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♯9:いろんなメディアのいろんな年間ベストから見えるもの

♯9:いろんなメディアのいろんな年間ベストから見えるもの

野田 努 Jan 13,2025 UP

 今年の正月は、例年にないほど惨めなモノだった。年末から身体のだるさは感じていたけれど、まあ、なんとかなるでしょ! と楽観的な姿勢を崩さずやり過ごす算段だった……のだが……元旦の昼過ぎから体調は悪化し、夜に熱を計れば38度。これはやばいと、翌日、開業中の病院を探し行ってはみたものの、待合室に入りきれない30人ほどの患者たちが野戦病院さながら道ばたでうずくまっているではないですか。なすすべなく2時間ほど待って診てもらい、その夜は39度まで上がった。
 というわけで、じつを言うといまもまだ本調子にはほど遠いのです。咳は出るし身体はだるい。体調はいっこうに優れないのでありますが、編集部コバヤシからの情け容赦ないプレッシャーがこうして文字を綴らせている、というわけではありません。正月のあいだずっと寝ていたので、リハビリがてら書いてみようと思う。

 音楽ファンにとってのここ数十年の年末年始の風物といえば、各メディアの「年間ベスト・アルバム」だ。昔と違っていまはネットで多くのメディアのベスト50なりベスト100なりを見ることができるので、ぼくもご多分の漏れず、(『レジデント・アドヴァイザー』と『ミックスマグ』以外の)いろんなメディアのいろんな順位を楽しんでいる。順位を決めるは、それぞれのメディアの考え/姿勢/好みだろうし、それぞれのリストを見ながら聴いていなかった作品を聴いてみたり、順位の意味を読み解いたりするのがぼくには面白かったりする。
 こうした、いろんなメディアのいろんな年間ベストの時代は、ネットによって1950年代から1990年代まで続いた大衆音楽の生態系が破壊されたことによって現出している(*)。だから当初は、このような状態が良きことなのかどうなのか、正直なところ懐疑的だった。昔なら、日本在住者が『ガーディアン』をチェックすることなどなかった。そして昔なら、『NME』が2年連続で年間アルバムの1位をパブリック・エネミーにしたことは音楽ファンにとってその後何年も語りつがれる大事件だった。1989年にはストーン・ローゼズのデビュー・アルバムではなくデ・ラ・ソウルを1位に選んだことも洞察力に富んだ順位として記憶されている。
 昔は読むメディアも限られていた。順位に対するメディアと読者の緊張感/思い込みに関して言えば、年齢的なこともあったのだろうけれど、いまとは比較にならない。自分が好きなアルバムの順位が低かったりすると、本気で頭にきていたものだったよなぁ……と、そんなことを回想しながら、思いはさらに昔へと飛ぶ。
 ぼくが音楽を好きになったのは、小学4年生以降に夢中になったラジオに原因がある。あの頃──1970年代なかば以降の日本のラジオ放送では「チャート」番組のようなものがいくつかあって、ぼくはそんなものをよく聴き漁っていたのだ。とくに「全米ポップス・チャート」みたいな番組が好きで、お恥ずかしい話だが、中学生になるとノートにその週の順位を記録するようにもなった(*2)。自分にとってはすべてが新しい世界に思えたのだろう。

 そしていま、デジタルな世界におけるいろんなメディアのいろんな年間ベストを、「うーん」、「なるほどなぁ」、「そうかぁ?」、「やっぱりなぁ」、「これは聴いてなかったなぁ」、なんて独り言をつぶやきながら見ているのである。たとえば、 『ピッチフォーク』がシンディ・リーを1位にしたのは予想通りだった。まあ、これはこれでいい。これは同メディアの原点回帰だと解釈している。そんなことよりぼくにとっての問題は、チャーリーだ。多くのメディが賞賛する『brat』だが、そもそもぼくはチャーリーXCXがどうも苦手であることもここに白状しておこう。ポップ・ミュージックにおけるハイブリッド性とその展開、嫌いな話ではない。しかも彼女は、大枠で言えばクラブ系エレクトロニック・ミュージック。それでも『brat』を素直に楽しめないのは、古典的なポップのナルシズムを逆手に取った、PC Music以降のポスト・モダニズムな感性を理解できないからではないと思う。これはもう、単にぼくが年老いているからだ。ぼくのような老兵にはブリトニー・スピアーズのデビュー・アルバムで充分だし、もっと言えば、それをいまさら聴き直したいとも思わない。(しかしなんでもまた近年になってマライア、ブランディ、ブリトニーなのかという話はまたいつか)
 セイント・エティエンヌのメンバーで、音楽ライターであり音楽史研究家でもあるボブ・スタンレーの著書『Let's Do It- The Birth of Pop Music- A History』には、この世界にポップが誕生したときの、じつに象徴的な逸話が紹介されている。

『ニューヨーク・イブニング・ポスト』紙の45歳の批評家ヘンリー・T・フィンクはワーグナーの信奉者であった。彼は大衆音楽やサロン・ソング、あるいは街角での口笛さえも好まなかったが、1900年2月、彼は来るべき世紀について、辛辣ではあるが悲観的な見解を示した。「ある日の午後、裏庭の花に水を撒いていると、通りすがりの少年が、それまで聞いたことのない曲を口笛で吹いた」。フィンクは目を細めてその「不快な下品さ」に顔をしかめながらも、「夏のあいだ、1000回は耳にするだろう」と感じていた。そして、彼の予言は真実を言い当てた。1、2週間も経つと、街中の少年たちがその曲を口笛で吹き、他の男たちは鼻歌で口ずさみ、10人に1人の女性がピアノで弾いていた」。フィンクは「まるで伝染病のようだった」と吐き捨てた。彼が耳にした曲は数か月間は地元でも全国でも避けられないものとなるほど、「ヒット」したのだ。

 そう、かつては自分も外で口笛を吹く少年のひとりとしてロックやパンクを聴き、ハウスやテクノを聴いたのであった。間違っても、「不快な下品さ」に顔をしかめるフィンクではなかった。だがねコバヤシ君、生態系崩壊後において事態はそう単純なものではなくなったのだよ。今日では、笛を吹く少年たちも進化している。細分化もしているし、彼らがいる街角は、昔のようにひとつではない。フィンクのほうも、1900年とは違っていまではずいぶん物わかりが良くなっていることだろう。
 また、ポップであることを拒否した音楽(モダン・ジャズ、ポスト・パンクなど)に惹かれていたりすると、別の情熱も高まったりするものなのだ。自分はポップ・ミュージックから音楽に入った人間だが、ポップでない音楽がどんどん好きになっている。でも、自分がどこから来ているのかはわかっている。だから、こうしていまも21世紀の末裔たちの、いろんなメディアのいろんな順位を気にしているんだと思う。
 平均的に高順位だったアルバムのなかで自分が聴いていなかった1枚に、ジェシカ・プラットの新作がある。サウンド面で言えば聴きやすいメロディックなフォーク・ロックで、ノスタルジックに感じられる。これは否定ではない。シンディ・リーのアルバムにも、60年代のガールズ・グループ、たとえばザ・シュレルズやザ・ジェイネッツなんかを彷彿させるロマンティックな曲がいくつかある。ぼくが昨年好きだったピープル・ライク・アスは、前衛的手法で60年代のこの手の、いわゆるブリル・ビルディング系ポップスをサンプリングして夢の世界を描いていた。ていうことは……なんだぁ、みんな同じようなことを思っていたんだなぁ。ポップの世界では、大人が新しいものに警戒心を抱き、若者が過去を甘美に思うとき、こうしたトレンドがたびたび生まれているのである。
 でも待てよ、そう考えるとチャーリーはどうだろうか? 未来的なのだろうか? いや、彼女こそ、後ろを見ながら前を向いている典型でもある。この、後ろを見ながら前に進むというのは、ポップの世界では何度も繰り返されてきている。既述のストーン・ローゼズのデビュー・アルバムがまさにそれだ。 “アイアム・ザ・リザレクション” は60年代モータウンのリズムとメロディをハウスのテンポに落とし込み、独自の言葉が歌われている。彼らは同郷のハッピー・マンデーズと違ってダンス・シーンとほとんど関係がなかったが、 “フールズ・ゴールド” でボビー・バードの “ホット・パンツ” をループさせたりしているうちに、セカンド・サマー・オブ・ラヴを象徴するバンドになった。そして、それにもかかわらず、当時の『NME』(アシッド・ハウスを大いに扱っていたメディア)は、1989年のベスト・アルバムの1位を、ほとんどすべてにおいて新しかった『3フィート・ハイ&ライジング』に決めたのだった。

 ポップ・ミュージックにおける実験性は、ときに気まぐれだ。遊び心ゆえに形式的な境界線を飛び越える。また、1976年の作品でいみじくもカンが記したように、「偽物」であることは逆説的な「真実」でもある。往々にして「偽物」がおもしろいポップを創出したりもするし、そしてすぐに廃れもする(*3)。ぼくの机のうえのパソコンからは、いまも『brat』が流れている。つい先ほど、すぐにそれに反応した松島君がやって来て、彼の昨年のDJセットでは同アルバムからエディットしたものをかけていることを教えてくれた(なるほど、じゃあ松島君のDJのなかで聴いたら印象が変わるかもね)。ほかにもチャーリーに関して彼は一家言あるみたいだが、彼のマシンガントークの相手をする体力がいまのぼくにはない。ただ、松島君が言うように、同作は良くも悪くも洗練され過ぎてもいる。ぼく的に言えば、ちょっと過去を尊重し過ぎているかな……という話はもうどうでもいい。よしわかった、音楽には時代を知る手がかりがある。2025年は後ろを見ながら前に進めばいいのだな。
 では最後にもういちど確認しておこう。優れたポップ・ソングとは、順位や人気が決めることではない。その曲が、あなたの人生についてより多くを語っているとあなたが思っているかどうか、これがひとつの基準である。古くても新しくてもいい。2025年、そんな曲と出会えたらいいよね。

(2025年1月9日)


(*)
 若者文化が形成され、7インチEPが普及、ラジオがそれを流し、英国で『NME』が創刊されたのが50年代のこと。おおよそ我々がざっくり思うところのポップ・ミュージック業界はその頃にカタチが生まれ、60年代から70年代にかけて成長し、1990年代まで続いた。
 さて、そもそもポップ・ミュージックとは、主観的に使われる言葉ではあるが、ここではまず売るために作られた音楽を指している。つまりセックス・ピストルズもホアン・アトキンスもポップ音楽。だから、スタンレーが言うように地元の酒場で仲間内で歌っている歌はポップにはならない。ポップ・ミュージックとはもちろんポピュラー・ミュージックの略で、スタンレーの長年の研究によれば、この言葉が世に出たのは、1901年の英国の演劇業界紙『The Stage』に掲載された広告においてだった。「マネージャー募集。世界最大の優良図書館であるロンドン音楽貸出図書館にすぐ応募のこと。最新のポップ・ミュージックばかり。アルジャーノン・クラーク経営、ロンドン・ロード18番地、バーンズSW13」。ちなみに1900年当時の英国おける最大のポピュラー・ミュージックといえばミュージック・ホール。歌手と作家、興行主も労働者階級という、大戦前まで栄華をほこった大衆芸術。
 ともかく最初の「ポップ・ミュージック」は、限りある広告スペースに適当すべく短縮された言葉だった。そして、やや遅れてアメリカでは当時の新しい音楽形式、ラグタイムが誕生し、これをもって、より広い社会の枠組みにおけるポップ・ミュージック業界はスタートする。19世紀末に生まれたラグタイムとは、アメリカらしい、もっとも古いブラック・ポップ・ミュージックで、つまりビートがあり、シンコペーションがあった。たちまち踊り出したくなるようなミニマルな音楽で、とくにルールはなく、楽譜を必要としなかった。ラグタイムのピアノが弾けたら女性にもてたし、スコット・ジョプリンという売れっ子もいた。当初は安酒場や売春宿といったアンダーグラウンドでしか聴けなかったが、それがスタジオで録音され、最終的にはシェラック盤(78回転の10インチ)になる。ティン・パン・アレーはラグタイムを簡素化し、注文に応じて大量生産されるポピュラー音楽としてこのスタイルをさらに売った。そしてその人気の高まりにおいて、こりゃまあ、たんなる騒音、穀物倉庫の音楽だな、などという批判も噴出した。
 こんな話を書いていると、ブロンクスでヒップホップ、シカゴでハウスが生まれていったことと、最近ではジュークが生まれていったことと同じようなことが120年前には起きていたんだなぁとしみじみと思う。決定的な違いは、1900年当時の世界にはまだ「若者」という概念も存在もなかったことだ。「英国では15歳も50歳も同じように土曜の夜に給料をはたいて同じ演目を観に同じミュージック・ホールに通っていた」とスタンレーは書いている。世界史に「若者文化」が登場するのは、第二次大戦後のことである。

(*2)
 ぼくがラジオ少年としてチャート番組を聴いていた70年代なかば以降は、あとから考えてみると、悲しいかな、アメリカの売れ線ポップスのほとんどが低調だった時代と一致している。たとえば、ドゥービー・ブラザーズにジョン・デンバー、リンダ・ロンシュタット(オリジナルより遙かに気迫を欠いた “ヒートウェイヴ”) 、イーグルス(富裕ヒッピーの憂鬱)……70年代ポップスの発信地としての西海岸(通称ローレル・キャニオン)衰退期におけるカントリー・ポップ、じゃあ英国はどうだったかと言えば、ベイ・シティ・ローラーズにクイーン……、デイヴィッド・ボウイの『ロウ』を好きになるにはあと数年必要だったし、ドナ・サマーを楽しむには若すぎた。70年代なかばの、たとえばスタイリスティックスの “愛がすべて”やスリー・ディグリーズ の “天使のささやき” ような素晴らしいポップスとぼくが出会うのは、ずっと先の話になる。というわけで、AMラジオの深夜放送で聞いたRCサクセションのほうがよほどがつんときたし、ローレル・キャニオン系末期の感覚にうんざりしたぼくが、たとえばニール・ヤングの『トゥナイツ・ザ・ナイト』のようなアルバムと出会うには、オルタナ・カントリーの回路が必要だった。とはいえ、1978年以降、つまりパンク以降のニューウェイヴの時代にはたくさんの優れたポップ・チューンが生まれている。しかしその頃にはぼくはもうラジオ少年ではなかった。

(*3)
 歴史を振り返れば、たとえばブームタウン・ラッツやポリスのような、リアルタイムでは人気も評価もあったバンドが、いつしか時間のなかでほとんど愛されなくなっていくという事例や、ザ・KLFの一連のヒット曲のように瞬発力こそ凄かったが数年後には飽きられていった曲も少なくない。それとは対照的に、売れてはいたけれど評価はされていなかった曲が、いつしか時間のなかで評価を高めていった事例も、ほとんどのディスコ・ミュージックをはじめ数多くある。

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