく、音楽を作ることやサウンド・メイキングの可能性を自分なりに探ることに興味があったようですね?

CC:ああ、そうだったね。だから、僕はラジオを通じて番組や既成の音楽を録音するというのはほとんどやらなかったし、文字通り、「自分のサウンド」を作り出していたんだよ。もっとも、それらは真の意味での「音」に過ぎなかったけれども。音楽的なコンテンツはまったく含まれていない、サウンドによる純粋な実験だったんだ。それに、いまだに……たぶん僕は、音楽的にはディスレクシア(読字障害)の気があるんじゃないかと思っていて。だからいまだに、キーボード他に文字を書いて目印をつけないといけないんだよ。「これはこの音符に対応する」、みたいな。
僕はなにもかも耳で聴くのを頼りにやっているんだ。完全にそうだね。というわけで、(譜面を読める等の正統的な意味での)音楽に関してはかなり役立たずな人間なんだ。それでも、リズム面はかなり得意だけれども。で……そうは言っても、なにかを耳にしたり音楽が演奏されているのを聴くと、それが良い曲かどうか、さらには調子が合っているかどうかまで、耳で聴き分けられるね。だからほんと、僕はなにもかも耳で聴いてやるタイプなんだ。

アカデミックな訓練を受けた「音楽家」ではない、と。

CC:うん、まったくそういうものではないね、自分は。これといったレッスンを受けたことはなかった。だから、僕とコージーについて言えば、彼女は子供の頃にピアノのレッスンを受けたことがあったから、たぶんキーボード奏者としての腕前は彼女の方が上だろうね(苦笑)。

[[SplitPage]]

僕は奇妙なサウンドに目が無いタイプだし、もしも素敵なメロディを備えたトラックが手元にあったとしたら、なんと言うかな、そこに奇妙なサウンドを盛り込むことで、そのトラックをちょっとばかり歪曲させるのが好きなんだ。


Chris Carter
Chemistry Lessons Volume One

Mute/トラフィック

ElectronicExperimental

Amazon Tower disk union

『Mondo Beat』と今作は、ビートがある楽曲においては似ていると思いますか?

CC:ああ、うんうん。その意見には賛成だね。ただまあ、やっぱり自然にそうなるものなんじゃないのかな? なんと言うか、僕の音楽的な遺産みたいなもの、それはあの作品からはじまっているようなものだしね。だから自分の初期作品にあった要素、それは間違いなく現在の僕がやっている音楽作品にも含まれていると思う。

さて、今回のアルバムについての質問ですが、ビッグなアルバムですよね。しかも2枚組という。

CC:(苦笑)たしかに。

これはある意味、先ほどの質問で答えてくださっているとも思うのですが、収録曲が25曲にまでになった理由はナンでしょう? 純粋に、長い間取り組んできた自然に蓄積してきた音楽をまとめた結果がこれだ、ということでしょうか。

CC:その通りだね。というか、今回リリースするものだけではなく、実はもっと他にもたくさんあるんだよ。

(笑)そうなんですね!

CC:ただ、そのなかでもベストなものを集めたのが今回のアルバムだ、と。だからなんだよ、この作品を『〜ヴォリューム・ワン』と名付けたのは。というのも、自分の手元にはまだかなりの数のトラックが残っているし、それらを今回とは別のセカンド・ヴォリューム、『第二巻』として出せるだろうな、と。それに……このソロ作に取り組んでいた頃、僕はかなりの部分をモジュラー・システムを使って作っていたんだよね。あれを使ってやっていると、自分でも気づかないうちにえんえんと際限なく作業にはまってしまいがちなんだ。いつの間にかスタジオにこもって同じトラックを相手に1時間も費やしていた、みたいな(苦笑)。そんなわけで、この作品をレコーディングしていた10年かそこらの間のどこかの時点で、もっと短く切り詰めるべく、違う作業の流れを開発していったんだ。もう少し自制を心がけた、というね。だからなんだ、収録トラックの多くは尺がとても短いものになったのは。

たしかにそうですよね。

CC:というのも、自分のやっていることに対して聴き手に退屈感を与えたくなかったし、人びとは僕がやろうとしていることの本質を2、3分くらいのトラックで掴んでくれるだろう、たぶんそれで充分じゃないか、そう考えたんだ。でも、そうやって短めな曲をレコーディングするようにしたことで、歳月の経つうちにかなりの量のトラックが集まることになった、と。気がつけば25トラック入りのアルバムができていたわけだよ。

なるほど。その点は次の質問にも絡んでくるのですが、いろんなタイプの曲がありますよね。インダストリアルなテイストのものからシンセポップ調のもの、“Moon Two”のようなメロディアスな曲もあります。それらは曲というよりも断片的というか、アルバムは断片集ともいえるような2〜3分の曲ばかりですね。どうしてこうなったのでしょう? やはり、いまおっしゃっていた自制の作用、制作過程をコントロールしようという思いの結果だった?

CC:それはあったよね。それに、いくつかのトラックに関しては、ほとんどもう他のトラックの「イントロ部」に近い、というものだってあるし(苦笑)……だから、以前にも僕たちはTGやクリス&コージーの楽曲で3分、2分程度のイントロはやったことがあったんだよ。で、今回の作品の一部のトラックもそれらに近いものだ、と。そうは言っても、なにかを味見程度だけに留めておく、その自制の姿勢は自分でもかなり気に入っていてね。この作品を作っている間、それは僕にとって魅力的な行為に映ったんだ。だからなんだよ、アルバムのトーンがかなりガラッと変化するのも。スリージーが亡くなった後、僕は何曲かもっとメランコリックなものを作ったし、けれども時間が経過するにつれてムードも変わっていって、もっとアップリフティングな曲も生まれた。そんなわけで、楽曲の並べ方を決めるのは少々難題になったね。どの順番で並べるか、それを見極めるのにはちょっと時間がかかった。

坂本:なるほど。「克明になにもかも表現した」とまではいかないにしても、ある面で、この作品はここ数年のあなたの人生に起きたていこと、そのダイアリーでもあるのかもしれませんね。

CC:ああ、それは良い形容だね。そうなんだと思う。

もちろん1曲1曲にストーリーがあるというわけではありませんが──

CC:それはない。

あなたの潜っていたムードの変化が聴いてとれる作品、という。

CC:うん。良い解釈だと思う。

僕はラジオを通じて番組や既成の音楽を録音するというのはほとんどやらなかったし、文字通り、「自分のサウンド」を作り出していたんだよ。それらは真の意味での「音」に過ぎなかったけれども。音楽的なコンテンツはまったく含まれていない、サウンドによる純粋な実験だったんだ。

『Chemistry Lessons Volume One』というアルバム・タイトルは、実験報告書のような印象を受けますが、これは現時点でのレポートで、ここから発展していく、しばらく続いていくものなのでしょうか?

CC:うん、だと思う。当初の『Chemistry Lessons』の全体的なコンセプトというのは、非常にエクスペリメンタルな内容になるだろう、そういうものだったんだ。10年くらい前に、その最初期のコンセプトに基づいて作ったトラックを何曲か、オンラインにアップロードしたこともあったんだ。というのも、その時点での『Chemistry〜』のコンセプトはアルバム作りですらなく、ただのプロジェクトだったからね。僕がスタジオで様々な実験をおこない、その結果のいくつかをオンラインで発表し、もしかしたら一部を音源作品として発表するかもしれない、程度のプロジェクトだった。
ところがそれが進化していったわけで、自分の手元にどんどん音源が蓄積していくにつれて、「オンライン云々を通じてではなく、これで1枚のアルバムにできるかもしれない」と自分でも考えたんだ。ただ、次のヴォリュームは今回とはやや違うものになるだろうし、3作目もまた同じく、ちょっと毛色の違うものになると思う。そこはちょっと似ているなと思うんだけど、かつてBBCが70年代にリリースしていた『サウンド・エフェクツ』のレコード(※効果音を集めたライブラリー音源シリーズ)、あれからは今回インスピレーションをもらっていてね。あれはテーマごとに編集された効果音のレコードで、『第一巻』のテーマはこれ、『第二巻』ではまた別のテーマで音源を集める、といった具合だった。
というわけで、ちゃんと準備してあるんだよ。今作には含めずにおいた未発表トラック群、あれらがあれば、『Chemistry〜』のセカンド・ヴォリュームはまたかなり違った響きの作品になるだろうな、と。おそらくもっと長めの楽曲が集まるだろうし、1作目とは異なるトーンを持つものになると思う。

坂本:この『Volume One』のテーマを要約するとしたら、なにになると思いますか?

CC:そうだね、これはシリーズ全体の「見本」みたいなものなんだ(笑)。

(笑)「これからこういうものがいろいろ出てきますよ」と。

CC:(笑)うん。だからこれはある意味、あらゆる側面を少しずつ見せたもの、紹介する内容だね。したがって曲ごとの作風もかなり違う、という。

人工的な歌声を使った曲がいくつかありますよね? “Cernubicua”とか“Pillars of Wah”とかでしょうか? 

CC:うんうん。

あれらの声は、機械で合成したものですか? それとも実際の人間の声を加工したものでしょうか?

CC:その両方が混ざっているね。一部ではヴォコーダーを使っているし、それに……スリージーが『Desertshore』向けに購入した機材も僕たちの手元にいくつかあって、なかにはそれらの機材を使用してヴォイスを加工した例もあった。だから、実際にヴォーカルが歌っていることもあれば、ソフトウェアを使って加工したこともある、と。そうやって異なるテクニックを組み合わせていったものだよ。アルバム制作が進行していくにつれて、どうやってそれを実現させればいいか、そのための作業の流れを発展させていったんだ。だから手法も変化していったし、アルバム作りのはじまりの段階で使ったもののもう自分の手元にはない機材もあったし、その際は改めて別のやり方を見つけ出していったり。だからヴォーカルに関しては、似たような響きに聞こえるものがあったとしても、それらは違うテクニックを用いて作ったものだったりするんだ。リアルな人間の声であるケースもあれば、完全に合成されたものもあるよ。

なるほど。

CC:で、本物の声と人工の声をと聞き分けられないひとがたまにいる、その点は自分としてもかなり気に入っているんだ。

(笑)。あなたのこうした人工的な歌声へのアプローチは、なにを目的としているのでしょうか? どんな狙いがあったのか教えて下さい。

CC:まあ、一部のヴォイスは僕自身の声なんだ。過去に自分の初期のソロ・アルバムでも、自分の声を使ったことは何度もあったしね……。でまあ、一部は自分の声だし、ただ「それ」とは分からないくらいとことん加工されている、と。だから、僕はとにかく……自らになにか課題を与える厳しさというか、難題に取り組むのが好きなんだね。で、クリス&コージーみたいに聞こえる作品にしたくはなかった。というのも、僕たちふたりで作る作品でコージーが歌いはじめた途端、それがどんなトラックであれ、「クリス&コージー」になってしまう、というのは自分でも承知しているからね。まあ、それは当たり前の話だよね、僕たちふたりで作っているんだからさ。ただ、今回の作品に関しては、僕は完全に「ソロ」なプロジェクトにしておきたかった。そう言いつつ、用いた一部のアイデアやテクニックについては生前のスリージーと「どうやればいいか」と話し合いはしたんだけれど、それを除いては、このアルバムではとにかく僕が自分ひとりでやっている、と。だからとにかくすべてを自分内に留めておきたかったし、これは文字通りの「ソロ・アルバム」というわけで、僕以外には誰も関わっていないんだよ。

いくつかのトラックではかなり高音の女性ヴォーカルらしきものが聞こえますが、あれもあなた自身の声を加工したものですか?

CC:うん、それも含まれるだろうし、他のヴォイスも手元にあったね。スリージー所有のハード・ドライヴから発見したもので、彼がアイデアとして使っていたヴォイスがいくつかあったし、それにオンラインで見つけてきたものも混じっている。ただ、それらを非常に高い声域で鳴らすことで、「女性」っぽく聞こえるようになる、と。一方でまた、とても低い音域で楽曲の下方で鳴らしたこともあったし、女性/男性の区別がつけられないんじゃないかな。

なるほど。キメラというか、もしくは両性具有というか──

CC:ああ、うん。

どちらの「性」にもなり得る、と。そうした人工的な声の持つ可能性、無限のポテンシャルがあなたには非常に魅力的なんでしょうか?

CC:まあ、このアルバムに関してはそうだった、ということだね。だから、もしかしたら次のアルバムはインスト作になるのかもしれないし。そうやって、自分にもうおなじみの世界に留まって(苦笑)、シンセサイザーやモジュラーなんかを使った、自分にはかなり楽にやれる音楽をやるのかもしれない。というのも、ああいうヴォーカルを用いると、作業にかなり長くかかってしまうんだ。毎回うまくいくとは限らないし、悲惨な結果になることだってあるしね。

(苦笑)そうなんですね。

CC:(苦笑)ああ。だからまあ、このルートには一通り足を踏み入れたということで、しばらくはこれで充分かもしれない。

初音ミクって知ってますか?

CC:ああ、うん。あの、ヴォーカロイドというのは、以前に自分も使ったことがあったんじゃないかな? (独り言のようにつぶやく)いや、というか、今回のアルバムの1曲でも、もしかしたらヴォーカロイドは一部で使っているかも……? んー……? まあとにかく、うん、僕個人としてはあんまり結びつきを感じられなかったね。あれは純粋にソフトウェアだし、僕はハードウェアを多く使用する方がずっと好きな人間だから。類似したことをやれるプログラムではなくて、むしろ実際のハードウェア機材でやってみるのが好きなんだ。たまに「かなり自分好みのサウンドだな」と思うものもあるとはいえ、あれは聴くのがきつい、というときもある音だよね。

[[SplitPage]]

このソロ作に取り組んでいた頃、僕はかなりの部分をモジュラー・システムを使って作っていたんだよね。あれを使ってやっていると、自分でも気づかないうちにえんえんと際限なく作業にはまってしまいがちなんだ。いつの間にかスタジオにこもって同じトラックを相手に1時間も費やしていた、みたいな(苦笑)。


Chris Carter
Chemistry Lessons Volume One

Mute/トラフィック

ElectronicExperimental

Amazon Tower disk union

最初に作った自作の機材はどんなものだったのでしょう?

CC:60年代に『Practical Electronics』という雑誌を読んでいたことがあったんだけど、回路基板が付録で付いてきたんだよね。毎月、自分の手でなんらかの電子機材を組み立てることができて、パーツも購入できて。

メール・オーダー式の雑誌?

CC:そう。いろんな部品を注文し、自分で組み立てるという。だから僕が初めて作ったシンセサイザーは、あの雑誌で見かけた設計図にすべて基づいていたよ。そこからどんどんもっと大型のシンセを組み立てていくようになったし、他にももっといろんなもの、たとえばエフェクト・ペダル等も作っていって。TGに加入してからは、「グリッサライザー」(Gristleizer:エフェクト・ユニットのモジュール。TGの作品やライヴで多く使用された)というものを作ったね。あれは他の人間の考案したデザインに基づいていたけれども、自分でそれを改めてデザインし直したものだった。というわけで長年にわたって、僕はあらゆる類いの機材を自作してきたわけだね。
ところが歳をとるにつれて既製品を買ってしまう方が楽になってきたし、そうやって買って来たものにたまに改良を加えたり。でもまあ、近頃はあまり機材の自作はやらないね。オリジナルの『Chemistry Lessons』プロジェクトを開始した頃はまだ機材を作っていて、たくさんこしらえていたけれども。たとえばコージーのために「トゥッティ・ボックス」という名の小さなシンセサイザーを作ってあげたりした。で、そこから僕はモジュラーものにハマっていくようになって、自分用にモジュールをいくつか作ったこともあったね。ただ、いまの僕は主に市販のモジュールを購入してやっているよ。というのもモジュラーであれば、独自なものを作るように設定を組むのが可能だからね。モジュールをまとめてどうパッチしセッティングしていくか、そのやり方はひとそれぞれに違うわけで。だからおそらく、僕は自分で回路板を作る作業を、モジュールの購入で代用しているんだろうね。

それらをご自分の好みに合うように改良している、という。

CC:ああ、そうだね。それは自分はよくやるよ。

大学生のときに初めてのソロ・ライヴをやっているんですよね? それはどんなライヴ演奏だったのですか?

CC:(「大学でソロのライヴ・ショウをやったことがあるそうですが」と質問を聞き違えて)ああ、先週やったライヴのことかな? あれは週末におこなわれたムーグ・シンポジウム(※サリー大学が主宰する「Moog Soundlab Symposium」のこと。2018年版は2月3日開催)に参加したときのことで、小規模なライヴ向けのセットアップでやったものだったね。完全に実験的な内容で、キーボード等は一切使わず、モジュール群と箱があるだけ。それらを相手にちょっとしたライヴ演奏をやったんだ、40分くらいの短いものだったけれどね。別にムーグを使ってパフォーマンスしたわけではなくて、僕は単にあのイヴェントの一環だったんだよ。でも、あれは興味深かったな。というのも、僕はあまりライヴはやらないし、とくにソロ・ショウの場合は珍しいからね。ここ2、3年はカーター/トゥッティ/ヴォイドやクリス&コージーで僕たちもたくさんショウをやったけれども、ソロではあまりやってこなかった。だからあれは面白かったよ。

緊張しましたか?

CC:いや、そんなにあがるタチじゃないんだよね。うん、それはないな……自分がなにをすべきか分かってさえいれば、緊張することはまずない。だって、結局は自分が表に出て行って、そこでは人びとが待ち構えている、というだけのことだしね。で、音源を入れてなんらかのノイズを作り出して、それを気に入ってくれる者もいるだろうし、もしも気に入らないひとがいたら、残念でした! ということで。

(笑)。

CC:ハハッ。でも、自分は楽しんだよ。それに、観客たちも気に入ってくれたし、うん、あれはグレイトだった! 会場も良かったし、様々なヴィンテージのムーグ機材が置かれた横で演奏させてもらって、環境としてもばっちりだった。会場は素晴らしい空間だったし、音響設備も良くてね。それには大いに助けられたよ。

なるほど……と言いつつ、そもそもの質問は、あなたが大学生だった頃にやった初のソロ・ライヴはどんなものだったのか?ということでして。こちらの訊き方が明確ではなくて伝わらなかったかもしれません、すみません。

CC:ああ! というか、僕は大学には進学しなかったんだけどね。ただ、若い頃、70年代にたくさんの大学でライヴをやったのはたしかだね。イギリス各地の大学を回るツアーをやって、ソロでショウをやったこともあったし、ときには2、3人の友人たちと一緒に回ることもあって、彼らはライト・ショウを担当してくれてね。で、ライト・ショウをお伴に、僕は自家製のシンセサイザーでライヴをやった、という。あれは一種のコンセプチュアルなショウみたいなものだったし、うん、僕たちはイギリス各地の様々な大学を訪れてショウをやったものだったよ。

完全なインスト音楽とライト・ショウによるパフォーマンスだったんでしょうか?

CC:ああ、そうだった。だからまあ、いくつかのシークエンスを伴うアンビエント音楽、みたいなものだったね。

……観客の反応はどんな風だったんでしょう? いまならともかく、その当時としては、こう、かなり風変わりなパフォーマンスだったんじゃないかと想像しますが。

CC:(笑)。

それこそ、「なんだこれは?」と当惑するひともいたんじゃないですか?

CC:(苦笑)ああ……でも、音楽はかなりアンビエントなものだったし。それに、立体音響式でやったんだよね。その点は僕たちしては非常に興味深かったし、当時は立体音響にハマっていたから。ただまあ、お客の多くは「ロックンロール・バンドの類い」を期待して集まってくれたんだろうし、考え込んでしまうひとや困惑するひとたちは多かったね。それでも、おおむね観客の受けは良かったよ。

いろんな部品を注文し、自分で組み立てるという。だから僕が初めて作ったシンセサイザーは、あの雑誌で見かけた設計図にすべて基づいていたよ。そこからどんどんもっと大型のシンセを組み立てていくようになったし、他にももっといろんなもの、たとえばエフェクト・ペダル等も作っていって。

ところで、コージーの『Art Sex Music』を読んだ感想は? じつはいま日本版を訳しているんですよ。

CC:あー、そうだな……

かなり長い本ですけれども。

CC:そうだね。でも僕は、執筆が続いている間に、様々な推敲段階のヴァージョンを読んできたからね。あの本は元々はもっと長くて、それをフェイバー社側が編集してページ数を減らしていったんだ。というわけで僕はあの本のいろんなヴァージョンはすべて読んだことになるね……最終的にまとまった編集版の一部に「カットされて惜しいな」と思った箇所は少しだけあるけれども、でもまあ仕方ないよね、千ページの大著を出版するわけにはいかないんだし、ある程度は編集で減らさないと。
ただ……あれを読むとかなりエモーショナルになってしまうんだ。最後にあの本を読んでからかれこれ1年くらいになるけれども、いくつかの箇所は、読むのがかなりきついからね。そうは言っても、あの本は本当に好きなんだよ。すごく良いなと思ったし、ファンタスティックな本だ。とにかく、コージーのことを本当に誇らしく感じる、それだけだね。というのも、あれらをすべてページに記していく、その勇気が彼女にはあったわけだから、

彼女とのパートナーシップはいまも続いているわけですが、あなたが彼女から受けた影響はなんでしょう?

CC:あー……参ったな(苦笑)! それは大きな質問だよ。

(笑)ですよね、すみません。

CC:いやあ……答え切れるかどうか、それすら自分には分からない(笑)。

分かりました。じゃあ、これは次に取材する機会があるときまでとっておきますね。

CC:(笑)うんうん、次回ね。僕の次のアルバムが出るときに。

最後の質問です。いまだにTGの音楽がひとを惹きつけているのは何故だと思いますか?

CC:自分でも見当がつかないんだ。というか、それは先週末にも誰かと話していたことなんだけどね、「TGの音楽はかなりの長寿ぶりを誇るものだ」、という。で、初期TGのマテリアルの多くには、ある種のタイムレスなサウンドが備わっているんだよね。それがなんなのかは、僕にも分からない。TGのメンバーの間ですら、そのサウンドがなにか? を突き止められなかったからね。あれは相当に「ある瞬間を捉えた」という類いのものだったのに、でもどういうわけか歳月の経過に耐えてきた。一方で、多くの音楽は……ときに古い音楽は、20年くらい経ったらうまく伝わらなくなっている、ということもあるわけだよね? 「いま聴くと最悪だな!」みたいな。でもTG作品の多くには、なにかしら時間を越えた資質めいたものがあるんだよ。
思うに、その資質なんじゃないのかな、古くならないのは。だから、いまTGを聴いている人びと、いまTGを発見しているひとたちがいるのは僕も知っているし、彼らは聴いてかなりぶっ飛ばされているんだよね。で、それはグレイトだと思うし、素晴らしいことだと思っていてね。けれども、どうしてTGの音楽が聴き手にそういう効果をもたらすのか、それは自分でもいまひとつはっきりしないんだ。だから、TGのメンバーたち自身にも見極められないなにか、ということだし、他にもいろいろとあるよく分からないもの、そういうもののひとつだ、ということじゃないのかな?

なるほど。それに、そもそも長寿を意図して作ったものではなかったわけですしね。

CC:それはまったくなかったね。

坂本:2ヶ月ほど前にコージーに取材させてもらう機会があったんですが、そこで彼女も「40年以上経って人びとがまだTGを聴いてくれているなんて思いもしなかった。だからとても嬉しい」と話していましたから。でも、どうなんでしょうね、とても始原的な音楽だからかな? とも感じますが。

CC:ああ、そうだね! それはあるかもしれない。

もちろん、プリミティヴとは言っても電子音楽の形でやっているわけですが。

CC:うん、でも、彼女が言った通り、人びとが僕たちの音楽をその後も聴き続けるだろうなんて、僕たち自身考えてもいなかったからね。40年どころか、10年もしたら忘れられているだろう、そう思っていた。とにかくああして作品/活動をやっていっただけだし、それが終わったらおしまい。次にはまたなにか他のことをやっていこう、と。そうは言ったって、もちろん当時の僕たちはかなりいろいろと考えてTGの活動をやってはいたんだよ。ただ、だからと言って自分たちに「大局的な図」が見えていたわけではなかった、という。もしかしたら、だからだったのかもしれないよね、あんなにうまくいったのは。

4人のまったく異なる個人がTGというグループにおいてみごとにひとつに合わさったこと、それもあったかもしれません。

CC:ああ、そうだね。パーツを組み合わせた結果が単なる総和よりも大きなものになる、そういうことはたまに起きるからね。

わかりました。今日はお時間をいただいて、本当にありがとうございました。

CC:こちらこそ、話ができて楽しかったよ。

新作がうまくいくのを祈ってます。

CC:僕もだよ。聴いた人びとに気に入ってもらえたら良いなと思ってる。

大丈夫だと思います。

CC:そうかな、ありがとう。

ではお元気で。さようなら。

CC:バーイ!

(了)

国府達矢 - ele-king

信じてくれた誰も裏切らない自信がある 国府達矢 10年ぶりのアルバム「ロックブッダ」 これほどに創造的で思いに満ちたアルバムが他にあるだろうか このあり得ないサウンドを前にして僕は人間の底力をもういちど信じることが出来る ──2014年2月3日 七尾旅人のツイートより

 折りに触れ、国府達矢の作品とその存在が自身の活動の大きなインスピレーションとなっていることを深い敬意とともに公言してきた七尾旅人によって突如仄めかされた国府達矢の新アルバムの存在とそのリリースの兆しに、多くのファンがにわかに沸き立ったのが2014年。しかしそれから早4年、その作品は遂に日の目を見ることなく、ときが過ぎていった。
 その間の国府達矢の動静を知るものは少なく、また、じっと沈黙するアーティストの心の内奥を知るには、あまりにも性急にそしてかしましく世のなかや我々も移ろってきてしまった。本作のプレス資料に当たると、彼はこの期間、精神の深い沈潜と葛藤に悩まされてきたという……。

 国府達矢は、元々1998年にMANGAHEADとしてデビュー。その後、2003年本人名義で上述の『ロック転生』をリリースする。この作品は、特有の緊張感を伴った異様なまでの完成度や、縦横無尽な音楽語彙の横溢で「曼荼羅的」とも評され、ゼロ年代に生まれた日本ロック・ミュージックの中でも孤高の重要作としてしばしば語られる名作だ。その後Salyuへの楽曲提供などを経て2011年に「ロックブッダ」名義でシングル「+1D イん庶民」をリリースする。唯一無二の音楽性を更に推し進め、既存シーンの文脈に回収されない魅力を湛えた作品であったが、しかしその後散発的なライヴ活動を行う以外は沈黙を続けてきた。
 そして、昨年に入り自主企画の弾き語りイベントを開始し、遂に本格的に活動再開かと目されていた。そんな中、以前よりそのリリースが待望されていたアルバムが、七尾旅人の篤いサポートもあり、いよいよここに日の目を見ることになったのだ。まさしく語義通り「ファン待望」の作品である。

 そんな本作『ロックブッダ』、まず一聴して驚かされるのは、これまでに増して実験的と言える立体的な音像であろう。例えばアルバム1曲目にしてリード・トラックと位置づけられる“薔薇”では、リズムを基盤として和音楽器が加わっていくというロック音楽の基本構造を解体するように、むしろギターリフが先導してベースの自在なうねりとドラムスよる無数の打音を下支えする(尚今作は全編にskillkillsからスグルとサトシの二人をベースとドラムスに迎えてる。そのプレイの闊達で激烈なこと!)。そして、更に重ねられた国府自身による数多のギターフレーズが、空間を貫く針と糸のように駆け巡るとき、この作品がただごとでなく精緻な音響意識によって織り出されたものだということに早くも気付くことになる。本作のミックスにあたっては、録音素材の可能性を最大に引き出すために、長い模索の上高音質フォーマット(DSD))が使用されたというが、エンジニア達との共闘により、まさしくその効用の程は驚嘆すべきレベルに達していると言っていい。整音という次元を超え、これまでも多くのアーティストが挑んできた音々を建築的に配置するという三次元的ミックス手法の集大成というべき風格を湛えている。
 日本のアニメーション芸術にも大きなシンパシーを寄せてきたという国府ならではの、音響を視覚的に「デザイン」していく意識が、リズム構成とミックスワークにおいて、極めて鋭利に表出する。その視覚的感覚からは、ポスト・ロック、とくにかつてシカゴ音響派と呼ばれていた一群のアーティストによる作品と共通した美意識を嗅ぎ取ることもできるかもしれない。とくに先述の“薔薇”に加えて、“感電ス”、“アイのしるし”といった楽曲で聴かせるアグレッシヴなリズムと、エクスペリメンタルでありながらもあくまでメロウさを湛えたギターのフレージングの融合は、確かにそういったアーティストたちと共振する。
 しかしながら本作は、そのように画一的なイメージ喚起を大きく逸脱するオリジナリティに溢れているのだ。それは、国府自身の歌声およびそのヴォイシングの圧倒的個性に拠るところが大きいだろう。クルーナー的洗練を纏ったまろやかな歌声を聞かせたかと思えば、日本の民謡をはじめ様々なアジア的フォークロアを呼び起こすように、ときに土俗的に、生々しく歌唱する。音階表現とラップ的フロウの関係性はこれまでに増して密接となり、歌唱と語りの区別をすること自体が無意味化される。また、その声は鋭角的にリズムと呼応し合い、アクションペインティングが描く斑のように、音楽全体へと重なり合っていく。それは、よく音響派以降の評論において言われるように「人の声までもが楽器として配置されている」ようでありながら、次々とはき出される言葉は没意味化することはなく、むしろそのリリックはいよいよ際立ったシニフィエを運んでくる。

 リリックといえばやはり、『ロックブッダ』の名の示す通り、散りばめられた様々な仏教的モチーフにも注目したい。もちろんここには、大上段から教義主義的にその宗教世界観を訴えるといったことはない。あくまで我々が住まう世界の美しさを静かに見つめようとする透徹した視線と意識が敷衍される形で、そのモチーフは希求される。
 “続・黄金体験”の中、
 「いつか越えた山々の稜線から 今 惜しみなく零れだした黃金」
 という一節からは、弥勒の降臨や釈迦の臨在といったイメージを読み込むことも可能かもしれないし、また、長い苦悩と沈潜を経て今音楽を奏でることの僥倖を感じているアーティスト自身の喜びの表明とも読むことも出来るだろう。梵鐘のようなヴォリューム処理が施されたギターフレーズに彩られた霊妙なサウンドとあいまって、ある種の神秘体験が呼び寄せられるような感覚にも囚われる。(それは言い方を変えるなら、一般に「サイケデリック」と呼ばれているものであるかもしれない)
 他にも“weTunes”では妙法蓮華経の如来寿量品(にょらいじゅりょうほん)第十六という仏典から、仏の安寧の世を意味する“雨曼荼羅華”というフレーズがリフレインされるし、また終盤に置かれた“蓮華”では、曲名自体が仏教的モチーフであると同時に、その花の性質として、「その華は泥の中で咲くという」と、難しい環境のなかで密やかに咲く花に対してのシンパシーを捧げてもいる。この曲はアルバムのクライマックスと呼ぶにふさわしく、曲が進行していくに従い徐々に音の厚さをましていき、真言(マントラ)を思わせるコーラスとともに、国府流のウォール・オブ・サウンドともいえる境地に到達することで、まさしく「耳で視る曼荼羅絵巻」とでも言える音楽世界が作り出されている。
 そして、(これは是非CDを初めから最後まで聴くことで体験してほしいのだが)アルバムは“Everybody's@buddha nature”という空白の楽曲によって閉じられる。それは、仏教においてもっと重要な概念であるうちのひとつ、「空」の顕現なのだろうか。音も歌詞も無い曲。ケージの「4'33"」は4分33秒の時間という幅を伴っていたが、ここではもはやそれすらも存在しない音楽が奏でられる。「無音」すらも「無」い。そういう意味では、これ以上に仏教的な「リリック」は無いのかもしれない。

 長い沈黙と苦悩を経たアーティストが、久々に作品をリリースするとき、人はどうしてもその人の辿ってきた葛藤や思考、ときにはその救済の物語に思いを馳せることとなる。それは、個人史を巡る興味となる一方、そのような物語を感得することで、彼が作ったその音楽自体の輝きに、より一層浴することも出来るのではないだろうか。もちろん、作品は作家からは独立しているのだ、という議論もあるだろうし、あくまでテクストとして音楽を分析することの意味も大きかろう。しかし国府達矢のように、その身体と全霊を自身の創作へ怯み無く投入してきた音楽家の場合、その作家自身の思想や世界観、そして辿り来た精神のドキュメントが欠け難い作品のピースとして結晶しているという意味において、我々はその作家自身に肉薄をすることを避けては通ることはできない。
 演奏、アレンジ、音響面での追求など、自らの音楽を偏執的とさえ言えるほどに磨き上げようとする技術的希求と、その仏教的な世界把握で自身の生と創作を不可分の地平に据えるアール・ブリュット的クリエイティヴィティが、精神の内奥で激しく相克する。その、ときに作家自身をも飲み込んでしまうような相克のダイナミズムこそ、彼の作り出す音楽の大きな魅力であり蠱惑であることは間違いない。テクストを読み解く知性とともに、形而上学的存在への眼差しも携えていよ。その愉楽に感応せよ。この『ロックブッダ』は、彼の音楽と彼自身の生を通じて、そう教えてくれる。

 彼はこれから更に2枚のアルバムの連続リリースを控えてるという。
 国府達矢の帰還に心からの祝福と喜びを。

この葛藤の連続がいつか誰かのためになることを知った
正面から真正面から 叫ぶ
そうだ あらゆる隔たりを超えていけ
──“薔薇”

CORNELIUS - ele-king

大久保祐子

 小さな子供がいる家庭ならわりとどの家でも朝と夕方はNHKの教育テレビ番組(Eテレ)を当たり前のように毎日つけている。教育テレビ、賢くなりますように! というのは表向きの理由で、各番組自体の面白さに加えてそれぞれのキャスティングのセンスの良さに、ぜひとも子供に見せたい(いやむしろ自分が見たい)と親の方が積極的にテレビに夢中になっている場合が多い。古くはトータス松本やクレイジーケンバンドなどの曲に加え、大人計画や片桐仁、サケロック時代の星野源などTVブロス的サブカル人が旬のお笑い芸人に混じって参加していたり、さらに最近は水曜日のカンパネラ、ナカコー&ミキやカジヒデキまで出演しているのだから、私も朝から目が離せない。そしてEテレのクリエイティヴ且つ遊び心のある大人向けな人選の最たる番組がこの『デザインあ』で、僅かな時間とはいえほぼ毎朝コーネリアスの音楽がテレビから流れるという贅沢が日常化してから、かれこれもう7年も経とうとしていることに驚く。残念ながら子供のほうはたいして興味を示してくれないのだけれど。

 青葉市子や坂本真綾にアート・リンゼイ、昨年活動停止を発表したチボ・マットなどの近年のコーネリアス・ファミリーや、本物のいとこにあたるハナレグミなど、豪華なゲスト・ヴォーカルを迎えた番組のサウンドトラックのシリーズ第2弾。収録されている曲は既にTVで何度も流れているお馴染みのものばかり。ミニマル・ミュージックでありながら控えめなコラージュ作品のようであったり、クラシックのようにも聴こえたり、童謡のようなカジュアルさもあり、堅苦しさは全くない。楽曲は番組内での文字や絵を使った映像に基づいているので『Point』以降のコーネリアスのMVのように、もしくはそれ以上に視覚と音をより密接にシンクロさせている。なのでいつも観ていたはずの番組の映像の部分がばっさりなくなると、人生の折り返し地点を過ぎて退化に向かいつつある中年は、登っていたはしごを外されたように音の小宇宙に取り残され、歌詞カードを裏返しながら「ええっと、この曲は10曲目だから……」ともたもたする。するとすかさず向こうから「○○の曲だ。さっきから『デザインあ』の曲ばっかり聴いてるね」と幼い声で鋭い指摘が入る。反応がないのであまり好きじゃないように見えたのに、ちゃんと聴いていて覚えていた。子供の耳って、よくわからない。

 そもそも「好き」ってなんだろう。好きになるのには理由が見える。元気で踊れる、とかこのメロディがいい、とか歌詞に共感するぅ、とかドラムの音が変態、だとか。そして「好き」は「嫌い」の裏側に潜んでいて、あるとき強烈な自我によってあっという間に翻ったりもする。なんかうるさいとか、このメロディはありきたりだ、とか歌詞が凡庸だ、とかオリジナリティがない、だとか、自分勝手な言葉を付けて、見えるところにいちいち姿を現す。では言葉にならない「好き」はどこにあるのか? 「好き」に理由がつかないと成り立たないのか? 感情というものは言葉を獲得すればするほど適当なものを探してうまく当てはめ、表に引き出され出ていこうとする。子供はそれを無理にやらないので、傍から見ている者は楽しそうに踊ったり、歌ったりする「好き」だけを受け取ってしまうけれど、内側に潜んでいる気持ちには様々な種類があり、きっと無限の可能性が広がっているのだろう。子供が自分で好きな曲を選ぶ場面で意外な回答をして周りを驚かせたりするのは、つまりそういうことなのかもしれない。

 たしかに音楽を聴いていると情動的になりすぎるきらいがある。自分が普段好んで聴いている音楽家のなかでも特に実験的なコーネリアスにですら、やれ11年ぶりのオリジナル・アルバムで、この歌詞はこれを意味していて、このような表現意図がある、と思いを巡らせ、感情を上乗せしたり、付加価値をつけたりしてしまう。好きな理由を言葉で探さないと落ち着かなくなってしまっているのだ。その固い頭のままでこのアルバムの"かんがえていない"や"うらおもて"や"おれがあいつであいつがおれで"や"なんやかんや"などの収録曲をじっと眺めていると、なんだかとても意味深に見えてくる。けれど並べられたタイトルは番組のコーナー名であって、意味はない。代わりにそこにはリズムを持ったデザインがある。「こどもたちにデザインの面白さを伝え、デザイン的な視点と感性を育む一歩となることを目指しています」と番組概要に記されているように、音楽もあくまでミュージックというスタンスを崩さず、素っ気ない位にアートで、洒落ている。現在、東京オペラシティで開催されている谷川俊太郎展の一角の、コーネリアスと中村勇吾とのコラボレーションによるギャラリーでも、視覚と聴覚のあいだを言葉が自由に弾んで刺激的な空間を作っていて、非常に面白かった。アイディアによって整えられたスタイリッシュなそのスペースに、もっともらしい感情を美しく詰め込むことは難しい。この際コーネリアスの人物像は余計な感情はさっぱり忘れて、身近な音のデザインとして気軽に楽しむことが正解だろう。そしてこのアルバムを何回も聴いた耳で『Mellow Waves』を改めて聴き返してみると、新たな音の発見があるはずなので是非オススメしたい。

 そういえば昨年「コーネリアスのファンのすべて」というファンサイトを勝手に設けた時に、コーネリアス好きとして話を伺った趣味の良い高校生の男の子が、NHKの「テクネ 映像の教室」という番組でコーネリアスが音楽を手掛けていた回を見たことがコーネリアスの名前を知るきっかけだったと話していて、なんだか嬉しかった。日常的にコーネリアスの音を耳にしていた子供たちがこの感覚を持ってこれから様々な分野に浸透していくことを思うと、未来が楽しみで仕方ない。一方で感情に苛まれたままの人間は、小山田圭吾が歌う曲をもっと聴きたい、レオ今井の歌う"Shoot&Edit"も入れてほしかった、などと、やはり余計なことばかり考えてしまう。ああ、煩悩とは!

Next 野田努

[[SplitPage]]

野田努

 のちにキング・オブ・テクノとさえ呼ばれることになる作曲家のブルース・ハークは、60年代初頭に感熱式シンセサイザーを作ると、エスター・ネルソンとともに1963年から子どもたちのためのダンス音楽を発表する。1978年に、テキサス・インスツルメンツ社は子供用教育用玩具としてスピークアンドスペルを発売。クラフトワークをはじめとする多くのテクノ・アーティストたちに使用される。エイフェックス・ツインとして成功したリチャード・D・ジェイムスは、同胞のマイケル・パラディナスと一緒にマイク・リッチ名義で極めて幼稚な作品を1996年にリリースする。コーネリアスを名乗り、かつて『ファンタズマ』を作ったロック・ミュージシャンの小山田圭吾は、2011年から「子供たちのデザイン的な視点と感性を育むこと」を目的としたNHK教育テレビジョンの番組「デザインあ」の音楽ディレクターを担当する。

 TVはニュースとスポーツ番組、そしてピエール瀧のしょんないTVぐらいしか見ないぼくは、当然「デザインあ」を見たことがない。以下、その立場で音楽を聴いた感想を書こう。

 『デザインあ2』は前作『デザインあ』同様に、小山田圭吾の無邪気なサウンド・デザイン/コラージュ、遊びの世界である。で、参加アーティスト:青葉市子、アート・リンゼイ、坂本真綾、ショコラ、チボ・マット、ハナレグミ、原田郁子、jan and naomi、環ROY×鎮座DOPENESS。まあ、このメンツで子供のための音楽を作るというのがミソで、もし音楽が文化として/趣味として衰退することがなければ、おそらく20年後の世界から見たとき「あの時代はこんなものがあったのか」ということになるのだろう。
 昨年の『Mellow Waves』の悲しげな響きとは、もちろん一線を画している。とはいえこれも確実にコーネリアス・サウンドだ。ロック的な陰影はなく、そしてリラックスした雰囲気や言葉遣い、その無邪気さが、この音楽を子供っぽい音の遊技性のなかに定義しようとしているが、一枚皮を剥がせば、むしろ実験的で、ときおりシド・バレット的なサイケデリック・ポップな側面も垣間見せる。子供モノというのは、歴史的に見れば、ときに大人の実験場にもなり得るのだ。
 子供はギミックが好きだ。サンプラーが好きだし、エフェクターが大好きだ。コアなYMOのファンというのは、だいたいが小学生のときに聴いた世代に多い。ぼくは世代的にクラフトワークのほうが先だった。感性が開かれるときの喜びとはああいう体験を言うのだろう。コーネリアスのポップな側面が、ヒットチャートではなくNHKの教育番組を通じて子供に伝播するというのは、現代的というかポストモダン的というか、なんとも感慨深い話である。 

East Man - ele-king

音とともに紡がれるロンドンの今

 アントニー・ハートがイースト・マン(East Man)名義で〈プラネット・ミュー〉から『レッド、ホワイト&ゼロ』を送り出した。長年ドラムンベースのシーンで活躍してきた彼だが、近年は140BPMを軸としたベーシック・リズム名義でグライム、ジャングル、テクノのサウンドスケープを発展させてきた。イースト・マン名義での今作では、ロンドンのグライムMCとのコラボレーションによって、さらにミニマルな音を追求し、硬質かつラフなグルーヴに溢れた一作を生み出した。
 彼が「ハイテック(Hi-Tek)」サウンドと名付けた自身の音は、ジャングルのブレイクビーツのリズムを、ミニマルなドラムマシンとベースで再構築したサウンドに聞こえる。緻密にプログラミングされたドラム、パーカッションとサイン波は、UKハードコアの長い歴史を感じさせながら、ときに緊張感、ときに静寂を生み出す。特に静寂を感じさせるタイミングには、独白的にスピットするグライムMCの声がより際立って聞こえる。
 アルバムでコラボレーションしているのは、ロンドンのあらゆるエリアのMCである。北ロンドンのグループYGGからセイント・ピー(Saint P)、リリカル・ストラリー(Lyrical Strally)など新世代のグライムMC、東ロンドンよりクワム(Kwam)、エクリプス(Eklipse)、南ロンドンからはキラ・ピー(Killa P)、アイラ(Irah)といった、長年シーンで活躍するMC。彼らはアントニー・ハートのサウンドに対して、明確なメッセージを与える。例えば、ダーコ・ストライフ(Darkos Strife)は日常の言葉で自分のアティチュードを表明する。

Trying to better myself, still need to make improvements,
So when it's that time there'll be no time for snoozin',
Life can be quite difficult, but I still keep it moving, stop myself from being useless,
Smooth sailing from here on, ima carry on cruisin'.

己を磨こうと心がけ、まだまだ足りない
時は来た、居眠りしてる暇はないんだ
生活はハードだが、動き続けよう
用なしのやつになるのはやめな、
ここからスムーズに帆をあげて、クルーズを続けよう

“Cruisin'”

 都市での生活はハードであり、「useless」=用なしの人間になることは容易い。都市のもうひとつのリアリティは、地下鉄でインタヴューに答える男のスキット“Drapesing(ドレイプシング)”で描かれる。「drapesing」とは、スラングで強盗という意味だと彼は説明する。彼は強盗を起こし、捕まったあと3ヶ月警察に拘留された。仕事も手につかず、週16ポンドの社会保障に頼っている。「週16ポンドじゃ生きていけない」と呟く。追い込まれた、あるいは自分自身を追い込んでしまった彼の疲れ切った話ぶり。つづいて、インタヴューワーは「仕事をしないのか?」と男に少しキツいトーンで聞く。ここで映し出される風景全体が、内面化された新自由主義的な自己責任の倫理、あるいはロンドンの空気を象徴している。「金払いがちゃんとしてて、楽しめる仕事なら。(お前らとは)住む世界が違うんだよ」、男は力なく答える。このスキットは、ポジティヴでアグレッシヴなMCが口にしなくとも、常に隣り合わせにしている人種や資本の問題が絡んだ都市の現実を巧みに描き出している。

 やけっぱちにすらなれないほどに疲れ果て、また追い詰められてしまう都市の苛烈さに身を置きながらも、いや置かれてもなお、グライムMCはビートの上で活き活きと自分を表現する。MCのユーモア、自己主張、そして自由さが感じられる。そして、音楽を拠り所にして、なんとか出口の見えない現実を生き抜こうとする姿が聞こえる。MCのクレバーで攻撃的な勢い、イースト・マンの静けさを感じさせるダンス・ミュージック、差し込まれるフィールド・レコーディングは物語を紡ぎ、アルバムを通してロンドンの一瞬を切り取っているのだ。

  1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23 24 25 26 27 28 29 30 31 32 33 34 35 36 37 38 39 40 41 42 43 44 45 46 47 48 49 50 51 52 53 54 55 56 57 58 59 60 61 62 63 64 65 66 67 68 69 70 71 72 73 74 75 76 77 78 79 80 81 82 83 84 85 86 87 88 89 90 91 92 93 94 95 96 97 98 99 100 101 102 103 104 105 106 107 108 109 110 111 112 113 114 115 116 117 118 119 120 121 122 123 124 125 126 127 128 129 130 131 132 133 134 135 136 137 138 139 140 141 142 143 144 145 146 147 148 149 150 151 152 153 154 155 156 157 158 159 160 161 162 163 164 165 166 167 168 169 170 171 172 173 174 175 176 177 178 179 180 181 182 183 184 185 186 187 188 189 190 191 192 193 194 195 196 197 198 199 200 201 202 203 204 205 206 207 208 209 210 211 212 213 214 215 216 217 218 219 220 221 222 223 224 225 226 227 228 229 230 231 232 233 234 235 236 237 238 239 240 241 242 243 244 245 246 247 248 249 250 251 252 253 254 255 256 257 258 259 260 261 262 263 264 265 266 267 268 269 270 271 272 273 274 275 276 277 278 279 280 281 282 283 284 285 286 287 288 289 290 291 292 293 294 295 296 297 298 299 300 301 302 303 304 305 306 307 308 309 310 311 312 313 314 315 316 317 318 319 320 321 322 323 324 325 326 327 328 329 330 331 332 333 334 335 336 337 338 339 340 341 342 343 344 345 346 347 348 349 350 351 352 353 354 355 356 357 358 359 360 361 362 363 364 365 366 367 368 369 370 371 372 373 374 375 376 377 378 379 380 381 382 383 384 385 386 387 388 389 390 391 392 393 394 395 396 397 398 399 400 401 402 403 404 405 406 407 408 409 410 411 412 413 414 415 416 417 418 419 420 421 422 423 424 425 426 427 428 429 430 431 432 433 434 435 436 437 438 439 440 441 442 443 444 445 446 447 448 449 450 451 452 453 454 455 456 457 458 459 460 461 462 463 464 465 466 467 468 469 470 471 472 473 474 475 476 477 478 479 480 481 482 483 484 485 486 487 488 489 490 491 492 493 494 495 496 497 498 499 500 501 502 503 504 505 506 507 508 509 510 511 512 513 514 515 516 517 518 519 520 521 522 523 524 525 526 527 528 529 530 531 532 533 534 535 536 537 538 539 540 541 542 543 544 545 546 547 548 549 550 551 552 553 554 555 556 557 558 559 560 561 562 563 564 565 566 567 568 569 570 571 572 573 574 575 576 577 578 579 580 581 582 583 584 585 586 587 588 589 590 591 592 593 594 595 596 597 598 599 600 601 602 603 604 605 606 607 608 609 610 611 612 613 614 615 616 617 618 619 620 621 622 623 624 625 626 627 628 629 630 631 632 633 634 635 636 637 638 639 640 641 642 643 644 645 646 647 648 649 650 651 652 653 654 655 656 657 658 659 660 661 662 663 664 665 666 667 668 669 670 671 672 673 674 675 676 677 678 679 680 681 682 683 684 685 686 687 688 689 690 691 692 693 694 695 696 697 698 699 700 701 702 703 704 705 706 707 708 709 710 711 712 713 714 715 716 717 718 719 720 721 722 723 724 725 726 727 728 729 730 731 732 733 734 735 736 737 738 739 740 741 742 743 744 745 746 747 748 749 750 751 752 753 754 755 756 757 758 759 760 761 762 763 764 765 766 767 768 769 770 771 772 773 774 775 776 777 778 779 780 781 782 783 784 785 786 787 788 789 790 791 792 793 794 795 796 797 798 799 800 801 802 803 804 805 806 807 808 809 810 811 812 813 814 815 816 817 818 819 820 821 822 823 824 825 826 827 828 829 830 831 832 833 834 835 836 837 838 839 840 841 842 843 844 845 846 847 848 849 850 851 852 853 854 855 856 857 858 859 860 861 862 863 864 865 866 867 868 869 870 871 872 873 874 875 876 877 878 879 880 881 882 883 884 885 886 887 888 889 890 891 892 893 894 895 896 897 898 899 900 901 902 903 904 905 906 907 908 909 910 911 912 913 914 915 916 917 918 919 920 921 922 923 924 925 926 927 928 929 930 931 932 933 934 935 936 937 938 939 940 941 942 943 944 945 946 947 948 949 950 951 952 953 954 955 956 957 958 959 960 961 962 963 964 965 966 967 968 969 970 971 972