Home > Columns > 高橋康浩著『忌野清志郎さん』発刊に寄せて
先月、NHKで放送された国内最大規模の音楽賞番組「MUSIC AWARDS JAPAN」は「透明性」をキーワードに掲げていた。同番組は放送後も「透明性」を軸に語られ、そうした議論をいくつか聞いていると、それまで音楽賞番組の代名詞だった「日本レコード大賞」はよっぽど「透明性」に欠け、「透明性」の重要性が説かれれば説かれるほど「日本レコード大賞」は金が飛び交う賞番組なのだなという印象が増していった。放送日が年末年始でなかったのは「日本レコード大賞」への配慮からだろうし、アイドル部門で最優秀アイドル賞を受賞したスノーマンが授賞式を欠席しても、旧ジャニーズ事務所が事務所ごと「日本レコード大賞」の不参加を決め込んだようなことは(まだ)起きていないと思わせる演出も随所に施されていた(「不透明」だったのはプレゼンターの人選ぐらい?)。ちなみに「MUSIC AWARDS JAPAN」は音制連や音事協など5つの音楽主要団体が選考の主体で、「日本レコード大賞」の主催は各新聞記者。
山口百恵は一度も「レコード大賞」を受賞していない。AKB48がレコード大賞を取った日、小学生だった姪は「日本は終わった」とやさぐれていた。中森明菜が新人賞を取れなかったのは大手事務所が金をばらまいて阻止したからだということはよく知られている。家に送られてきた賄賂を送り返したと話す審査員にも僕は会ったことがある。このように「評価」のシステムが「不透明」なのは、何も音楽業界だけではなく、日本全体に浸透している権力のあり方と関係し、そうした構造を既得権として告発し、すべてに「透明性」を与え、「自由競争」を促そうというのが新自由主義である。「MUSIC AWARDS JAPAN」も「透明性」を謳い、評価の基準を明確にしてマーケットを正常化したいという志が動かしていたのだろう。そこにはいわゆる外国の目があり、外国のマーケットがあり、日本の音楽事務所がここ数年、アメリカの投資家に買いまくられていると思ったらやたらとJ-ポップがビルボードのチャートに入るようになったという現実もある。日本の音楽はユニークだ、日本の音楽は外国に通用する、日本の音楽を外国に売りたい、という欲望が「MUSIC AWARDS JAPAN」のそこかしこから吹き出し、日本の音楽が外国のマーケットに進出した象徴として “ライディーン” のリブートからスタートしたのも本音がよく出ていた。もちろん、高橋ユキヒロへの追悼はなかった。
「MUSIC AWARDS JAPAN」を観ていて僕には淀んだ気持ちはあってもブレイクスルーの感情は湧いてこなかった。「不透明」の代わりにあったのは「数」の論理である。最も多い投票数を集めて日本で一番優れているミュージシャンとされたのがミセス・グリーン・アップル。1年前に植民地主義を肯定する表現が問題視されたバンドで、彼らのような存在をいま日本の顔に選ぶなんて、投票した人の見識は大丈夫なんだろうかと思ってしまった(ちなみにレコード大賞と同じ結果)。音楽の優劣が「数」で決まる(とはいえ、投票数が公表されたわけでもない)。「数」というのはつまり数字で、これもまた別な意味で金である。「不透明」が汚れた金なら「数」が導くのはきれいな金ということか。日本社会の「不透明さ」は姪の心を打ち砕いてしまったけれど、どうやら僕の心を打ち砕くのは「数」である。暴力の質が変わっただけともいえる。開会宣言で細野晴臣が「ただ好きなことをやっていただけ」と、暗に自分は「数」とは無縁だと述べたことは結果的に番組への最大の抵抗になっていた。音楽には金よりもマジックを呼んでほしいと思う僕は「数」の論理から遠く離れた音楽を聴くことしかきっとこの先もできないだろう。そもそも正常化したマーケットのなかにだけ音楽があるわけではない。金でもなければ数でもなかった音楽家の名前を、ここで僕はどうしても思い浮かべてしまう。忌野清志郎さんである。忌野清志郎という音楽家の才能を評価する基準は、いま、日本社会のどこにも見当たらない。この先もないかもしれない。「低脳なヤマ師と 信念を金で売っちまう おエラ方が 動かしている世の中さ 良くなるわけがない あきれて物も言えない」(RCサクセション “あきれて物も言えない”)。
東芝EMI時代に知り合い、その後も彼が会社を変わるたびに何かと縁のあった高橋康浩が忌野清志郎についてまとめた著作『忌野清志郎さん』の構成を少しばかり手伝った(本日・発売)。高橋くんは昔から業界っぽく喋るのだけれど、業界っぽく聞こえたことがない。根が純真なので、スカしても様にならないし、何を話してもロックが好きだということしか伝わってこない。キング&プリンスの高橋海人があまりにも高橋くんに似ているので「もしかして子ども?」と訊いたら「みんなにそう言われる」と憮然としていた。高橋くんとは一時期、清志郎さんのプロモーションでTV局を巡ったことがある。『ねるとん紅鯨団』の収録では清志郎さんが例によって大遅刻で、ついさっきまで西田ひかるが座っていた椅子に異様な執着を示していた高橋くんもタイム・リミットが過ぎてからはスタッフに「もう来ます」「家を出ました」と平謝りで、西田ひかるの椅子どころではなくなっていた(浅草ROXでの公開収録なのでお客さんも待ち続けた)。しかも収録が始まると清志郎さんはVTRを見ながら「面白くない」「興味ない」を連発。途中で一回だけ「少し面白くなってきた」と発言し、最後は「やっぱりつまらなかった」と言って急に坂本冬美の “能登はいらんかいね” を歌い出した。とんねるずも「清志郎さんじゃ仕方がない」というジェスチャー。同番組のオン・エアを観たら「少し面白くなってきた」と “能登はいらんかいね” しか使われていず、清志郎さんはずっと番組を面白がっていたかのように編集されていた。まあ、そういうものかもしれないけれど、TVの編集って事実とは正反対の印象を与えられるんだなということを、その時は学ばせてもらった。
高橋くんが清志郎さんのプロモーションに加わる以前、僕はレコード会社でも事務所の人間でもないのに、どういうわけか清志郎さんがTV局に行く時はいつもくっついていた。初めて行ったのは確か『オレたちひょうきん族』で、『RAZOR SHARP』のプロモーションのために “AROUND THE CORNER / 曲がり角のところで” を歌う場面もあったけれど、鹿の着ぐるみを着て、ただ突っ立っているだけだったりと、清志郎さんがやらされていることには「なんで?」と思うことが多かった。本人が楽しんでいるならいいかとは思うけれど、RCサクセションを続けるべきか、やめるべきか、曲がり角のところで考えていたり、河を渡ったり、考えが変わったり、夢は終わったし、二度ともどれはしないし、いったい ぜんたい ここはどこで、新しいアイディアを聞かせておくれと、ありったけの苦悩がぶちまけられた作品を世に伝えるにしてはどうもフォーマットが合っていないような気がした。『RAZOR SHARP』はロンドンでレコーディングしている時からプロモーション・ヴィデオの撮影や宣伝用の写真撮影、それとジャケットの撮影にも立ち会ったので、内容とリンクしていないと思うことは最初から少なくなかった。英語圏のクリエイターたちとはやはり意思疎通が難しく、ジャケット撮影から特急で3日後にあがったデザインのラフを見て清志郎さんはジャケットに入れる名前の表記も、たとえば「Johnny "Guitar" Watson」のように「KIYOSHIRO IMAWANO」の間に、あだ名のようにして "忌野清志郎”と入れて「KIYOSHIRO "忌野清志郎” IMAWANO」と読めるようにしてほしいと頼んでいたのだけれど、結局これは直らなかった。アイコン(というデザイン事務所)のデザイン・ワークも彼らが直前に手掛けたポール・ヤングの使い回しで、ギザギザのカットが半分に減ってるだけ。そもそもジャケット撮影も清志郎がどんなメイクをしているのか知らないために、メイクさんからどうメイクしていいのかわからないと言われ、清志郎さんも途中で宣伝部の近藤(雅信)さんに「写真は持ってこなかったのか」とやや怒り気味。いつもはファンキーな近藤さんもその時は真っ青になって「すいません」と頭を下げるだけだった。結果的にRCでやっていたメイクとは違う顔が出来上がり、むしろ良かったのではないかと僕などには思えたものの、スタジオの雰囲気は途中まで最悪。それを挽回するようなデイヴィス&スターによるユニークな撮影方法は前にどこかで書いたので省略するとして、後日、届いたポジを見て「どれも使えない」という声が出た時は僕まで切羽詰まってしまった。ディレクターの熊谷(陽)さんはアタッシェ・ケースに現金をぎっしりと詰め込んでスタンガンで武装しながらスタジオやデザイン事務所を飛び回り、なんというか、『RAZOR SHARP』のジャケットって、よくかたちになったなあといまだに感慨深い。
ヴィデオの撮影でもメイクはネックになった。ヴィデオ・チームのメイクさんは魔法使いのような服を着た女性で、同じく参考になる写真はない。だんだんと出来上がっていく顔はデイヴィス&スターによるジャケット写真ともイメージが異なり、清志郎さんの顔は分を追うごとにチャイニーズ・マフィアのボスみたいになっていく。おそらく周囲にいたブロックヘッズの雰囲気に合わせたのだろう。そう思うと違和感はなくなる。メイクの女性にはうっすらとヒゲが生えていて、清志郎さんはそれをコソコソと面白がっていた(そんなことしてる場合じゃなかったのに)。ヴィデオを観てもわからないとは思うけれど、撮影場所はスタジオではなく、大きな図書館で、2階の本棚をすべて端に寄せ、クレーンを持ち込んでぐるんぐるんとカメラを移動せながら撮影していった。豪快だった。何度かリハがあり、清志郎さんのメイクが完成したところで、シェフがみんなのランチをつくり始めた。ところが、清志郎さんだけはメイクが崩れるという理由で食事禁止。これはさすがに段取りが悪い。なんともいえない空気のなか、僕もなぜか食事をもらえたので、申し訳なく思いながら食べた。おいしかった。
こんなことを書いているといつまで経っても終わらない。清志郎さんと食べもののエピソードだけでもどこまででも筆が伸びてしまう。メイクの人が清志郎さんの髪をいじっている時に「昔はマッシュルーム・カットだったんですよね」と僕が訊くと「あれはイリヤ・クリヤキン・カットなんだ」と教えられ、日本に帰ってから調べてみると、ナポレオン・ソロの相棒のことだと判明したり(よほど人気があったみたいで、ジューシー・フルーツの奥野敦子がイリヤと名乗っていたのもこのキャラクターから。後に清志郎さんのラジオでクリーナーズ・フロム・ヴィーナス “Ilya Kuryakin Looked at Me” を探し出してオン・エアしたのは私です)。僕は『RAZOR SHARP』『MARVY』『COVERS』の宣伝を手伝い、高橋くんの著作はファンだった時代を助走部分として仕事的には『コブラの悩み』からタイマーズ、『Baby A Go Go』へと続いていく。高橋くんが路上ライヴを始めたあたりから宣伝の質は大きく変わる。メディアを集めるというよりはメディアが寄ってくるように仕向け、売るためにやるというよりは結果的に売れる方法を清志郎さんと高橋くんは探っていたのかもしれない。時代はそろそろミュージシャンや各ジャンルのクリエイターが自分のやったことをきちんと説明し、プレゼンテーション能力を上げ始めた時期である。ミュージシャンが好きに歌い、ライターが好きに書くことは許されなくなり、それが出来なければマーケットの外に出て行けといった雰囲気も強くなっていた。本書を読んでいると、プロモーションのシステムがだんだんと固まっていった時期に2人は逆らいたかったのかなとも思う。
ソロになってからも高橋くんは断続的に清志郎さんと仕事を続け、亡くなった後もファー・イースト・プロモーション・マンであり続けている。清志郎さんからの信頼がハンパなかったことは行間をびしょびしょにするほど滲み出ていて、いつも清志郎さんのことを考えているからだろう、たまに会うと考えが深まっているのは驚かされる。RCの末期に「同じことの繰り返しから見えてくるものがある」と清志郎さんはアレンジを変えないで演奏するわけを話してくれたことがあった。同じ人がやったことを何度も考えることによって見えてくるものはあり、何度でも同じことを話すことにも意味はある。少なくとも僕も高橋くんも、あと野田くんも、清志郎さんのことを話すことには飽きたことがない。チャットGTPと話すよりも清志郎さんのことは高橋くんや野田くんと話す方が面白い。3人ともインターネットに書かれていないことをたくさん見聞きしているから。しかも感情の高ぶりを共有できるから。僕とか佐川秀文は当時、東芝EMIの近藤さんから主に発注をもらい、プロモーション用の冊子を編集したり、取材をして原稿を書くことが多かった。なので、宣伝部の人たちが現場で何をやっていたかは、実は本書を手伝うまで知らないことも多かった。タイマーズのライヴで、怒った客に胸ぐらをつかまれ、殴られる寸前だったなんて、そんなことがあったなんてまったく知らなかった。実は僕も大阪のライヴで、入り待ちのファンが多過ぎて楽屋入りできない清志郎さんの身代わりになったことがあった。背格好が同じなので、清志郎さんの服を着て近くを車で通り過ぎ、楽屋と反対方向にファンを惹きつけたはいいけれど、清志郎ではないとわかったファンに罵詈雑言を浴びせられた。なので、ファンに胸ぐらをつかまれる心境というのはわかる気がします。あれはたまりませんよね。ファンの熱意が高いことに問題があるわけではないので、この気持ちをどこに持って行けばわからないだけで。高橋康浩の『忌野清志郎さん』は高橋くんの胸ぐらをつかんだファンの人にはぜひ読んでもらいたい。その人の手に届くように、読んだ人はみんな、SNSで広めるよう努力してください。権力を持たない人たちが「数」の論理を持ち出すのはむしろいいことですから。なんて。
「俺は資本主義の豚で 無い物を売り歩く ああ この街で会えるなんて 不思議」(RCサクセション “不思議” )