「Nothing」と一致するもの

 映画『ブレードランナー』の主役、リック・デッカード(Rick Deckard)の名がルネ・デカルト(René Descartes)に由来するのではないかという序文の示唆がまずは目を引いた。ドゥルーズの影響を受けたフランスの哲学者によるフィリップ・K・ディックの解説書である。模造動物やアンドロイドに囲まれたリック・デッカードが自分は人間だと信じられる根拠はなんだろう。この世界がすべて幻影ではないかと疑い、最終的に「我思う、ゆえに我あり」という結論を導いたデカルトの位置にリック・デッカードを置くというのは、そして、なるほどである。ラプジャードはまた「狩りとパラノイア」と題した章で、アメリカはインディアン狩りに始まり、黒人狩り、魔女狩り、移民狩り、共産主義者狩りと、白人にとって他者とみなされる者の人間狩りを続けてきた国家であり、この系譜にディックがアンドロイド狩りを並べたものと考える。この章で考察されていることと序文を合わせると、『ブレードランナー』は自分たちだけが人間だと考える白人たちの虐殺劇を核戦争後の未来から逆照射する偽史ではないかと思えてくる。第2次大戦で日本やナチス・ドイツが連合軍に勝利した世界を夢想した『高い城の男』と構造的には同じなんだなと。『壊れゆく世界の哲学』は作品ごとに分析するのではなく、ディックの作品にまたがる主題を11の章に分類し、ディック作品全体を貫く観念を浮き彫りにする試みであり、パラレル・ワールドや妄想、時間軸や視点の混乱など比較的読みにくいとされるディック作品のどこが時代と向き合っていたかを巧みに取り出し、権力のあり方を解明し、それに対する対処法が奇しくもレヴィ・ストロースの分析と一致していたという見事な着地まで、なかなかにスリリングに構成されている(ちなみに「前個体的」とか「再領土化」といったドゥルーズ用語はそれほど多くはないですが、これといった注釈もないので、よく知らない人は調べられる環境で読むことをお勧めします)。

 フィリップ・K・ディックは68年に発表した『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』が14年後に『ブレードランナー』として映画化されたことで飛躍的に知名度を高めたアメリカのSF作家。『ブレードランナー』の完成直前に急死してしまったため完成版を見ることも叶わず、ましてや、自分の作品が世界中で読み継がれていることも知らない。ディックの死後、彼の作品や『ブレードランナー』に影響を受けた作家や作品は数知れず、一例を挙げると、映画だけでも『トゥルマン・ショー』、『12モンキーズ』、『ヴィデオドローム』、『バニラ・スカイ』、『エターナル・サンシャイン』、『ファイト・クラブ』、『脳内ニューヨーク』と、一筋縄ではいかない作品ががっつりと並ぶ。この世界はつくりものではないかと疑い、自己の存在があやふやになっていくという作品はそれ以前にも書かれていたけれど、ディックほど徹底的にその世界観を探求し続けた作家はいなかった。とくに『マトリックス』と『攻殻機動隊』は直撃と言ってよく、これらの作品がさらにまた後続に影響を与えるという連鎖も生まれている。ディックが原作の作品はほかに『トータル・リコール』が2回と、『マイノリティ・リポート』、『ペイチェック』、『スキャナー・ダークリー』などがあり、ディックの娘であるイゾルデ・フレイア・ディックがプロデューサーとして『高い城の男』をTVドラマ化もしている。同じSF作家では高校で同学年だったアーシュラ・K・ル≡グインやウイリアム・ギブスン、思想家ではジャン・ボードリヤールやスラヴォイ・ジジェクの名前がすぐに挙がる。

『壊れゆく世界の哲学』はフィリップ・K・ディックをSFというより幻想小説の作家に近い存在だったと捉え、セルバンテス『ドン・キホーテ』との比較にそれなりのページ数を割いている。そして、複数の人間によって共有される「世界」ではなく、『ドン・キホーテ』のように誰か1人の妄想によって支配される「世界」をディックがどのように描いてきたかを様々に検討していく。この部分を読んでいて、やはり思い出すのは『涼宮ハルヒの憂鬱』である。ハルヒが自分でつくり出したことを忘却してしまった世界があり、その世界で生きている誰かしらの視点で物語を始めることは、ディックの語り出す物語ととくに相違があるわけではない。ハルヒがいわゆる神の位置にいるように、ディックが神学を情報論的に読み替えていく作業も、キリスト教がこの世界を模造世界と捉えた最初のSF小説みたいなものだったと考えることでディックにとっては自然な流れだったラプジャードは考える。この世界を情報の流れとして認識すると、それを遮断しようとするのが権力であり、ディックの場合でいえば帝国主義の体現であるリチャード・ニクソンのパラノイアぶりに対抗し、情報を正確に受容するためには壊れてしまった自分を治す作業が必要だということになる。それが妄想であり、そうした妄想が相互に干渉し合っている状態を「世界」として認識するのだと。それこそ『涼宮ハルヒ』という妄想も治療行為に思えてくるし、神様を楽しませておかないと自分たちの世界は滅びてしまうという考え方は天照大神と天の岩戸神話も想起させる。

 フィリップ・K・ディックの読者にはとにかく発見が多い。『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』と同じく白人の富裕層による無意識の暴力を『流れよ我が涙、と警官は言った』では暴き立てているとか、エントロピー概念をJ・G・バラードの作品と比較するなど視点も豊富で読み進めているとあれもこれも読み返したくなってくる。まあ、きりがないので、ああ見えてディックは楽観主義者だとするラプジャードがディックの作品から読み取った若者についての見解を最後に引用して終わりとしたい。

 若者の力はその無責任さにある。いざ「真剣な事柄」が問題になるや、唐突に「現実」の名のもとで押しつけられる強制の共犯者になること、責任だとするならなおさらだ。

KMRU - ele-king

 ジョセフ・カマル(KMRU)はナイロビ出身、現在ベルリンを拠点とするアンビエント・アーティストである。彼は2020年に〈エディションズ・メゴ〉より『Peel』をリリースしたことでアンビエント・マニアに広く知られることになった。むろん『Peel』以前から彼はアンビエント・トラックを制作しリリースしていたが、やはり老舗エクスペリメンタル・レーベルからのリリースは、彼の名を知らしめる良い機会になった。
 同時に『Peel』はコロナ禍初期段階で制作されたアンビエント・アルバムであった。『Peel』は不安な状況のなかエモーショナルな感情が横溢するようなアンビエントに仕上がっていた。時代の空気を反映したようなアルバムだったのだ。20年以降、ロックアウト下で制作されたアルバムは多くリリースされたが、どの作品もどこか閉塞感から脱したいというエモーショナルなムードに満ちていたと記憶する。『Peel』はその嚆矢ともなった作品ではないかと思う。

 『Peel』以降、カマルの活動はさらに活発化した。特にアルバム・リリースが一気に増えた。またコラボレーション・アルバムのリリースもいくつかなされた。ソロ作では、2021年にリリースされたUKのエクスペリメンタル・ミュージック・レーベル〈Injazero Records〉からリリースされた『Logue』が重要であろう。カマルのセルフ・リリースをまとめたアルバムで非常に貴重なものである。また、ドイツはフランクフルトのレーベル〈Seil Records〉から2022年にカセット/デジタルでリリースされた『Epoch』では、環境音や持続音のサウンドのレイヤーがより繊細かつ緻密に変化した。
 その『Epoch』のサウンドの延長線上にありつつ、カマルの変化が見事に定着したアルバムが同じく2022年にリリースされたアホ・スサン(Aho Ssan)とのコラボレーション作『Limen』であった。スサンの硬質な音響と、カマルのサウンドの交錯が実に見事で、インダストリアル・アンビエントとでも形容したい作品に仕上がっていた。

 今年(2023)にリリースされた『Dissolution Grip』はベルリン芸術大学でジャスミン・グフォンド(Jasmine Guffond)の指導のもと制作された(ジャスミン・グフォンドは〈エディションズ・メゴ〉からアルバムをリリースしている)。リリースはカマル自身が主宰するレーベル〈OFNOT〉からで、その第一弾リリースである。
 サウンド的には『Epoch』と『Limen』の硬質なインダストリアル・アンビエントを発展させたようなサウンドスケープを展開していた。メインのモチーフはカマルが録音したフィールド・レコーディング素材のようで、それを加工することで全編に活用しているという。
 カマルは、まずその音の「波形」に注目した。そしてその波形の形状からスコアを描き、それをシンセサイザーの音に変換していくプロセスを経て、ドローンを生成していったという。要は環境音の波形をシンセサイザーのドローン音で再生してみせたというべきか。その結果、元の音素材である環境音はほぼ原型を止めず、全編を覆う硬質な音響が生成されたというわけだ。
 そのサウンドはメタリックでありながらエモーショナルでもあるという初期から変わらないカマルのアンビエントなのだが、緻密で空間的、硬質なサウンドスケープを構成してもいる。スサンとのコラボレーションの成果を取り入れつつも、自身の音を追求し、より深みのある音響空間を生み出すことに成功したといえよう。アルバムは長尺2曲(デジタル版はボーナストラック1曲追加)が収録されている。 
 アルバムは非常にドラマチックな仕上がりである。1曲目 “Till Hurricane Bisect” の冒頭、遠くからコンコンと何かを打つような音が聴こえてくる。まるで工事現場の音のような音だ。それが次第に音の波に覆われていき、メタリックなドローンに覆われていく。どうやら暴風の音の波形をシンセサイザーに置き換えていったようだが、そのせいか自然現象と人工性が交錯するような不思議な音に聴こえてくるなら不思議だ。音が知覚を侵食するような感覚がある。
 2曲目 “Dissolution Grip” は、音が波のように折り重なり、どこかシンフォニックな音響を生成していくアンビエントだ。1曲目が自然現象の音響化であるとすれば、2曲目は、ドローンによるロマンティックな交響曲とでもいうべきか。この対比は見事だ。
 だが両曲とも本質は変わらない。ドローン/環境音の境界線を越境するような、無化するような、もしく溶かすようなアンビエントなのである。デジタル版には “Along A Wall” という12分22秒のボーナストラックが収録されているが、“Till Hurricane Bisect” と “Dissolution Grip” をミックスしたような音楽性である。ある意味、アルバムの「ダイジェスト」ともいえる曲といえよう。アルバムの「本質」を凝縮したようなトラックだ。単なるボーナストラックにしておくにはもったいほどの出来である。

 『Epoch』と『Limen』以降、より緻密な音響へと変化しつつあるクムルだが、本作『Dissolution Grip』はその彼の「変化」を刻み込んでいる見事なアルバムである。本年、カマルはフィンランドはヘルシンキのレーベル〈Other Power〉から『Stupor』をリリースしている。この二作合わせて聴くことで、彼が目指している最先端のアンビエント/音響空間を聴取できるだろう。新しい「静謐」と「感情」と「知覚」の交錯がここに鳴り響いている。

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