Home > Interviews > interview with Kindness - 音楽である必要すらないんです
僕が音楽をつくるのは、感動したい、新しい発見をしたい、音楽をつくる楽しさを体感したい──そういう思いに駆られるからなんです。それは、他のミュージシャンとのコラボレーションについても同じ。純粋にその人たちとやってみたいという、その思いだけで。
■新作について教えてください。ビートが力強くて、すばらしいダンス・レコードだと思いました。ご自身ではどんな作品になったと思います?
AB:とても満足しています。ファーストとセカンドのいいとこどりみたいな作品になったと思っていますね。
セカンド・アルバム(『Otherness 』、2014年)は、僕にとっては大きなチャレンジでした。フロア向けの4つ打ちを極力使わないように意図したレコードだったので。
もちろん、僕はハウス・ミュージックもエレクトロニック・ミュージックも大好きです。ですが、ソング・ライティングの観点からいうと、そういう音楽を作っていると、曲を書くという作業がどうしてもおざなりになりがちなんです。4/4のビートが乗っていれば、体裁は整ってしまうので。だから、セカンド・アルバムでは、1曲を除いて4つ打ちを極力排除しました。商業的なエレクトロ・ミュージックに嫌気がさしていた時期だったというのもあって、もっとシンセの音を大切にしたり、ビートに頼らないレコードづくりをしたつもりです。
それで、このサード・アルバムでは、「OK、そろそろダンスフロアに復帰するか」という感じで作ったんです(笑)。結果的に、とてもエキサイティングなダンス・レコードになったと思うし、すごく満足していますね。
特に、色々なゲスト・シンガーに歌ってもらったのが大きくて。自分で曲を書いて、自分で歌うとなると、そのレコードを聴く回数が格段に減るから。自分の声を聴くのはあんまり気持ちのいいことじゃないですし(笑)。だから、他のシンガーに歌ってもらったことで、僕自身が純粋にこのレコードを楽しむことができました。繰り返し聴いていますよ。
■前作とは対照的に、この『Something Like a War』では新しい友人たちとコラボレーションをしています。この変化の理由は?
AB:ニューヨークでレコーディングしたことが大きく影響していると思いますね。ニューヨークに住んで音楽をつくっていた時期は、とてもエキサイティングな経験でした。
ニューヨークで録音されたアイコニックなレコードはたくさんありますよね。デヴィッド・ボウイ、ブロンディ、シック……。彼らの作品は、優れたミュージシャンや音楽シーンだけでなく、ニューヨークの持つ空気感そのものが作り上げたレコードだと思います。
マスターズ・アット・ワークのレコードもそうですね。単なるニューヨーク・ハウスのレコードというだけではなくて、ニューヨークそのものを体現しているというか。ニューヨークには、ダンス・ミュージックひとつをとってみても、サルサやジャズ、ラテン音楽など、様々なジャンルの音楽が混在している。
ジャズ・ミュージシャンやラテン・ミュージシャン、それに若いミュージシャンとセッションしたことも、僕の作品づくりには大きな影響を与えていると思います。ホーン・セクションは若いジャズ・ミュージシャンに演奏してもらっているし、ピアノやシンセサイザーにも若い女性アーティストを起用しています。
そういう未来に可能性を持った若いミュージシャンと一緒にニューヨークで作品を作ることはエキサイティングでした。ニューヨークで最高のミュージシャンたちとコラボすること自体、とてもロマンティックな体験でしたね。
僕は8thアヴェニューにある「ザ・ミュージック・ビルディング」という建物にスタジオを持っていたんですが、そこは60〜70年代に多くのミュージシャンがレコーディングした伝説のビルとしても知られています。確か世界で唯一、ビル全体が音楽関連施設に特化した建物だったはず。ザ・ストロークスやビリー・アイドル、マドンナなんかも、このビルにリハーサル・ルームを持っていました。僕は2階にスタジオを構えていたんだけど、同じ階でブラッド・オレンジもレコーディングしたことがあるらしくて。
そういう歴史や文化が息づく場所にスタジオを持てたこと、そこでレコーディングができたことも、とても甘美な経験でした。まるで映画の世界の話のような感じで。
■なるほど。他者と音楽をつくるということは、あなたにとってどんな意味がありますか?
AB:前に言ったことに近いけど、色々なミュージシャンやアーティストとコラボレーションすることは、単純に曲をつくることに留まらないことだと思います。僕がつくる音楽はSpotifyで話題になったり人気が出たり、商業的な成功を収めるようなタイプではないですし。もしそういう音楽をつくる必要があるなら、いまとは全然違ったつくりかたをすると思いますね。
僕が音楽をつくるのは、感動したい、新しい発見をしたい、音楽をつくる楽しさを体感したい──そういう思いに駆られるからなんです。それは、他のミュージシャンとのコラボレーションについても同じ。純粋にその人たちとやってみたいという、その思いだけで。コラボしたいからコラボする──それに尽きるかもしれません。
そういう純粋な思いで一緒に作ったものは、まったく予想しなかった結果をもたらしてくれます。僕がざっくりしたアイディアを持っていって、他のミュージシャンたちが即興でセッションを重ねていって、ひとつの曲として完成する。ほんの小さなアイディアが、想像もしなかったような壮大な曲へと展開していくこともあります。
例えば、「ちょっと使ってみたいな」と思ったサンプルがあって、それを中心に曲作りをしているときにふと、「あれ? もしかして、このサンプルが邪魔になっている?」と思うことがあって。それを取り除いたら、まるで森林の中の滝のように一気に音楽が流れ出してきて、素晴らしい曲へと進化を遂げたりもする。逆に、ひとつのサンプルが完璧なハウス・ミュージックを作り上げることもありますし。
そこがコラボによる曲づくりの面白さなんです。意図せぬ流れに身を任せることで、色々なミュージシャンのアイディアのコラージュができ上がるんです。
■その一方で、あなたは自分の音楽をパーソナルなものだと思いますか?
AB:そう思いますね。例えば、僕がソランジュのレコードに参加したり、逆にロビンが僕のレコードに参加したりして、お互いに、その人の曲に貢献しあうのがコラボレーションですよね。
でも、感情的な部分や、自分の頭の中にある方向性に軸があれば、それはパーソナルな場所にい続けると思うんです。僕もロビンのアルバム『Honey』の曲に参加したけれど、それによってその曲が違った風合いや方向性を持つかもしれない。でも、その曲が持つ感情的な部分は、彼女のパーソナルなものであり続けると思います。
僕のアルバムについても同じです。色々な人とコラボレーションして、サウンド的には広がりや厚みが出て、僕自身の予想していなかった意外性もはらんでいたりはするけれど、その根底にあるコンセプトや感情的な部分は僕のものですから。とてもパーソナルなものだと捉えています。
■セイナボ・セイ(Seinabo Sey)、コシマ(Cosima)、バハマディア(Bahamadia)、ナディア・ナイーア(Nadia Nair)、アレクサンドリア(Alexandria)といった新しい友人たちとは、どんな経緯でコラボするに至ったのでしょう?
AB:ジャズミン・サリヴァンはすごく有名な人だから、正式なルートでお願いをしたけれど、彼女を除けば他のアーティストたちは、元々友だちだったり音楽仲間だったりと、ごく自然な流れでコラボレーションすることになった感じです。
アレクサンドリアは僕がラジオでインタヴューしたことが縁で一緒にやることになったし、セイナボはミュージシャン仲間に紹介してもらって知り合いました。それぞれ別々のルートから知り合って、様々な流れでコラボをお願いすることになったんだけど、ある人は自分のアイディアを送ったところからはじまったり、ある人はとりあえずスタジオで何かを一緒にやってみよう、というところから曲ができ上がったり。すごく有機的な感じでしたね。
ナディアとは、僕にちょっとしたアイデアがあって、それを彼女の前で演奏して、彼女が即興で歌を乗せてくれて、良い感じのメロディができ上がった。そのまま何か月か放置していたんですけど、改めて歌詞を書いてみて、ナディアに歌ってもらうように正式にお願いしました。すごく自然な感じでコラボレーションが固まっていた感じでしたね。
みんな Instagram や Twitter で、自分がいま抱えている問題や悩みやストレスについて包み隠さず話していますよね。一方で、そうしたソーシャル・メディアの存在が、ストレスを生んでいたりもするんですが。このタイトルは、そうしたごくパーソナルな悩みや問題を表現しています。
■あなたがコラボする相手は、国も人種も、ジェンダーやセクシュアリティも、ジャンルもバラバラな人たちです。それはどうしてなのでしょう? 性格や性質上のものですか? それとも音楽的に追い求めるものがあるからですか?
AB:色々なバックグラウンドを持つ人や様々な音楽ジャンルで活躍する人とでなかったら、コラボレーションする意味がないし、ごく退屈なものしかできないと、個人的に思っているからですね。それに、意識することがなくても、自分の周りの環境がそもそもヴァラエティに富んでいるんです。僕が付き合う人たちは、音楽関係者であるなしにかかわらず、人種だったり性別だったりセクシュアリティだったり、何もかもがバラバラ。だから、自分にとってはすごく自然なことなんです。
■それはニューヨークやロンドンを拠点に活動しているということの利点でもありますか。
AB:そうですね。日本に住んでいる人たちのほとんどは日本人だから、ちょっと状況が違うかもしれないけど(笑)。ロンドンもニューヨークも、本当に人種の坩堝という感じですからね。
ニューヨークでは、最初ブルックリンに住んで、その後クイーンズのジャクソン・ハイツというエリアに住んでいたんだけど、そこは世界中のすべての人種や国籍の人が集まっているような場所でした。本当に面白い場所で、そこに住んでいるだけで、自分の行きたい場所のすべてに近づけるような感覚でしたね。
■そんなニューヨークと相似形に、あなたの音楽やスタイルは、さまざまなサウンドがミックスされた、一言で表現できないものです。社会や政治的に融和よりも分断が進んでいるように感じる現在、カインドネスの音楽は特別な意味を持つと感じます。漠然とした質問ですが、こうした感想については何を感じますか?
AB:とても良い視点だと思います。僕自身の音楽について言えば、確かに一言でジャンルを説明するのは難しいと思う。なぜなら、ひとつのジャンルの音楽をつくろうとは思っていないんですから。より多様な音楽でなければつまらないと思ってレコードをつくっているので。色んなジャンルの音楽に寛容であることは、社会の多様性に関しても寛容であることに繋がるかもしれませんね。音楽という存在が、その媒介となってくれると嬉しいです。
それに、若い世代はより音楽のジャンルに関してこだわりを持たなくなっているように思います。僕は自分のSNSでジャーナリストやアーティストを中心に色んな人をフォローしていますが、ときどき音楽談義が持ち上がることがあって。しかも、その中心になっているのは20代の若い音楽ジャーナリストだったりするんです。いつだったか、自分たちが高校生の頃に聴いていた音楽について話していたことがあったんだけど、エモ系のバンドを聴いていたことなんかも包み隠さず話していました。そういう過程を経て、いまは幅広い音楽について語るジャーナリストになっていたり、前衛的な作品をつくるアーティストになっていたり──そういう自分の音楽的な多様性や経歴についてとても正直だし、こだわりがないところが面白いと思うんです。
僕が音楽をやりはじめた頃はインディー・ロックの全盛期で、その頃エレクトロニック・ミュージックは、はっきり違うジャンルに分けられていた。ホワイト・ストライプスやレディオヘッドについて評論を書くようなジャーナリストは、僕たちのやっていたような音楽については言及しなかったんです。それが、いまはミュージシャンにとっても、音楽ファンにとっても、どんどんその垣根がなくなっている。すごく良いことだと思います。
■あなたのレコードからはソウル・ミュージックやファンク、エレクトロニック・ダンス・ミュージックからの影響を感じます。ただ、全体的なムードや手触りには享楽性よりも孤独や悲しみ、さびしさがある。それはどうしてなんでしょう?
AB:それはたぶん、僕の個人的な音楽性や嗜好によるところが大きいんじゃないかな。DJをするときはハウスやテクノを中心にかけるんだけど、ちょっとさびしくてメランコリックなサウンドが好きで、そういうものをプレイすることが多いんです。孤独な感じとは思わないけど、シカゴ・テクノなんかはアップテンポであっても、どこか切ない感じのサウンドが多いですよね。そういうのにマーヴィン・ゲイのような、ちょっとメランコリックなものを混ぜたりもします。もちろん、合間にアップリフティングな曲もかけるけど……。
例えば、ファーリー・“ジャックマスター”・ファンクの“Love Can’t Turn Around”(1986年)なんかはビートがかっこよくて踊りたくなるのに、どこか影のある曲じゃないですか? そういう、踊りたくなるビートがあって、かつどこかにさびしさを感じさせるような曲が好きなのかもしれません。
■なるほど。本当にたくさんの質問にお答えいただいてありがとうございました。最後に「Something Like a War」というタイトルに込めた意味を教えてください。
AB:これはもしかすると、さっきあなたが言ったように、社会的な分断といったことにも捉えられるかもしれません。テクノロジーやソーシャル・メディアの発達で、いまの人たちは自分たちの感情や思考を発信することにとてもオープンになった。みんな Instagram や Twitter で、自分がいま抱えている問題や悩みやストレスについて包み隠さず話していますよね。一方で、そうしたソーシャル・メディアの存在が、ストレスを生んでいたりもするんですが。
このタイトルは、そうしたごくパーソナルな悩みや問題を表現しています。それは目に見えるものである必要もないし、言葉にできない、表現できないものでもあって。言葉を持たない自分の中の葛藤のようなもの、と言えばいいのでしょうか。「war」といっても、視覚的に暴力的なもの、アグレッシヴなものを指しているわけじゃなくて。もっと、現代人のひとりひとりが抱えている心の葛藤のようなものなんです。
質問・文:天野龍太郎(2019年9月06日)
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