Home > Interviews > Flying Lotus - フライング・ロータス最新作『フラマグラ』の魅力とは?
ジョージ・デュークとかスタンリー・クラーク的なフュージョンを通過して、このままいくとプログレからフランク・ザッパとか、超絶技巧の世界に行くのかなともちょっと思ったけど、やっぱりそっちじゃないんだなということがわかった。 (原)
吉田:原さんはフライローの音楽を聴いて、何かヴィジョンって浮かびますか?
原:僕はそもそも音楽を聴いてもあまりヴィジョンが浮かばないんですよね。ただこのアルバムは映画的でもあるし、ヴィジュアルと連動している作品だなとは思っている。
吉田:インストの音楽って日常の生活の中で流しっぱなしにしたりして、多かれ少なかれBGMになりうるところがあると思うんです。歌詞があると、その内容と自分の経験がマッチしないとハマらないけど、インストはどんな場面にもハマる可能性がある。外を歩きながら聴いたり車で聴きながら走ることで街の見え方が変わったりするし、自分の個人的な体験と結びついたりもするから、ベッドルームで聴いていてもリスナー自身のサウンドトラックになるところがあると思うんです。でもフライローの曲はそういうものに結びつきづらいと思うんですよ。BGMとなることを無意識的に拒絶しているというか。今作は半分くらいの楽曲に言葉が入っているというのもありますが、彼は視覚的なヴィジョンを持っていて、自分が表現したいヴィジョンを聴いている人に伝える能力に長けている。たとえば今作の“Andromeda”とか『Cosmogramma』の“Galaxy In Janaki”なんて、そういったタイトルで名付けられているからとはいえ、めちゃくちゃ宇宙のヴィジョンが見えるじゃないですか(笑)。宇宙を表現するための音像や楽曲のスタイルが、この2曲で大きく変わってるのも興味深いですが。インスト作品には適当な曲名を付けてるケースも多いと思うし、フライロー作品のすべてがそうだとは思わないけど、明確に彼の脳内のヴィジョンとリンクしている曲もある。今回のアルバムにはそれが結実していて、聴き手が勝手に自分のヴィジョンを重ねられない感じがある。
原:たとえばニューエイジのアーティストが、この作品の背景にはこういうものがありますって言っても、それを聴いている人にはなかなか伝わらなくて、ヨガの音楽として機能するとか、具体的なところに作用する効果というのはあると思うけど、精神的なものと音楽じたいがどう結びついているのかわからないことが多いのとは対照的な話ですね。ジャズ・ドラマーのマーク・ジュリアナにインタヴューしたときに、彼はオウテカとかエイフェックス・ツインが好きで、理論を突き詰めてビート・ミュージックというプロジェクトもやってきたわけだけど、いまいちばん興味のあるのは、音楽のマントラ、レペティション(反復)、トランス的な部分をもっと精査することだと言っていたのね。人間じゃなくて機械をとおして表現される感情、精神を愛してるとも。理論と技術を突き詰めていった先にある、精神的なものをどう扱っていくのかという話で、それは機械の音楽、エレクトロニック・ミュージックをどう捉えるのか、ということでもある。フライローはその点でも、興味深いところにいると思うんです。彼はアリス・コルトレーンとも近いスピリチュアルな世界にも理解があって、一方でエレクトロニック・ミュージックにも当然深く関わってきた。さらに今回音楽理論も突き詰めはじめた。
吉田:フライローの音楽はフロア向きなのかベッドルーム向きなのかというのもちょっと判断しづらいところがおもしろいなと。曲は情報量が多すぎて1分とかで終わっちゃうし、踊りたくてもどこで乗ればいいのかが難しい。かといって静かに聴くものかというと、《ロウ・エンド・セオリー》出身ということもあって、フロアではバキバキにやってくる。《ソニックマニア》でもめちゃめちゃビートの音圧が凄くてオーディエンスも盛り上がっていた。だからフロアとベッドルームの間のグラデーションを行き来する音楽というか。
原:やっぱり曲がそもそも短いよね。1分、2分、長くて3分とか。初期のころはたしかに《ロウ・エンド~》の影響もあったと思う。《ロウ・エンド~》のDJはみんな1分か2分で次の曲をカットインでぶっこんで、それ以上は長くやらないという方針、スタイルだから、その周辺のビートメイカーも1分2分の曲ばかりだった。でもいま彼が1分2分の曲を量産しているのは、そうしたDJやフロア向けのためではないよね。なぜフロアでどんどん変えていたかというと、自分も、聴いているほうも飽きちゃうから。その「飽きちゃうから」という部分だけはいまの彼にも繋がっているような気がする。聴き手の意識をひとつの場所に留まらせずに、どんどん場面を展開していくという意味で。そのやり方が非常に巧みになってきた。
吉田:今回アンダーソン・パークとやった“More”はめずらしく4分以上あるんですよね。でも、最初の浮遊感のあるコーラスのシンガロング・パートは1分くらいで、次にラップ・パートが来ますが、それも1分半くらいすると一旦ブレイクが入ってアンダーソンのスキャット・パートへ展開する。だから1分から1分半で次々と展開する仕組みになっている。それこそテーマパークのライドみたいに飽きさせない構造になっている。それらの断片をどうやってつなげるかというのもポイントですよね。たとえば3曲目の“Heros In A Half Shell”も電子4ビート・ジャズという趣で、次の曲の“More”とはだいぶ毛色が違う。でも両者をうまくつなげるために、“Heros In A Half Shell”の最後の10秒ほどはミゲル・アトウッド=ファーガソンのストリングスだけが鳴るパートが入っていて、気が利いているなと。
原:ミックスとして非常におもしろいものになっているよね。だからある意味ではサウンド・アーティストみたいなところもあって、いまこんなミックスをしている人は特異だしおもしろい。ビートを作っていたときは短い曲の美学みたいなものがあったけど、そこにそのままコラージュに近いようなミックスの手法が入り込んでいて。今回の作品は謎のバランスで非常にうまくまとまっている。それが聴く人の意識を変えさせている。
吉田:27曲もあるから曲順はいろいろな可能性があったかと思いますが、同じようなカラーを持った曲が並ぶブロックがありつつも、個々の曲の並べ方はダイナミズムがある。たとえば中盤の流れだと“Yellow Belly”と“Black Balloons Reprise”とか、“Inside Your Home”に“Actually Virtual”とか、スムースにつなげるんじゃなくて、どちらかといえば対極のものをぶっこむ場面もありますよね。デペイズマンの美学というか。でもたんに落差を楽しむだけでなくて、落差のある両者をどうつなげば聴かせられるのかという点にはすごく意識的な感じがします。異質なものを突然入れるのはコラージュ的でもあるし、DJ的でもある。あるいはビートライヴをする際のビートメイカー的とも。現代音楽的なものに目配りをするクラブ・ミュージックの気配を反映しているともいえる。
原:でも、ヒップホップってもともとはそういうものだったからね。意外なネタを見つけてきて組み合わせて、そのなかにはふつうに現代音楽も入っていたんだけど、いまはもうネタはすぐバレちゃうし、なんでも組み合わせられちゃうし、「こうすればこういうトラックができますよ」というのが当たり前の世界になっちゃったので、つまらないなと思うわけ。それにたいする揺り戻しは、例えばザ・ルーツが『...And Then You Shoot Your Cousin』で突然ミッシェル・シオンのミュジーク・コンクレートを暴力的に挿入した様にも見て取れる。そういう意識は当然フライローにもあったと思う。
吉田:『KUSO』のコラージュ的な作風も含めて、いろいろなものをミックスする手つきの良さが際立つ。そういう意味で、スピリットの部分でヒップホップ黎明期のそれこそアフリカ・バンバーター的なものを体現していると考えると、またこのアルバムの聞こえ方も変わってくるかもしれない。