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少年っぽい性質を持った少女のポップス文:野田 努
Panda Bear Tomboy Domino/ホステス |
サイケデリック・ミュージックというのは、一応お題目としては、いま知覚しているこの現実が他の誰かの都合の良いように作られているある種の幻なのではないかという疑いと、そう思ったときの息苦しさから逃れるための音楽で、つまり倒錯しているのは現実のほうだと言っているような音楽で、だからそれがカウンター・カルチャーとなるのも筋が通っている。ところが、この10年、自分が聴いている音楽、欧米ではサイケデリック・ポップと呼ばれているアニマル・コレクティヴ以降のインディ・ロックにおけるサイケデリックとは、自分たちの現実と彼らの現実との接点で争う気配はない。それはある意味、とても小さな避難所となっている。そのことが伝統的なロックの物語を信仰する大人たちをいかに苛立たせ、もしくは同世代の音楽ファンからの批判に甘んじてきているかは、本サイトでずいぶんと書いてきた。だが、ヒップホップにしてもハードコア・パンクにしても、あるいはハウスにしても、社会的な機能の仕方としては大きさの差こそあれ同じように小さな避難所だ。釣り好きのお父さんがMCバトルに参加することはないし、音楽の多くが社会問題を扱っているわけでもない。
いち部の音楽ファンのアニマル・コレクティヴへの嫌悪は、30年前のディスコやハウスのそれと少しばかり似ている。クラスのなかでもっとも口数が少なく、弱々しかった子がマッチョになることなく、それまで大声で喋っている子たちよりも、どんどん共感を呼ぶようになってしまった。それがこの10年のUSインディ・ロックで起きたことだった。
だいたいアメリカのロックというのは、エルヴィス・プレスリーでもキャプテン・ビーフハートでもルー・リードでも、あるいはヒップホップでも、腕っ節が強そうか、あるいは口が達者な人たちが舞台に上がっているようなきらいがある。が、しかし、動物集団のパンダ・ベアというちゃんちゃらおかしな名前を冠した連中は、そうした人たちから嘲笑されてもおかしくないような、誤解を招きかねない喩えで恐縮だが、上の世代が捨てることのできないセックスと暴力の夢物語にうんざりした、いわば弱い子の代表のように思える。民主主義とはいえ、結局は口が達者で声がでかい人間がモノを言ってきた国において、アニマル・コレクティヴの、人前で威張ることのできない弱い子による綿菓子のようにやわらかい音楽は、強い大人が導いてきたその国の歴史にそもそも反している。9.11を目の当たりにした彼らは、もう強い人たちに世界をまかせていられないと思ったのだろう。ゆえにアニマル・コレクティヴがインターネットを通じてグランジとヒップホップしかないようなアメリカの田舎にまで影響を与えたというのは、実はパンク(カウンター)な出来事なのである。
僕がパンダ・ベアとアニマル・コレクティヴにもっとも興奮を覚えていたのはゼロ年代半ばちょい前くらいの『サング・トングス』や『キャンプファイア・ソングス』といった作品の頃なのだけれど、アニマル・コレクティヴにとっていまのところ最大のヒット作となっているのが2009年の『メリウェザー・ポスト・パヴィリオン』で、よく知られるようにあの作品が幅広く受けた伏線には2007年のパンダ・ベアのセカンド・ソロ・アルバム『パーソン・ピッチ』がある。実験的でありながらポップで、彼の長所が集約されたような、ずばぬけて美しいアルバムだった。そして『パーソン・ピッチ』は、同じ年のアニマル・コレクティヴの『ストロベリー・ジャム』よりも批評家受けした。パンダ・ベアとアニマル・コレクティヴは、数年前にいちど大きなクライマックスを迎えている。
それでも『トムボーイ』がまたしても注目されているのは、アニマル・コレクティヴが切り拓いて、『パーソン・ピッチ』がさらに拡大したと言えるシーンがいま大いに盛りあがっているからだ。ディアハンターをはじめビーチ・ハウスのようなドリーム・ポップ、ウォッシュト・アウトのようなチルウェイヴ、ベスト・コーストのようなビーチ・ポップ......、サイモン&ガーファンクルの再発をうながしたのもパンダ・ベア、すなわちノア・レノックスだろう。
"トムボーイ"というのは辞書では"お転婆娘"だが、パンダ・ベア本人の説明によれば「少年っぽい性質を持った少女」を指す言葉で、なるほど彼らしい主題と言える。音楽的に見れば、『パーソン・ピッチ』に顕著だったIDM的なエレクトロニクスの装飾性を剥ぎ取って、『トムボーイ』はメロディに重点を置いた、より歌を強調したアルバムになっている。それはピンク・フロイド時代のシド・バレットとブライアン・ウィルソンが合唱しているような音楽だ。そして、ある種の躁状態をロマンティックに描いた前作にくらべて『トムボーイ』にはメランコリーがあり、陰りがある。本人も「リスナーの顔を平手打ちしちゃうような音楽にしたかった」と言っている......が、そのわりには相変わらず彼の音楽は優しい感情に包まれている。とくに〈ファットキャット〉からシングル・リリースされた"ラスト・ナイト・アット・ザ・ジェティ"は絶品だと思うけれど、敢えて難癖をつけると、これは過去についての歌であり、メロディラインもレトロだ。パンダ・ベアは彼の実験精神と前向きさでリスナーを惹きつけてきたミュージシャンであり、ノスタルジーは似つかわしくない。
『パーソン・ピッチ』のような遊びがないぶん『トムボーイ』には少しばかり堅苦しい神聖さが漂っている。潔癖性なのはもとからだが、トゥ・マッチに感じる箇所があるのだ。アフリカのリズムを取り入れた"アフタ―バーナー"がその良い例で、パンダ・ベアの歌の過剰な叙情性がコンガによるリズミックな高まりを消してしまっている。ダブが好きだというわりには、音の空間を自分の声で埋めてしまうところに良くも悪くも彼の自信がうかがえるし、それがストイックさを忘れなかった『サング・トングス』との決定な違いである。極端に言えば、声ばかりが耳に残ってしまうのだ(逆に言えば、彼の声がただひたすら好きだという人にはたまらない作品でもある)。
これだけキャリアがあれば当たり前だが、"ドローン"のような曲は、自分のファンがいるという認識がなければ作れない曲だ。例えが古くて申し訳ないけれど、早い話、これはRCサクセションの"よォーこそ"のような曲だが(『SNOOZER』誌のインタヴュー記事参照)、それはそれとてティム・ヘッカーばりのトラックをバックに「いまの僕には君が見える」と繰り返すこれでは、あたかも森のなかでヨーダが演奏するエレクトロニカのようではないか......。
と、まあ、こんな風にぶつくさ文句を書いているようだけれど、たしかにパンダ・ベアとアニマル・コレクティヴはアメリカの音楽を変革した。そう、確実に。か弱い子供がか弱い子供たちだけで船を造って航海に出た。幸いなことに、僕もまだその船から降りたいとは思わない。
文:野田 努
Panda Bear / Person PitchPaw Tracks |