「Nothing」と一致するもの

Various - ele-king

 16年前にミニマル・テクノでキャリアをスタートさせたアレックス・シリディス(Alex Tsiridis)がここ3年ほど、つまり、ロックダウンを機にユニークな音楽性の変化を遂げ始めた。複数のユニットを駆使しつつジェフ・ミルズやマイク・インクを踏襲するアシッド・ミニマルから大きく逸れることはなく、手法的な変化はほとんど見られなかったシリディスがRhyw名義で19年リリースの“Biggest Bully”でブレイクビートを導入し、往年のスミスン・ハックのようなサウンドに接近したかと思うと、時間をかけたビルド・アップによってシカゴ・アシッドの醍醐味を保ちつつ“Loom High”や“Just In Case”ではロン・トレント風のワイルド・ピッチ、“Geomest”や“Skend”ではUKガラージとの接点を探り始めた。“It Was All Happening”ではさらに7拍目と8拍目を抜いたジュークというのか、後の“Itso”にしてもいわく言いがたいポリリズムにもトライし、主に自らが主催する〈Fever AM〉からのリリースでは実験色豊かなアプローチを多発する。スリックバックやドン・ジィラといったアフリカン・テクノに慣れてしまった耳にはリズム感に少し難は残るものの、旧態としたフォームに音色の楽しみしか見出せなくなっているジャーマン・テクノにあってシリディスが明らかに突出した存在になってきたことは確か。20年に入ると他のレーベルからのリリースでもその傾向は増大し、ハーフタイムに影響を受けたらしき曲が続く。“Salt Split Tongue”、““Sing Sin”、“Bee Stings”、“Slow Stings”と、シンコペーションの利かせ方もどんどん派手になり、単純にどんどん曲が良くなっていくし、”Termite Tavern”などジャンル不明の曲が出て来る一方、“Spoiler”や”Honey Badger”などアシッド・ミニマルへのフィードバックにも余念がないところはとにかく恐れ入る。これだけダイナミックに変化し続けていたら、その流れでアルバムが出ることに期待するのが普通だろう。〈Fever AM〉からこの4年間にリリースされた4枚のEPを合わせるだけで12曲になるし、ソロではまだ1枚もアルバム・リリースがないというのはどう考えてもおかしい。シングルはどれもよく出来ているのにアルバムとなるとからっきしダメというプロデューサーがテクノ系には津波のようにあふれているので、必ずしもアルバムをつくることがいいとは限らないかもしれないけれど、アルバムしか聴かないというリスナーになにひとつ届かないというのはどうしてももったいない。そして、シリディスがこのタイミングで放ったのはソロではなく、〈Fever AM〉の5周年を記念したコンピレーション・アルバムだった。

『エラーじゃないよ。わざとだよ』というアルバム・タイトルはプログラマーのデイヴィッド・ルバルが90年代に書いた本のタイトルで、明らかに彼らがジャーマン・テクノとは異質な領域に進んだことをがっつりとアピっている。ここではあちこちで埋もれていた12の才能をひとつにすることで見え方も変わっていくというニュアンスも含んでいるかに思われる。正直、一度も名前を見たことがないプロデューサーもゴロゴロいるし、最も知名度があるのはペダー・マナーフェルト(Peder Mannerfelt)か、あるいはパライア(Pariah)か。人によってはホルガー・シューカイのバイソンをバックアップしたポール・マーフィー&スティーヴ・コーティとともにディスコ・ダブのアクワアバとして活動していたガチャ・バクラゼ(Gacha Bakradze)なら知ってるという人もいるかもしれない。そう、国籍もバラバラで、シリディスとともに〈Fever AM〉を運営するモル・エリアン(Mor Elian)はテル・アヴィヴ出身。05年からはLAに移動し、ダブラブでラジオホストも勤めている。彼女を含め〈Fever AM〉からのエントリーは5組で、エリアンの“Swerving Mantis”はマティアス・アグアーヨをあたりを思わせる南米寄りのジャーマン・タイプ、マサチューセッツ州を拠点に活動するゼン・クローン(Xen Chron)“1L4U”はスローなベース・ミュージックで、7年前に〈Apollo〉からアルバム・デビューを飾ったバクラゼ“Scum ”はマシナリーなデトロイト・エレクトロを提供。レーベルの新顔らしきアイシャ(Ayesha)“Swim”はエスニックなブレイクビートで、Rhyw“Caramel Core”がやはり出色といえ、ここでもスピード感あふれるハーフタイム・テクノを聞かせる。謎のルース(Ruse)“Kimura(キムラ?)”もマシナリーなエレクトロで、同じく謎のグランシーズ(Glances)“Sleuth”はマスターズ・アット・ワークや初期の〈Boy’s Own〉を思わせる軽快なブリープ・ハウス。さらに謎のサン・オブ・フィリップ(Son Of Philip)“Raleigh Banana”は4つ打ちながらブレイクビートをループさせてベース・ミュージックに近づけたヒネり技。このところ4年に一度しかリリースしない寡作なパライア“Squishy Windows”はオーガニックなエレクトロときてストックホルムからペダー・マナーフェルト“No Sheep”もシリディス同様のソリッドなハーフタイム・テクノを試行する。これらをまとめてジャーマン・ベースと呼びたいところだけれど、そうもいかないので、そのような理念で成り立っているコンピレーションということで。ブレイクビート・テクノのミス・ジェイ(MSJY)“Crab Walk”やエンディングはユニティ・ヴェガ(Unity Vega)“Anamnesis”によるブリーピーなハーフタイム・テクノが緩やかな余韻を残して全12曲を閉じていく。

 もともとシンセサイザーやメカニカルな音楽が好きだったからエレクトロやテクノにのめり込んだわけで、それがレイヴ・カルチャーを機にブラック・ミュージックの踊りやすさに理解が及び、両方を兼ね備えていたデトロイト・テクノにガッツポーズという流れだったりするのだけれど、イギリスに渡ったテクノは泥臭くなり過ぎる面もあって、それはそれでいいんだけれど、ドラムンベースやダブステップといったベース・ミュージックの成果をことさらにメカニカルなテクスチャーに移植しようとするアレックス・シリディスの試みにはがんばれという気持ちしかない。僕は若い時にはブラック・ミュージックに関心がなかったせいか、初めからグルーヴがあって当たり前という感じよりもグルーヴを生み出そうと努力している人たちにシンパシーを覚えるということもある。テクノにダンスホールを取り入れたロウ・ジャック(Low Jack)やブロークン・ビートをレイヴ・サウンドでフォーマットしたプロイ(Ploy)と同じく、このまま誰もついこない道を突き進んで欲しい~。

Nouns - ele-king

一枚の写真をヒントに

 Nouns『While Of Unsound Mind』のアートワークは、メンバーの祖父母の結婚式におけるワンシーンを切り取った写真が使われている。アンティーク品のごとく、朽ちた色合い。人びとが祝福し合い、生きていた証。かつて地球上にこのような瞬間があった──その事実を遺す貴重な一枚のヴィジュアルは、多くの示唆を含み私たちを彼方へと連れていく。

 Nouns は元々2013年に、ヴォーカル/ギターの Hunter Clifton Mann を中心に四人組エモ・バンドとしてアーカンソー州からデビューした。当時から個性的なメンバーが集まっており、各々がパンク/ハードコア・バンド Radradriot やスラッシュ・メタル・バンド Cavort Usurp といった場で活動していたようだ。ノー・エイジやコンヴァージへのリスペクトを公言しながら、そのカオティックでルーズな志向性によって鳴らされるローファイな音楽は、エモ・シーンにおいて一定の注目を集めた。しかし2014年以降は長いブランクに突入、昨年7年ぶりに突如として新たなEPをドロップしたのち、今回ついにアルバムが届けられたのである。彼らの音源が途切れたこの数年の間、シーンは大きく変わった。いや、「エモ」という概念それ自体が多大な変容を遂げることになったと言える。Nounsの『While Of Unsound Mind』は、そういった状況に対するひとつの明確な回答を提示しているように思う。

エモの数奇な運命

 エモが辿ることになった数奇な運命について、時間を巻き戻して整理してみる。1980年代のフガジらハードコア・バンドにルーツを持ち、1994年にサニー・デイ・リアル・エステイト『Diary』によってその歴史を開始することになったエモは、3rd wave emo と呼ばれる2000年代のエモ・ブームで一度完成に向かった。アット・ザ・ドライヴ・イン『Relationship Of Command』(2000年)が見せた激情の発散、マイ・ケミカル・ロマンス『The Black Parade』(2006年)が構築した感情の一大絵巻きを象徴とし、次第にエモはロックの手を離れることになる。エモのリアリティはむしろ2010年代に入りヒップホップに援用され、ポップ・ミュージック全般に影響を与えるようになり、2018年にBBCは「Emo never dies: How the genre influenced an entire new generation」と報じた。そしていまや、“All That’s Emo” の時代へ──ロックを超え、ポップ・ミュージックをも超え、あらゆる文化がエモの影響下に置かれている。

 ゆえに、コミュニティを超えてその定義を肥大化させていったエモを横目に、本来のロックにおけるエモが1990年代の作品を参照しコアを見つめ直すことで、2010年代に 4th wave emo として原点回帰していったのは当然の成り行きだったように思う。けれども、同時にそれは何かとてつもない変化のようにも見える。本来エモとは、瞬間的に立ち上がる喜怒哀楽が混在した、得も言われぬ感情を抽象的なまま具現化するものだった。それは、シニフィアンとシニフィエが手をつなぐ以前の状態で、ある種の曖昧さを持った音楽だったはずだ。けれども、歴史化されエモのあらゆる音がリファレンスになることで、音のひとつひとつは意味性と結託してしまう。自己の記憶ではなく、共同体のデータへ。あるいは、共同体のデータに紐づけられた感情へ。だからこそ、4th wave emo の原点回帰は、危ういものに聴こえた。ザ・ワールド・イズ・ア・ビューティフル・プレイス&アイ・アム・ノー・ロンガー・アフレイド・トゥ・ダイの純化されたような普遍性や、モダン・ベースボールの水しぶきをあげるようなフレッシュさが、どれだけの強度でリスナーに響いたのだろう?──エモ・ラップが、哀しいギターリフと泣きだしそうなラップで、陰影のグラデーションを奏でていた時代に。

 感情消費についての研究でユートピアを紐解いていく社会学者のエヴァ・イルーズは、著書『Consuming the Romantic Utopia: Love and the Cultural Contradictions of Capitalism』(University of California Press、1997年、未邦訳)で、そういった状況に通じる話として次のようなことを述べている。「Emotions are activated by a general and undifferentiated state of arousal, which becomes an emotion only when appropriately labeled.(=一般的で未分化な覚醒状態によって感情は活性化され、それが適切にラベル付けされた場合にのみ感情になる)」「Cultural frames name and define the emotion, set the limits of its intensity, specify the norms and values attached to it, and provide symbols and cultural scenarios that make it socially communicative.(=文化的な枠組みは、感情に名前を付けて定義し、強さの限界を設定し、それに付随する規範と価値を特定し、社会的に伝達するシンボルと文化的シナリオを提供する)」(ともに筆者訳)。

 感情に名前がつくこと。喜怒哀楽に分類できない曖昧な感情を、ラベリングしてしまうこと。

感情が数量化される時代に

 その後2010年代の終盤、エモ・シーンにおいて 5th wave emo と呼ばれる潮流が生まれはじめた頃──感情資本主義が加速し私たちの社会を包囲することによって、エモーションは数量化されるようになった。公的領域における感情は全て可視化され、コントロールすることを求められる。私的領域における感情は効率化/合理化されあらゆるリソースと交換される。一方で、SNS空間では皆が感情を爆発させる。いまこの瞬間も感情は膨張し、タイムライン上でシェア数はスロットのようにくるくると回転し続ける。3,000リツイート、5,000リツイート、1万リツイート……やめて。もう、やめてくれ! 感情はパチンコ玉なのだろうか? ひとつひとつは小さく軽いけれど、1万個集まったパチンコ玉は兵器で……誰かを殺傷する。

 サウンドの特長で言うと、『While Of Unsound Mind』は、5th wave emo に位置づけられるだろう。ノイズ・ロック、マス・ロック、シューゲイザー等のアプローチによりそれぞれの楽曲はより一層エクスペリメンタルに傾き、4th wave をベースにしながらも「いかに多彩な手法を散りばめられるか」という戦いに出ている。けれども、それら音色は多彩と言えどカラフルではない。ひとつひとつの音は錆び、軽くて簡素で、ぶっきらぼうですらある。アニメや漫画からの引用は 5th wave のエモ・バンドに多く見られる傾向だが、本作ではその手法も、無邪気さではない、どこか斜めの視点によって冷静になされている。いくつかサンプリングされるアニメから取り出した台詞、静電気のように小さく弾ける音、コンピュータが制御されず故障した音。荒廃した反理想郷社会のような、無限なるものへの感情の暴走が加速し有限の壁を越えてしまったかのような世界。人間の感情を際立たせ人間らしさを追求していった果てに、人間が消え失せてしまう社会の到来。Nouns の音楽は、そういった廃墟を捉えつつ鳴り響いている。ということは──『While Of Unsound Mind』は感情に突き動かされ朽ち果ててしまった世界を描いた作品なのだろうか? それとも、その世界を受け入れたうえで次の道筋までをも描いた作品なのだろうか?

リミナリティとしての『While Of Unsound Mind』

 ひとつ、ヒントになり得るアングルを提案したい。近年ファッションブランドの HATRA が作品のコンセプトに取り入れている事例があるように、パンデミック以降「リミナリティ」の概念が改めて注目を集めている。文化人類学者のヴィクター・ターナーによって論じられたそれは、社会生活の中での過渡にあたるプロセスを「リミナリティ=境界状態」と呼ぶことで、身分の逆転や無差別な解放などが喚起され、日常の社会構造の対極にある反構造が現出するとした。例えば「祭り」などは、「祭り前の日常」と「祭り後の日常」の過渡に位置づけられるまさに境界状態であり、解放されることによっての日常の秩序からの逸脱を成し得るものだろう。その視点に立った際、『While Of Unsound Mind』のアートワークを、結婚式というリミナリティとして捉えることも可能に違いない。なぜなら、眼を凝らして見てみてほしい──祝福とともに騒ぐ人びと、落書きされた乗用車のボンネット……人びとは、秩序に反旗を翻し反構造を実現するような熱気に満ちているではないか。恐らくその熱気によって、革命は成し遂げられていく。式という、境界状態の乱痴気騒ぎによって。

5th wave emo ではなく、ポスト・エモとして

 5th wave emo は「ポスト・エモ」とも呼ばれており、Nouns が現れた以降のいまのエモ・シーンを形容する際、私はその呼称の方が合っているように思う。なぜなら、数量化された感情が社会を支配したいま、5th wave などという順当な波はやってくるはずはないからだ。この波は「感情によって支配された世界」と「その後の世界」の境界に位置するものであり、その点において秩序を乱し革命を起こすものでなくてはならず、ゆえにポスト・エモとして、あらゆる手段を尽くし瞬間瞬間の美しきノイズを鳴らす。1万リツイートのパチンコ玉の重量に打ち勝つために、スロットの雑音に立ち向かうために、『While Of Unsound Mind』のサウンドはボロボロに錆びたスカスカの軽い音によって、感情の連打をひらりと交わしながら世界を打ちのめしていくものでなくてはならない。私たちを、作為なき剥き出しの状態、物理的なものが意味を失ったリミナリティな状況に連れていくこと──本作は、その力を秘めている。

 ポスト・エモの力を、私は信じる。


※参考文献:ヴィクター・W. ターナー(2020)『儀礼の過程』(冨倉光雄訳)ちくま学芸文庫

interview with Alan McGee - ele-king

 80年代前半に活動を開始したインディペンデント・レーベル、クリエイション。ザ・ジーザス&メリー・チェイン、ザ・パステルズ、ライドらを輩出したのち、1991年にはプライマル・スクリーム『スクリーマデリカ』、ティーンエイジ・ファンクラブ『バンドワゴネスク』、マイ・ブラッディ・ヴァレンタイン『ラヴレス』をリリース。UKシーンの騎手となったものの、経済的苦境に陥り、ソニー・ミュージックに49パーセントの株を売却したのち、オアシスをデビューさせ、世界のトップ・バンドに成長させた。
 しかしながら、1999年、創設者であり主宰者でありつづけたアラン・マッギーは、突如レーベルの終焉を宣言した。
 そして、それから20年以上たった今、アランの少年時代からクリエイションの隆盛を描いた映画『クリエイション・ストーリーズ』(2021年)が、この秋ついに日本でも公開される。

 アランはスコットランド、グラスゴー出身。同じくスコットランド、エディンバラ出身の小説家アーヴィン・ウェルシュが脚本を手がけている。村上春樹より10歳ほど若いけれど、その分パンキッシュに、彼と比肩するほどの深さで音楽と物語を融合させてきた彼の手腕が、存分に発揮されている。
 やはりスコットランドを舞台に、90年代のユース・カルチャーをヴィヴィッドに描いた映画『トレインスポッティング』(1996年)はアーヴィンの小説が原作だった。その大ヒット作品で監督を務め、それ以降映画界の寵児となったダニー・ボイルが、『クリエイション・ストーリーズ』の製作総指揮を担当した。
 まさに申し分のない布陣ではないか。
 内容も、期待に違わず、素晴らしいものとなっている。
「ファッキング・ジーニアス!」
 アラン自身も、こう太鼓判を押した。

 この映画でアランを演じているのは、ユエン・ブレムナー。『トレインスポッティング』でスパッドを演じていた彼だ。
「彼とは、ずっといい友だち。ここ最近はちょっと会えてないけど。彼はアートのプロフェッショナル。ぼくを演じた彼に対してそう言うのは変かもしれないけれど、彼のことを愛してる。そう、彼が20代だったころ、スパッドを演じたんだよね、ユアン・マクレガーじゃなくて彼がレントン(『トレインスポッティング』の主人公)を演じるって話もあった、そのあとに。『クリエイション・ストーリーズ』でぼくを演じるのは、ユエン・ブレムナーでどうかな?って聞いたとき、うわっ、最高だと思った」
 数年前にニュースを見たとき、最初てっきりブレムナーではなく、ユアン・マクレガーかと勘違いしてしまった(笑)。
「いや、実際、マクレガーはどう?とも訊かれた。そういう、イケメン俳優がいいんじゃない?って。だけど、それはだめだ。断った。ぼくらしくない(笑)。映画を観おわったとき、ファッキング映画スターが最も印象に残るような感じにしたくなかった。だから、結局、マッギーはスパッドなのか(笑)? それはそれとして、彼は見事にアラン・マッギーを演じてくれた。すごい才能を持った俳優だね、まったく」

『クリエイション・ストーリーズ』で、どう描かれるか最も気になった場面のひとつが、マイ・ブラッディ・ヴァレンタインによる『ラヴレス』制作エピソード。あまりに長期間に及んだため、90年代初頭のクリエイション・レコーズ財政悪化の主要因となったといわれている。ところが、意外とヘヴィーに描かれていなかった。マイ・ブラッディ・ヴァレンタインのメンバーたちが可愛く見えてしまったくらいで(笑)。
 「もちろん、あの映画そのものじゃなかった! まあ、半分くらい事実というか。ちょっとハッピーな雰囲気さえ感じたのは、一種のナンセンスなコメディー的要素のせいかも。ぼくが警備員に追いだされたところとか(笑)。でも、実際は警備員を雇ったりする予算なんか到底なかった。当時のぼくの個人的体験も含めれば、もっとずっとシリアスで、そう、ヘヴィーに描かれてもおかしくなかった」
 ヘヴィーといえば、映画の冒頭部分で、アランがLA行きの飛行機に乗っているところを観た瞬間、そのあとの、ブレイクダウンの場面を観るのがつらいと思ってしまった。
『クリエイション・ストーリーズ』は、ドキュメンタリーではなく、あくまで事実をもとにした物語なので、時系列などが微妙に異なっている部分もあることに観すすめて気づいたのだが、歴史的に、過労とドラッグのオーヴァードーズでアランが倒れた、ブレイクダウンしてしまったのは、プライマル・スクリームが『ギヴ・アウト、バット・ドント・ギヴ・アップ』を、オアシスがデビュー・シングルをリリースしたころ、LAに飛んだときだった。
 映画では、そのブレイクダウン場面に至るまで、ほかの楽しいことがたくさん描かれていた。そして、そこでは、仰天するような、しかし、ある意味リアルな特殊効果が使われていた。
「たしかに、それに関連する場面を観て、泣いてしまった友だちもいる。だけど、映像的に、すごかった。ぼく自身は、つらいというより、好きだな。うん、そのパートも大好き。制作予算が途中からアップして、映像的に大胆なこともできるようになった。ダニー・ボイルは、本当によくやってくれた」

「ところで、クッキーシーンは、今もやってるの?」
 アランがそう訊いてくれたので、正直に答えた。ウェブ・サイトの製作システムが古くなってしまい更新できなくなった。そのうちリニューアルするかもだけど、コロナで収入も減ってるから、さて、いつになるか(笑)。
 そして、このインタヴューは、エレキングという媒体に載せてもらう予定だが、ぼくが大昔に自主制作雑誌としてクッキーシーンを始める前に、野田努さんというひとが、やはり自主制作雑誌としてエレキングを始めていた。
「グレイト!」
 野田さんは、たしかアシッド・ハウスがとても好き。
「アシッド・ハウス、大好きだ!」
 カフェとコイン・ランドリーが一緒になったような場所で踊りまくる場面が映画にあった。すごく印象的だった。あれは実話なのか?
「イェー、あれは100パーセント事実、本当にあったことだよ!」
 エド・ボールがアランにアシッド・ハウスを教えたというのは?
「いや、それは逆。ぼくがエドにアシッド・ハウスを教えた。80年代当時はエクスタシーが安かったから、それに入れこんでた。もちろん昔の話だけどね」
 1994年のブレイクダウンのあと、アランはドラッグどころか、アルコールも、コーヒーさえ一切摂取しなくなったということは有名な話だ。
「エドは、もっと安く入手する手段を見つけて、アシッド浸りになっていた、もう四六時中(笑)」
 90年代なかば以降、ロンドンでしょっちゅうエドと会っていたけれど、あまりそんな感じは受けなかった。彼もアランと同じくもうやめていたのかもしれないし、むしろ典型的なイングリッシュ・ジェントルマンという印象だった。
「そう、そうだよね。彼とは、しばらく会ってない。また会いたいよ。なんか、最近ひきこもり生活に入っちゃってるみたいで。(エド・ボールがかつて率いていたバンド)ザ・タイムスのボックス・セットが少し前にチェリー・レッドからリリースされたけれど、もうすぐ彼の新しいコンピレーションも出る。彼のことも、彼の音楽も、ぼくは本当に愛してる」

 アランが80年代にやっていたバンド、ビフ・バン・パウ!のボックス・セットも、今年チェリー・レッドからリリースされた。そこには、ビフ・バン・パウ!のCD5枚だけではなく、それ以前にアランがやっていたザ・ラッフィング・アップルのCDも1枚入っていた。ザ・ラッフィング・アップルの多くの曲を、初めて聴けた。
 それで、あらためて気づいた。初期ビフ・バン・パウ!にもそんな傾向は残っていたが、ザ・ラッフィング・アップルの音楽は、よりあからさまにポスト・パンク的というか、アヴァンギャルド。
「うん、うん、まったくそうだ。でも、ザ・ラッフィング・アップルは、ぼくのバンドというより、アンドリュー・イネスとぼく、ふたりのバンドだったということを忘れちゃいけない。ちなみに、彼とは、今もよく会ってるよ。一緒に歩いてるというか、散歩友だちって感じで(笑)」

 アンドリューとアラン、ボビー・ギレスピーは、グラスゴー時代から友だち同志だった。前者ふたりがロンドンに移り住んだとき、ボビーはグラスゴーに残った。父親が絶対に許してくれない、という理由が、すごく微笑ましいと思った。
 そしてアンドリューは、80年代後半のファースト・アルバム制作時から現在に至るまで、ボビー率いるプライマル・スクリームの中核メンバーでありつづけている。
『クリエイション・ストーリーズ』で描かれた、グラスゴー時代のエピソードには、とてもわくわくさせられる。ただ、気になったのは、アランのお父さん、ジョン・マッギー。
「アーヴィン・ウェルシュは、父さんの様子に関して、正直言って、あれでもソフトに描いてくれたんだよ。ぼくの家では、まじで最悪な暴力が展開されていた。父さんは、みんなを叩きまくっていたというか、映画よりもっとよくない感じで、ぶわーっとジャンプしてぼくの頭を蹴ったり(笑)」
 ちょっと意外だった。かつてジョンがクリエイションからアルバムをリリースしたとき、彼に電話インタヴューしたことがある。とてもいいおじさんという感じだったし、ピート・アスター(ザ・ロフト、ザ・ウェザー・プロフェッツ)が好きと言っていたので、なんかアランと趣味が合う、音楽的にも理解のあるひとだったのかと思っていた。
「彼、そんなこと言ってた(笑)? 知らなかった。まあ、癇癪持ちだったけど、もちろん悪いひとじゃなかった。あの暴力は、たぶんアルコールのせいだった」
 暴力的だったかどうかは別として、思春期における父親からのプレッシャーという意味では、とても共感を覚えた。とにかくステディ・ジョブ(固い仕事)に就けとアランが散々言われていたこととか。ぼくの父親もそうだったから。
 しかし、この映画は、最後に心暖まる場面で締めくくられる。
 あえて、ねたばれはしない。
「いや、あれはもちろん作り話(笑)。だけど、ありえたことというか。彼とぼくがなにかをシェアできたかもしれない、そういうこと。いつだって、起こりえる。でも、実際になかったことだったのは残念だった。だけど…」
 父親と息子とは、そういうものかもしれない。
「ジョン・マッギーを演じたのは誰だと思う? リチャード・ジョブソンだよ! スキッズのシンガーだった! 父さんを、リチャード・ジョブソンが!」

 アランは、この映画に対して「ファニー」という表現を何度も使っていた。そう、『クリエイション・ストーリーズ』は、最高に楽しめる映画だ。あなたにも是非観ていただきたい。


撮影現場を訪れているアラン・マッギー。

クリエイション・ストーリーズ~世界の音楽シーンを塗り替えた男~

製作総指揮:ダニー・ボイル 
監督:ニック・モラン 脚本:アーヴィン・ウェルシュ&ディーン・キャヴァナー
出演:ユエン・ブレムナー、スーキー・ウォーターハウス、ジェイソン・フレミング、トーマス・ターグーズ、マイケル・ソーチャ、メル・レイド、レオ・フラナガン、ジェイソン・アイザックス
2021年/イギリス/英語/110分/原題:Creation Storie/配給:ポニーキャニオン 
© 2020 CREATION STORIES LTD ALL RIGHTS RESERVED   
公式サイト: https://creation-stories.jp

Sudan Archives - ele-king

 ブリトニー・パークスのアーティスト名であるスーダン・アーカイヴスは、母親からスーダンとのニックネームを与えられたことに由来しているという。その後、歴史の意味を踏まえてアーカイヴスを加え、黒人のルーツを感じさせるものにしたかったと。ただスーダンが定着する前は自分で自分のことを「トーキョー」と呼んでいたらしく、その理由はもう覚えていないとのことだが、これはある意味で彼女の音楽性を示唆するエピソードに感じられる。つまり、アメリカに住むブラックとしてのシリアスなルーツ探求やアイデンティティの認識がいっぽうであり、もういっぽうにそれと関係ない直感的でランダムな興味がある。そのミックスが彼女のストレンジなR&B、独自のアヴァン・ポップを生み出しているのではないだろうか。
 パークスはLAで生まれオハイオのシンシナティで育ったシンガーソングライター、とくにヴァイオリンを得意とするマルチ奏者、プロデューサーで、LAに移ったのちにLAビート・シーンの重要拠点である〈ロウ・エンド・セオリー〉に出入りするなかで頭角を現した存在だ。彼女は西洋のクラシックの楽理とは別の奏法をアフリカのヴァイオリン奏者の演奏を聴くなかで独自に学び、ヒップホップやR&Bと混ぜることで自分のスタイルを作り上げてきた。〈Stones Throw〉からのリリースとなった『Athena』(2019)では、すでにその個性がじゅうぶん発揮されている。

 ところが2作目となる『Natural Brown Prom Queen』を聴くと、それとて彼女の才能のほんの一部でしかなかったのだと思い知ることになる。本作にあるのはR&B、ヒップホップ、ベース・ミュージック、アフロ・ポップ、ファンク、ジャズ、エレクトロニカ、トラップなどなどの脈絡があるようでないような、ないようであるようなミクスチャーで、全18曲53分という長さもあり、モダン・ポップ・ミュージック・ワールドのスリリングな旅を楽しむことができる。サイケデリックなイントロのシンセ・ファンク “Home Maker” から、中近東風の弦の旋律からせわしないビートへと突入する “NBPQ (Topless)” といたるオープニング2曲ですでに何やら慌ただしいが、その展開の多さこそが面白さだ。ある意味、フライング・ロータスがやってきたことをR&Bフィメール・シンガーの文脈も踏まえて別の角度から取り組んでいるようにも感じられる。
 パークスによる奔放なヴァイオリンの演奏は前作よりも断片的になっており、それを残念だとする声もあるようだが、アルバム全編に偏在することでむしろそのスタイルの幅を広げている。ドリーム・ポップのような甘い響きの導入からダンス・トラックへとなだれこむ “ChevyS10” での官能的な鳴り方と、トライバルな要素を強調する “TDLY (Homegrown Land)” でのヴァイオリンの活躍は別のものだ。ただ、アルバムではそれらがすべて彼女個人のスキルや打ち出しとして統合されているのが見事というほかない。

 リリックのモチーフは幼い頃に双子とともにポップ・スターに仕立てられようとされた経験や、LAで抱く故郷オハイオへのホームシックなどパーソナルなものが多くを占めるなかで、黒人女性がアメリカにおいて客体として扱われたときの自尊心の持ちづらさも現れる。「わたしの肌がもう少し明るかったら、すべてのパーティに参加できるのにってときどき思う」。パークスは、自分がジャネット・ジャクソンのような体型の黒人シンガーだからR&Bに分類されがちなのかもしれないと話す。ステレオタイプやレッテルはつねに自身を縛るものとして存在するのだと。しかしながらこのアルバムでは、黒人女性としての体験、属性によらない個人的な想いが彼女の雑多な音楽性と同じように「混ざっている」。
 パークスは魅力的なシンガーであると同時に、秀でたプレイヤーでありアレンジャーでありプロデューサーでもある。その音楽にはR&Bもあるが、その他のものもずいぶんたくさん入っている。スーダン・アーカイヴスの魅力は何よりそれらすべてがDIYの姿勢で実現しているとたしかに伝わってくることで、アルバム・タイトルにあるプロム・パーティは自ら主催したものだ。ジム-E・スタックが参加したエロティックな歌詞の “Milk Me” は彼女自身の主体的な欲望であることがわかるし、“Selfish Soul” や “Yellow Brick Road” にあるユルくて楽しいパーティ感覚は彼女自身がコントロールしているからこそ心地いい。プロムではふつう「クィーン」は他者に選ばれるが、このふつうとは違うパーティで女王は自ら軽やかに君臨する。

ファイブ・デビルズ - ele-king

 今年前半に公開されたジャック・オディアール監督『パリ13区』の脚本を共同で手掛けたセリーヌ・シアマとレア・ミシウスがそれぞれに監督した『秘密の森の、その向こう』と『ファイブ・デビルズ』が今年後半に立て続けに公開。パリの移民地区を舞台にした『パリ13区』はそれまでのオディアール作品とは比較にならないほど複雑な人間関係を扱い、その妙味は明らかにシアマとミシウスがもたらした変化であった。早くからシアマとミシウスの才能に着目していたオディアールが『リード・マイ・リップス』から21年を経て、70歳にしてこれだけの新境地を開けたことにも驚くし、『秘密の森の、その向こう』と『ファイブ・デビルズ』がいずれも『パリ13区』の一部を拡大し、どちらも示し合わせたようにSF的な要素を導入していたことも驚きであった。シアマとミシウスは子どもの視点を大幅に活用したことでも共通し、演技経験がなかったという子役の選び方まで同じ。子どもというファクターを加えることで2人は男性を必要悪としてでも受け入れなければ次世代がない=人類は存続できないという時間の流れを意識させ、そうした世界観を娘たちの目を通して描くというアクロバティックな観点へと観客を連れ去っていく。同じフランスの女性監督でもヴァレリー・ドンゼッリやミア・ハンセン=ラブにはなかった感覚であり、オディアール作品の死角ともいうべき部分が浮かび上がった感もある。いずれにしろ『パリ13区』、『秘密の森の、その向こう』、『ファイブ・デビルズ』はユニークなトライアングルをなし、どの作品も「女性たちにとって男性とは何か」という問題意識をそれぞれの角度から考えさせられる。

 『パリ13区』からエミリーとその母と祖母という3世代の女性を抜き出して距離感を測り直したものが『秘密の森の、その向こう』のネリーとその母と祖母の関係に相当し、ネリーが父親にヒゲを剃って欲しいと頼むことで、要するにテストステロンを抑制すれば男性も女性たちの輪に加わっていいという単純なメッセージになっている(世代を単なる友人関係に置き換えると『かもめ食堂』のミサンドリーにも通じるだろう)。これに対して、『パリ13区』のノラとアンバーとカミーユの関係をジョアンヌとジュリアとジミーに置き換え、ヴィッキーという娘を加えたものが『ファイブ・デビルズ』の骨格部分をなす。『パリ13区』ではノラとアンバー、『ファイブ・デビルズ』ではジョアンヌとジュリアという2人の女性が奇妙な結びつき方をしていることがそのまま物語の核心をなし、ノラに恋するカミーユも、ジョアンヌと結婚しているジミーも、男は雑音に等しい存在として描かれている。雑音の入れ方がしかし、ミシウスは非常に巧みで、ヒゲを剃っていれば女性たちの輪に加えてもらえるというほど単純ではなく、そのノイズがノイズと見なされる理由も含めてストーリーの歯車に組み込んだところが『ファイブ・デビルズ』をとても見応えのある作品にしている。『ファイブ・デビルズ』は家族を扱ってるようで、実際にはジョアンヌという「個人の生き方」を描いた作品で、「家族のあり方」を描こうとする姿勢はむしろ希薄である。フランス映画というのは昔からそういうものかもしれないけれど。

 ジョアンヌはプール教室のインストラクター。老人たちのレッスンを指導しながら子どもたちの行動にも気を配っている。彼女の隣には黒人の女の子がいて、全員が帰るとその子(ヴィッキー)はプールの片付けを手伝い始める。ジョアンヌは白人なので、養女なのかと思っていると、しばらくして彼女の夫であるジミーは「セネガル人」で、ヴィッキーも実の子どもだということがわかってくる。ジョアンヌは仕事が終わるとヴィッキーを伴って湖に寒中水泳をしに行く。ジョアンヌはいつもほとんど無表情で、物語も中盤を過ぎると(以下、少しネタバレ)寒中水泳で死と隣り合わせの状態に自分を置かないと自分が生きている実感を持てないという感覚を漂わせる。ヴィッキーはいつもジョアンヌが泳ぎ出して20分が経過すると警告を発し、湖から上がったジョアンヌにやはり無表情でガウンを着せる。冷え切ったジョアンヌの表情は寒中水泳を始める前よりもさらに表情を失い、ヴィッキーはジョアンヌが湖に飛び込む前に全身に塗るワセリン状のものを母親の匂いとして認識し、自分の手についたワセリン状のものをすべてビンに入れて保存している。ジョアンヌとジミーはセックスレスで、ジミーも家にいる時は表情がない。親子3人でTVを観ていてもそこには感情の交流はなく、言葉にして出されるのはいかにも親が言いそうな常套句のみである。物語が動き出すのはジミーの電話が鳴り、妹のジュリアが村に戻ってくることになってから。「いいよ」と返事したジミーにジョアンヌはなぜ許したのだと抗議する。しかし、ジュリアはジョアンヌの家にやってくる。そして、ジョアンヌの家に住み、酒がないとわかると夜な夜な酒を飲みに出掛けることから村の人たちにジュリアが戻ってきたという噂が広まっていく。ジョアンヌは同僚のナディーヌに噂の真偽を確かめられるものの、その噂は嘘だと否定する。

 ヴィッキーは嗅覚が異常に発達している。ジョアンヌもヴィッキーの嗅覚が警察犬並みに能力が高いと気づき、ヴィッキーの能力を試してみる(この辺りは話がどっちに向かうのかさっぱりわからなくて最も期待が高まるところ。作品を観る気のある人はこれ以上読まないことをお勧めします)。ヴィッキーはジュリアの匂いを再現しようとし、その途中で「ある匂い」に反応して気を失ってしまう。彼女が目を覚ますと、そこは体育館で、学生時代の母親たちが体操の準備をしている。そこにコーチが新しいメンバーを紹介するといって連れてきたのが若きジュリアだった。ヴィッキーは人の匂いを介してその人の記憶に潜り込む能力を得たのである。ヴィッキーは何度もタイムリープを繰り返し、やがて10年前に何があったのかが少しずつわかってくる。(以下、完全にネタバレ)ジョアンヌとジュリアは女性同士で好意を抱き合っていたものの、理解のない父親に反対され、彼女たちの関係は誰からも祝福されなかった。ヴィッキーのタイムリープにはミッシング・リンクがあり、過去のすべてが明らかになるわけではなく、ジョアンヌとジュリアの関係もどのように展開していったのかはわからないものの、体操クラブが練習の成果を村の人たちに披露している最中にジュリアだけが私服に着替えて集会場から出て行ってしまう。ヴィッキーがたった1人の黒人として学校でいじめられているシーンが何度か挿入され、周囲の子供たちをタイムリープの道連れにしてしまう場面もあるので、もしかすると、若きジュリアも村には珍しい「セネガル系フランス人」としていじめられていたのかもしれない。だとすると、『パリ13区』でノラが強い絆を結ぶことになるのがネットで人気のポルノスターだったという異形のポジションにジュリアが置かれていると考えるのが自然だろう。オディアールもミシウスもフランスを「村」として描く態度が共通し、どちらもサルコジ以降に際立ち始めた共同体の閉塞感をあぶり出していく。ちなみに映画のタイトルは『5人の悪魔』なのに主要な登場人物は4人しかおらず、5人目は誰のことを指しているのだろうと思いながら観ていたら、ファイヴ・デビルズというのは村の名前で、どうやらそれはミシウスが『ツイン・ピークス」の大ファンだったことからアルプスの麓にある村という設定に変換されたものではないかと(推測)。いずれにしろ『パリ13区』も『ファイブ・デビルズ』も「場」を限定することに意味があったことは確か。

(以下、さらに完全なるネタバレ)集会場から飛び出したジュリアは外に飾ってあった巨大なクリスマス・ツリーに火をつける。その火が集会場に燃えうつり、逃げ遅れたナディーヌは顔半分にやけどを負ってしまう。そして、元の世界でも村の噂やナディーヌの責めに耐えきれなくなったジョアンヌが開き直って家族全員でカラオケ・バーに繰り出し、ジュリアと生き生きとしたデュエットを披露する。ジョアンヌはまるで感情の限りを絞り出したかのようであり、ヴィッキーとジミーは無表情の世界に取り残される。ジョアンヌとジュリアがタコ(=デビルフィッシュ)をキッチンに叩きつけ、笑い転げながら調理するシーンも印象的。そこには「敵」が凝縮され、ジョアンヌに続いてジュリアも見事に解放されていく。ヴィッキーはしかし、母親をジュリアに取られると感じてジュリアに対する敵意を倍増させ、悪臭でジュリアを家から追い出そうと自分のおしっこやカラスの死体を集めて魔女のスープのようなものを庭で煮立て始める。異形のものがインターネットからやってくる『パリ13区』では解決できることが、現実の世界しかない『ファイブ・デビルズ』ではそうはいかない。インターネットに逃げ込むことができないジュリアは、そして、再びジョアンヌの前からいなくなる。人間が電子化された存在になるということが共同体にとってどれだけの逃げ場をつくっているのかということがこの2作には差として表れ、その道を閉ざした時に人は死を選ぶというのがミシウスの立てた道すじとなる。ここにミシウスはもうひとつ男性の存在というファクターを濃厚に絡めてくる。ここまで背景に退いていたに近いジミーも姿を消したジュリアを探しまくる。そしてそのために自分がジョアンヌと結婚する前に付き合っていたナディーヌの元を訪ねる。ナディーヌは自分にやけどを負わせたジュリアを憎み切っているし、おそらくはそのせいで男とは縁がなくなっていたのだろう。セックスレスだったジミーはナディーヌの体を見た途端、いきなり襲いかかる。2人にとっては久しぶりのセックスであったことがその激しさから窺える。それと同時にジミーとジョアンヌはセックスレスだったというよりも制度に従った組み合わせだったために内発性が奪われていたのではないかという疑問に転化し、ジミーにとっては社会的には不倫に相当するセックスが結果的に様々なことの封印を解いたようになり、ジョアンヌとジュリアの関係を肯定するだけでなく、村の秩序とは異なる方向へ彼らを向かわせるのではないかと想像させることになる。ジミーとナディーヌのセックスの後、登場人物はみな優しくなり、誰も無表情ではなくなっている。現実にはタイムリープの代わりに何を持って来ればいいのかはわからないけれど、もはや時代はインターネットではないとミシウスは主張している。インターネットという逃げ場がある限り、このような変化は永久に起きなかった。必要としていた人との歌や料理やセックスによってジョアンヌもジミーも肉体や感情を取り戻し、共同体が求める家族像をぶっちぎれたのである。

 よくよく考えてみると随所で説明不足なのに、そうは感じさせないところがこの映画はすごいかもしれない(実際には撮影しているのに、整合性のあるカットをわざと外してしまうのもデヴィッド・リンチの影響らしい)。その最たるものとしてラスト・シーンがあり、僕にはその意味がさっぱりわからなかった。ジュリアにだけは未来から来たヴィッキーが見えるという設定だったので、おそらくはヴィッキーの子どもが過去を探りに来ていると取るのが自然なのだろうけれど……。オディアール作品のほとんどが多様な人種の混淆を描き、それが意図的であることを窺わせるように『ファイブ・デビルズ』でセネガル系に重要な役割を演じさせているのも国民連合(旧国民戦線)が台頭しているフランスの現状に対し明確に政治的な意図をもってやっているとミシウスは発言している。「どの大人の登場人物もどこか道を踏み外しており、どこか不幸です。その良い面は、失敗した人のおかげで、ヴィッキーが生まれたということです。失われたものはない、失われた時間を埋め合わすことができないなら、私たちには選択肢がある、物事は決まってないのです。私たちには行動を起こすことができるのです」(レア・ミシウス)

Can - ele-king

 「クラウトロックという言葉は使わないで欲しい」——これがダニエル・ミラーからの唯一の要望だった。いまから2年ほど前、日本でのCANの再発に併せてライナー執筆および別冊を作る際に、全カタログをライセンス契約しているロンドンの〈ミュート〉レーベルの創始者は、イギリス人によるドイツ人への侮蔑と悪意がまったくなかったとは言いがたいこのタームを使うことに物言いをつけたのだった。
 このタームには、もうひとつの問題がある。たとえばクラフトワークとアモン・デュールを同じ括りでまとめてしまうことは、ボブ・ディランもガンズ・アンド・ローゼズも同じアメリカン・ロックと束ねてしまうことのように、作品性を鑑みれば決して適切な要約とは言えない。しかしまあ、70年代の日本のメディアでは、ジャーマン・ロックという、だだっぴろい意味を持つ言葉を使って区分けされていたわけで、そのことを思えばジュリアン・コープが普及させたこのタームのほうが対象を絞り込んでいるだけまだマシかもしれない。もちろんそれを否定する権利は、このレッテルを押しつけられたドイツ人ミュージシャンにはある。が、いまでは多くの当事者が受け入れているし、クラウトロックといったときの、ぼんやりとしたイメージもたしかにある。そもそもこうしたターム(ジャンル名)はレコード店の棚のためにあって、それが買い手にとって機能していることもたしかだ。かくいうぼくも何百回となくこれを使用してきたし、このレヴューでも、ダニエル・ミラーの考え方を理解した上で敢えて使わせてもらいたい、たとえばこんな具合に。クラウトロックを語るとき、「我々には父がいない」という言葉がたびたび引用される。

 「我々には父がいない」——これを言ったのはクラフトワークだが、クラウトロック全般に共通する、ひとつのメタファーとしても有効だ。ナチスに同意した過去を持つ親の世代と自分たちを切り離し、あらためて再出発することを必要とした彼らクラウトロック世代共通の感覚として。
 ぼくはこの、「父なきロック」という言い回しが気に入って、自分の原稿のなかでなんどか使ってきている。その理由には、おそらくぼく自身が父と良好な関係をなかなか築けなかったということもあるのだろう。いまから10日ほど前、じっさいに父を亡くしたときに去来したいろんな感情のなかで、しかしひとつ思い当たったことは、父がいなければ自分もいなかったという、じつに当たり前の事実だった。

 CANには、音楽的観点で言えば尊敬すべき先達が何人もいた。それこそクラシック音楽の前衛たちからジョン・ケージ、ミニマル・ミュージック、ジャズのレジェンドたち、ヴェルヴェッツやジミ・ヘンドリクス、ジェイムズ・ブラウン等々、要するに未来に開けた音楽。父との強固な確執があったイルミン・シュミットは、なおのこと(過去よりも)時代の新しい空気に貪欲だった。バンド編成も型破りだった。もしもCANが、ごく一般的な、メンバー全員が同じ音楽ジャンルをバックボーンとする4人組だったら話は違っただろう。シュミットとホルガー・シューカイはクラシック音楽の前衛をかじったエリートだったが、ほかは経験豊富なジャズのドラマー、ひと世代も若いロックのギタリスト、そしてずぶの素人がバンドのヴォーカリストとして招ねかれた。これは偶然ではない、考えにもとづき意図してこうなった。
 バンド内にリーダーを作らず、また、譜面も持たず、メンバーの相互作用から何かが生まれるという可能性にかけたのがCANだった。彼らは、どこに着地するのかわからないからこそ、離陸することを選んだ。ジャムセッションが彼らの作曲方法で、作曲者はつねにCAN、ギャラも印税も作品の貢献度に関係なくメンバー全員で等分された。安易にコミュニティ(共同体)という言葉を使うことをぼくは好まないが、CANに関してはその平等性において、思わずそう言いたくもなる。そして、リーダー不在を意識したこのバンドは、ジャムセッションからはじまっているのだから、彼らがライヴ盤を出していなかった原因もわからなくもない。CANの音楽は、そもそもがスタジオ内のライヴにはじまっているのだ。

 本作『ライヴ・イン・クックスハーフェン1976』はCANのライヴ・シリーズの3作目で、1976年1月、ハンブルクよりずっと北の北海に面した街における録音になる。シュミットとエンジニアのレネ・ティナーによって、ファンがこっそり録音した記録を最新技術によって蘇生させるこの企画は、当時のライヴ演奏におけるCANをみせることを目的としている。それは、“ある意味”彼らの本来の精神に忠実な姿と言えるのだろう。(※“ある意味”というのは、CANのアルバムはジャムセッションの記録を編集し、手を加えたことで完成しているからだ
 ダモ鈴木が脱退し、4人組となったCANは、初期のジャムセッションに立ち返ったかのように、集中力を要する一発勝負の即興をステージの上で展開していた。1975年には、イギリス、フランス、ドイツなど欧州において、計30回にも及ぶ公演をやったというから、ライヴ・バンドとしてのCANの乗りに乗った絶頂期だった。シリーズ1作目の『ライヴ・イン・シュツットガルト1975』が1975年10月末のライヴ、2作目の『ライヴ・イン・ブライトン1975』が同年の11月、本作が1976年1月と、これら3枚は、およそ3ヶ月以内におこなわれた演奏の記録になる。まずはそれをこうして再現させたのだから、企画の指揮をとったシュミットには、この時期の演奏に関してそれなりの自負があるのだ。ただし、『クックスハーフェン』は前2作と違って収録時間が極端に短い。『シュツットガルト』と『ブライトン』が90分近くあるのに対して、本作はほとんど30分で収まっている。ただ漠然と記録を再現するというよりは、今回は、CANにとっての「良い瞬間」に的を絞って編集したものだと思われる。

 CANにとっての1975年は、2月から4月にかけて『ランデッド』を録音、1976年6月からは『フロウ・モーション』のレコーディングに入っている。つまりこの時期のCANからは——『スーン・オーヴァー・ババルーマ』までの宙に浮く流動体のような感覚を残しつつ、異国情緒を取り入れながら彼らにしたらロック・バンド然とした『ランデッド』でのアプローチと、レゲエ/ダブ(そしてディスコ)を大胆に取り入れた『フロウ・モーション』での展開をほのめかすという、この時代ならではの演奏が聴けるわけだ。
 とくに今回は、反復とその変化を楽しむことができる。全4曲あるうちの4曲目では、ジャマイカ音楽からの影響が明白なリズムにはじまっているが、途中で入るミヒャエル・カローリのギターが曲を別の次元にもっていく。3曲目ではCAN流のファンクを披露しつつも、シュミットのシンセサイザーが入ると曲は抽象化されてスペーシーに展開する。1曲目と2曲目にも律動的なリズムの反復があって、ひらたく言えば躍動感のある、ダンサブルな音楽性へと向かっている。シューカイは『フロウ・モーション』を経てからは、関心が演奏よりもポスト・プロダクションに移行するので、これは、ベーシストとしての彼のほとんど最後のほうのパフォーマンスということになるのだろうか。ことにヤキ・リーヴェツァイトとの掛け合いは有機的で、まさにひとつの生命体の骨格を成している。

 そう、間違いなく、CANそれ自体がひとつの生命体として、ここにうごめいているのだ。この感覚は、CANなきあとも継承されている。今年に入ってからも、ぼくはCANを感じる新世代のバンド・サウンドに出会っているのだが、たとえばその一例としてキャロラインがいる。ロンドンの20代によるこのバンドも、言うなればリーダー(中心)不在の民主的な演奏を意識しているようだし、いささか感傷的とはいえ、自由形式の音楽をやっている。グラスゴーのスティル・ハウス・プランツにいたっては、可能性にもとづいた実験精神という点においてCANに近い。
 しかしながら、CANのように自らを限定せず、どこまでもおおらかで、面白いと思ったサウンドならどんなものでも取り入れていくようなバンドは、そうそういるわけではない。ひとつの決められた方向性を極めるのではなく、ごく自然に、流動的に変化することを好み、メンバーのひとりひとりが相互的に共鳴しながら(ときに格闘しながら)いろんな方角に開かれていくようなバンド、テクノロジーを頼りにするのではなく、自分たちのアイデアをもってサウンド工作の可能性を探索するバンド、そんな共同体は、いまも決して多くはないだろう。

 ゆえにCANは今日でも古びることなく聴かれている。ミヒャエル・カローリが言うように、「自分がほかの命によって生かされていること」、そしてそれを知ること、それこそがCANから学べる究極の哲学なんだとぼくも思う。CANはたしかにロック・リスナーの耳穴をおっぴろげ、みんなの聴力を向上させたバンドだったが、この音楽から引き出せる本当に大切なことはまだ残っているのだ。

DJ Stingray 313 - ele-king

 こいつはめでたい。デトロイト・エレクトロの雄、現在はベルリン在住のDJスティングレイ313は、ドレクシアの意志を継承する者である。2007年から2008年にかけベルギーの〈WéMè Records〉よりリリースされた彼の12インチ2作品「Aqua Team」「Aqua Team 2」──前者はスティングレイ名義のデビュー作にあたる──がリマスターされ、3枚組LPとしてリイシューされることになった。今回のリリース元は本人の主宰する〈Micron Audio〉で、11月28日に発売。なお同レーベルからは、それに先立つ11月14日にコンピレーション『MCR00007』のリリースも予定されている。あわせてチェックしておこう。

artist: DJ Stingray 313
title: Aqua Team
label: Micron Audio
release: November 28th, 2022
format: 3×12″ / Digital

tracklist:
A1. Serotonin
A2. Straight Up Cyborg
B1. Star Chart
B2. Silicon Romance
C1. Potential
C2. Wire Act
D1. Binarycoven
D2. NWO
E1. Mindless
E2. Counter Surveillance
F1. LR001
F2. It's All Connected

artist: Various
title: MCR00007
label: Micron Audio
release: November 14th, 2022
format: 12″ / Digital

tracklist:
A1. Galaxian - Overshoot
A2. LOKA - ENERGY WORK (ANYANWU)
B1. Ctrls - Transfer
B2. 6SISS - React

Les Rallizes Dénudés - ele-king

 昨秋オフィシャル・サイトの開設とともに、水谷孝が亡くなっていたことが判明し話題となった裸のラリーズ。今年春にはアーカイヴ音源集『The OZ Tapes』がリリースされたことも記憶に新しいが、このカルト的な人気を誇るバンドはこのおよそ50年のあいだ、公式のアルバムとしては1991年にCDで3枚をリリースしたのみ。それら『'67-'69 STUDIO et LIVE』『MIZUTANI -Les Rallizes Denudes-』『'77 LIVE』の3作が、LAのレーベル〈Temporal Drift〉より一挙リイシューされる(日本を含むアジア地域における制作と流通は〈Tuff Beats〉)。リマスタリングを担当するのは、元メンバーである久保田麻琴。フォーマットはデジタル、CD、ヴァイナルの3形態。〈Tuff Beats〉による日本盤CDは、本日10月12日に発売される(LPは12月7日発売)。ちなみに11月29日には渋谷WWW Xでリスニング・パーティも予定されている。

●公式サイト The Last One Musique
https://www.lesrallizesdenudes-official.com/

●Tuff Beats
https://www.tuff-beats.com/special

SAULT - ele-king

 今春、がらりと作風を変えクラシック音楽の要素を取りいれた作品『Air』をリリースし驚きを与えたSAULT。このUKの匿名グループが新曲を発表している。題して “Angel”。静けさが際立つバックトラックに、ルーツ的なパトワのヴォーカルが乗る、一風変わった楽曲だ。長さは10分10秒、公開が10月10日、収録シングル名も「10」ということで、またなにか狙いがありそう。チェックしておきましょう。

映画とドラマで学ぶイギリス史入門 - ele-king

古代からエリザベス女王まで、知ってるようであまり知らないイギリスの歴史を人気の映画やドラマから楽しく学べる一冊!

百年戦争とバラ戦争が舞台の「ホロウ・クラウン/嘆きの王冠」
20世紀初頭の貴族と使用人の生活を描いた「ダウントン・アビー」
第二次大戦中の兵士救出作戦「ダンケルク」
エリザベス女王の人生をドラマ化した「ザ・クラウン」など、
人気の映画やドラマをもとにイギリスの歴史が学べます。
これ一冊でイギリス映画/ドラマがもっと面白くなる!

目次

はじめに
序章 英国の概要

第一章 古代のイギリス
1. ローマ侵攻 『第九軍団のワシ』
2. アングロ・サクソンとアーサー王 『キング・アーサー』
3. ウェセックス朝対ヴァイキング 『ラスト・キングダム』
コラム 数奇な運命をたどった女性その1 エマ・オブ・ノルマンディ

第二章 中世のイギリス
4. ノルマン征服とノルマン朝 『1066 ザ・バトル・オブ・ミドル・アース』
5. プランタジネット朝のはじまり 『ダークエイジ・ロマン 大聖堂』
コラム 数奇な運命をたどった女性その2 イングランドの女主人モード
6. ヘンリー2 世と息子たち 『冬のライオン』
コラム 数奇な運命をたどった女性その3 エレノア(アリエノール・ダキテーヌ)
7. リチャード獅子心王と十字軍 『ロビン・フッド』
8. ジョン王とマグナカルタ 『アイアンクラッド』
コラム イングランドのキリスト教
9. エドワード1 世のスコットランド侵攻 『ブレイブハート』
10. イングランドとフランスが戦った百年戦争 『ホロウ・クラウン/嘆きの王冠 シーズン1』
11. ヨーク家とランカスター家が戦った薔薇戦争 『ホロウ・クラウン/嘆きの王冠 シーズン2』
コラム 数奇な運命をたどった女性その4 マーガレット・オブ・アンジュー

第三章 近世のイギリス テューダー朝・スチュアート朝・ハノーヴァー朝
12. テューダー朝のはじまり 『ホワイト・プリンセス エリザベス・オブ・ヨーク物語』
13. ヘンリー8 世とトマス・クロムウェル 『ウルフ・ホール』
コラム 数奇な運命をたどった女性その5 アン・ブーリン
14. ヴァージンクイーン、エリザベス1 世 『エリザベス』
15. エリザベス女王のライバル、メアリー・オブ・スコッツ 『ふたりの女王 メアリーとエリザベス』
コラム 数奇な運命をたどった女性その6 ジェーン・グレイ
16. 英国の至宝シェイクスピア 『シェイクスピアの庭』
17. スチュアート朝のはじまり 『ガンパウダー』
18. イングランド内戦と共和制 『クロムウェル』
19. チャールズ2 世と王政復古 『恋の闇 愛の光』
20. 名誉革命と大ブリテン王国の誕生 『女王陛下のお気に入り』
21. ジャイコバイト蜂起 『アウトランダー』
コラム ウェールズ、スコットランド、アイルランド

第四章 近世のイギリス 大英帝国への道のり
22. ドイツからやってきたハノーヴァー朝 『英国万歳!』
コラム 英国とアメリカの関係
23. 大英帝国の黒歴史、奴隷貿易 『アメイジング・グレイス』
24. 七つの海を制したイギリス海軍 『マスター・アンド・コマンダー』
コラム 数奇な運命をたどった女性その7 エマ・ハミルトン
25. 東インド会社とインド植民地 『TABOO タブー』
26. ヴィクトリア女王と産業革命 『ヴィクトリア女王 世紀の愛』
27. ヴィクトリア朝時代の階級格差 『オリバー!』
28. 選挙制改正と女性参政権 『未来を花束にして』
コラム 選挙法改正への道のり

第五章 近代のイギリス 二つの大戦
29. 貴族と階級社会 『ダウントン・アビー』
30. 貴族の没落 『ダウントン・アビー/新たなる時代へ』
31. 第一次世界大戦 『1917 命をかけた伝令』
32. 2つの大戦の間の時代 『ピーキー・ブラインダーズ』
33. エドワード8 世とジョージ6 世 『英国王のスピーチ』
コラム 数奇な運命をたどった女性その8 ウォリス・シンプソン
34. ヒトラーの台頭と第二次世界大戦 『ダンケルク』
35. 第二次世界大戦の勝利 『イミテーション・ゲーム/エニグマと天才数学者の秘密』
コラム アイルランドの独立

第六章 戦後のイギリス
36. 英国が誇るNHS 国民健康サービス 『コール・ザ・ミッドワイフ ロンドン助産婦物語』
37. エリザベス女王と英王室 『ザ・クラウン』
コラム 数奇な運命をたどった女性その9 エリザベス2 世

索引
あとがき

著者
名取由恵
イギリスを基盤にフリーランスで活動するライター。1993年渡英。UKロック、海外ドラマ、TV、映画などの英国エンタメを中心に執筆を行う。英国エンタメ・英国文化研究家でもある。

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