「Nothing」と一致するもの

日本の戦後、そこにはつねにレコードがあった──

社会が変容する中で起こる様々な出来事を、巧みに歌謡曲として織り上げてきた「歌謡民族」日本人
誰もが知っている大ヒット曲の意外な背景から、ロッキード事件やグリコ森永事件のような犯罪を歌ったもの、花粉症の流行やバブル経済など社会現象を題材にした珍レコードまで──歌謡曲でたどる戦後日本の精神史

【著者略歴】
とみさわ昭仁(とみさわ・あきひと)
1961年、東京都生まれ。歌謡ミニコミ誌『よい子の歌謡曲』への参加を経て、1983年にライターデビュー。書評や映画評のほか、ゲームシナリオ、漫画原作など、幅広く執筆活動を行なっている。珍レコードのコレクターとしても知られ、「伊集院光とらじおと」(TBSラジオ)の人気コーナー「アレコード」にも度々出演。

【目次】

はじめに
第1章 終戦からの復興
 ①焼け跡に流れる復興の唄 ②故国からの旅立ちと帰還の唄 ③還らぬ息子を想う母の唄 ④焼け跡に咲く悲しい花 ⑤焦土に咲いた夢のひとひら ⑥そびえ立つ復興のシンボル
第2章 国民のヒーロー
 ①街頭に炸裂する空手チョップ ②オリンピックの顔と顔 ③馬場と猪木、BI砲の時代 ④歌う女子プロレス ⑤王と長嶋、ON砲の時代 ⑥土俵から出たミリオンヒット
第3章 戦争の忘れ形見
 ①安保、平和を願う魂の叫び ②還ってきた日本兵 ③日本と中国の友好の使者 ④とり残された孤児の唄 ⑤沖縄の忘れられた約束 ⑥さい果てに未練を残す北方の島
第4章 高度成長の時代
 ①高度成長を支えた労働者の唄 ②電力不足解消のための一大事業 ③モーレツ社員へのカウンター ④交通網の発達 ⑤社会発展による弊害 ⑥高度成長期の終焉とバブル景気
第5章 多様化する家族のあり方
 ①ベビーブームからの集団就職 ②核家族の増加 ③小市民の時代 ④加熱する受験戦争 ⑤四畳半フォークの世界
第6章 戦後事件史
 ①吉展ちゃん誘拐事件 ②三億円強奪事件 ③連続射殺魔事件 ④三島由紀夫割腹自決 ⑤連合赤軍あさま山荘事件 ⑥コインロッカーベイビー ⑦ロッキード疑獄事件 ⑧横浜米軍機墜落事件 ⑨金属バット殺人事件 ⑩疑惑の銃弾事件 ⑪羽田沖日航機逆噴射事件 ⑫グリコ・森永事件
第7章 流行あれこれ
 ①人々を夢中にさせたマスコット ②歩行者天国は青空のステージ ③レジャーとスポーツ ④幸福行きの切符 ⑤街角のハプニング ⑥噂の口裂け女 ⑦インベーダー襲来 ⑧珍アニマル動物園
第8章 国外からのお客様
 ①ビートルズがやってきた! ②ツイッギー来日 ③世界の国からこんにちは ④モナリザ来日 ⑤人か猿か? オリバーくん ⑥遥かアフリカからの訪問者
第9章 まだ見ぬフロンティアへ
 ①南極観測の始まり ②人類ついに月へ降り立つ ③ネッシー探検隊 ④音速の壁を越えて ⑤試験管の中の生命 ⑥76年周期の危機
第10章 昭和の終わった日
 ①崩御、そして改元
あとがき

天国でまた会おう - ele-king

 昨年11月からフランス全土で巻き起こったジレ・ジョーヌは過剰な「警察の暴力」が問題視され始めたけれど、抗議運動が始まってちょうど1ヶ月が経った頃、取り締まる側の警察がエリゼ宮にデモを行おうとして同じ警察組織に行く手を阻まれ、シャンゼリゼに座り込むということも起きていた。中心となったのは「怒る警官たちの運動(MPC)」で、デモに参加していた警察のひとりが「我々はマクロンを守っているのではない、共和国を守っているのだ」とコメントしたことが僕の心には強く残っている。予算を削減された警察はプロテクターやヘルメットの数が足りず、自腹で身の安全を守らなければ危険だと感じるほどジレ・ジョーヌの抗議行動が激しさを増していたということでもあり(フランス全土で監視カメラの6割が壊されたという)、彼らの帰属意識がどこにあるのかということがはっきりと伝わってくる声明でもあった。それは政府や権力ではなく、国家はどうあるべきかという理念に属するのである(この春に行われる天皇の退位が2•26事件とオーヴァーラップしてしまうのは僕だけ?)。警官が理念を語れるということは、しかし、ものすごいことではないだろうか。そして、アルベール・デュポンテル監督『天国でまた会おう』を観ながら、僕はこの警官たちの言葉を思い出してしょうがなかった。物語は警察の取り調べ室から始まる。場所はモロッコ。彼の供述はそして、勢いよく犬が砂漠を走っていく場面へと飛ぶ。

『その女アレックス』(文春文庫)が日本でもベストセラーになったピエール・ルメートルが初めてミステリー以外の小説を書き、あっという間にゴンクール賞を獲得した同名の長編小説が原作。悪趣味が複雑骨折を起こしたような『その女アレックス』とはだいぶ異なったイメージながら正義を行う主体が屈折した社会的位置にいるという設定は共通で、脚本にはルメートル自身も参加。同作の重みをリアリズムではなく、『アメリ』や『ムード・インディゴ』といったトリッキーな演出でまとめたところもフランス映画の強みを増したといえる。事件は第1次世界大戦終結の直前に起きる。やっと戦争が終わると思った兵士たちをブラデル中尉(ロラン・ラフィット)はムダな突撃に向かわせ、監督自らが演じるマイヤールを砲撃から救おうとしたエドゥアールが顔の下半分を失ってしまう(演じるのは『BPM』で鮮烈な印象を残したばかりのナウエル・ペレーズ・ビスカヤート)。戦地から戻った帰還兵たちには居場所がなく、マイヤールとエドゥアールは孤児のルイーズを加えて慎ましやかな共同生活を始める。言葉を話せなくなったエドゥアールの考えていることはルイーズだけにはわかる。そして、ルイーズはエドゥアールが壮大な詐欺の計画を考えているとマイヤールに告げる。エドゥアールには類まれなる画才があり、彼の絵の才能を利用してありもしない戦没者の記念碑を売りつけようというのである。

 戦後のドイツ政府がゲーテの家を復興しようとしたことはある種の現実逃避だったとされている。それはナチスに加担したり見て見ぬ振りをしていた人たちが現実から目を逸らすための方便だったとドイツ哲学の三島憲一も指摘していた。マイヤールとエドゥアールからしてみれば、自分たちのことを受け入れなかった戦後のフランス社会が自分たちの存在から目を逸らすためにモニュメントを必要としていたことになる。彼らはそれこそどこに帰属意識を探せばいいのかわからない状態に置かれたのである。年末に保坂和志と久しぶりに食事をして、その時もなぜだったか帰属意識の話になった。あれこれ聞いているうちに、少なくとも保坂は「軍隊は嫌いだけど戦友は大事だ」という意味のことを話していた。マイヤールとエドゥアールの結びつきもまさにそれで、戦争にもしもいいことがあるとしたら戦時下の友情が尋常ならざる強固なものになることだろう。水木しげるもそれがなければ『総員玉砕せよ!』のような作品を残すことはなかったし、『少年H』のような回想も残らなかったことだろう。その結びつきがホモ・ソーシャルなものとして悪い方向へ向かうことがないようルイーズやポリーヌといった「おんなこども」の要素をうまく噛み合わせていることもこの作品の巧みなところである。それこそフランス的というべきかもしれない。とくにマイヤールが黄色いスーツを着込んでポリーヌをデートに誘うシーンは楽しいエピソードであり、彼らはいわゆる詐欺師グループであるにもかかわらず、権力に虐げられている人は誰なのかということを同時に分からせていく組み立てもよくできている。図式的といえばあまりに図式的な構成なのだけれど、それを凌駕するアイディアやウィットに満ちていて、並行して進むもうひとつのストーリーに様々な角度から食い込んでいく妙味もある。マイヤールとエドゥアールが金をだまし取ろうとしている相手は実はエドゥアールの父親で、戦争を遂行した権力の重要人物でもある。そのような人物がどうして息子を戦地に送り出したのかという疑問は残ったけれど、結果的に父と子は戦争というハプニングを挟んで向かい合い、お互いの存在意義や関係性を再確認することになる(父親のモデルはヴォクトル・ユゴー)。ありきたりな表現で申し訳ないけれど、ラスト・シーンはかなりびっくりだった。いまだに「え、なんで?」という感触が脳のどこかには残っている。

 トリッキーな演出である以上、美術が大袈裟で過剰なのは当たり前。なかでも顔の下半分を失ったエドゥアールがつける仮面の造作は当時の美術傾向であるキュービスムがそのまま反映され、題材もバスター・キートンからジャン・コクトーと、それだけで見事な一幕劇をなしている。自分の顔を失ったことでたくさんの顔を持つことができたと解釈するならば、エドゥアールはドゥルーズ=ガタリが言う「顔の解体」を経て主体性というブラックホールから脱出したということになる。かつてベトナム帰還兵がエドワード『シザーハンズ』として再生し、朝鮮戦争からの帰還兵だったディック・ホワイトマンがドン・ドレイパーになりおおせた『マッドメン』のように。戦地から戻ってきたのは本当は誰だったのか。失ったのは顔の半分というのが哲学的には少しややこしいところだけれど、なんとかして『犬神家の一族』のスケキヨに観せたい作品である。

(予告編動画)
映画『天国でまた会おう』予告編

James Blake - ele-king

 きみはもう聴いたか? 去る1月中旬、唐突に新作をリリースし一気に賛否両論を巻き起こしたジェイムス・ブレイクだけれど、このたびその新作『Assume Form』の日本盤が発売される運びとなった。いや、これは素直に喜ばしいニュースでしょう。なぜって、ボーナス・トラックはもちろん、歌詞対訳も封入されるんだから!
 もともとダブステップのシーンから頭角を現した彼は、大胆に歌へと舵を切り大きな成功をおさめた後も積極的にアンダーグラウンドとの接点を保ってきた。たとえば一昨年はジェイ・Zやケンドリック・ラマーをプロデュースする一方で盟友マウント・キンビーと共作したり、自身の新曲もドロップした昨年はOPNの問題作『Age Of』に貢献する一方でトラヴィス・スコットの話題作『Astroworld』に参加したりと、メインストリームとアンダーグラウンドのあいだに橋を架けるような活動を続けている。そのトラヴィス・スコットとマウント・キンビーが同居する今回の新作も、そのような往来の賜物と言えるだろう。
 ではそのニュー・アルバムではいったいどんなことが歌われているのか? 昨年は歌詞にかんするツイートも話題になった彼だけに、現在の彼がどのような言葉を紡いでいるのかは大いに気になるところである。日本盤の発売は2月27日。

“形式”を凌駕する“音”の未来形──。
James Blake New album “Assume Form”

ジェイムス・ブレイク『アシューム・フォーム』
2019.02.27発売
UICP-1192 ¥2,700 (税込)
【日本盤ボーナス・トラック2曲収録】

深遠なるエレクトロ・サウンドで世界の頂点に立つ
現代音楽界の至宝、ジェイムス・ブレイク。
意欲的なゲストを迎え新境地へ到達した
孤高の4thアルバム。

2011年の1stアルバム『ジェイムス・ブレイク』で衝撃のデビューを飾り、2013年の2nd『オーヴァーグロウン』で第56回グラミー賞(2014年)の最優秀新人賞にノミネートされるなど、ジャンルを超越した深遠なるエレクトロ・サウンドで全世界を席巻したジェイムス・ブレイク。現代音楽界における孤高の天才とも称される彼が、2016年の3rd『ザ・カラー・イン・エニシング』以来約3年ぶりとなる待望の4thアルバム『アシューム・フォーム』を1/17にリリースしました。トラヴィス・スコット、メトロ・ブーミン、アンドレ3000といった今まで以上に意欲的なゲストを迎えたこの作品、ネット上では“早くも2019年の最重要作品が登場した!”という声も聞かれるなど、さらに進化した独自の音世界が絶賛されている。日本盤CDは、2017年以降にデジタル・リリースされた2曲のシングル「ヴィンセント」「イフ・ザ・カー・ビサイド・ユー・ムーヴス・アヘッド」をボーナス・トラックとして世界初CD収録したファンには嬉しい内容で2月27日にリリース。この2月から3月にかけては全米ツアー、4月にはロンドンやマンチェスターでの公演が発表されているジェイムス・ブレイク、2016年以来の来日にも期待が高まります!

【豪華ゲスト参加】
●トラヴィス・スコット ●アンドレ3000 ●メトロ・ブーミン 他

■ALBUM
ジェイムス・ブレイク『アシューム・フォーム』
James Blake / Assume Form
2019.02.27発売

UICP-1192 ¥2,700 (税込)
【日本盤ボーナス・トラック2曲収録】
配信のみでリリースされたシングル2曲を世界初CD収録!
「イフ・ザ・カー・ビサイド・ユー・ムーヴス・アヘッド」(2018年)
「ヴィンセント」(2017年/ドン・マクリーンのカヴァー)

【収録曲】
01. Assume Form
  アシューム・フォーム
02. Mile High feat. Metro Boomin, Travis Scott
  マイル・ハイ feat. メトロ・ブーミン、トラヴィス・スコット 【リード曲】
03. Tell Them feat. Metro Boomin, Moses Sumney
  テル・ゼム feat. メトロ・ブーミン、モーゼス・サムニー
04. Into The Red
  イントゥ・ザ・レッド
05. Barefoot In The Park feat. Rosalía
  ベアフット・イン・ザ・パーク feat. ロザリア
06. Can't Believe The Way We Flow
  キャント・ビリーヴ・ザ・ウェイ・ウィ・フロー
07. Are You In Love?
  アー・ユー・イン・ラヴ?
08. Where's The Catch? feat. Andre 3000
  ホエアズ・ザ・キャッチ? feat. アンドレ3000
09. I'll Come Too
  アイル・カム・トゥー
10. Power On
  パワー・オン
11. Don't Miss It
  ドント・ミス・イット
12. Lullaby For My Insomniac
  ララバイ・フォー・マイ・インソムニアック
13. Vincent*
  ヴィンセント*
14. If The Car Beside You Moves Ahead*
  イフ・ザ・カー・ビサイド・ユー・ムーヴス・アヘッド*
*: Bonus Tracks for Japan Only (日本盤ボーナス・トラック)


■バイオグラフィー
James Blake (ジェイムス・ブレイク)
2011年の1stアルバム『ジェイムス・ブレイク』で衝撃のデビューを飾り、2013年の2nd『オーヴァーグロウン』で第56回グラミー賞(2014年)の最優秀新人賞にノミネートされるなど、ジャンルを超越した深遠なるエレクトロ・サウンドで全世界を席巻したジェイムス・ブレイク。現代音楽界における孤高の天才が2016年の3rd『ザ・カラー・イン・エニシング』以来3年ぶりに発表した待望の新作は、意欲的なゲストを迎えた2019年の最重要作品と呼び声高い作品である。

■LINKS
◎日本公式ページ 
https://www.universal-music.co.jp/james-blake/
◎海外公式ページ 
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◎海外公式instagram
https://www.instagram.com/jamesblake/
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A Man Called Adam - ele-king

 90年代初頭のアシッド・ジャズ期における粋な1枚に、ア・マン・コールド・アダム(AMCA)の『The Apple』(1991)というアルバムがある。サリー・ロジャーズとスティーヴ・ジョーンズのふたりを中心に、レフトフィールドのポール・デイリーなんかも参加したこのプロジェクトは、エブリシング・バット・ザ・ガールやウィークエンドのような品の良い折衷主義が売りで、ジャズとハウス、ポップスを混ぜながらも玄人受けもした。
 それからAMCAは、シングルを中心に作品を発表し続けているが、オリジナル・アルバムに関しては1998年に1枚のアルバムを出したきりだった。ここ数年サリーはリーズの音楽大学で教師として、スティーヴは音楽デザイナーとして大英博物館や英国文化協会などで働いたりで、ともに忙しくしていたようだが、ふたりがAMCAのことを忘れたわけではなかった。
 AMCAはこの3月にアルバムとしてはおよそ30年ぶりの新作を発表する。『Farmarama』というタイトルで、彼ららしい品のある折衷主義が聴ける。ジャズ、ハウス、ディスコ、ダブ、ポップス、そしてAORっぽさもある。今宵は、大人が奏でる極上のメロウネスなんていかがでしょう?


A Man Called Adam
Farmarama

other

https://www.amancalledadam.com/
 

 昨年12月、水道事業を民営化する伏線として改正水道法が成立した。いくつかのニュースサイトを見ると、大阪で地震が発生し、21万人以上が水道の被害を受けたことを理由に(というか逆手にとって)、「水道管の老朽化」問題を振りかざし、自・公、日本維新の会、希望の党など大多数の賛成によって可決されたという。ナオミ・クラインが『ショック・ドクトリン』で解き明かした、災害便乗型の新自由主義をぼくたちは目の当たりにしたわけである。

 水は……水だけを飲んでいれば良いという言葉があるように、水は人間が生きてくうえでの命綱だ。それを民営化するというのは、経済状況によっては水も飲めないひとが出てくる可能性があるということだ。こんな重要で恐ろしいことがわずか8時間の審議で可決されてしまうのが、我が国の現状だ。しかもだ……、水道事業の民営化こそサッチャリズムであり、この政策がはじまって数十年後の現在、結局のところ失敗だったという事例はすでにある。当のイギリスにだって自治体によっては倒産したという話もあり、再公営化の動きさえあるという、にも関わらず……なのだ。(日本において新自由主義が本格的にはじまったのは小泉政権から。つまり、英米よりおよそ20年遅れではじまっている)

 そういう意味でオーウェン・ジョーンズの『エスタブリッシュメント』の翻訳刊行は、日本の近未来を案ずるうえでの貴重な資料になる。新自由主義先進国のイギリスで起きたこと、そのプロセスと現状を知ること。まあしかし……もはやそんな悠長なことを言ってられないんだよというのが、日本で生活するひとたちの本音なんだろう。

 というのもつい先日、厚生労働相は9カ月にわたる実質賃金マイナスを認めた。サラリーマンの平均収入は相対的にみてアジアでも最低レヴェルじゃないのかなどと言われはじめて久しいけれど、いよいよ現実味を帯びてきているというわけだ。ちまたには日本でサラリーマンやるより香港で家政婦したほうが稼げるんじゃないかという説もあり、こと文化産業に携わっている身としては暗澹たる気持ちにならざるえない(円安政策がどれほどレコード好きにとって弊害かという話はおいておいて)。与党はしかしアベノミクスの非を認めないし、またいままでのようにだらだらと世間の関心が薄れるまで時間だけが過ぎていくんだろうなぁ。……とまれ。『エスタブリッシュメント』からは、いま読み方によっては未来に繋がるヒントが導き出せるんじゃないかとも思う。


 『エスタブリッシュメント』は、早い話、新自由主義に乗っかって、おいしい思いをしている連中のことを定義し直している。エスタブリッシュメントとは、支配的な経済エリートとも言えるだろうし、格差社会の上層部と言えるだろうし、そういう連中は、有能で高額な会計士を雇うことで巧妙な税金逃れをしながら、政治のみならずマスメディアも操作し世論すらコントロールできる立場を築いている。(ここでザ・クラッシュの“コンプリート・コントロール”でも聴いて気合いを入れよう)

 よし、気合いが入った。エスタブリッシュメントとは、ある意味リベラルでさえある。LGBTにだってアプローチする。しかもエスタブリッシュメントには(金融が良い例であるように)お互いが助け合う社会主義がある。そしてエスタブリッシュメントは、エスタブリッシュメントではないひとたちを容赦なく蹴落としていく。

 それはサッチャーが右翼というレトリックを使ってやってのけた、その後の世界の方向性を決定づける経済実験の行き着く先を象徴している。『エスタブリッシュメント』にはそのことが詳述されている。あまりにも詳細に書かれているので、イギリス政治マニアでもない限りすらすらと読める代物ではないけれど、ただし、左派も右派も呑み込んでいく新自由主義の恐ろしさを知るうえでは入魂のレポートであり、たんに自分の教養を肥やすためだけではないヒントもあるように読める。

 ぼくがもっとも興味深く読めたのは、警察の話である。これは新鮮な驚きだった。ジョーンズによれば、第一次大戦後のイギリスの警察は、自分らの労働条件に不満を抱き、労働党を支持し、政府に楯突く存在だったそうで、しかしその警察を政府への反対勢力を取り締まるための兵器に仕立て上げたのもサッチャーだった。デモがあればデモ隊を鎮圧する役目を引き受けるあの警察とは、サッチャーが作り上げたもののひとつだったのだ。サッチャーは公務員や労働者階級にむごたらしい仕打ちをしたが、警察には砂糖を与え、そして人員を増やし、みごとに手懐かせた。それは、警察が新自由主義を守るうえで重要な役割を担っていることを見越しての政策だった。

 しかしいまとなっては……たしかに、こんな文章を書いている人間は奇人であり、変わり者であり、アホであり、スマートではないマイナーな人間だと思わせてしまう世の中にしてしまえば、まあ、監視装置や対抗者撃退のために金をかけなくても済む。スリーフォード・モッズなんかのいうことはスルーして、口当たりのいい言葉をふるまうセレブの一挙手一投足に注目せよと。いや、こんなところまでジョーンズが言っているわけじゃないんだけれど。

 だが、しかし、新自由主義の勝者であるエスタブリッシュメントがメディアさえも我がモノにしたとき、もはや警察の力はかつてほど重要ではなくなった。もともと公的資金を福祉や公共事業につぎ込むくらいなら儲かる話に投資しようというのが新自由主義なので、さほど重要ではなくなった警察に対して冷淡になるのは必然といえば必然である。かくして人員削減がはじまり、民営化がはじまり、かつては激突していた労働者たちと同じ運命を彼らもたどるにいたり、そして2012年には警察のデモがはじまった。数年前までデモを包囲していた人間がデモをはじめたというわけだ。


 だれもがきつい思いをしているってことだ。右左関係なく、下の方にいる人間はきつい、『エスタブリッシュメント』を読みながらぼくが思ったのはそういうこと。ぼくはいま怒りのこもった初期のURが聴きたい。レゲエが聴きたい。パンクが聴きたい。スペシャルズが聴きたい。CRASSが聴きたい。底辺にいる人間の声が聴きたい。『エスタブリッシュメント』を読んでしまっては、そうするしかないだろう。マーク・フィッシャーの『資本主義リアリズム』も同じようにイギリスにおいての新自由主義の行き着いた現在を描いているが、フィッシャーが思想ないしは文化批評ならこちらは直球の政治ジャーナリズムだ。

 で、結局のところ世界はエスタブリッシュメントにとって好都合にしかならないように動いていると。そうかもしれないが、歪みは見え軋みも聞こえはじめている。こうした流れをぼくたちなりに表現するためにも、たったいま、『別冊エレキング』臨時増刊号として「黄色いベスト運動」に関する一冊を作っている。3月末までには出る予定です。お楽しみに!

Bibio - ele-king

 2017年の暮れに美しいアンビエント・アルバムを送り出し、昨年はその続編となるEPを届けてくれたビビオが、突如新曲を発表しました。再生ボタンを押すと……あのギターリフです。ビビオです。と思いきやヴァイオリン。なんでも昨年弾きはじめたんだとか。アルバムごとにいろんなスタイルにチャレンジする彼のことだから、また何か考えていることがあるのかもしれませんね。そして前作とは関係のない新曲が公開されたってことは、ニュー・アルバムがリリースされる日も近い? 続報を待ちましょう。

Bibio

聴く者の記憶や、心に浮かぶ情景に寄り添う心温まるサウンドで支持を集めるビビオが新曲“Curls”をリリース!

『A Mineral Love』(2016年)ではグラミー賞アーティストのゴティエと共演をし、サカナクションの山口一郎やボーズ・オブ・カナダなどを筆頭に、国内外のアーティストから賞賛を集めるビビオ。聴く者の記憶や、心に浮かぶ情景に寄り添う心温まるサウンドで、幅広い音楽ファンから支持を集める彼が、新曲“Curls”を突如リリース!

https://www.youtube.com/watch?v=Vx9_FIIH-UM

僕の多くの歌やインストゥルメンタルの楽曲と同様に、この曲はギターのリフから始まる。そこから、去年始めたマンダリンとヴァイオリンで演奏した主旋律に繋がる。歌詞については、一見すると関係なく見えるけど、実は結びついている人生の小さな物事──異なる記憶の断片やこの目で観測したこと、そして空想──がインスピレーションになっている。ここ数年のことを振り返ってみると、自分にとって大切なもののいくつかは、日常の小さな観察や体験だと気づいた。木に染み付いた雨の匂いだったり、外から部屋に入ってきた人の髪の毛が持ち込んでくる新鮮な空気だったり。そういう瞬間は喜びに満ちているし、とても意義深いものだったりもする。人生がどんなものかってことや、生きることの意味、もしくは意味すら超えた何かだってことに気づかせてくれる。それはまた、歌詞を乗せた曲よりも、言葉を持たない曲の方が多くを語りかけてくれることに気づかせてくれる。そういう日々の瞬間が、生まれ持った資質や、野心的に物事を達成することよりも重要だったり、記憶に残ることもある。それは太古まで遡っても存在することだし、個人の心の中の世界を超えたものなんだ。こういった意識っていうのは恐らく何千年も昔から体験されてきたことなんだろうと思う。新鮮な空気以外にも世の中には素晴らしいものがたくさんあって、そういった存在を目の当たりにしたとき、人は幸せを感じることができる。だからこそ、日々の小さな物事が自分の心に響くし、それらを曲の中で歌うことは意味のあることなんだ。 ──スティーヴン・ウィルキンソン(Bibio)

新曲“Curls”は各種サービスにて配信中!

label: WARP RECORDS
artist: Bibio
title: Curls

iTunes: https://apple.co/2SvA9mS
Apple Music: https://apple.co/2DY6AlR
Spotify: https://spoti.fi/2WSHUTo

お詫びと訂正 - ele-king

 2月5日にアップした、沢井陽子のコラム「Random Access N.Y./vol.110 史上最悪のスーパーボウル騒動」にて、複数の読者からいくつかの間違いの指摘がありました。
 事実誤認と誤解を招く表現があったことをここに深くお詫び申し上げます。
 筆者に確認したうえで、以下の3点について訂正させていただきます。

①ハーフタイムのショウは伝統的にノーギャラなので、カーディBが膨大なギャラを蹴った、というのは何がソースか、という点。

 カーディーBの件は、筆者が「たくさんのお金を犠牲にしてショーをやる」という話を「ギャラを蹴る」というふうに読み間違えてしまったとのことでした。

“I got to sacrifice a lot of money to perform. But there’s a man who sacrificed his job for us, so we got to stand behind him.”
私は演奏するためにたくさんのお金を犠牲にしないといけない。でも、私たちのために、自分の仕事を犠牲にしている人もいるから彼(コリン・キャパニック)を支持するべき。

https://www.apnews.com/8b5d8a59de03402c948b1b0341cb8615

②トム・ブラディ選手がトランプ支持者という点(つながりはあるらしいが、公に支持を表明しているのか)

 公にはしていませんが、NYの筆者のまわりでは、支持者だ思っているひとは少なくないようです。トランプとは友だち(https://www.thedailybeast.com/inside-tom-brady-and-donald-trumps-14-year-bromance)なのでサポートする、という話らしいのですが。

Brady backed off a little when his wife clearly told him to, said that he didn’t actually have political opinions at all, that actually he was “a positive person,” and that Trump was just his friend he supported because he always supports his friends, even if he did think it would be cool if he won.
トム・ブラディの妻は「トムは政治的な意見はまったくなく、ポジティヴな人で、トランプは彼の友だちだったから、彼が勝ったら良いねと支持するの」と言う。

https://www.thedailybeast.com/tom-bradys-new-england-patriots-are-team-maga-whether-they-like-it-or-not?ref=scroll

③30年以上前からあるのに、「ビヨンセ以来スーパーボウルがアメリカでもっとも注目されるショウになった」という点

 こちらは筆者の個人的な見解です。なので、「ビヨンセ以来、私のなかではスーパーボウルはがアメリカでもっとも重要なショウになった」と表現すべきでした。

 以上です。記事のほうは、修正させていただいております。申し訳ございませんでした。

編集部・野田努

Beirut - ele-king

 タイトルの『ガリポリ』はガリポリの戦いで知られるトルコのガリポリ半島かと思っていたら、イタリア南部に位置する海沿いの街のことらしい。ガリポリに関する知識がまったくないのでグーグルの検索に入れてみる。美しい地中海沿いの風景、城塞都市であるという旧市街、美味しそうな地中海料理の写真。なるほど、行ってみたくなる場所だ。あるいは、『ガリポリ』のタイトル・トラックを聴いてみる。ベイルートらしい8分の6のゆったりしたリズムに合わせて叩かれる柔らかい太鼓の音、大らかなブラス・セクションとともに伸び伸びと歌うトランペット、ザック・コンドンのバリトン・ヴォイス。地中海の街に立つ即席の楽団を想像してみる。どちらのほうが僕たちはより豊かに「ガリポリ」を感じられるだろう?

 ベイルートことザック・コンドンの音楽に無条件で親近感を覚えてしまうのは、彼が映画館でアルバイトしていたときに観たエミール・クストリッツァの映画を観て東欧の音楽に興味を持ったエピソードのせいかもしれない。日本にもクストリッツァの映画の影響でバルカン音楽を好きになったという人間は多いが、つまり、コンドンの東ヨーロッパ音楽への関心はとても素朴な場所から始まっている。彼はその憧憬の純度を保ったままヨーロッパを旅し、そして自分の音楽にとても素直に取り入れた。それが素晴らしいはじめの2枚になる──僕のお気に入りは哀愁がとめどなく迸るセカンド・アルバム『ザ・フライング・カップ・クラブ』(2007)だ。その終わり3曲を聴けば、いつか東ヨーロッパを旅してみたいという気持ちが何度でも鮮やかに蘇る。
 『ガリポリ』は彼にとっての5枚めのアルバムで、注目されるトピックはふたつ。ひとつが初期2作の作曲に使ったファルフィッサのオルガンを再び使ったこと。もうひとつが、コンドンがニューヨークを離れ、ベルリンに居を移したことだ。レコーディングはイタリアでおこなわれたという。前者については、サウンド・アプローチを大きく変えた前作『ノー・ノー・ノー』(2015)から引き返しぐっと初期のムードに近づいた要因だと言えるだろう。もちろんコンドンは初期2作からアルバムを重ねるごとに音楽性の幅──取り入れるサウンドの地域性やリズムのボキャブラリーを増やしてきたので、この『ガリポリ』は12年前と比べて遥かに成熟したものであることは間違いない。が、どこかで初期のような衒いのない伸びやかさが感じられ、そのことがアルバムに再びフレッシュな風をもたらしている。
 そして後者について。ニューヨークを離れた理由として、コンドンはいわゆる「大統領」の問題やストレスフルな都市のムードに嫌気が差したからだと語っている。この2年ほどのアメリカの政治と社会の混乱はミュージシャンたちに様々な反応を促したが、ベイルートは文字通り逃げた。アメリカではない場所へ。そのことが結果として、ベイルートらしさ──自分が「住まなければならない」場所から音楽の想像力で羽ばたくこと──を充溢させることとなった。ふくよかな管楽器のアンサンブル、音色を変えていく多様なリズムによる舞踏感覚、鷹揚なメロディといくらかのペーソス。ポップなヴァラエティをアピールする前半もいいが、ベイルートの音楽性の奥行きを感じさせるのはB面に当たる曲群だ。リヴァーブのこもったビート・ボックスと控えめなコーラス、柔らかなトランペットが次第に華やかなオーケストラを導いてくる“Family Curse”。南米のリズム感覚とメロディが注がれた“Light in the Atoll”はベイルートとしては新鮮だし、あるいはぐっと抽象的なエモーションへと舵を切る“We Never Lived Here”の曖昧な悲しみは、増していく音の重なりとともにゆっくりと去っていく。

 その“We Never Lived Here”でコンドンは「僕たちはここに住んでいなかった」と歌うが、それは新たな土地へと降り立った心境とも取れるし、かつて住んでいた場所が自分の心を捕まえていなかったことの比喩とも取れる。それは、いま日本に「住まなければならない」僕たちにも共感できる引き裂かれた感情ではないだろうか。シンプルに、ここにいたくないという気持ち。この社会が自分たちの心を殺していくというような恐怖。“Family Curse(家族の呪い)”はコンドンの家系に多い精神疾患に対する恐怖心についてだそうだが、それはつまり、生まれ落ちた場所や状況に縛られるしかない閉塞感を指しているとも言える。
 だが、僕たちは本当はそれに縛られなくてもいい。ベイルートの音楽が、『ガリポリ』がそのことを僕たちに語りかけてくる。彼が主宰するアンサンブルはミスタッチやミストーン、すなわち人間による偶発的なエラーも許容しながらその瞬間瞬間を受け入れ、架空の旅を続ける。その「ワールド」の咀嚼が正確なものではないがゆえにこそ、想像はどこまでも広がっていく。翻って現在の国家は人間の移動を制限しようと必死だが、しかし本質的には何者もけっしてそれを押し留めることなどできない。かつてブルックリン・シーンの「非アメリカ」を体現していたザック・コンドンはアメリカを実際に脱出し、そして彼の音楽を聴く僕たちは移動し続ける音楽の自由を知っている。

女王陛下のお気に入り - ele-king

 日本でも評判を呼んだTVドラマ『宮廷の諍い女』など中国では宮廷劇があまりに流行り過ぎて、人民に華美なライフスタイルを流行らせるため宮廷劇の製作が今後は禁止されたという。中国では富裕層がペットにお金をかけ過ぎることも度々批判の対象になり、その類のニュースに目を通していると毛沢東時代の質素な暮らしをよしとする考え方も根強く残っていることが伺える(GDPが日本の倍になったとはいえ人口比で考えると日本人ひとりに対して中国人5人の「生産性」が同じぐらいということだし、富裕層を除いた残りの平均所得は月に2万5千円ぐらいだそうで、景気の減速に伴って都市部では7万5千円の家賃を払えなくなっている人も出てきたとか)。イギリスも話題がブレクシット一色ということはなく、貴族の暮らしぶりを描いたTVドラマ『ダウントン・アビー』は9年目にしてついに映画化されることになり、ビクトリア女王やエリザベス女王を題材にした映画も次から次へと出てくるし、昨年はミーガン・マークルの皇室入りで現実の世界でも宮廷劇は最高潮に達している。スコットランド独立運動と共にメアリー・スチュワートの人気も上がりっぱなしで、もはや作品名を覚えられる量ではなく、映画の中でウインストン・チャーチルやトニー・ブレアがいちいちバッキンガム宮殿に足を運ぶので、もはやどこにどの部屋があるのか配置図が書けてしまいそうである。
 そうしたところにアン女王を中心とした『女王陛下のお気に入り』ときた。18世紀初頭、スチュアート朝最後の君主で、彼女の死後、イギリスは最盛期を迎えるハノーヴァー朝へ移行していく。これがまた凄まじい宮廷劇であった。実話だそうである。

 貴族から召使いへと転落したアビゲイル・ヒルが働き口を求めてアン女王の城に向かう場面から物語は始まる。ヒルを演じるのはこのところ『ラ・ラ・ランド』や『バトル・オブ・ザ・セクシーズ』で「努力の人」というイメージが板についていたエマ・ストーン(安倍晋三がエマ・ワトソンと間違えた女優)。最初は掃除や炊事など下働きしかさせてもらえなかったヒルが痛風に苦しむアン女王に薬草を煎じ、その痛みを和らげたことから女王の「お気に入り」に加えられる。アン女王を演じるのは、現在、ネットフリックス『ザ・クラウン』でエリザベス2世を演じているオリヴィア・コールマン。巨体を揺らして、いわゆるバカ殿を演じ、君主制というものがいかにベラボーで、民主主義というものがどれだけありがたいものかを全編を持って逆説的に訴えかけてくる。そして、アン女王の参謀を務めているのがレイチェル・ワイズ演じるモールバラ公爵夫人レディ・サラ。ウインストン・チャーチルやダイアナ妃の先祖であり、彼女が残していた日記がこの映画の基底をなしている(アン女王が無能に近く描かれているのはそのせいらしい)。この時、イギリスはフランスと戦争中で、戦争の継続と増税を望むホイッグ党と戦争終結を訴えるトーリー党が対立し、アン女王は両者のバランスを見ながら諸事に決断を下していく。専制君主とはいえ、強権的に権力を振りかざす時代ではなくなっていたそうで、難しい選択を迫られたアン女王が現実から逃避し、レディ・サラやアビゲイル・ヒルから慰めを得ることがこの作品で描かれていることのほとんどといってよい(そして美術に衣装。それこそ『ゲーム・オブ・スローンズ』がTVドラマに求める女性の好みを結集させてつくられたマーケティングの集大成だったとしたら、女性の指導者やソープ・ドラマ的展開、あるいは権力者の栄枯盛衰など『女王陛下のお気に入り』にもその要素はあらかた出揃っている)。

 といったような背景がわかってはきたものの、何を描こうとしている映画なのかということが一向に見えてこない。こうかなと思っているとあっちにいってしまうし、そっちかと思うとぜんぜん違うし、ストーリーというものが指の間からポロポロとこぼれ落ちていくような体験が続く。(以下、限りなくネタバレに近いブルー)後半に入って一気に押し寄せてくるのは「政治」である。政治には「目的」と「方法」がある。議案にもよるだろうけれど、往々にして何が何でも自分の主張を通そうとする人は嫌な感じがするものだし、そのために権力にすり寄っていく人はさらに醜く見えやすい。『女王陛下のお気に入り』ではそうした「目的」と「方法」が見事に絡まり合っていて、宮廷劇の十八番である権謀術数を観客にも隠しつつ話が進行していく。ストーリーが手に取るようにわからないのはそのためであって、何が起きていたのかがわかった時にはほとんどのことは終わっている。そして、その時に初めてオープニングに続いて(ここからは本当にネタバレ)レディ・サラが目隠しをされていたシーンの意味がわかってくる。このシーンは異様なほど恐怖を掻き立てる。どう考えても怯えすぎである。しかもアン女王はレディ・サラを喜ばせようとして目隠しをさせたというのに。あれ以上のシーンはこの映画にはなかった。いってみればクライマックスは最初にあったのである。

 ヨルゴス・ランティモス監督は『籠の中の乙女』でも『ロブスター』でも、そして『聖なる鹿殺し』でも人間が自由を奪われるとどうなっていくかということを描いていた。ある意味それは人間を近代から少しはみ出した地点においてみるという実験であり、物語が終わった時点で主人公たちが近代に戻ってきたかどうかはどの作品でも観た人が考えるというつくりになっている。独裁者というのは近代にもちょくちょく現れるもので、自分の国の指導者がそのようなパーソナリティに近づいていった時に人はどう動くかという実験を『女王陛下のお気に入り』では見せられたようなもので、戦争を遂行するか回避するかなどということに関してはそれほど大きく変わっていないとさえ思える面も多々あった。それどころか、現代の政治は18世紀初頭ぐらいならばすぐにも戻れてしまうほど基盤の弱いもので、シリアやヴェネズエラのようにあっという間に国家という体裁をなさないこともあるし、ドナルド・トランプが大統領になっても司法やマスコミが機能していることを世界に知らしめたアメリカはやはり近代国家として優れているということも思わずにはいられなかった。「お気に入り」という表現を安倍政権の「オトモダチ」やちょっと前のマレーシア政権みたいに「身内びいき」と言い換えてもいいかもしれない。国会議員ではなく諮問委員会の方が立法に近い位置にいるという現状など、考えれば考えるほどこの世界はモダンから遠ざかっていく。あー。

 コメディアンのケヴィン・ハートが過去に行ったヘイト・ツイートによって司会を辞退し、MC不在という異例の事態のままアカデミー賞の発表まで1ヶ月を切った。下馬評では『トゥモロー・ワールド』や『ゼロ・グラヴィティ』のアルフォンソ・キュアロンによる『ローマ』と『女王陛下のお気に入り』の一騎打ちだということが言われている。なんとも高級な対決になったものだけれど、イニャリトゥとデル・トロに続いてキュアロンが受賞すればメキシコの映画運動、ヌエーヴォ・シネ・メヒカーノから出てきたビッグ3が全員アカデミー賞を獲得したことになるし、『ロブスター』からたったの3年でランティモスが受賞するという絵もなかなかに美しい。ノミネート作をすべて観ているわけではないので、大きなことは何も言えないけれど、いつにも増して発表が待ち遠しいことは確か。ちなみに外国語部門ではカンヌでも因縁の対決となったイ・チャンドン『バーニング』と是枝裕和『万引き家族』もノミネートされているそうで。


(予告映像)
『女王陛下のお気に入り』日本版予告編

 2017年の8月にリリースした“Look What You Made Me Do”のブリッジで、テイラー・スウィフトは「申し訳ございません、『古いテイラー』は電話に出られません/なぜって? 彼女は死んだから」と言っている。カニエ・ウェストとのトラブルから生まれたとされるこの曲は、どこか不穏な復讐の歌であると同時に再生の歌でもある。「ギリギリのところで私はスマートに、強くなった/死から立ち上がったの、だっていつもそうしているから」。テイラーの「古い私は死んだ」というショッキングだが力強いステートメントは、2018年を通して僕の耳にこびりついて離れなかった。

 一方、勇気づけられるというよりは打ちのめされたのがカーディ・Bの言葉で、彼女はヒット・シングル“Bodak Yellow”で「私がボス、あんたはただの労働者」とラップしていた。また、YouTube Musicの広告で100回は耳にしただろうラテン・トラップの“I Like It”ではこうだ。「バッド・ビッチは男をナーヴァスにする」。カーディは怒張した男根をへし折る女として2018年のポップ・シーンに君臨していたように思う。

 テイラーやカーディに惹かれる一方で、2018年の僕にとって最も重要だったのはアリアナ・グランデの存在だ。彼女の「神は女性だ」という、あまりにもコントラヴァーシャルな宣言は、一つの楔として僕の心に打ち込まれた。ゆったりとしたテンポのトラップ・ポップに乗せて彼女は歌う。「あなたが『なれない』と言ったすべてのものに私はなることができる/私と一緒にいれば、あなたは宇宙を見ることができる/それはすべて私の中にある」(“God is a woman”)。“God is a woman”は典型的な女性優位を主張する歌だ(この曲はセックス賛歌でもある)。時計の針を50年分巻き戻してみて、ポップ・ミュージックの歴史をさかのぼってみれば、この曲がアレサ・フランクリンの“リスペクト”の系譜に連なる一曲であることがわかるはずだろう。オーティス・レディングから「盗んだ」その曲をほんの少し書き変えることで、アレサは男性優位主義を見事にひっくり返していた。


Sweetener
ユニバーサル・ミュージック

 “God is A Woman”が収録されたアリアナ・グランデのアルバム『Sweetener』は、2017年5月にマンチェスターのコンサート会場が自爆テロ犯によって襲撃された事件を経て制作され、翌年8月にリリースされた。モノクロームだった前3作のカヴァー・アートに反して、『Sweetener』はカラー。これについて彼女は、「これは新章。私の人生は初めて色彩の中にある」と語っている。アルバムに先立ってまずリリースされたのが“no tears left to cry”で、このシングルのカヴァー・アートは暗闇の中にいるグランデの顔に虹色の光が差している様が写し取られている。シリアスなムードのイントロでグランデは「流す涙はもう残っていない」と決意を表明する。その後の彼女は軽快に、そして自然体で、まるで何事もなかったかのようなトーンで歌っていく。「私は尽き果てた、でもね、もういいの/どんな方法で、何が、どこで、誰がそれをやったのだとしても/私たちは今、ここで楽しんでいる」。

 『Sweetener』を聴くたびに僕はこう思う。自身のコンサート会場で23人もの命が失われるという、あまりにも痛ましい悲劇を経てもなお、グランデはどうして歌うことができるのだろう? そのすべてをポジティヴな、そして女性的な表現へと見事に昇華してみせるグランデの力強さは、いったいどこから来るのだろう? なぜ彼女の人生は今、色彩の中にあるのだろう?

 「アウシュヴィッツ以後、詩を書くことは野蛮である」と言ったのはテオドール・アドルノだが、グランデは「それでもなお」と歌っているかのように感じられる(もちろん、アドルノの言葉は単なるニヒリズムなどではないし、そもそも彼はポップ音楽なんて歯牙にも掛けないだろうけれど)。ポップ・ミュージックが聴き手をアップリフトし、鼓舞する。ポップ・ミュージックが聴き手とコミュニケートし、心の中に居場所を持ち、何かを肯定する──そういった、ものすごく平凡な言い方をすれば「音楽の力」をグランデは信じているとしか、僕には思えない。だからこそ、彼女はこの「人工甘味料」という皮肉めいたタイトルの感動的なポップ・アルバムをものにすることができたのだろう。

 例えば、イーグルス・オブ・デス・メタルはパリのコンサート会場がテロリストたちの襲撃に遭い、グランデと近い経験をしている。けれども、メンバーのジェス・ヒューズは事件の後、インタヴューでヘイトすれすれの発言を繰り返した。銃規制に反対するデモを「感傷的で悪趣味」だと批判し、ライヴ会場のスタッフがテロの共謀者だったのではないかと彼は言い放ったのだ。疑心暗鬼と憎悪――それは、グランデのあり方とはあまりにも対照性だ。月並みな表現をすれば、ヘイトとラブという二極。音楽の力を信じているのは、果たしてどちらだろう?

 『Sweetener』の後に発表し、記録的なヒット・ソングとなった“thank u, next”にしても、グランデの力強く肯定的なアティテュードは一貫している。この曲で彼女は、ビッグ・ショーンや亡くなったマック・ミラーといった“ex(元カレ)”たちを数え上げている。「ある人は私に愛を教えてくれた/ある人は忍耐を/ある人は痛みを教えてくれた」。なかには壊れて、ぐずぐずに崩れ、けっして元には戻らない関係性もあったはずだ。あるいは深く傷つき、消えない傷跡が残り、簡単なきっかけでそこから血が噴き出してしまうような関係性も、おそらくあったはずだ。それは僕の人生にも、そしてきっとあなたの人生にもあるもの。それでも、ノスタルジックなヒップホップ・ビートに乗せてアリは滑らかに歌う。「元カレたちにはファッキン感謝してる/ありがとう、次に進むよ」。優しく、包み込むように。


Thank U, Next
Republic Records

 “ex”とは「前の、元の」という意味の接頭辞だが、僕にはどうもグランデが単なる「元カレ」という意味で歌っているようには聴くことができない。あらゆる過去、過ぎ去っていった人や物、時の狭間に消えていった何か、以前はこの世界に存在していた人たち――そういったものすべてを“ex”という言葉に象徴させているようにしか思えないのだ。かつてはあったけれど、今、ここにはもうない何か、あるいは誰か。けれども、“thank u, next”で彼女が歌う“ex”は人生に憑りつく厄介なノスタルジーを喚起するものではない。グランデはその歌で、ノスタルジーを喚起する過去を糖衣でくるんでくれる。僕たちはその甘い過去を少しずつ、少しずつ飲み下して、一瞬一瞬到来し続ける未来をなんとかサーフするための推進力にすることができる。


7 Rings
Republic Records

 “thank u, next”をリリースしたのち、グランデは昨年12月に“imagine”を、そして今年1月に“7 rings”を発表した。ワルツにトラップ・ビートを取り込んだ静謐な前者は「そんな世界を想像しよう」と呼びかける、明確に未来へと意志を投げかける歌だ。一方、“私のお気に入り”のメロディを引きながらラップ・ミュージックを大胆に参照した後者は、それゆえにプリンセス・ノキアやソウルジャ・ボーイらから「フロウを盗んだ」と批判を受けている。リリックの内容も自身の財力を誇示する今時のラップをステレオタイプに模倣してはいるものの、そこには見逃せない言葉もある。セカンド・ヴァースでグランデは、「指輪をつけてはいるけれど、『ミセス』って意味じゃない/6人の私のビッチたちにふさわしいダイアモンドを買っただけ」と歌う。この一節は、既存の婚姻制度や決まりきった約束事としてのルール(「左手の薬指に指をはめていれば既婚者である」など)に一瞥をくれながら、経済的な自由を手に入れた女性たちによるシスターフッドを挑発的に称揚しているかのように聞こえる。

 マンチェスターの事件の5日後にグランデは、美しい長文の声明をツイッターに投稿した。そこにはこんな風に書いてある。「私たちは恐怖の中で立ち止まったり、行動したりはしない。私たちはあの事件によって分断されたりはしない。私たちは憎悪が打ち勝つことを許しはしない」。祈りのようでいて軽快な『Sweetener』の曲たちは、見事にそれを音楽で示している。それに、過去の悲惨さにうなだれるのでもなく、懐かしむのでもなく、それらを慈しんで乗り越えていく“thank u, next”のポジティヴィティは、何にも増して力強いものだった。街中で、コンサート会場で、ソーシャル・ネットワークのそこここで伝搬され、充満している憎悪という毒。アリアナ・グランデの歌はそれらを両手で掬い上げて優しく包み込み、甘く中和する。

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