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ブリグズビー・ベア

ブリグズビー・ベア

監督:デイヴ・マッカリー/脚本:ケヴィン・コステロ、カイル・ムーニー
出演:カイル・ムーニー、マーク・ハミル、グレッグ・キニア、マット・ウォルシュ、クレア・デインズ 他
2017年/アメリカ/カラー/97min/PG12
提供:ソニー・ピクチャーズ エンタテインメント/配給:カルチャヴィル

ヒューマントラストシネマ渋谷 他にて、全国公開中。

© 2017 Sony Pictures Classics. All Rights Reserved.

www.brigsbybear.jp

木津毅   Jul 04,2018 UP
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 日本では現状、ロマン・ポランスキーの『告白小説、その結末』やウディ・アレンの『女と男の観覧車』は問題なく公開されているようだが、アメリカでは今後ふたりの作品を観ることはますます難しくなっていくだろう。養女の性的虐待疑惑から多くの俳優たちに「今後は出演しない」と言われているウディ・アレン、70年代の少女への淫行でアカデミーから追放されたロマン・ポランスキー。とくに厄介なのはポランスキーで、彼の過去の作品には未成年のセックスがモチーフとして入りこんでいるものもある。#MeToo以降の世界で彼らの新たな作品が成立しにくいのはともかく、かつての「名作」たちもまた封印されていくのだろうか。
 表現の作者と作品をどの程度切り離して考えるべきかというのはいま盛んにおこなわれている議論で、大ざっぱに言うとポリティカル・コレクトネス的価値観からアメリカはより作者のありように厳しくなり、ヨーロッパがそれに抵抗している……という図式があるにはある。が、アメリカもまた、Spotifyから「ヘイトコンテンツ」に当たるとされる楽曲が削除されたことに対しケンドリック・ラマーらミュージシャン陣が表立って反発するなど、一筋縄ではいかない様相となっている。たしかに、表現者が清廉潔白でなければならない世界は窮屈だし、ましてや表現の中身が当たり障りのないものばかりになってしまっては本末転倒だろう。表現規制に抵抗する勢力が台頭し始めているということだろうか。いずれにせよ、いま、ポリティカル・コレクトネスと表現の自由、そして作者の振る舞いと作品の関連性についてより時代に合った枠組が模索されており、多くの人間がそのことに頭を抱えている。

 現在アメリカのなかで、こうした議論にもっとも敏感なのはコメディアンたちだろう。大人気コメディ番組〈サタデー・ナイト・ライヴ〉出身のチームで制作された『ブリグズビー・ベア』を見ても、ある表現(今風に「コンテンツ」といったほうが適切かもしれない)が作者とどの程度紐づけられるべきなのか考えていることがわかる。主人公の青年ジェームズは外界から隔離されたシェルターで暮らしており、両親に愛されて育ったものの自由はなく、唯一の楽しみはクマのキャラクターが冒険をしながら数学や日々の生活のルールを教えてくれる教育番組〈ブリグズビー・ベア〉だった。が、あるとき警察がやって来て両親は逮捕されてしまう。ジェームズが「両親」だと思っていたのは彼を赤ん坊のときに攫った誘拐犯であり、信じてきた世界はすべて嘘で、彼が大好きな〈ブリグズビー・ベア〉ですら偽の父親がジェームズのために作っていたものだった……。そして物語は、ジェームズが本当の両親に迎え入れられ、「リアル」の世界にどうやって馴染んでいくか模索していくところから動き出す。
 そこで鍵になるのが〈ブリグズビー・ベア〉、つまり犯罪者が作ったコンテンツなのである。ジェームズは番組への愛を語ることでギークの友人を作り、その続きを制作することで「リアル」の世界での生き甲斐や人間関係を構築していく。が、本当の両親からすると〈ブリグズビー・ベア〉は犯罪者どもが作った忌まわしい呪いでしかなく、見ようによってはジェームズはストックホルム症候群を引き起こしているとも言える。映画はそうした葛藤を経て、〈ブリグズビー・ベア〉という作品そのものの力でジェームズの新たな人生を祝福しようとする……たとえ犯罪者が作ったものであろうとも作品の価値はあると、ひとまずそうした結論の映画だと言えるだろう。なかでも、ジェームズが〈ブリグズビー・ベア〉の制作のために、原作者でありかつての「父親」(しかも演じるのがマーク・ハミル=ルーク・スカイウォーカーという、世界中に愛された「嘘の人物」である!)と向き合う場面は本作でもっとも美しい瞬間だ。

 ひとつ思うのは、こうした議論で表現の自由派はしばしば「作者と作品はまったく別物である」と主張するが、そんなに単純に割り切れるものではないということだ。少なくとも本作はその地点に問題を矮小化してしまっていない。YouTubeにアップされた〈ブリグズビー・ベア〉はヴァイラル的にヒットするのだが、その人気の理由は作品の力「のみ」ではどうやらなさそうである。サイケデリックでシュールな教育番組はそのカルト的な佇まいからひとを惹きつけるが、と同時に、犯罪者が偽物の息子への愛情から作ったものであるという「作品背景」がフックになっていることが示唆される。〈ブリグズビー・ベア〉が世のなかに受け入れられるのは、そこに何だかんだ言って愛情がこめられていたからだし、だからこそジェームズも作品を通して「リアル」の世界と交流できたという描かれ方である。
 しかしながら、もし仮に、偽の両親が性的虐待をジェームズにおこなっていたら〈ブリグズビー・ベア〉はどう描かれていたのだろう。偽の両親が本当には悪い人間ではないことが本作の優しさとも言えるし、踏みこめていない点だとも言えるだろう。描かれることはなかったのでわからないが、もし彼らの犯罪がある一定のラインを超えてしまっていたら、〈ブリグズビー・ベア〉は許されないコンテンツだし、ジェームズの番組に対する情熱もストックホルム症候群とされていたのではないか。そこの明確な線引きはどうしたってあるように思える。「作者と作品はまったく別物である」と結論づけてはならない何かが。
 だから、当たり前でつまらない着地点になってしまうのだが、そのラインがどこにあるのかを見極めることが重要なのだろう。が、つまらないからこそ価値があることなのだ。そしてそれは、時代によっても場所によっても、作品によっても背景によっても変わってくる。つまり、いまこそ批評の力が試されているということだろうし、アメリカのコメディアンたちは表現の自由を勝ち取るために怜悧な批評家であろうと努力しているということなのだろう。“This Is America”で今年話題を独占したチャイルディッシュ・ガンビーノ=ドナルド・グローヴァーがコメディアンであるのもそういうことだ。チャーミングな小品であるこの映画もまた、そうしたコメディが輝く時代を示している。

予告編

木津毅