Home > Columns > Talking about Mark Fisher’s K-Punk- いまマーク・フィッシャーを読むことの重要性
髙橋勇人×セバスチャン・ブロイ×河南瑠莉 Conversation between Hayato Takahashi, Sebastian Breu, Ruri Kawanami Dec 30,2024 UP
「この著者は自分と似たような目線で世界を見ているんだな」と。その目線には深い洞察力があって、一見平凡だったりささやかに見えるものをより大きな理論的なトピックまでつなげていく才能がありました。(ブロイ)
■『K-PUNK』のなかでみなさんがいちばん好きなフィッシャーの文章を教えてください。
髙橋:ぼくは、フィッシャーが音楽を論じるとき、テクスチャーのような「モノ」の側面に着目して論じるのがうまいと思っています。たとえば『わが人生の幽霊たち』でいえば、ベリアルやザ・ケアテイカーの音楽にあるレコードのクラックル・ノイズに注目して論じていましたよね。そのアイディアは『K-PUNK』にもあります。今回訳していて、またリアルタイムで読んでいたときもいちばん好きだったのは、DJラシャドの『Double Cup』(2013年)についての文章〔※「ブレイク・イット・ダウン」、『自分の武器を選べ』所収〕です。そこで論じられているのは、フットワークというとても速い音楽、BPMが160~170ある音楽です。そのリズムのぎこちなさについて、当時ネットで流行っていたGIFアニメのぎこちなさとつなげて論じていて、批評のしかたとして面白いと思いました。たとえば、ラシャドは「アイ・ラヴ・ユー、アイ・ラヴ・ユー、アラヴユアラヴユアラヴユアラヴユ」みたいな感じで、だれのものかもわからない声をぶつ切りにしてカットアップしているんですが、それをウィリアム・バロウズの『爆発した切符』におけるカットアップと接合するところも興味深い。そういうふうにリズムや音の「モノ」的なところに着目するところが魅力的です。
さらにいえば、そのカットアップから、どこから来たのかわからないけれど愛がそこに存在している、その叙情性みたいなものについても論じていて。ダンス・ミュージックを論じるときに、愛の観点から書くひとってあまりいなかったというか、むしろ避けられていた気がするんです。フィッシャーは『奇妙なものとぞっとするもの』でも映画『インターステラー』について愛の観点から書いていましたけど、彼はそういうちょっとクサいかもしれない視点から、通常ことばの表現からは遠いと思われているダンス・ミュージックを、ことばが持つマジックみたいなものとつなげて語っている。
ブロイ:ぼくは、やはり3巻目の『アシッド・コミュニズム』を担当した身としては、「アシッド・コミュニズム」〔※『アシッド・コミュニズム』所収〕と「ヴァンパイア城からの脱出」が目玉かなと思います。
河南:やはりそのふたつですね。
ブロイ:「No Future 2012」〔※『アシッド・コミュニズム』所収〕も好きですよ。シチュアシオニスト的な散歩の話が民族誌学的に書かれていて、風景論として面白いです。資本主義の仕組みとともに描かれる風景が変化していくんですが、そのなかには写真論も音楽論も織り込まれていて、フィッシャーの多元性がよくあらわれている文章だと思いました。
河南:「ヴァンパイア城からの脱出」は、それ自体が好きというよりも、「ヴァンパイア城からの脱出」から「アシッド・コミュニズム」へと向かうその過程が好きですね。だからセットです。「アシッド・コミュニズム」には、先ほど髙橋さんがおっしゃっていた愛の話であったり、セバスチャンが言っていたような、これまでの左派的な文章にはなかった解放感があったりします。それは、欲望の肯定について、抑圧の否定について正面から書いているからです。それまでの左派的な言説は、「資本主義の抑圧がひどいのでわたしは傷ついている」「われわれはどれほど傷を負ってきたか」というような話に始終する傾向がありました。左派的な資本主義批判にとって、資本主義は欲望を助長させるものだから、欲望の肯定はタブーだったんです。フィッシャーは、そんなふうに欲望を否定する左派には限界があるということを、ポップ・カルチャーの再評価やマルクーゼへの言及などの理論的なフレームワークのなかで論じていく。もちろん、そのまま過去のカウンター・カルチャーへ戻ることもできないということもわかったうえで、ではいま、どういう条件で欲望を再肯定して新しいコミュニティをつくることができるのか、ということを書いています。なので、ひとつだけ選ぶなら「アシッド・コミュニズム」ですね。
ブロイ:「ヴァンパイア城の脱出」は、じつは読んだときけっこう笑っちゃったんですよね。
髙橋:わかります。ぼくも笑いました。ツイッター上だけで批判した気になっているネオ・アナーキストのくだりとか、自分の周りにもこういうやつ本当にいるなって思いました(笑)。
ブロイ:論争としての力があるテキストだと思うんですよね。「アシッド・コミュニズム」では「不思議の国のアリス」の映画化の話が出てきますが、資本主義社会で暮らす大人のぎくしゃくした行動や怒りが不思議なものとして描かれている。アリスの視点、子どもの視点から観たらおかしなものなのに、という書き方で、そういうところも読んでいて面白かったですね。
どこから来たのかわからないけれど愛がそこに存在している、その叙情性みたいなものについても論じていて。ダンス・ミュージックを論じるときに、愛の観点から書くひとってあまりいなかったというか、むしろ避けられていた気がするんです。(髙橋)
■本国イギリスではフィッシャーはどのように受容されているんでしょうか?
髙橋:彼が亡くなるまえから「資本主義リアリズム」ということばはよく使われていましたし、亡くなってからも大学や書店などでメモリアル・イベントがありましたし、大学で学生がなにか書くときにフィッシャーを引用することは一般化していると思います。ただぼくが注目したいのは、フィッシャーが文章を書いていただけではなくて、出版社を立ち上げて、書店の空気を換えようとしていたところです。イギリスで本屋に行くと、いわゆる社会批評やアカデミック系のテーマがポップに語られている本がわりと普通に置いてあるんですね。日本でも紀伊國屋の規模ならそうかもしれないですが、イギリスだと小さめの書店でもそうだったりする。それはおそらく、フィッシャーが00年代に〈Repeater〉をはじめたころから盛んになってきたのではないかと思います。もちろん、学術書のコーナーに行けば昔からあったんですけど、いわゆる一般書のコーナーにそういう本があったりして、明らかに書店の空気が変わりました。フィッシャーがそういう「ポップ・カルチャーと知」のインフラをつくった面は重要だと思いますね。
■先日ガリアーノがインタヴューでフィッシャーの話をしていて驚いたんですが、そんなふうにミュージシャンのあいだでもけっこう浸透しているんですか?
髙橋:「資本主義リアリズム」ということば自体がウケがいいし、ほかにもフィッシャーのことばはインターネット・ミームになっていたりもしますので、かならずしも大学のなかで知ったわけではなく、そういうところからフィッシャーを知ったひとも多いような気はします。そういうレヴェルでは浸透はしているといえるんですが、かならずしもそういうひとたちがフィッシャーを完全に理解しているわけではないと思いますね。おそらく本を理論的な文脈を踏まえてしっかり読んでいるわけでもないでしょうし。でもやっぱり、平易なことばで社会について語るという意味では、すごく重要な仕事をしたひとだろうと思います。
■なるほど。ベルリンではどういう状況でしょうか?
ブロイ:髙橋さんのインフラづくりの話でいうと、フィッシャー自身も『K-PUNK』のなかで、自分が育ってきた知的な環境としての雑誌がもうほとんどなくなってしまったという状況について述べています。それを新しくつくらないと、次の世代の批評家やキュレイター、音楽家などが育たないのではないかという問題意識が彼のなかにはあったと思います。ドイツでも左派的な雑誌や音楽誌といったそういうインフラは一応はあって、文化施設などもあるんですが、フィッシャーはそうした制度的な文脈で受容されているような気がしますね。やはりベルリンは文化の中心で、フィッシャーのドイツ語訳を出した複数の出版社もベルリンの、クロイツベルクにあります。たとえばアメリカの社会主義系の雑誌『ジャコビン(Jacobin)』のドイツ語版を出しているブリュメール社(Brumaire Verlag)がそうですね。『ポスト資本主義の欲望』〔※原著2020年、邦訳は大橋完太郎訳、左右社、2022年〕のドイツ語版もそこから出ているんです。ただ、とくにドイツに限らずヨーロッパ全域というか、フィッシャー自身が分析していた対象がそうであるように、フィッシャーもグローバルに読まれていると思います。逆にいうと、ドイツ文化圏ならではの特徴的な読まれ方がそれほどないとも言えるんですが。
河南:ドイツでフィッシャーがどう受容されているかざっくり挙げてみると、たとえばベルリンの芸術祭「トランスメディアーレ」でワークショップが開かれたり、美術センターの「世界文化の家(HKW)」でカンファレンスが開かれたり、本が出るたびに書店イベントがあったり、そういうことはあるんですけれども、英語圏とのタイムラグがそれほどないからか、ドイツでとくに特別な受容のされ方をしているという感じはしませんね。ただ、ベルリンのローカルな、クロイツベルクの出版社がフィッシャーの本や翻訳を出していることは特別なことかもしれません。ドイツにはローザ・ルクセンブルク財団のような昔ながらのオーソドックスな左派系の言論空間がありますが、そこからも受容されつつ、かつ『ジャコビン』のような新世代のプログレッシヴな左派にも受容されているというのは、世代間を繋ぐという意味で重要なことだと思います。
なので、フィッシャーはベルリンでも知名度の高い存在ではありますが、ちゃんと読まれているかというとべつです。以前『アシッド・コミュニズム』のカンファレンスがあったんですが、いまドイツの社会の関心はどうコミュニティをつくるかということにあり、その一環としてカウンター・カルチャーを振り返るということがありましたが、フィッシャーが言っていたような左派的な言論空間に階級の問題が欠落しているという問題意識は、話題としては机上にのぼりはしても、ベルリンのインフラのなかで本質的に考え直すというレヴェルにまではいっていない。ベルリンはもともと貧しい都市で、クロイツベルクも豊かなエリアだったわけではないんですが、そこにさまざまな国際的な資本を呼び込んで、飛行機代もホテル代も出すかたちでゲストを呼んでカンファレンスをやって、いざ「コミュニティをつくろう」というのは、もしフィッシャーが生きていたら、どう思っただろうというのは脳裏をよぎりますね。だから、話題として言及はされるけれど、彼の思想を受け止めて引き継ぐようなひとや機関はまだ出てきてはいないなという印象ですね。
ブロイ:そういえば、どこが拠点かはわかりませんが、「アシッド・コミュニズム」の話につながるような、「プランC」という草の根的なアクティヴィスト・グループがありましたね。フィッシャーはそのグループのイベントに定期的に参加し、文を寄せたこともあるようです。また、憑在論をテーマにした音楽フェスもありました。ポーランドのクラクフで催されたアンサウンド・フェスティヴァルがフィッシャーのシンポジウムもやりつつ、サウンド・アーティストを呼んでいたのは知っています。
髙橋:マーク・フィッシャー・リーディング・グループですね。
フィッシャーがネオリベラリズムをただの経済システムとしてではなく、ある種の精神構造として分析したことは、意義のあることだったのではないかと思います。(ブロイ)
■音楽批評家としてのマーク・フィッシャーについてはどう思いますか? フィッシャーは音楽という対象からこれほどいろんなことを考えられるんだぞという、ひとつの可能性を示した書き手だと思いますが、それにかんして思うところを語っていただきたいです。
髙橋:ある意味では、フィッシャーがやったことはかならずしも新しいわけではないと思うんです。たとえば少し前にDJ Fulltonoさんがフットワークを論じたエッセイが話題になりましたけど、そのなかで「フットワークのサウンドというのは書道における楷書体みたいなものだ」というような話をしていました。そういうふうに音をモノとしてとらえて論じること自体はけっこう昔からあります。フィッシャーの書き方も、彼自身が創始したというよりはCCRUのなかで衝動的に生まれたものです。彼のよさは、それを政治社会的な文脈のなかでモノをとらえなおすというところにあると思います。だから、フィッシャーは書き方それ自体にオリジナリティがあったのではなくて、展開の仕方にオリジナリティがあった書き手だと思いますね。
もうひとつ思うのは、フィッシャーが音楽について書いていたときに、音楽そのものが社会で担っていた意味だったり、ミュージシャンがやろうとしていたこと・現にやっていたことが、いまだと変わってきていることです。〈Hyperdub〉周辺のアーティスト、ディーン・ブラントについて、多くのライターたちが批評を書いていますが、そこでもフィッシャーはしばしば言及されてきました。そんなブラントは、最近、マティ・ディオップという監督の『ダホメ』というドキュメンタリー映画の音楽を担当しています。現在アフリカのベナンのあるところに昔はダホメ王国という国がありました。フランスの植民地だったので、当時のダホメのアートは現在フランスが所有しているんですが、それを返還する話なんです。映画に限らず、現代アートにおいてポスト植民地主義はここずっと重要なトピックですが、そういう理論的な文脈で、アンダーグラウンドから生まれたポップ・カルチャーが機能している。かつて理論的、批評的に分析されていた音楽家が、みずからそういう文脈を生み出すようなプロジェクトに参加しているんです。
そんなふうに、音楽のあり方そのものがこの10年20年でいい意味で変わったと思います。フィシャーは『K-PUNK』の最初に、90年代のジャングルはそれについて論じなくてもすでに理論的だった、と示唆的な言葉を残しています。音楽が理論的な側面をもっているというのが当たり前になった時代で、ライターたちは批評していかなきゃいけないわけです。だから、その方向性で活動する音楽ライターは、たんに理論や知識を応用するだけじゃなくて、音楽がすでにもっている理論的な部分を他の領域に展開していく必要があると思いますね。フィッシャーはポスト植民地主義的なことや、エコロジーなど近年の重要なトピックを重点的に書いていたわけではないので、彼の示したスタイルが、彼があまり書いてこなかった領域でどう展開していくかも気になります。
■ジャーナリズムの話をすると、今年2月にコード9が来日したときに、UKではジャーナリズムの質の低下がひどいという話をしていました。
髙橋:ジャーナリズム的な観点でいえば、イギリスの音楽メディアは10年くらい前に比べると、スポンサーの存在がどんどん前に出てきています。媒体も批評よりインタヴューが中心になっていっていますね。かならずしも悪いことだとは言えないと思いますが。
ブロイ:ジャーナリズムの生産条件が変わったと思いますね。ぼくの学生のなかで、そういうマスメディア系の仕事に関わっているひともいるんですが、その業界での記事の作成なんかは、もう基本的にChat GPTのようなAIモデルをとおして生成されることが常識だそうです(笑)。AIを導入して「出力」の速度はアップするんですが、そのぶん、思考のクオリティがアップするわけではないでしょう。
髙橋:なるほど(笑)。いずれにしても、ぼくはいま、フィッシャーが書いてこなかったことに興味があります。彼の書いてきたことをもっと抽象化してべつの文脈に落とし込んだりすることに関心がありますね。さっきの理論的なことだけではなく、そういった技術文化についても音楽の側から書けることはもっとあるかもしれません。いま、音楽家だってAIを使っているし(笑)。
河南:フィッシャーはフェミニズムやポスト植民地主義について、最後の講義で少し触れてはいるんですが、本格的に文章にするまえに亡くなってしまった。未完の書き手なんですね。彼が書いてこなかったことはたくさんあると思いますし、それはそれぞれの立場から補っていく必要があると思います。先ほど髙橋さんがおっしゃっていたように、彼は「外国人」として生きた経験はほとんどもっていないでしょうし、イギリス人であり白人男性異性愛者としての経験からしか書くことができなかった。本人もそれは認めている。でもだからといって「なんで書いていないんだ!」と責めるのではなく、彼の議論を引き受けてほかのものに接続していくような作業がこれから必要なんじゃないかなと思います。異邦人として暮らしている髙橋さんの視点は、フィッシャーは永遠にもつことができない目線ですから。
髙橋:そこはまさにそう思います。音楽から広がる可能性についていうと、逆に考えれば、フィッシャーの思想や存在が音楽だけには収まりきらなかったということですよね。
■映画も文学もすごく論じていますよね。
髙橋:音楽だけに絞っても、テクノロジーの話からは逃れられないし、政治や階級の問題からも逃れられない。そういうことを彼は人生をもって証明したのではないでしょうか。そこで書いてあることの接続可能性のようなことをべつの文脈にどんどん応用していくのが、いまのライターたちの役目なのではないかなと思います。
ブロイ:ちなみに、ぼくは音楽批評家ではないんですが、じつは音楽をやっているアマチュアではあるんですね。
髙橋:えっ! そうなんですか!?
ブロイ:音楽をめぐって、モノとして考える重要性はいろいろあると思います。テクスチャーなどにたいする感性という意味でもそうだし、ベンヤミンが言っていたような意味でのメディアの生産条件、つまり音楽の場合、それを制作するのに必要な条件に目を向ける視点の必要性という点でもそうです。フィッシャーがドラムンベースの話を書くとき、それが未来へのショックだったという話は非常に面白かった〔※『わが人生の幽霊たち』〕。当時のひとたちにとって、ギザギザに切りとられたサンプルや人間の手では演奏できないような高速度のドラム・パターンはまるでエイリアンなもので未来的なもののように感じられたけれど、あの時代に出てきた技術のあとに、音楽の生産条件はどれくらい変化したのだろう、と考えることがありますね。こんにちでは基本的にみんなDAWを使うわけですが、そのような音楽制作技術(たとえばDAWの発展やMIDIの歴史から考えた音楽表現の変化など)を軸に置いた音楽批評、つまり様式を支えるマテリアルな条件への視点も必要だと思いますね。
髙橋:ぼくはそういうことも研究しています(笑)。そうした点についてフィッシャーが言及していたかというと、あまりやっていないですよね。書いてはいるけれど、つくり手の視点、当事者の視点はなかったような気がします。それはほかのひとが引き継いで書けばいいことだとは思いますが。
読んでいるだけで楽しいんですが、残された読み手にとってたいせつなのは、そうしたキャッチワードで遊ぶだけではなくて、それらを自分の実際の生活のなかで理解し直すことだと思います。(河南)
■では最後に、いまマーク・フィッシャーを読むことの重要性についてお伺いします。
ブロイ:彼の読み方は、すごく開かれていると思います。彼の思想自体もオープンエンドで、未完で終わったものだから。思想史的に振り返るにはまだちょっと早いという気もしますが、仮にそういう視点で眺めてみたとしたら、それまでにあった資本主義にたいする考え方がフィッシャーという思想家を経由したことでどうシフトしたのかを考えることでヒントは得られると思います。たとえば、フィッシャーがネオリベラリズムをただの経済システムとしてではなく、ある種の精神構造として分析したことは、意義のあることだったのではないかと思います。あるいは現代社会の精神構造を「リアリズム」と名づけたこと、それ自体が重要な貢献だったとも思いますね。名づけるだけで変わることもありますから。
髙橋:名づけるだけで変わるという考え方は重要ですね。
■とらえ方が変わりますからね。
髙橋:先ほどブロイさんがジャングル~ドラムンベースのエイリアン性の話をされていましが、なぜエイリアンだったのか。それも名づけることだと思います。名づけ親としてエラそうにしていないのも大事なポイントですが。
ブロイ:名づけることで問題の観点をずらしたことは彼の功績だと思いますね。フィッシャーがつくった概念は、通常はつながりが見えないもの同士だったり断片化されていたりする経験を、ひとつにまとめて組織化するための手がかりですよね。だからキャッチーで面白い概念であればあるほどよくて。そうして、みんながもっているばらばらの経験が、ひとつの、いわば星座のなかで見えるようになってくる。じっさい、左派的な批評の対象がこの10年、15年で少し変わってきた印象があります。メンタルヘルスの問題を視野においたもの、または資本主義「以降」のヴィジョンを再び考えるような論者が増えてきたのではないでしょうか。それはもちろんフィッシャーひとりだけの影響ではないですが、でも彼もそのなかでひとつの貢献をしたと言えます。
河南:フィッシャーはけっこう遊び心があって、いろんなネーミングをしていますよね。「資本主義リアリズム」もそうですが、「再帰的無能感」とか「リビドー的快楽」とか「ビジネス・オントロジー」とか。「アシッド・コミュニズム」もそのひとつです。半分ジョークだけど、でも半分は本気。そういう概念がこれからもっと一般化されてくると思います。そういう意味では読んでいるだけで楽しいんですが、残された読み手にとってたいせつなのは、そうしたキャッチワードで遊ぶだけではなくて、それらを自分の実際の生活のなかで理解し直すことだと思います。「資本主義リアリズムの時代だから、もうなにをやってもダメだ」って諦めるような、ただ浅い理解をするだけではダメで。「アシッド・コミュニズム」も、「快楽主義で新しいコミュニティをつくればいいじゃん」っていう表面的な理解に留まっていてはダメなわけですよね。フィッシャーのつくった概念が標語としてポピュラーになるにつれて、それがもともともっていたメッセージ性が忘れられがちだと思う。読み手としてはつねに自分のなかで彼の思想をどう活かすかというのを考えていかないといけない。だからこそ、『K-PUNK』という彼の原点に立ち返って読むことはたいせつだと思います。
*
マーク・フィッシャーの集大成たる『K-PUNK』には、上記で触れられているような哲学的・社会的なテーマやダンス・ミュージックの話以外にも、じつに多くの文章が収められている。SFなどの大衆文学や映画を論じる『夢想のメソッド』は、たとえばバラーディアンが読めばまた違った感想が出てくるだろうし、『自分の武器を選べ』からは、たとえば新しいロキシー・ミュージック像が浮かび上がってきたりもする。まずは読者おのおのの関心から気になった巻を手にとっていただければ幸いだ。
最後に、エレキング編集部を代表して、『夢想のメソッド』と『自分の武器を選べ』で翻訳を担当してくださった坂本麻里子さんに感謝の念をお伝えしておきたい。これら2巻は、イギリスの社会や生々しい政治家の言動、大衆文化や風俗に精通した氏のこまかな訳注をはじめ多大なる助言と協力がなければ世に出ることはなかっただろう(なお、五井健太郎は連絡されたし)。
(聞き手・構成:小林拓音)
K-PUNK 夢想のメソッド──本・映画・ドラマ
マーク・フィッシャー(著) ダレン・アンブローズ(編)
サイモン・レイノルズ(序文)
坂本麻里子+髙橋勇人(訳)
https://www.ele-king.net/books/009508/
K-PUNK 自分の武器を選べ──音楽・政治
マーク・フィッシャー(著) ダレン・アンブローズ(編)
坂本麻里子+髙橋勇人+五井健太郎(訳)
https://www.ele-king.net/books/011401/
K-PUNK アシッド・コミュニズム──思索・未来への路線図
マーク・フィッシャー(著) ダレン・アンブローズ(編)
セバスチャン・ブロイ+河南瑠莉(訳)
https://www.ele-king.net/books/011511/
わが人生の幽霊たち──うつ病、憑在論、失われた未来
マーク・フィッシャー(著)
五井健太郎(訳)
https://www.ele-king.net/books/006696/
奇妙なものとぞっとするもの──小説・映画・音楽、文化論集
マーク・フィッシャー(著)
五井健太郎(訳)
https://www.ele-king.net/books/008958/