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Film Reviews

『わたしは、ダニエル・ブレイク』

『わたしは、ダニエル・ブレイク』

監督:ケン・ローチ 脚本:ポール・ラヴァティ
出演:デイヴ・ジョーンズ、ヘイリー・スクワイアース ほか

2016年/イギリス、フランス、ベルギー/英語/100分/アメリカンビスタ/カラー/5.1ch/原題:I, Daniel Blake/日本語字幕:石田泰子
2017年3月18日(土)、ヒューマントラストシネマ有楽町、新宿武蔵野館ほか全国順次公開
提供:バップ、ロングライド/配給・宣伝:ロングライド

© Sixteen Tyne Limited, Why Not Productions, Wild Bunch, Les Films du Fleuve,British Broadcasting Corporation, France 2 Cinéma and The British Film Institute 2016

公式HP:danielblake.jp

坂本麻里子平田周   Mar 06,2017 UP
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E王


文:坂本麻里子

 『麦の穂をゆらす風』(2006年)に続き、社会派の英監督ケン・ローチと彼の長年のコラボ相手である脚本家ポール・ラヴァーティに二度目のカンヌ映画祭パルム•ドールをもたらした『わたしは、ダニエル・ブレイク』。心臓発作に襲われ休職中59歳の指物師ダニエルが福祉制度の冷酷なメカニズム、些細なミスにより求職活動を余儀なくされる矛盾といった「お役所仕事」の迷路を相手に葛藤する様と、家主の横暴で住居を失いやむなくロンドンからニューカッスル(2都市間の距離は約400km、電車でほぼ3時間)に引っ越して来たシングル・マザー:ケイティーと彼女の子供たちと彼の出会いから生まれる疑似家族的な触れ合いを描いている。
 労働者に降り掛かる悲劇、そして住宅問題というのは、庶民を主役に多くの作品を撮ってきたローチにとって目新しいテーマではない。前者に関しては、国鉄民営化に伴いリストラされたシェフィールドの鉄道工たちの悲劇を群像的に描いた『ナビゲーター:ある鉄道員の物語』(01年)。キャストの多くを地方クラブ回りの芸人が演じた意味でもニューカッスル出身の漫談師デイヴ・ジョンズを初主役に抜擢した本作がだぶるし、暗いストーリーへの反発としてコミック・リリーフが効いているのも同様だ。
 テレビ映画作品ゆえ日本への浸透度は低いかもしれないが、後者はイギリスで『ケス』と並ぶローチの初期の代表作とされる『Cathy Come Home』。家出し結婚したものの、事故による夫の失職他次々に襲う悲劇で路頭に迷い、遂には社会福祉課に愛児たちを取り上げられる主人公キャシーの零落をドキュメンタリー調で綴ったこの作品はBBC放映時に賛否双方大きな反響を呼び、ホームレス・チャリティ団体の発足にも繫がったとされる。しかし『Cathy〜』が放映されたのは奇しくも1966年。前作『ジミー、野を駆ける伝説』後に長編フィクション映画制作からの勇退もささやかれたローチは、50年後の自作の伴奏部にこの問題を再び含めずにいられなかったことになる。そのフラストレーションと怒りは大きかったはずだ。
 そうしたいくつかの前知識や「観るのがきつそう」というメンタル面での覚悟は、しかし実際に『ダニエル・ブレイク』を観るに当たって必要ではない。メッセージこそ重いものの、その伝え方はある意味ぶっきらぼうなほどストレート、小細工なしの情熱的なものであるため観る側も武装解除されてしまう。細かな観察眼や息を飲まされる静かな衝撃といったローチ味も健在ながら、一部にぎこちなさはあるし「完璧な映画」ではない。映画の読み方に慣れている人であれば前半を観れば結末がどうなるかだいたい予想がつくであろう、実にシンプルな筋書きの100分だったりする。
 だが、積み重なっていく出来事、行動、そこに生じる結果を有り体に見せることに徹した本作の大文字な作り──白黒明快キャラクターや曖昧さゼロのストーリーは寓話すら思わせる──は意図的なアプローチであり、「伝えたいことの本質にまで映画をそぎ落とせる」、80歳のベテランならではの腕ではないかと思う。泣かされる作品なのだが、ストイックなゆえにメロドラマに陥ってはいない。思わずこぼれた涙は悲しみで濁っただけのそれはなく、同時に怒りに沸騰させられ、一滴の希望にまで蒸溜された、とても透明度の高い涙だった。
 ゆえに、システムに小突き回され何もかも失っていく人間を追った「惨めなだけ」の作品という印象は残らない。ダニエルの優しさや思いやり、底辺にあっても捨てない誇りは、周囲に様々な形で影響を与えていく。そこから広がる小さな助け合いと「半径5メートルの共同体」は観る者の中に希望の灯りを点す。主役のキャラ造型に対し、「酒も飲まず、清廉潔白。こんな聖人みたいな『労働者階級』が現実に存在するはずがない」との批判する声もイギリスの右派メディアから上がっていた。だが、そんな風に他者を信じられない=誰もが同じく人間である事実を回避し偏見を助長するシニシズムこそ、社会を様々な形で分断していく見えないガンのようなものだろう。

 ダニエルが「わたしは、ダニエル・ブレイク」と訴える姿に、キューブリックの史劇『スパルタカス』の有名な場面を思い起こした。奴隷の反乱を鎮圧すべく、ローマ軍は首謀者スパルタカスさえ差し出せば他の連中の命は救ってやる、と脅しをかける。しかし奴隷たちは次々と「I'm Spartacus!(わたしがスパルタカスです)」と名乗りをあげ、ローマ軍の奸計は無為に終わる。非力な存在でも、連帯し太い綱になれば抵抗は可能。筆者が本作を観たのは地元の映画クラブ主宰の無料上映会だったが、上映後、会場のパブに詰めかけた200人以上の観衆からわき起こった大きな拍手はダニエルの境遇を「自分には他人事、関係ない」と片付けられない人々の良心、そして「わたしも、ダニエル・ブレイク」の共感の現れだと思った。大予算やビッグ・ネームなキャストとは無縁のこの実にささやかな映画は、大きな励ましの声を響かせている。

文:平田周

 映画を含むあらゆる芸術は社会的効用という基準とは独立した価値基準を有する、と言われる。こんなことは、ハイカルチャー/サブカルチャーの区別なく、小説、映画、漫画に没頭しているうちに気づいたら朝を迎えていたり、あるいはなぜか思わず夜を踊り明かしたりしてしまったような「頽廃的な」経験のある人間にとっては、あまりにも自明なので意識にすらのぼらないことかもしれない。そこにはまず快楽とその肯定だけがあればいいのであって、共有される意味や普遍的な価値など別になくてよい。ましてや、いまはファシズムの時代でもあるまいし、特定の政治的目的への奉仕のための手段としての芸術、いわゆる〈プロパガンダ芸術〉という言葉で了解されていたものを「楽しい」と思う人間はそう多くはない。
 他方で、映画にかぎって話をすれば、どんな作品も、ジョン・カーペンターの傑作SF映画『遊星からの物体X』(1982年)の未知の生物のようにまったく見知らぬ惑星で生まれたというわけではなく、特定の社会的時代背景のなかで産み出される。翻って、どんな映画作品も、実話に基づいたものであれ、フィクションであれ、何らかのかたちで社会関係を演出し、社会を映し出し、それについて吟味し、判断を下している。映画にはすでに社会への視線が、こう言ってよければ、〈社会批判〉的な観点が備わっている。社会批判はけっして映画というメディアそれ自体の目的でも責務でもないが、そこに潜在的な次元として孕まれている。社会派、あるいはリアリズム映画と呼ばれるジャンルは、そうした映画にある社会批判のポテンシャルを引き出し、現実に働きかけようとするものである。リアリズム映画は、声なきものに声を与え、人が目を向けない人々の日々の生活を可視化し、迷宮のように張り巡らされている社会関係の網の目のなかで作動している現実のメカニズムを浮かび上がらせようとする。
 2016年のカンヌ国際映画祭でパルム・ドールを受賞したケン・ローチの新作『わたしは、ダニエル・ブレイク』は、大工である主人公ダニエル・ブレイクが出口のないカフカ的な状況にはまり込んでいくところから物語が始まる。建設現場での心臓発作のために倒れたブレイクは、医者に仕事をやめるように言われ、社会保険の給付の申請を行う。しかし「ヘルス・ケア・プロフェッショナル」なる受給の可否の査定に関わる職員には就労可能と見なされる。結果、ブレイクの申請は受理されず、ジョブセンター(「公共職業安定所」と訳されることもあるが、ハローワークのような雇用の斡旋のみならず社会保障サービスも行うイギリス特有の事務所)に行けば失業者扱いされ、ただセンターの規則に従うことが求められ、最終的に職探しを行う以外の活動の選択肢を奪われる。こうした不可解な状況は、他人に事情を説明することも困難なために、いっそう強められる。実際、ダニエルは制度の規則にしたがって、履歴書を小さな会社の雇用者たちに渡し歩いた結果、ある雇用者から採用の電話を受けるが、病気なので働くことができない旨を伝えざるをえない。それに対するある意味当然の反応として、「じゃあなぜ履歴書を渡したんだ」と怒って相手は電話を切るのである。
 このようなある種の不条理なダブル・バインドの下、ダニエルの生活を不安定なものにする社会関係がある一方で、映画が不思議と賑やかで温かみをもつのは、「チャイナ」という愛称の隣人、そして映画のもう一人の主人公と言ってよい、ディランとデイジーという名の二人の子供をもつシングルマザー、ケイティとのあいだにダニエルが紡ぐユーモアあふれる人間関係によるものである。とはいえ、二人の生活もブレイクと同様に不安定である。チャイナはちょっとした闇商売にダニエルを少し関係させる。ロンドンの社会住宅が不足しているという理由で、映画の舞台であるニュー・カッスルの社会住宅を割り当てられたケイティは、越してきたばかりで道に迷い、また二人の子供を連れていたため、ジョブセンターの職員との約束の時間に遅れ、ペナルティとして福祉の給付を停止される。生活に困った人間同士がそれぞれのニーズに合わせて助け合う一方で、本来そうした人々を助ける側の制度の人間は規則にがんじがらめにされて、身動きが取ることができなくなっている様子がスクリーンには映し出される。この対比がよく示されているのは、「IT弱者」のブレイクがオンラインでの社会保険の申請するのを助けようとした心あるセンターの女性職員が、規則に反するとして上司にきつくとがめられる一方で、中国の友人とスカイプするチャイナがその申請を助ける一連の場面である。それは硬直したシステムと人々の相互扶助的な関係とのコントラストなのである。
 だが、貧しい者たちが互いに肩を寄せ合うという現実と、それだけでは生活を送るのには不十分であるという現実はなにも矛盾しない。この映画もこれまでのケン・ローチの多くの作品と同じく大団円やハッピー・エンドを迎えることはない。ただ彼の映画は、幸福であれ不幸であれ、「終わりのない」現実の社会に観客を立ち返らせ、問題を意識させようとする。ローチはどんな社会への批判的な眼差しを投げかけているだろうか。映画では、登場人物たちが生活のなかで経験する苦しみを個人の心理的・病理的次元で説明することが徹底的に拒否される。なぜチャイナが少しばかり違法な商売に手を出すかと言えば、怠け者だからではなく、朝の5時に呼び出されて1時間だけ働かせられ4ポンドしか稼げないという労働条件のためである。ある印象的な場面で、ケイティがあまりにも「無様な」行為に及んだ後で恥じ入るとき、ブレイクが彼女に伝えるのは、「これは君のせいではない」、「なにも恥ずかしいことなんかない」といった言葉である。

 こうした貧困、過ち、苦悩の様々なかたちを通じてローチが示そうとするのは、それらが社会のなかで産み出されているという当たり前のことである。裏返しに言えば、社会は、まるで自らが存在しないかのように、あまりにも社会で起きた問題を個人に帰し、背負わせている。それは、サッチャー政権による新自由主義政策のもとでの社会福祉の後退と自己責任の強化の結果であり、ローチがラジオで戯画的に語ったことの大意を要約すれば、「家がない人間がいるとすれば、それはそいつが働かないからだと説明し、そして、社会的紐帯を破壊し、その社会的費用を個人や家族に転嫁すべく個人主義や家族主義のイデオロギーを強化するというのが新自由主義の論理なのです」。映画での社会問題の提示は、楽観的と言っていいぐらい明快である。自分は、税金も払って、市民の務めを果たしてきた。病気になって市民の権利を要求しているだけなのに、なぜフリーライダーのように扱われなければならないのか。なぜそんな理不尽な要求や手続きに従わなければならないのか。なぜセルフ・リスペクト(自らに対する尊厳)を押し殺して生きなければならないのか。自分は、消費者でも物乞いでも犬でもない、人間なのである、といったように。
 日本でも、経済的諸条件や技術的環境の変化とともに、社会に格差が広がり、労働の問題が表面化している。学生のなかで「ブラック」という言葉が盛んに用いられているのを見ても、ほとんど誰もがそうした不安の存在が確かであると感じている。とはいえ、そうした問題を個人レベルでなく集団レベルでどのように解決していくのかといった議論に関しては、「これからの社会を生き延びるのにこれを学べ」式の個人間の競争を煽る書籍が本屋で平積みにされている光景を見ると、それほど確かではないように思える。では、ローチの映画がただちに解決策を与えるかと言えば、それはもっと確かではない。ただ映画が観客に鋭く強烈に社会の現実を突きつけるというのは、本当だ。彼がリアリズムよりも「オーセンティシティ(本物であること)」という言葉で好んで自らの作品を形容するように、映画はオーセンティックな(唯一無二の)演出で社会の現実を体験させる。
 ローチは、生涯の映画のベスト3の1本にヴィットリオ・デ・シーカ『自転車泥棒』(1946年)を挙げている。この事実は、映画が、ネオリアリズモの精神に沿って、日常の平易な言葉を採用しながら、ハッと息をのませるようなしかたで、社会のなかで日々生まれる苦しみや怒りを見事に撮っていることの一端をよく説明してくれているように思える。本国イギリスに続いて昨年の10月から映画が公開されたフランスでのプロモーションでは、老若男女それぞれが、ブレイクに自らの姿を重ね合わせ、「わたしは、ダニエル・ブレイク」と発する声が用いられていた。映画を見れば、そんな共感とともに、日本ではしばしば恥ずかしいもの、もっと言えば、なにか非現実的なものとして蔑まれ、不信感さえもたれている「絆」や「連帯」、そして「平等」といった言葉の意味を見直し、社会感覚を研ぎすます機会に必ずやなることを請け合いたい。